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過去―出会い
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ポツン ポツン。
夕立でもない弱い雨が地面を濡らす。
「雨が降って少しは涼しくなるかしら」
尊人さんと約5年ぶりに再会した日の夕方、順調に仕事を終えた私はデスク周りの片付けをしながら窓の外を見ていた。
子供の頃から夏が大好きだった。
焼けつくような日差しの下、弟と2人外を走り回って遊んでいた。
両親がいて、弟がいて、裕福ではなかったけれど、私はとても幸せだった。
そういう意味では凛人に対して申し訳ない気持ちもある。
「あれ、降ってきたね。傘置いてあったかなあ」
帰り支度をしながら、スタッフも窓の外を見ている。
この会社は都内でも交通の便がいい場所にあり、駅からも徒歩数分。
大きなビルも隣接しているから、その気になれば外を通らずに駅まで行くこともできる。
だからかもしれないが、スタッフのみんなはあまり傘を持ち歩かない。
私は一応折り畳みに傘を置いてはいるが、凛人を連れて帰ることを思うとあまり外を歩きたくないな。
「沙月ちゃん、よかったら送って行こうか?」
何気なく外を見ていた私に、慎之介先生の声がかかった。
「いえ、そんな、」
確かに、天気の悪い日には何度かアパートの前まで送ってもらったこともある。
でも今日はそこまでの悪天候でもないし、まだ外も明るいから、凛人と2人歩いて帰ってもそう苦にはならないはずだ。
「帰るついでだから遠慮はいらないよ」
「いえ、本当に。それに、帰りに買い物もしたいと思っていますので」
「そう、じゃあ仕方ないね」
「すみません」
親切で言ってもらっているのがわかるだけにとても申し訳ないけれど、できるだけ人に甘えないでいようと私は心掛けている。
シングルマザーの道を選び凛人と2人で生きていこうと決めたのは私自身だから。
***
「まま、ぴちゃぴちゃだね」
会社からの帰り道、カッパは着たものの靴のまま水たまりに入る凛人がなぜかうれしそうにしている。
「濡れるからお水のないところを歩いてね」
「はーい」
返事はいいものの、水たまりを見つけてはピチャピチャと入って行く凛人。
はあー。
私はついため息をついた。
子供にとっては、雨も水たまりも楽しくて仕方がないのだろう。
私も子供の頃そうだった気がする。
でも、せめて長靴を履いてこさせればよかったな。
そうすれば水たまりだって平気だったのに。
今は凛人お気に入りの真っ赤な運動靴がビショビショになってしまっている。
「ねえ凛人、危ないから1人で行かないで」
手を離し、私の数歩前を行く凛人に声をかけた。
その時、
ビシャッ。
車道を走っていた車が跳ね上げた雨水が舞い上がった。
「凛人っ」
私は咄嗟に息子のもとに駆け寄り、
「ままー」
びっくりしたのか飛びついてきた凛人を抱きしめた。
そういえば、彼に初めて会った時もこんなことがあった。
確か、あの日も雨だった。
思い起こした5年前の記憶。
それは、偶然の出会いだった。
******
五年前。
あの日もいつ振り出したのかわからない雨が、地面を濡らしていた。
あんまり細かくて傘がいるかどうかもわからないような霧雨。
周囲を見渡しても傘を差さずに歩いている人の方が多かった。
私も濡れながら通りを歩いていた。
「なんでこんなことになったんだろう」
その日バイト先で嫌なことがあった私は、1人で怒っていた。
あんまり悔しいからこぶしを握り締めて、反動で足が止まった。
その時、
ドンッ。
「痛っ」
人混みの中で歩みを止めれば当然誰かにぶつかってしまう。それは自然の摂理かもしれない。
その場合悪いのは立ち止まった私の方で、誰も責めることはできない。
「大丈夫ですか?」
原因は私だとわかっているはずなのに、かけられた心配そうな声。
「大丈夫です」
いけないとわかっていながら、不機嫌が態度に出た。
本当にかわいくない女だと思う。
こんなだからトラブルにだって巻き込まれるのかもしれないと頭ではわかっているのに、どうすることもできない自分が本当に嫌になってしまう。
その時の私は1人落ち込んでいた。
「濡れてしまいますよ」
1人悶々と悩んでいた私に思いの外優しい声がかかり、同時に傘を差しかけられたのがわかって、私はゆっくりと顔を上げた。
***
うわ、素敵。
見た瞬間思わず声が出そうになって、やっとの所で飲み込んだ。
こんな人が現実にいるのねってくらいに整った顔。
男性にしては色白だけど、存在感のある口元と意志の強そうな眼差しが凛々しさを滲ませる。
それに背もかなり高くて、170センチある私が見揚げるくらいだから、185センチはありそう。
どこから見ても端正な顔立ちの爽やかなイケメン。
私はしばし男性に見惚れてしまった。
「ケガはありませんか?」
「え、ええ」
再びかけられた声で我に返り、自分が恥ずかしくなって一歩足を引いた時、
バシャッ。
すぐ横の道路を走る車によって巻き上げられた水しぶき。
このままでは自分にかかるとわかったけれど、動けなかった。
当然のように雨水は私を直撃し、私は頭からずぶぬれになってしまった。
***
うわぁー、最悪。
びしょ濡れになってしまった自分を見て、泣きたくなんてないのに自然と涙が込み上げる。
もう嫌だ。急いで帰ろう。
濡れた手で顔をぬぐい、私は歩き出そうとした。
しかし、
「待って、このままでは風邪をひいてしまうから」
男性が突然私の腕をとり、傘の中へと引き入れた。
いくらなんでも見ず知らずの男性に従うのは無謀な行動だと思う。
普段の私なら大声を出してでも振り払っていた。
でもなぜか、この時の私にはできなかった。
すぐに男性がどこかに連絡を入れ、数分で黒塗りの車がやって来た。
運転手らしき人が後部座席のドアを開けてくれてどうぞと促されたけれど、さすがに濡れたままでこんな高そうな車には乗れないと躊躇っていると、
「いいから乗って」
先に乗り込んだ男性に腕を引かれ、私は車に乗り込むことになった。
***
そこから10分ほど走ってたどり着いた、大きな洋館。
ここは私でも名前を知っている、高級会員制クラブだ。
時々セレブがパーティーをしたなんて記事を見るけれど、実際には来たことのない場所。
「あの・・・」
さすがにここは私が来るには場違いだろうと、入り口で一度足が止まった。
「怪しい場所じゃないから安心して」
大丈夫だよと笑いかけてくれる男性。
怪しい所でないのは私にだってわかっている。
どちらかと言うと、怪しいのは私の方だ。
ここは政界、経済界、芸能界の著名人が集まる場所。
格式もあり、誰でもが簡単に入られるところでもない。
「さあ行こう。部屋を用意してもらったから」
再び腕を引かれ建物の中へと入って行く。
それにしてもこの人は何者だろう。
堂々とした立ち居振る舞いはこういう場にも慣れているように見えるし、出迎えたスタッフも男性のことをよく知っているようだった。
やはりただものではない。
その後、高級ホテルのようなフロントを抜け、高そうな調度品の飾られた廊下の先にある客室に私たちは入った。
***
「いつまでそうしているつもり?」
20畳以上はありそうな広い洋室に通されてから15分ほどして男性が口を開いた。
部屋に入ると同時に着替えとタオルが用意され、私はシャワーを勧められた。
だからと言って、すぐには動くこともできず私はその場に立っている。
そもそもここまでついてきたこと自体が後先を考えない無謀な行動だったようにも思う。
冷静に考えれば初対面の人について行くなんてどうかしていた。
その原因が私の弱った心のせいなのか、男性があまりにも魅力的だったのかはわからないけれど、今ここにいることが非現実の出来事のように感じていた。
「このままでは本当に風邪をひいてしまうよ。お願いだから着替えてきて」
重厚そうなソファーに座り、それまでじっと私を見ていた男性もさすがにしびれを切らしたらしい。
確かにいつもでもこのままではらちが明かない。
仕方ない。私が折れるしかないようだ。
「じゃあ、着替えをお借りします」
「うん。せっかくだから温まってきて」
「はい」
さすがにこれ以上は抵抗する気にもならず、私は浴室へと向かった。
***
初めは着替えだけして出るつもりだったのに、雨に濡れた体は案外ベトベトして気持ちが悪く、悩んだ末にシャワーを借りることにした。
うぅーん、気持ちいい。
シャワーのお湯で冷たくなった体を温めると、生き返ったような気分。
さっきまでの緊張もほぐれていくようだ。
「それにしても、私は一体何をしているんだろう」
ため息とともに吐き出した言葉。
今日は夕方からバイトに行く日だった。
大学に入った時から複数のバイトを掛け持ちしていた私が先月から始めたカラオケ店でのバイト。
夕方6時から夜10時までの4時間で、一応お酒を提供する店とは言え水商売でもないし危ないこともない。その割にバイト代も良くて、私自身も浮かれていた。
時間が早いうちはお客さんも学生が中心で、フロントでのやりとりも特に困る事はなかった。このまま順調にバイトが終わるのだろうと思っていた。
しかし、時間が遅くなるにつれて酔っ払いが増えていき、お客さんの品も悪くなっていった。それでも淡々と仕事をこなしていた私だったが、飲み物を部屋に運んだタイミングで酔っぱらったおじさんに絡まれてしまった。
間違っても挑発したつもりはないけれど、私の態度が気に入らなかったおじさんはネチネチと文句を言い、しまいには私めがけてビールを投げかけた。
「あーあ、今日はつくづく何かをかけられる日らしいわ」
温まった浴室で体を拭きながら、自虐的に笑いがこぼれた。
***
大学に入ると同時に1人暮らしを始めた私は、大学に行く以外の時間はほとんどバイトに充てていた。
カフェのウエイトレスや、家庭教師、コンビニや居酒屋の店員。
お金がよくて時間の自由が利くところを探していくつものバイトをしてきた。
おかげで、大学の学費も家賃も生活費も全て自分で賄っている。
もちろん両親は出してあげるよと言ってくれるけれど、2つ下の弟が医学部に行ったこともありこれ以上負担をかけたくなかった。
ただ、一生懸命に働くのはお金のためだけではなくて、私自身のこだわりでもある。
専業主婦の母を見て育ったせいか自分は自立して生きていくんだと小さな頃から思っていて、母のように誰かに養ってもらう生き方はしたくないと考えていた。
だからお金のいいカラオケ店でのバイトもはじめたんだけれど・・・さすがにもう無理だろうな。
酔っぱらっていたとは言え相手はお客さん。
あれだけのトラブルを起こせば店にはいられない。
トントン。
「ねえ、大丈夫?」
なかなか出てこない私に声がかかった。
どうやら心配されたらしい。
「すみません、すぐに出ます」
***
「ありがとうございました」
用意してもらった服を着て部屋に戻ると、男性は上着を脱いでソファーに座っていた。
「何か飲む?」
「じゃあお水を」
男性が用意してくれたのはブラウスとスカート。
飾り気のないシンプルなものだったけれど実はかなりのハイブランド品で、ついていたタグを見た瞬間袖を通すのをためらってしまったくらいだ。
他に着替えもなかったから一応着させてはもらったけれど、相当高い物だと思う。
「あの、この洋服の代金は・・・」
「いらないよ」
何のこともないように男性は言う。
でも、そんな訳にはいかない。
「じゃあクリーニングに出してから」
お返しします。と言おうとしたのに、
「代金も返却も不要だから。そもそも女性ものの服を返されても困る」
はっきりきっぱりした答え。
でも、それでは私が困るのだが・・・
どうやら受け取ってはもらえないらしい。
「お酒、飲んでいなかったんだね」
「え?」
ああそうか。
さっきまで私の体からはアルコール臭がしていたんだ。
だから男性は私が酔っぱらったと思っていたらしい。
***
「なるほどお酒をかけられたのか」
「ええ」
今日のカラオケ店での顛末を説明すると、男性も納得してくれた。
もちろん「夜遅い時間のバイトは危険も多いし、感心しないな」と言われたけれど、そこは気にしない。
お金持ちの男性には私の気持ちはわからないだろうし、どうせもう2度と会うことのない人だ。
トントン。
廊下からドアをノックする音。
何だろうと視線を送る私の向かいから男性が立ちあがった。
「お腹が空いたから適当に頼んだんだよ」
ドアを開けるとワゴンに乗せられて運ばれてきた料理。
いつの間にかテーブルが出され、食器がセッティングされていく。
「さあどうぞ」
ものの数分で料理や飲み物が並び、運んできたスタッフも出て行った。
そして、唖然として見ていた私に男性が椅子を引いてくれる。
「ありがとうございます」
本当にいいのだろうかとも思いながら、拒絶することも出来な私は席に着いた。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
***
お料理はまさに絶品だった。
手が込んでいて何が何だかよくはわからなかったが、とにかく美味しかった。
「よかったらデザートを」
「いえ、結構です」
余りにも美味しくてモリモリ食べてしまった私のお腹にはもう1ミリの隙間もない。
「美味しそうに食べるね」
「すみません」
それって女子にとっての誉め言葉ではない。
「いや、気持ちがいいって言いたいんだよ」
「・・・」
きっと男性の周りには私みたいに豪快に食べる女子はいないのだろうな。
そう思うとむなしくもなるけれど、これから先会うことのない人だと思えば悔しさはない。
今日はたまたまおとぎの世界を覗いた。そう思うことにしよう。
ブブブ。
このタイミングで男性のスマホが鳴った。
チラッと画面を見てから、
「ごめんちょっと出るね」
男性が私に背を向ける。
それからしばらく、男性は話し込んでいた。
***
「ええ、ですから・・・」
何度も言葉を詰まらせる男性。
どうやらかなり困った電話のようだ。
さっきから時々天を仰ぎながら眉間にしわを寄せている。
「しかしすぐには・・・はい、はい、わかりました」
最終的に男性の方が折れてしまったらしい。
はあー。
電話を切った後大きく息を吐いた男性は、私の方に向き直った。
「お仕事ですか?」
聞いてもいいのだろうかと躊躇ったが、落胆が男性の態度から見て取れてつい聞いてしまった。
「いや、父だよ」
「お父さん、ですか」
それにしては改まった口調だった気がする。
もちろん世の中には色んな親子がいるのだから一概には言えないが、少しよそよそしさを感じてしまった。
「父ではあるけれど、会社の上司でもあるからついこんな口調になるんだよ」
「そうですか」
なるほどそう言われれば、上司と部下そんな感じだった。
「で、何か困りごとですか?」
聞こえてきた限りでは男性が困っていたように思えて、気になった。
「お見合いをしろってうるさくてね」
「おみ、あい?」
もっとすごいことを言われると思っていたのに、ちょっと拍子抜け。
「今、お見合いなんてと思っただろう」
「ええ」
取り繕う必要もないかと私は素直にうなずいた。
別にいきなり結婚しろって言われたわけでもあるまいし、お見合いくらいすればいいじゃない。
この時の私はそう思っていた。
***
食事の片付けも終わり、私達は再びソファーで向かい合った。
その間に互いの名前だけは名乗り、私たちは『尊人さん』『沙月ちゃん』と呼びあうことになった。
「まだ若そうなのに、沙月ちゃんはお見合い肯定派なのか?」
「別に肯定派ってこともないですが・・・」
うちの両親は駆け落ちで一緒になっていた。
お金持ちのお嬢様だった母はたまたま知り合った苦学生の父と恋に落ち、家を捨てて結婚した。
当然母の実家は大反対で、20年以上たった今でも絶縁状態が続いている。
そんな両親を見ているからだろうか、結婚は育った環境が似ていて価値観の合った者同士でするのが一番だと私は思っている。
だから、お見合いに反対はしない。
「結婚は好きな人と恋に落ちてとか思わないの?」
なんだか尊人さんが不思議そうな顔。
「そうですね。人は変わるものだし、一時の感情で突っ走って後々後悔したくはありませんから」
うちの両親が不幸だったというつもりは無いが、苦労が多かったのは間違いないと思う。
苦労を知らずに育った母はもちろん、父も母と家族のために人一倍働いてきた。
小さな会社を興し、数人の従業員を使っていても時には経営不振に見舞われるときもある。
そんな時だって母の実家は一切援助をしなかった。
それどころか、何度も何度も母に帰ってくるようにと連絡をよこし父と母の別れを望み続けていた。
まあ、母自身がひとりっ子で母以外家を継ぐ者がいないからしかたがないかもしれないけれど、あまりにもひどいやり方だと思う。
***
「人を好きになるって、理屈じゃなくて本能なんだけれどね。沙月ちゃんにはまだわからないか」
「ええ、わかりません。だったらわかるように教えてください」
尊人さんの言い方にカチンときて、悔し紛れに言い返した。
「本気で言っている?」
「ええ」
売り言葉に買い言葉。
意固地な私は引っ込みがつかなくなって、それでも尊人さんを睨みつけた。
後から考えればバカな行動だったと思う。
でもなぜか、この時の私は尊人さんに惹かれていた。
「悪いけれど、俺も今日はそんなに紳士ではないんだ。色々と嫌なことがあって優しくしてやれないと思う。それでもいいのか?」
これはきっと『抱いてもいいのか』と聞かれているのだろう。
そして、律儀に確認するところがまた尊人さんらしいなと思えた。
「逃げ出すなら今だぞ」
「いいえ」
私は逃げない。
私の本能が、尊人さんに触れたいと言っている。
***
洋室の隣にはベットルームがあった。
綺麗にベットメイクされたダブルベットに、私と尊人さんは倒れ込む。
「本当にいいんだな?」
「ええ」
ここまで来ても確認する尊人さんに私は笑いそうになった。
もつれ合い絡み合いながら衣服を奪い、下着姿になった私と尊人さんがベットの上で見つめあう。
「ごめんな」
苦しそうに尊人さんの口からこぼれた言葉。
それは何に対する謝罪だったのだろうか。
一瞬考えて、唇に感じた温かさに思考を止められた。
柔らかな物腰の尊人さんからは想像もできない荒々しい口づけ。
すぐに口内を責められて、私は息もままならない。
う、うぅんー。
漏れ出るのは声にもならない声。
静かな室内に水音が響く。
そんな中でも、尊人さんは攻撃の手を緩めない。
唇から耳へ、鎖骨から胸へ。
執拗に愛撫し続ける体温が私の体と同化していく。
「あぁー」
胸の頂に尊人さんの唇が触れた瞬間、こらえていた声がこぼれた。
いくら恋愛結婚否定派の私でも、今までに付き合った彼氏はいた。
一応の経験だってある。
それでも、尊人さんとの夜は別世界のようだった。
***
「あ、あぁ、お願い、もう・・・」
それからどのくらいの時間が経ったのだろうか、私達はまだベットの中にいた。
今まで生きてきて、こんなにも強く何かを求めたことは無かったように思う。
たとえこの一瞬であっても彼の側にいて鼓動を感じていたいと私は願った。
「ヤバイ、止まらない」
ポロリと漏れた彼らしくもない言葉。
言いながらも強く体を突き動かし続ける尊人さんに、私は何も言い返すことができない。
その後も、私達は時間を忘れてお互いを求め続けた。
「沙月、君が好きだよ」
甘くささやくような声。
「私も、尊人が、好き」
ガラガラの声でやっと答えた。
この日偶然に出会った私たちはお互いのことを何も知らない。
もし本当に好きだというのなら、それはもう本能の叫び。
たとえ一時に逢瀬だとしても、後悔はない。
そう思えるほどに、この瞬間の私は幸せだった。
***
一晩明けて別れの時、当然のように連絡先を聞かれたけれど、私は『沙月』と言う名前以上のことは答えなかった。
「どうして嫌なの?そんなに俺が信用できない?」
困ったようにじっと見つめられれば、昨夜を思い出して体が熱くなる。
それでも、もう2度と会う事はないと私は思っていた。
「もしかしてこれが運命の出会いかもしれないだろ?」
スマホを握りしめながら、尊人さんは食い下がる。
「もしこの出会いが運命だったなら、きっとまた会うこともあるはずですよ」
だから今日はこのまま別れましょうと、私は別れを告げた。
運命の人なんてそう簡単には現れないはずだった。
この時の私は運命の出会いを甘く見ていたのかもしれない。
大都会東京で偶然に2度も会うなんてことは全く想定していなかった。
***
尊人さんとの一夜の出会いから一ヶ月後。
当時私がバイトをしていたセレクトショップに、突然尊人さん現れたのだ。
見た瞬間、私はびっくりして固まった。
「い、いらっしゃいませ」
「こんにちは」
そこは自然食品や天然素材のものを扱うセレクトショップ『コットンハウス』。
オーナーの美貴さんが3年前に始めた店で、素材と品ぞろえにこだわった人気店だ。
店の一角にカウンター席5席ほどのカフェスペースがあり、有機栽培のコーヒーや紅茶、簡単な食事も提供している。
「素敵なお店ですね」
「ありがとうございます」
美貴さんに声をかけてからカウンター席に座った尊人さんを、私は少し離れた位置から見ていた。
「うち会社でこちらのコーヒーを飲んでいてあんまり美味しいからやって来たんだが・・・結構種類があるんですね」
何種類かあるコーヒーのメニューを見ながら、尊人さんが首を傾げる。
「こちらからお届けしている会社さんはそう多くないんですが、どちらの会社か教えていただければ銘柄がわかるかもしれません」
悩んでいる様子を見た美貴さんが尋ねると、尊人さんは名刺を取り出した。
「MISASの専務さんでしたか、それは失礼しました。MISASAの秘書室に収めさせていただいているのはうちのオリジナルブレンドです。癖がなくてとっても飲みやすいのが特徴なんですよ」
「ああ確かに、酸味も苦みも強すぎず飲みやすい。じゃあそれをお願いします」
「はい」
MISASAと言えば三朝財閥のメイン企業。
チラッと見えた名刺の名前は三朝尊人さんとなっていたから、三朝財閥の関係者ってことなのだろう。
どうやら私はとんでもない人と知り合いだったらしい。
「ねえ沙月ちゃん、そのベーグルサンドも一緒にもらえるかな?」
「え?」
***
ショーケースに入ったベーグルサンドを指さしながらニコニコと笑っている尊人さん。
一体何が起きたのだろうと、目を見開いた美貴さん。
私はじっと尊人さんを睨んでいた。
わざわざこのタイミングで知り合いだとばらすなんてひどい。
入ってきた瞬間ならいざし知らず、一旦知らないふりをしておいて、名刺を出して身分を明かしたうえで名前呼びなんて意地悪としか思えない。
「お知り合い、ですか?」
言葉は尊人さんに向かっているのに、美貴さんの視線は私を見ている。
しかし、嘘もつけず、友人とも言えず、まさか本当のことも話せない私は反応できない。
「実は友人なんですよ。ああ、ベーグルはサーモンクリームチーズをお願いします」
「はい、今お持ちします」
微妙な空気を感じ取った美貴さんはカウンターから離れて行った。
***
「何のつもりですか?」
淹れたてのコーヒーを出して、私は文句を言った。
初めて出会った時から押しの強い人だとは思った。
私が何を言っても笑っているし、いつもどこかで私をからかうような態度にも大人の余裕を感じていた。そんな所に魅力を感じていたのも否定しない。
それでも、尊人さんとの関係は2人だけの秘密だと思っていたのに。
「運命の再会だろ?」
悪びれもせず笑顔を見せる尊人さんが憎らしい。
「だからと言ってあんなやり方をしなくてもいいのに」
おかげで美貴さんに知られてしまったじゃない。
「これ以上黙っていてほしければ、仕事が終わってから連絡して」
美貴さんに渡したのと同じ名刺に携帯番号とアドレスを書き、尊人さんが差し出した。
「連絡しなかったらまたここに来るんですか?」
「よくわかっているね」
満面笑顔の優しい顔が、今の私には悪魔に見える。
やはり尊人さんは、私より一枚も二枚も上手で、的確に急所を突いてくる。
「わかりました」
こうなったら連絡をするしかないだろうと、私も覚悟を決めた。
この日を境に、私の生活は変わった。
今まで大学とバイトしかなかった生活に尊人さんとの時間が生まれるようになった。
忙しい尊人さんだから頻繁に会うことはできないけれど、朝夕のメッセージや時々会って食事をする時間が私にとって楽しみになっていった。
それは決して無理強いされた訳ではなくて、私自身が望んだもの。
尊人さんの言う通り、『人を好きになるって、理屈じゃなくて本能なんだ』と身をもって痛感した。
思えば付き合ったのはたった数ヶ月だったけれど、この時の私は一生分の恋をした。
******
夕立でもない弱い雨が地面を濡らす。
「雨が降って少しは涼しくなるかしら」
尊人さんと約5年ぶりに再会した日の夕方、順調に仕事を終えた私はデスク周りの片付けをしながら窓の外を見ていた。
子供の頃から夏が大好きだった。
焼けつくような日差しの下、弟と2人外を走り回って遊んでいた。
両親がいて、弟がいて、裕福ではなかったけれど、私はとても幸せだった。
そういう意味では凛人に対して申し訳ない気持ちもある。
「あれ、降ってきたね。傘置いてあったかなあ」
帰り支度をしながら、スタッフも窓の外を見ている。
この会社は都内でも交通の便がいい場所にあり、駅からも徒歩数分。
大きなビルも隣接しているから、その気になれば外を通らずに駅まで行くこともできる。
だからかもしれないが、スタッフのみんなはあまり傘を持ち歩かない。
私は一応折り畳みに傘を置いてはいるが、凛人を連れて帰ることを思うとあまり外を歩きたくないな。
「沙月ちゃん、よかったら送って行こうか?」
何気なく外を見ていた私に、慎之介先生の声がかかった。
「いえ、そんな、」
確かに、天気の悪い日には何度かアパートの前まで送ってもらったこともある。
でも今日はそこまでの悪天候でもないし、まだ外も明るいから、凛人と2人歩いて帰ってもそう苦にはならないはずだ。
「帰るついでだから遠慮はいらないよ」
「いえ、本当に。それに、帰りに買い物もしたいと思っていますので」
「そう、じゃあ仕方ないね」
「すみません」
親切で言ってもらっているのがわかるだけにとても申し訳ないけれど、できるだけ人に甘えないでいようと私は心掛けている。
シングルマザーの道を選び凛人と2人で生きていこうと決めたのは私自身だから。
***
「まま、ぴちゃぴちゃだね」
会社からの帰り道、カッパは着たものの靴のまま水たまりに入る凛人がなぜかうれしそうにしている。
「濡れるからお水のないところを歩いてね」
「はーい」
返事はいいものの、水たまりを見つけてはピチャピチャと入って行く凛人。
はあー。
私はついため息をついた。
子供にとっては、雨も水たまりも楽しくて仕方がないのだろう。
私も子供の頃そうだった気がする。
でも、せめて長靴を履いてこさせればよかったな。
そうすれば水たまりだって平気だったのに。
今は凛人お気に入りの真っ赤な運動靴がビショビショになってしまっている。
「ねえ凛人、危ないから1人で行かないで」
手を離し、私の数歩前を行く凛人に声をかけた。
その時、
ビシャッ。
車道を走っていた車が跳ね上げた雨水が舞い上がった。
「凛人っ」
私は咄嗟に息子のもとに駆け寄り、
「ままー」
びっくりしたのか飛びついてきた凛人を抱きしめた。
そういえば、彼に初めて会った時もこんなことがあった。
確か、あの日も雨だった。
思い起こした5年前の記憶。
それは、偶然の出会いだった。
******
五年前。
あの日もいつ振り出したのかわからない雨が、地面を濡らしていた。
あんまり細かくて傘がいるかどうかもわからないような霧雨。
周囲を見渡しても傘を差さずに歩いている人の方が多かった。
私も濡れながら通りを歩いていた。
「なんでこんなことになったんだろう」
その日バイト先で嫌なことがあった私は、1人で怒っていた。
あんまり悔しいからこぶしを握り締めて、反動で足が止まった。
その時、
ドンッ。
「痛っ」
人混みの中で歩みを止めれば当然誰かにぶつかってしまう。それは自然の摂理かもしれない。
その場合悪いのは立ち止まった私の方で、誰も責めることはできない。
「大丈夫ですか?」
原因は私だとわかっているはずなのに、かけられた心配そうな声。
「大丈夫です」
いけないとわかっていながら、不機嫌が態度に出た。
本当にかわいくない女だと思う。
こんなだからトラブルにだって巻き込まれるのかもしれないと頭ではわかっているのに、どうすることもできない自分が本当に嫌になってしまう。
その時の私は1人落ち込んでいた。
「濡れてしまいますよ」
1人悶々と悩んでいた私に思いの外優しい声がかかり、同時に傘を差しかけられたのがわかって、私はゆっくりと顔を上げた。
***
うわ、素敵。
見た瞬間思わず声が出そうになって、やっとの所で飲み込んだ。
こんな人が現実にいるのねってくらいに整った顔。
男性にしては色白だけど、存在感のある口元と意志の強そうな眼差しが凛々しさを滲ませる。
それに背もかなり高くて、170センチある私が見揚げるくらいだから、185センチはありそう。
どこから見ても端正な顔立ちの爽やかなイケメン。
私はしばし男性に見惚れてしまった。
「ケガはありませんか?」
「え、ええ」
再びかけられた声で我に返り、自分が恥ずかしくなって一歩足を引いた時、
バシャッ。
すぐ横の道路を走る車によって巻き上げられた水しぶき。
このままでは自分にかかるとわかったけれど、動けなかった。
当然のように雨水は私を直撃し、私は頭からずぶぬれになってしまった。
***
うわぁー、最悪。
びしょ濡れになってしまった自分を見て、泣きたくなんてないのに自然と涙が込み上げる。
もう嫌だ。急いで帰ろう。
濡れた手で顔をぬぐい、私は歩き出そうとした。
しかし、
「待って、このままでは風邪をひいてしまうから」
男性が突然私の腕をとり、傘の中へと引き入れた。
いくらなんでも見ず知らずの男性に従うのは無謀な行動だと思う。
普段の私なら大声を出してでも振り払っていた。
でもなぜか、この時の私にはできなかった。
すぐに男性がどこかに連絡を入れ、数分で黒塗りの車がやって来た。
運転手らしき人が後部座席のドアを開けてくれてどうぞと促されたけれど、さすがに濡れたままでこんな高そうな車には乗れないと躊躇っていると、
「いいから乗って」
先に乗り込んだ男性に腕を引かれ、私は車に乗り込むことになった。
***
そこから10分ほど走ってたどり着いた、大きな洋館。
ここは私でも名前を知っている、高級会員制クラブだ。
時々セレブがパーティーをしたなんて記事を見るけれど、実際には来たことのない場所。
「あの・・・」
さすがにここは私が来るには場違いだろうと、入り口で一度足が止まった。
「怪しい場所じゃないから安心して」
大丈夫だよと笑いかけてくれる男性。
怪しい所でないのは私にだってわかっている。
どちらかと言うと、怪しいのは私の方だ。
ここは政界、経済界、芸能界の著名人が集まる場所。
格式もあり、誰でもが簡単に入られるところでもない。
「さあ行こう。部屋を用意してもらったから」
再び腕を引かれ建物の中へと入って行く。
それにしてもこの人は何者だろう。
堂々とした立ち居振る舞いはこういう場にも慣れているように見えるし、出迎えたスタッフも男性のことをよく知っているようだった。
やはりただものではない。
その後、高級ホテルのようなフロントを抜け、高そうな調度品の飾られた廊下の先にある客室に私たちは入った。
***
「いつまでそうしているつもり?」
20畳以上はありそうな広い洋室に通されてから15分ほどして男性が口を開いた。
部屋に入ると同時に着替えとタオルが用意され、私はシャワーを勧められた。
だからと言って、すぐには動くこともできず私はその場に立っている。
そもそもここまでついてきたこと自体が後先を考えない無謀な行動だったようにも思う。
冷静に考えれば初対面の人について行くなんてどうかしていた。
その原因が私の弱った心のせいなのか、男性があまりにも魅力的だったのかはわからないけれど、今ここにいることが非現実の出来事のように感じていた。
「このままでは本当に風邪をひいてしまうよ。お願いだから着替えてきて」
重厚そうなソファーに座り、それまでじっと私を見ていた男性もさすがにしびれを切らしたらしい。
確かにいつもでもこのままではらちが明かない。
仕方ない。私が折れるしかないようだ。
「じゃあ、着替えをお借りします」
「うん。せっかくだから温まってきて」
「はい」
さすがにこれ以上は抵抗する気にもならず、私は浴室へと向かった。
***
初めは着替えだけして出るつもりだったのに、雨に濡れた体は案外ベトベトして気持ちが悪く、悩んだ末にシャワーを借りることにした。
うぅーん、気持ちいい。
シャワーのお湯で冷たくなった体を温めると、生き返ったような気分。
さっきまでの緊張もほぐれていくようだ。
「それにしても、私は一体何をしているんだろう」
ため息とともに吐き出した言葉。
今日は夕方からバイトに行く日だった。
大学に入った時から複数のバイトを掛け持ちしていた私が先月から始めたカラオケ店でのバイト。
夕方6時から夜10時までの4時間で、一応お酒を提供する店とは言え水商売でもないし危ないこともない。その割にバイト代も良くて、私自身も浮かれていた。
時間が早いうちはお客さんも学生が中心で、フロントでのやりとりも特に困る事はなかった。このまま順調にバイトが終わるのだろうと思っていた。
しかし、時間が遅くなるにつれて酔っ払いが増えていき、お客さんの品も悪くなっていった。それでも淡々と仕事をこなしていた私だったが、飲み物を部屋に運んだタイミングで酔っぱらったおじさんに絡まれてしまった。
間違っても挑発したつもりはないけれど、私の態度が気に入らなかったおじさんはネチネチと文句を言い、しまいには私めがけてビールを投げかけた。
「あーあ、今日はつくづく何かをかけられる日らしいわ」
温まった浴室で体を拭きながら、自虐的に笑いがこぼれた。
***
大学に入ると同時に1人暮らしを始めた私は、大学に行く以外の時間はほとんどバイトに充てていた。
カフェのウエイトレスや、家庭教師、コンビニや居酒屋の店員。
お金がよくて時間の自由が利くところを探していくつものバイトをしてきた。
おかげで、大学の学費も家賃も生活費も全て自分で賄っている。
もちろん両親は出してあげるよと言ってくれるけれど、2つ下の弟が医学部に行ったこともありこれ以上負担をかけたくなかった。
ただ、一生懸命に働くのはお金のためだけではなくて、私自身のこだわりでもある。
専業主婦の母を見て育ったせいか自分は自立して生きていくんだと小さな頃から思っていて、母のように誰かに養ってもらう生き方はしたくないと考えていた。
だからお金のいいカラオケ店でのバイトもはじめたんだけれど・・・さすがにもう無理だろうな。
酔っぱらっていたとは言え相手はお客さん。
あれだけのトラブルを起こせば店にはいられない。
トントン。
「ねえ、大丈夫?」
なかなか出てこない私に声がかかった。
どうやら心配されたらしい。
「すみません、すぐに出ます」
***
「ありがとうございました」
用意してもらった服を着て部屋に戻ると、男性は上着を脱いでソファーに座っていた。
「何か飲む?」
「じゃあお水を」
男性が用意してくれたのはブラウスとスカート。
飾り気のないシンプルなものだったけれど実はかなりのハイブランド品で、ついていたタグを見た瞬間袖を通すのをためらってしまったくらいだ。
他に着替えもなかったから一応着させてはもらったけれど、相当高い物だと思う。
「あの、この洋服の代金は・・・」
「いらないよ」
何のこともないように男性は言う。
でも、そんな訳にはいかない。
「じゃあクリーニングに出してから」
お返しします。と言おうとしたのに、
「代金も返却も不要だから。そもそも女性ものの服を返されても困る」
はっきりきっぱりした答え。
でも、それでは私が困るのだが・・・
どうやら受け取ってはもらえないらしい。
「お酒、飲んでいなかったんだね」
「え?」
ああそうか。
さっきまで私の体からはアルコール臭がしていたんだ。
だから男性は私が酔っぱらったと思っていたらしい。
***
「なるほどお酒をかけられたのか」
「ええ」
今日のカラオケ店での顛末を説明すると、男性も納得してくれた。
もちろん「夜遅い時間のバイトは危険も多いし、感心しないな」と言われたけれど、そこは気にしない。
お金持ちの男性には私の気持ちはわからないだろうし、どうせもう2度と会うことのない人だ。
トントン。
廊下からドアをノックする音。
何だろうと視線を送る私の向かいから男性が立ちあがった。
「お腹が空いたから適当に頼んだんだよ」
ドアを開けるとワゴンに乗せられて運ばれてきた料理。
いつの間にかテーブルが出され、食器がセッティングされていく。
「さあどうぞ」
ものの数分で料理や飲み物が並び、運んできたスタッフも出て行った。
そして、唖然として見ていた私に男性が椅子を引いてくれる。
「ありがとうございます」
本当にいいのだろうかとも思いながら、拒絶することも出来な私は席に着いた。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
***
お料理はまさに絶品だった。
手が込んでいて何が何だかよくはわからなかったが、とにかく美味しかった。
「よかったらデザートを」
「いえ、結構です」
余りにも美味しくてモリモリ食べてしまった私のお腹にはもう1ミリの隙間もない。
「美味しそうに食べるね」
「すみません」
それって女子にとっての誉め言葉ではない。
「いや、気持ちがいいって言いたいんだよ」
「・・・」
きっと男性の周りには私みたいに豪快に食べる女子はいないのだろうな。
そう思うとむなしくもなるけれど、これから先会うことのない人だと思えば悔しさはない。
今日はたまたまおとぎの世界を覗いた。そう思うことにしよう。
ブブブ。
このタイミングで男性のスマホが鳴った。
チラッと画面を見てから、
「ごめんちょっと出るね」
男性が私に背を向ける。
それからしばらく、男性は話し込んでいた。
***
「ええ、ですから・・・」
何度も言葉を詰まらせる男性。
どうやらかなり困った電話のようだ。
さっきから時々天を仰ぎながら眉間にしわを寄せている。
「しかしすぐには・・・はい、はい、わかりました」
最終的に男性の方が折れてしまったらしい。
はあー。
電話を切った後大きく息を吐いた男性は、私の方に向き直った。
「お仕事ですか?」
聞いてもいいのだろうかと躊躇ったが、落胆が男性の態度から見て取れてつい聞いてしまった。
「いや、父だよ」
「お父さん、ですか」
それにしては改まった口調だった気がする。
もちろん世の中には色んな親子がいるのだから一概には言えないが、少しよそよそしさを感じてしまった。
「父ではあるけれど、会社の上司でもあるからついこんな口調になるんだよ」
「そうですか」
なるほどそう言われれば、上司と部下そんな感じだった。
「で、何か困りごとですか?」
聞こえてきた限りでは男性が困っていたように思えて、気になった。
「お見合いをしろってうるさくてね」
「おみ、あい?」
もっとすごいことを言われると思っていたのに、ちょっと拍子抜け。
「今、お見合いなんてと思っただろう」
「ええ」
取り繕う必要もないかと私は素直にうなずいた。
別にいきなり結婚しろって言われたわけでもあるまいし、お見合いくらいすればいいじゃない。
この時の私はそう思っていた。
***
食事の片付けも終わり、私達は再びソファーで向かい合った。
その間に互いの名前だけは名乗り、私たちは『尊人さん』『沙月ちゃん』と呼びあうことになった。
「まだ若そうなのに、沙月ちゃんはお見合い肯定派なのか?」
「別に肯定派ってこともないですが・・・」
うちの両親は駆け落ちで一緒になっていた。
お金持ちのお嬢様だった母はたまたま知り合った苦学生の父と恋に落ち、家を捨てて結婚した。
当然母の実家は大反対で、20年以上たった今でも絶縁状態が続いている。
そんな両親を見ているからだろうか、結婚は育った環境が似ていて価値観の合った者同士でするのが一番だと私は思っている。
だから、お見合いに反対はしない。
「結婚は好きな人と恋に落ちてとか思わないの?」
なんだか尊人さんが不思議そうな顔。
「そうですね。人は変わるものだし、一時の感情で突っ走って後々後悔したくはありませんから」
うちの両親が不幸だったというつもりは無いが、苦労が多かったのは間違いないと思う。
苦労を知らずに育った母はもちろん、父も母と家族のために人一倍働いてきた。
小さな会社を興し、数人の従業員を使っていても時には経営不振に見舞われるときもある。
そんな時だって母の実家は一切援助をしなかった。
それどころか、何度も何度も母に帰ってくるようにと連絡をよこし父と母の別れを望み続けていた。
まあ、母自身がひとりっ子で母以外家を継ぐ者がいないからしかたがないかもしれないけれど、あまりにもひどいやり方だと思う。
***
「人を好きになるって、理屈じゃなくて本能なんだけれどね。沙月ちゃんにはまだわからないか」
「ええ、わかりません。だったらわかるように教えてください」
尊人さんの言い方にカチンときて、悔し紛れに言い返した。
「本気で言っている?」
「ええ」
売り言葉に買い言葉。
意固地な私は引っ込みがつかなくなって、それでも尊人さんを睨みつけた。
後から考えればバカな行動だったと思う。
でもなぜか、この時の私は尊人さんに惹かれていた。
「悪いけれど、俺も今日はそんなに紳士ではないんだ。色々と嫌なことがあって優しくしてやれないと思う。それでもいいのか?」
これはきっと『抱いてもいいのか』と聞かれているのだろう。
そして、律儀に確認するところがまた尊人さんらしいなと思えた。
「逃げ出すなら今だぞ」
「いいえ」
私は逃げない。
私の本能が、尊人さんに触れたいと言っている。
***
洋室の隣にはベットルームがあった。
綺麗にベットメイクされたダブルベットに、私と尊人さんは倒れ込む。
「本当にいいんだな?」
「ええ」
ここまで来ても確認する尊人さんに私は笑いそうになった。
もつれ合い絡み合いながら衣服を奪い、下着姿になった私と尊人さんがベットの上で見つめあう。
「ごめんな」
苦しそうに尊人さんの口からこぼれた言葉。
それは何に対する謝罪だったのだろうか。
一瞬考えて、唇に感じた温かさに思考を止められた。
柔らかな物腰の尊人さんからは想像もできない荒々しい口づけ。
すぐに口内を責められて、私は息もままならない。
う、うぅんー。
漏れ出るのは声にもならない声。
静かな室内に水音が響く。
そんな中でも、尊人さんは攻撃の手を緩めない。
唇から耳へ、鎖骨から胸へ。
執拗に愛撫し続ける体温が私の体と同化していく。
「あぁー」
胸の頂に尊人さんの唇が触れた瞬間、こらえていた声がこぼれた。
いくら恋愛結婚否定派の私でも、今までに付き合った彼氏はいた。
一応の経験だってある。
それでも、尊人さんとの夜は別世界のようだった。
***
「あ、あぁ、お願い、もう・・・」
それからどのくらいの時間が経ったのだろうか、私達はまだベットの中にいた。
今まで生きてきて、こんなにも強く何かを求めたことは無かったように思う。
たとえこの一瞬であっても彼の側にいて鼓動を感じていたいと私は願った。
「ヤバイ、止まらない」
ポロリと漏れた彼らしくもない言葉。
言いながらも強く体を突き動かし続ける尊人さんに、私は何も言い返すことができない。
その後も、私達は時間を忘れてお互いを求め続けた。
「沙月、君が好きだよ」
甘くささやくような声。
「私も、尊人が、好き」
ガラガラの声でやっと答えた。
この日偶然に出会った私たちはお互いのことを何も知らない。
もし本当に好きだというのなら、それはもう本能の叫び。
たとえ一時に逢瀬だとしても、後悔はない。
そう思えるほどに、この瞬間の私は幸せだった。
***
一晩明けて別れの時、当然のように連絡先を聞かれたけれど、私は『沙月』と言う名前以上のことは答えなかった。
「どうして嫌なの?そんなに俺が信用できない?」
困ったようにじっと見つめられれば、昨夜を思い出して体が熱くなる。
それでも、もう2度と会う事はないと私は思っていた。
「もしかしてこれが運命の出会いかもしれないだろ?」
スマホを握りしめながら、尊人さんは食い下がる。
「もしこの出会いが運命だったなら、きっとまた会うこともあるはずですよ」
だから今日はこのまま別れましょうと、私は別れを告げた。
運命の人なんてそう簡単には現れないはずだった。
この時の私は運命の出会いを甘く見ていたのかもしれない。
大都会東京で偶然に2度も会うなんてことは全く想定していなかった。
***
尊人さんとの一夜の出会いから一ヶ月後。
当時私がバイトをしていたセレクトショップに、突然尊人さん現れたのだ。
見た瞬間、私はびっくりして固まった。
「い、いらっしゃいませ」
「こんにちは」
そこは自然食品や天然素材のものを扱うセレクトショップ『コットンハウス』。
オーナーの美貴さんが3年前に始めた店で、素材と品ぞろえにこだわった人気店だ。
店の一角にカウンター席5席ほどのカフェスペースがあり、有機栽培のコーヒーや紅茶、簡単な食事も提供している。
「素敵なお店ですね」
「ありがとうございます」
美貴さんに声をかけてからカウンター席に座った尊人さんを、私は少し離れた位置から見ていた。
「うち会社でこちらのコーヒーを飲んでいてあんまり美味しいからやって来たんだが・・・結構種類があるんですね」
何種類かあるコーヒーのメニューを見ながら、尊人さんが首を傾げる。
「こちらからお届けしている会社さんはそう多くないんですが、どちらの会社か教えていただければ銘柄がわかるかもしれません」
悩んでいる様子を見た美貴さんが尋ねると、尊人さんは名刺を取り出した。
「MISASの専務さんでしたか、それは失礼しました。MISASAの秘書室に収めさせていただいているのはうちのオリジナルブレンドです。癖がなくてとっても飲みやすいのが特徴なんですよ」
「ああ確かに、酸味も苦みも強すぎず飲みやすい。じゃあそれをお願いします」
「はい」
MISASAと言えば三朝財閥のメイン企業。
チラッと見えた名刺の名前は三朝尊人さんとなっていたから、三朝財閥の関係者ってことなのだろう。
どうやら私はとんでもない人と知り合いだったらしい。
「ねえ沙月ちゃん、そのベーグルサンドも一緒にもらえるかな?」
「え?」
***
ショーケースに入ったベーグルサンドを指さしながらニコニコと笑っている尊人さん。
一体何が起きたのだろうと、目を見開いた美貴さん。
私はじっと尊人さんを睨んでいた。
わざわざこのタイミングで知り合いだとばらすなんてひどい。
入ってきた瞬間ならいざし知らず、一旦知らないふりをしておいて、名刺を出して身分を明かしたうえで名前呼びなんて意地悪としか思えない。
「お知り合い、ですか?」
言葉は尊人さんに向かっているのに、美貴さんの視線は私を見ている。
しかし、嘘もつけず、友人とも言えず、まさか本当のことも話せない私は反応できない。
「実は友人なんですよ。ああ、ベーグルはサーモンクリームチーズをお願いします」
「はい、今お持ちします」
微妙な空気を感じ取った美貴さんはカウンターから離れて行った。
***
「何のつもりですか?」
淹れたてのコーヒーを出して、私は文句を言った。
初めて出会った時から押しの強い人だとは思った。
私が何を言っても笑っているし、いつもどこかで私をからかうような態度にも大人の余裕を感じていた。そんな所に魅力を感じていたのも否定しない。
それでも、尊人さんとの関係は2人だけの秘密だと思っていたのに。
「運命の再会だろ?」
悪びれもせず笑顔を見せる尊人さんが憎らしい。
「だからと言ってあんなやり方をしなくてもいいのに」
おかげで美貴さんに知られてしまったじゃない。
「これ以上黙っていてほしければ、仕事が終わってから連絡して」
美貴さんに渡したのと同じ名刺に携帯番号とアドレスを書き、尊人さんが差し出した。
「連絡しなかったらまたここに来るんですか?」
「よくわかっているね」
満面笑顔の優しい顔が、今の私には悪魔に見える。
やはり尊人さんは、私より一枚も二枚も上手で、的確に急所を突いてくる。
「わかりました」
こうなったら連絡をするしかないだろうと、私も覚悟を決めた。
この日を境に、私の生活は変わった。
今まで大学とバイトしかなかった生活に尊人さんとの時間が生まれるようになった。
忙しい尊人さんだから頻繁に会うことはできないけれど、朝夕のメッセージや時々会って食事をする時間が私にとって楽しみになっていった。
それは決して無理強いされた訳ではなくて、私自身が望んだもの。
尊人さんの言う通り、『人を好きになるって、理屈じゃなくて本能なんだ』と身をもって痛感した。
思えば付き合ったのはたった数ヶ月だったけれど、この時の私は一生分の恋をした。
******
応援ありがとうございます!
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