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2巻
2-2
ブラックドラゴンは魔物の中でも上位種であるのに、ベルクハイツ領では少々肩身が狭そうに暮らしている。全ては、ベルクハイツ領の型破りな飛竜達のせいだ。
とりあえず、オルタンスの質問には本当だと答えておいた。
「まあ、なんて凄いのかしら……。飛竜ならまだしも、ドラゴンに騎乗できるだなんて……」
ドラゴンは本来とても気性が荒く、とてもではないが人間の言うことなど聞かない。しかし、ただ一点、言うことを聞かせる方法がある。
「ドラゴンは他の魔物より頭が良いですから。それが厄介な点でもありますが、どちらが上であり、捕食者であるか、徹底的に叩き込めば言うことを聞きます」
「そ、そう……」
ごく普通の令嬢にしか見えないアレッタの弱肉強食発言に、オルタンスは言葉を詰まらせた。
その後、係りの者が昼食の配膳に来たため、話は一時ストップする。配膳が終わると、話題は違うものに移った。
「――カルメ公国からの留学生はもう一人いると聞きましたけど、お知り合いですか?」
マデリーンの問いに、オルタンスはにこやかに答える。
「ええ、もちろん知っていますわ。リゼット・フォルジュ子爵令嬢ね。フォルジュ子爵家はカルメ公国でも有数の資産家で、そこの末娘になるの。なんでも、この国に会いたい人がいるらしくて、留学を決めたんですって」
「まあ。会いたい人?」
「どんな方なんでしょう?」
アレッタとマデリーンは恋の気配を感じ、下品にならない程度に分かりやすく興味を示す。オルタンスはにっこりと微笑んで口を開いた。
「ふふ。――ところで、ウィンウッド王国では最近、数組の婚約者達が婚約を破棄し、それに伴う騒ぎが原因で前王太子殿下と貴族の子息達がその座を追われたと聞きました」
突然の話題転換に、マデリーンとアレッタは戸惑い、顔を見合わせる。その騒動のあおりを受けたのが、まさに自分達だったからだ。
その情報を公爵令嬢であり、現王太子の婚約者候補であるオルタンスが知らないとは思えない。だが、喧嘩を売っているようにも見えず、困惑気味に騒ぎがあったことを肯定すると、オルタンスは一つ頷き、話し出した。
「その騒動は、ある男爵令嬢に入れ込んだ子息達が起こした冤罪による断罪劇だと聞きました。それで、お恥ずかしい話ですが、我がカルメ公国でも似たようなことが起きていますの」
「「えっ」」
ぎょっとする二人に、オルタンスは困ったわ、と言わんばかりに優雅に小首を傾げ、溜息をつく。
「祖国では、王太子殿下を筆頭に数名の高位貴族の令息達がある男爵令嬢に熱をあげてしまっていて、私達の諫言をちっとも聞いていただけませんの。もうついていけないと思いまして、私を含む彼の方達と婚約していた令嬢達は婚約を解消し、留学を決意しました」
そして今に至るのだ、と軽く告白するオルタンスだが、この話ははっきり言って国の恥部だ。何せ、ウィンウッド王国の元王太子の転落に関する顛末はあまりにもお粗末で、笑い話にもならないと国中の貴族達が頭を抱えている。
そんな話をしてしまっていいのか、とアレッタが悩んでいるのに、オルタンスは優雅に微笑んだ。
「お陰で王家の名に傷をつけたと側室腹の兄王子殿下が激怒なさって、それはもう飛ぶ鳥を落とす勢いで王太子殿下を蹴落とさんと動いてらっしゃるのです。面白いのは、彼の方達は特に隠してもいないのに、この情報が王太子殿下の耳に入っていないことですわね」
にこやかなオルタンスに、アレッタもマデリーンもある可能性に気づく。
もしやカルメ公国の国王やその周りは、そもそも、その兄王子に王位を継がせたかったのではないか。そうであるなら、王にとってこの騒動は降って湧いた幸運だ。実際、国の恥部を話したにしては、オルタンスに余裕がありすぎた。
なるほど、カルメ公国の国王はなかなか有能なようだ。そう思いつつも、そこまで徹底的に叩き潰されたら、その王太子は自ら命を絶ちたくなるほど打ちのめされるだろうなとも、アレッタは考える。心なしか、オルタンスの笑顔が少し怖い。
ウィンウッド王国の元王太子であるアランもまた、やらかした王子である。自らの婚約者に偽りの罪を着せ、己の良いように事を運ぼうとして失敗し、その座を追われた。最低野郎であり、国王は見事に子育てを失敗したことになる。それでもアラン元王太子は、自らベルクハイツ領行きを希望する程度には根性があった。
よくぞ言ったとベルクハイツの戦士達はアランの希望に応え、必ずや一人前の戦士にしてやろうと誓ったのだ。まさかアランがベルクハイツ領の力を甘く見ており、自らの力をうぬぼれての志願とは知らぬが故である。そして、それを知るベルクハイツ夫人――悪魔がわざわざ周囲に訂正するはずがない。
アレッタもまた、自国の元王太子の決意に感心し、特訓メニュー作りに参加した。『鬼軍曹による訓練メニュー~ベルクハイツを添えて~』というタイトルの、『地獄への招待状』と密かに呼ばれている渾身のメニューだ。それは、アランの逃亡不可能なデッドオアアライブ生活が決まった瞬間でもある。
自国の廃太子を地獄へ突き落とす計画に善意で一枚噛んだアレッタは、良い為政者を育てるのって大変なんだなあ、と遠い目をした。
そんな彼女を横目に、マデリーンのほうは少し困惑した表情でオルタンスに口を開く。
「そのようなことをおっしゃってもよろしいの? 我が国でも同じような事件が起きたとはいえ、外に広めないほうが良いのでは?」
いくら国の上層部が王太子交代を望んでいるとしても、そういったことは伏せておくべきだ。マデリーンとしては、何を思って彼女がそれを言ったのか、真意を知りたかったらしい。
「大丈夫ですわ。王太子殿下の後ろ盾が厄介なので、再起不能なまでに評判を落としておきたいのです」
にっこり笑って告げられた明け透けな言葉にアレッタは固まり、マデリーンは困ったような顔をする裏でなるほどと納得した。
余裕のある笑みを浮かべるオルタンスに、アレッタは少し不安になる。
おそらくオルタンスは彼女の元婚約者である王太子を嫌っているのだろう。何せ、この学園でも似た事件が起きたのだ。リサに惚れた男達の婚約者は一様にあきれ果て、彼らとバッサリ縁を切っている。その一人であるマデリーンの傍にいたアレッタには、オルタンスの抱く感情は想像しやすい。
しかし、マデリーンとオルタンスでは一つ違うところがある。マデリーンは元婚約者であるシルヴァンを冷たい目で見ることはあっても、必要以上に嬲るような真似はしなかった。一方、オルタンスの場合は、もしかすると可愛さ余って憎さ百倍なのかもしれないが、敵には容赦しないスタンスなのだと分かる。
もし彼女がウィンウッド王国のレオン王太子と結ばれて王太子妃となった時、ベルクハイツと敵対しそうなら、彼女が動く前に叩き潰さねばならない。アレッタは割と物騒な思考でそう考えていた。
ベルクハイツは基本、弱肉強食である。普段は文明人であっても、いざとなれば身分など張りぼてよと叩き潰す脳筋が本性だ。敵対行動を取った日が命日となる。
そんな物騒な決意を、目の前の一見普通の令嬢がしているとは思わないだろう、オルタンスがにこやかに話す。
「それで、話を戻しますけれど、私と一緒に留学してきたリゼットの会いたい人というのは、彼女の初恋の人らしいの」
「まあ!」
「そうなんですか?」
オルタンスのその言葉に、今までの話がリゼットの『会いたい人』に関する前振りだったのだと知った。婚約者に傷つけられたが故に、リゼットは初恋の人に会いたかったのだと印象付けたかったのだろう。決して、不貞ではないのだと。
まあ、その印象付けの言葉がなかなか過激だったが。
「初恋の方って、どんな男性なのかしら?」
「それが、名前は教えてもらえなかったのです。けれど、一途な方なのですって。その方が愛する人には既に婚約者がいて、それでも一途にその方を愛しているのだとか」
「それは……、なかなか難しい方ですね……」
初恋というからには、それなりに昔の話だと思われる。ひょっとすると、リゼットの初恋の人は件の『愛する人』を諦めて、既に他の婚約者、または伴侶を作っているかもしれない。
「そうね。ですが、私は彼女の恋が成就すれば良いと思っているのよ」
そう言って寂しそうに微笑むオルタンス。アレッタは彼女が元婚約者である王太子を愛していたのだと察した。自らの手で愛していたはずの人を叩き潰そうと思うくらいに、愛していたのだと。
***
オルタンスと昼食を共にした翌日。
アレッタはいつも通り朝の鍛錬をすべく鍛錬場へ向かっていた。
既に何人かの騎士候補生がそこにおり、それぞれが汗を流している。
普通、ここを使用するのは騎士科の学生のみだ。しかし、次期領主でもあるアレッタが所属している科は普通科。一学年時は他の生徒と同じ内容を普通科で学び、二学年の時に領主候補生には特別カリキュラムが追加されるのだ。故に、アレッタや歴代のベルクハイツ家当主は、特別に鍛錬場の使用を許されていた。
「アレッタ!」
「あ、おはよう、フリオ」
「ああ、おはよう」
アレッタが準備運動をしていると、フリオがやってきた。
彼が籍を置くのは騎士科ではあるが、普通科のアレッタの勉強をしれっとした顔で教えられるあたり、彼の頭には普通科の、もしくはそれ以上の知識が入っている。しかし、アレッタも二つ年上であり、騎士科所属のフリオの剣の振り方や身のこなしにダメ出しをするのだから、まあ、そういうものなのだろう。
二人は共に鍛錬し、シャワーを浴びるためにその場を後にした。
アレッタがシャワーを浴び、急いで着替えて外に出ると、待っていたフリオが、ニッと笑って手招きする。
「やっぱり生乾きだな。ほら、乾かしてやるから、後ろ向きな」
「うぅ……」
正式に婚約してからというもの、フリオは何かとアレッタを構いたがる。
いや、元から世話焼き気質なのかな、と思わせる構いぶりだったのだが、婚約してからはそれに遠慮がなくなったのだ。
いつだったか、人目を気にしなくて済むようになった、というフリオの呟きを聞いて、アレッタは彼の気遣いらしきものに気づいた。まあ、婚約者のいる女に対し、あの構い方はどうだったんだ、と一瞬脳裏に過ったが、それには気づかないふりをしている。今の婚約者はフリオなので問題ない。
髪を乾かしてもらい、二人で食堂へ向かう。
鍛錬前に牛乳と果物を軽く食べているが、当然それだけではお腹が空く。二人共、鍛錬後にがっつり朝食を食べるのだ。
そうして食堂へ向かう途中、サーモンピンク色の髪をした女生徒が目に入った。
その珍しい髪色に見覚えがないことから、アレッタは、彼女が例の留学生の片割れかな、と見当をつけてフリオに話しかける。
「ねえ、フリオ。もしかして、あの人、留学生の人かな?」
「ん? ああ、そうだぜ。確か、あれは子爵家の令嬢のほうだな」
どうやら、彼は既に情報を仕入れていたらしい。
「確か、『初恋の人』とやらに会いに来たんだろ?」
「えっ、フリオ、どうして知ってるの?」
オルタンスから聞いた情報を出され驚くアレッタに、フリオは呆れたように肩を竦めて告げる。
「食堂なんかで話すほうが悪い。あんな場所で話されたら、広められても仕方がないぜ?」
そして、フリーの令嬢にとって広められても困る内容ではないかもしれないが、と付け足した。
「まあ、オルタンス嬢としては広めるのが目的かもな。噂の内容としては、初恋が叶えば素敵だね、と概ね好意的だったぞ。相手によっては、周りが手助けしてくれる可能性があるしな」
その手のことが好きな令嬢もいるからな、と彼は言い、食堂の席に着く。すぐさま給仕が来て、盛り付けられた朝食が提供された。今日の朝食はスクランブルエッグとベーコン、トマトサラダ、コンソメスープに、マッシュポテトと白パンである。
そうして朝食をとっていると、フリオに一人の令嬢が近寄ってきた。
「あの、こちらの席、よろしいでしょうか?」
おずおずとそう尋ねたのは、先程のサーモンピンクの髪色をした留学生だ。
噂の人物がちょうど目の前に現れたことに少し驚きつつも、アレッタはフリオと目配せし合い、どうぞ、と席を勧めた。
アレッタ達が座る席は長方形の長机であり、彼女はフリオと向き合って座っている。隣に見知らぬ誰かが座るのは普通だが、令嬢が一人で男子生徒の隣に座ろうとするのは珍しかった。
国の違いなのだろうかと思いつつも、それは違うと心の奥底で否定の声が上がる。そして、女の勘が囁いた――
「――あのう、失礼ですが、フリオ・ブランドン様でいらっしゃいますか?」
「そうだが……」
――この女、フリオ狙いである、と。
口元に浮かべた微笑みはそのままに、アレッタは目をすっと細める。それを見たフリオは、婚約者が戦闘モードに移行したことに気づき、内心慌てた。嫉妬と取れる反応は嬉しいが、その先に起きるのは、ドラゴンの宝を目の前で奪った人間の末路と同じ惨劇である。死にはしなくとも、恐ろしい事態になるのは、傾国と謳われるオリアナを娶った現ベルクハイツ子爵が証明している。これは血筋なのだ。
この留学生の顔を変形させるわけにはいかない。フリオはさっさと朝食をすませてこの場を去るのが賢明だと判断し、食事のスピードを上げた。
「あの、私、今学期からこちらの学園で学ぶことになりましたカルメ公国のリゼット・フォルジュと申します」
「……そうですか」
「フリオ様は三年生なのですよね? 私は二年生なんですけど、気をつけたほうが良いカリキュラムとかありますか?」
「……さあ? 私は騎士科ですので、お答えしかねます」
リゼットの質問には答えるが、フリオの纏う空気は明らかに迷惑だと告げている。それなのに、そんな彼の態度にもめげず、果敢にリゼットは話しかけていた。――フリオの対面の席で、じわじわと殺気に似た気配を放ち始めたアレッタには、気づいていない。
ある種の緊張状態を形成し始めた食堂の一角に、じわじわと視線が集まる。特に騎士科の人間の目が多いのは、アレッタの放つ気配に敏いせいだろう。彼らは留学生と思しき女生徒がベルクハイツの婚約者に粉をかけている光景を二度見して、マジかよと、その女生徒の正気を疑った。
女同士の諍いに男がしゃしゃり出るものではないと言い訳をして、騎士科の男子生徒達は見て見ぬふりをする。女生徒達は本人が決着をつけるべきと目を逸らした。
大丈夫だ、万が一、手が出るとしても頬を張る程度になるだろう。――留学生の頬骨が砕ける可能性はあるが……
巻き込まれまいと生徒達がじりじりと後退していく中、フリオはさっさと朝食を食べ終えて席を立った。
「フリオ様、あの……」
「失礼、食べ終わりましたので、この辺で――アレッタ」
彼に呼ばれ、まだ朝食を完食していなかったアレッタも、席を立つ。
「行くぞ、アレッタ」
「ええ、フリオ」
フリオに手を差し出され、エスコートされながら彼女は食堂を出た。後には、緊張状態から解放されて弛緩した空気と、アレッタの背を困惑と嫉妬を混ぜた目で見つめるリゼットが残される。
「何、あのモブ……」
そんな彼女の不満げな呟きは食堂の騒めきの中に掻き消され、誰かの耳に届くことはない。
食堂は緊張状態から解放されたものの、その原因の一人は未だに食堂に残っている。興味と警戒を含んだ視線がリゼットに集まっていた。
しかし、周囲の目を気にしていないのか、それとも気づいてすらいないのか、彼女はただひたすら己の欲望を胸にたぎらせる。
「どうにかヒロインを出し抜けたんだもの。必ずフリオを攻略してみせるんだから……!」
その表情は、ほんの少し前までこの学園にいた少女や、カルメ公国の学園に今も居座る少女によく似ていた。
***
食堂での一件から一週間。
その噂は、静かに、けれど恐ろしい速さで広まり、リゼットは孤立していた。
別にいじめられているわけではないのだが、全生徒に見えない壁を作られ、深い関わりを持つことを拒否されているのである。
これは、彼女が粉をかけた相手がベルクハイツの婚約者であったことも大きいのだが、その後の行動が悪かったせいだ。
それは、ある親切な令嬢の忠告から始まった。
「あの、リゼット様。ブランドン先輩に対して、少し距離が近く感じました。我が国では少々感心しない態度です。ブランドン先輩には婚約者がいらっしゃいますので、もう少し遠慮されたほうがいいかと思います」
それは、令嬢の優しさから出た言葉だ。知らずにフリオに粉をかけ、ベルクハイツに睨まれたら可哀想だと心配したのだ。
そうして、お国が違うから仕方ないかもしれないけど、もう少し距離を置きましょうね、と割とやんわりと注意した。それに対するリゼットの返しが眉を顰めるものだったのだ。
「え? 婚約者? 何それ、設定と違うじゃない!」
言っている意味が分からず、令嬢は困惑する。彼女が首を傾げているのにも構わず、リゼットはブツブツと呟く。
「もしかして、設定がくるってる? なんで――そうよ、そうだわ。あのヒロインもそうだったんだもの、私以外にも転生者がいるのかもしれない……!」
内容は聞き取れないものの、リゼットのその姿は不気味だ。令嬢は少し引き気味にそれを見ていたが、それでも勇気を出して言葉を重ねた。
「あの、ブランドン先輩の婚約者であられるアレッタ様のお家は、この国にとって重要なお家でいらっしゃいます。ですので、淑女として適切な距離を――」
「まあ! では、権力でフリオ様と無理やり婚約したのですね!?」
リゼットの言葉に、令嬢はぎょっとして目を丸くする。まさか、自分の言葉でそんな結論に着地するとは思わなかったのだ。
「えっ、ち、違います! ちゃんと両家が合意し、喜びをもって迎えられた正式な婚約です! この婚約にベルクハイツ家が権力を使ったなど、聞いたこともありません!」
令嬢は慌てて否定するが、リゼットは無視して納得したように頷く。
「そう、そうなんだわ。だって、フリオは初恋の人を忘れられない一途なキャラだもの。無理やりでもない限り、婚約者ができるはずないし」
そう言って、再び己の考えに没頭するようにブツブツと呟き出した。
「前作の王太子や他のキャラ達が『ざまぁ』されてるみたいだし、絶対に転生者がいるわね。そこから設定がくるって、彼に婚約者ができたんだわ。そうなると、悪役令嬢が転生者かしら? 一応、彼女を探ったほうが良さそうね。邪魔されたら堪らないもの」
令嬢の言葉は届かず、独り言を言う様子に周囲の生徒も寒気を覚える。一方、令嬢はリゼットに己の言葉を聞く気がないのだと察し、気力がごっそり削られるのを感じた。
この脱力感には覚えがある。先頃までこの学園にいた、男爵令嬢と話している時に感じたのと同種のものだ。あの、何を言っても聞く耳を持たず、忠告をただの嫉妬として片付ける話の通じなさ。それが、目の前にいるリゼットとそっくりだったのだ。
嫌な予感がした令嬢は、リゼットから距離をとり、最後に婚約者がいる男性に近づくのは感心しませんよ、とやんわり告げて、さっさとその場を後にした。
そして、その令嬢の嫌な予感は見事に的中する。
「フリオ様! あの、よろしければ昼食をご一緒に――」
「すみません、約束がありますので」
リゼットが、フリオに付き纏い始めたのだ。
「フリオ様~! 勉強を教え――」
「すみません、科が違いますので分かりかねます」
「フリオ様! 私、フィナンシェを作ってき――」
「ああ、魔物は雑食ですから。誘き出すにはちょうど良さそうですね。騎士科の教諭に渡してみてはいかがですか?」
しかも、明らかに避けられ、最近ではかなり辛辣な対応をされている。それでも近寄っていくのだから、リゼットは随分と図太い神経をお持ちだと生徒達は噂した。
そんなふうに、彼女は一週間で学園中の生徒達から距離を置かれることになる。
普通であれば、お節介な誰かが何度も忠告してくれるのだろうが、生憎この学園は普通の状態ではない。何せ、とある女生徒が、つい最近まで学園の平穏を引っ掻き回したばかりだ。その女生徒を彷彿とさせる人物に、好き好んで近づく人間はいない。
何より、相手が悪かった。よりにもよって、あのベルクハイツの婚約者である。先頃某公爵令嬢とベルクハイツの元婚約者が浮気し、現子爵が王都に乗り込んできたのは記憶に新しい。あの、王都の上空を舞うブラックドラゴンの姿も――
生物の本能が悲鳴を上げるあの存在は、王都中の人間の脳裏に焼き付いて離れない。あんな恐るべき魔物に騎乗できる人間が率いる一族の不興を生徒達は間違っても買いたくないのだ。
これがアレッタに非があるならば、勇気を振り絞る者もいたかもしれないが、今回の件は明らかにリゼットが悪い。周囲が距離を置くのも仕方のないことだ。
そんなリゼットに今でも注意をしてくれるのは、生国を同じくするオルタンスだけだった。
「リゼット、貴女、フリオ・ブランドン様に付き纏っていると噂になっているわよ? あの方には婚約者がいるのだから、淑女として適切な行動を心掛けるべきだわ」
これは、最初に忠告した令嬢と同じく、オルタンスの優しさだ。
令嬢は国が違うからかもしれないがと考えていたが、カルメ公国でも男女の適切な距離はウィンウッド王国と同じである。婚約者がいる男性に必要以上に近づくのは、当然良くないことだ。
リゼットの行動から、彼女の『初恋の人』がフリオだとオルタンスは察したが、婚約者がいるのならば不用意な行動はすべきではないと判断する。そして、不用意に彼女の初恋を応援し、それを広めてしまったことを後悔していた。まさか、リゼットが既に婚約者がいる男性に積極的に絡み、付き纏うとは――そう、自国の学園にいた、オルタンスの婚約者を堕落させた少女と同じような行動をとるなど、夢にも思わなかったのだ。
「もう、オルタンス様までそんなことを言うんですか? 私、フリオ様はもっと自由にしても良いと思うんです。権力で無理やり婚約するだなんて、間違ってます!」
それは、いつかの焼き増しのようなセリフだった。
――オルタンス様、どうか殿下を解放してあげてください! 望まぬ婚姻なんて、間違っています!
そんな言葉が、オルタンスの脳裏を過る。
彼女は思わず顔を歪めた。
リゼットは、あの少女によって婚約者を奪われた、いわば同胞、同じ被害者であったはずだ。しかし今は、どうだ。彼女は、あの少女と同じことを言っているではないか。
「……リゼット、貴女、自分が何を言っているのか分かっているの?」
苦々しい表情でそう問うものの、リゼットは変わらぬ調子で胸を張って言う。
「はい、もちろんです! 私が必ず、あの方を解放してみせます!」
話が通じない。
かつて味わった苛立ちが胸に渦巻く。
あの少女もそうだった。貴族の義務、王太子が公爵家の令嬢と婚約する必要性、全てを丁寧に教えた。しかし、あの少女は、そんなのは言い訳だ、本当は王妃の地位が欲しいだけなのだろうなどと決めつけ、オルタンスを責め立てた。
思い出すだけで、腸が煮え返る思いだ。厳しい王妃教育に、どれだけの忍耐が必要だったと思っているのだろう。
オルタンスは、それを王太子への恋心で乗り切った。その想いを、何故あんな女に否定されなければならないのか。
あの少女に、今のリゼットはそっくりだった。
とりあえず、オルタンスの質問には本当だと答えておいた。
「まあ、なんて凄いのかしら……。飛竜ならまだしも、ドラゴンに騎乗できるだなんて……」
ドラゴンは本来とても気性が荒く、とてもではないが人間の言うことなど聞かない。しかし、ただ一点、言うことを聞かせる方法がある。
「ドラゴンは他の魔物より頭が良いですから。それが厄介な点でもありますが、どちらが上であり、捕食者であるか、徹底的に叩き込めば言うことを聞きます」
「そ、そう……」
ごく普通の令嬢にしか見えないアレッタの弱肉強食発言に、オルタンスは言葉を詰まらせた。
その後、係りの者が昼食の配膳に来たため、話は一時ストップする。配膳が終わると、話題は違うものに移った。
「――カルメ公国からの留学生はもう一人いると聞きましたけど、お知り合いですか?」
マデリーンの問いに、オルタンスはにこやかに答える。
「ええ、もちろん知っていますわ。リゼット・フォルジュ子爵令嬢ね。フォルジュ子爵家はカルメ公国でも有数の資産家で、そこの末娘になるの。なんでも、この国に会いたい人がいるらしくて、留学を決めたんですって」
「まあ。会いたい人?」
「どんな方なんでしょう?」
アレッタとマデリーンは恋の気配を感じ、下品にならない程度に分かりやすく興味を示す。オルタンスはにっこりと微笑んで口を開いた。
「ふふ。――ところで、ウィンウッド王国では最近、数組の婚約者達が婚約を破棄し、それに伴う騒ぎが原因で前王太子殿下と貴族の子息達がその座を追われたと聞きました」
突然の話題転換に、マデリーンとアレッタは戸惑い、顔を見合わせる。その騒動のあおりを受けたのが、まさに自分達だったからだ。
その情報を公爵令嬢であり、現王太子の婚約者候補であるオルタンスが知らないとは思えない。だが、喧嘩を売っているようにも見えず、困惑気味に騒ぎがあったことを肯定すると、オルタンスは一つ頷き、話し出した。
「その騒動は、ある男爵令嬢に入れ込んだ子息達が起こした冤罪による断罪劇だと聞きました。それで、お恥ずかしい話ですが、我がカルメ公国でも似たようなことが起きていますの」
「「えっ」」
ぎょっとする二人に、オルタンスは困ったわ、と言わんばかりに優雅に小首を傾げ、溜息をつく。
「祖国では、王太子殿下を筆頭に数名の高位貴族の令息達がある男爵令嬢に熱をあげてしまっていて、私達の諫言をちっとも聞いていただけませんの。もうついていけないと思いまして、私を含む彼の方達と婚約していた令嬢達は婚約を解消し、留学を決意しました」
そして今に至るのだ、と軽く告白するオルタンスだが、この話ははっきり言って国の恥部だ。何せ、ウィンウッド王国の元王太子の転落に関する顛末はあまりにもお粗末で、笑い話にもならないと国中の貴族達が頭を抱えている。
そんな話をしてしまっていいのか、とアレッタが悩んでいるのに、オルタンスは優雅に微笑んだ。
「お陰で王家の名に傷をつけたと側室腹の兄王子殿下が激怒なさって、それはもう飛ぶ鳥を落とす勢いで王太子殿下を蹴落とさんと動いてらっしゃるのです。面白いのは、彼の方達は特に隠してもいないのに、この情報が王太子殿下の耳に入っていないことですわね」
にこやかなオルタンスに、アレッタもマデリーンもある可能性に気づく。
もしやカルメ公国の国王やその周りは、そもそも、その兄王子に王位を継がせたかったのではないか。そうであるなら、王にとってこの騒動は降って湧いた幸運だ。実際、国の恥部を話したにしては、オルタンスに余裕がありすぎた。
なるほど、カルメ公国の国王はなかなか有能なようだ。そう思いつつも、そこまで徹底的に叩き潰されたら、その王太子は自ら命を絶ちたくなるほど打ちのめされるだろうなとも、アレッタは考える。心なしか、オルタンスの笑顔が少し怖い。
ウィンウッド王国の元王太子であるアランもまた、やらかした王子である。自らの婚約者に偽りの罪を着せ、己の良いように事を運ぼうとして失敗し、その座を追われた。最低野郎であり、国王は見事に子育てを失敗したことになる。それでもアラン元王太子は、自らベルクハイツ領行きを希望する程度には根性があった。
よくぞ言ったとベルクハイツの戦士達はアランの希望に応え、必ずや一人前の戦士にしてやろうと誓ったのだ。まさかアランがベルクハイツ領の力を甘く見ており、自らの力をうぬぼれての志願とは知らぬが故である。そして、それを知るベルクハイツ夫人――悪魔がわざわざ周囲に訂正するはずがない。
アレッタもまた、自国の元王太子の決意に感心し、特訓メニュー作りに参加した。『鬼軍曹による訓練メニュー~ベルクハイツを添えて~』というタイトルの、『地獄への招待状』と密かに呼ばれている渾身のメニューだ。それは、アランの逃亡不可能なデッドオアアライブ生活が決まった瞬間でもある。
自国の廃太子を地獄へ突き落とす計画に善意で一枚噛んだアレッタは、良い為政者を育てるのって大変なんだなあ、と遠い目をした。
そんな彼女を横目に、マデリーンのほうは少し困惑した表情でオルタンスに口を開く。
「そのようなことをおっしゃってもよろしいの? 我が国でも同じような事件が起きたとはいえ、外に広めないほうが良いのでは?」
いくら国の上層部が王太子交代を望んでいるとしても、そういったことは伏せておくべきだ。マデリーンとしては、何を思って彼女がそれを言ったのか、真意を知りたかったらしい。
「大丈夫ですわ。王太子殿下の後ろ盾が厄介なので、再起不能なまでに評判を落としておきたいのです」
にっこり笑って告げられた明け透けな言葉にアレッタは固まり、マデリーンは困ったような顔をする裏でなるほどと納得した。
余裕のある笑みを浮かべるオルタンスに、アレッタは少し不安になる。
おそらくオルタンスは彼女の元婚約者である王太子を嫌っているのだろう。何せ、この学園でも似た事件が起きたのだ。リサに惚れた男達の婚約者は一様にあきれ果て、彼らとバッサリ縁を切っている。その一人であるマデリーンの傍にいたアレッタには、オルタンスの抱く感情は想像しやすい。
しかし、マデリーンとオルタンスでは一つ違うところがある。マデリーンは元婚約者であるシルヴァンを冷たい目で見ることはあっても、必要以上に嬲るような真似はしなかった。一方、オルタンスの場合は、もしかすると可愛さ余って憎さ百倍なのかもしれないが、敵には容赦しないスタンスなのだと分かる。
もし彼女がウィンウッド王国のレオン王太子と結ばれて王太子妃となった時、ベルクハイツと敵対しそうなら、彼女が動く前に叩き潰さねばならない。アレッタは割と物騒な思考でそう考えていた。
ベルクハイツは基本、弱肉強食である。普段は文明人であっても、いざとなれば身分など張りぼてよと叩き潰す脳筋が本性だ。敵対行動を取った日が命日となる。
そんな物騒な決意を、目の前の一見普通の令嬢がしているとは思わないだろう、オルタンスがにこやかに話す。
「それで、話を戻しますけれど、私と一緒に留学してきたリゼットの会いたい人というのは、彼女の初恋の人らしいの」
「まあ!」
「そうなんですか?」
オルタンスのその言葉に、今までの話がリゼットの『会いたい人』に関する前振りだったのだと知った。婚約者に傷つけられたが故に、リゼットは初恋の人に会いたかったのだと印象付けたかったのだろう。決して、不貞ではないのだと。
まあ、その印象付けの言葉がなかなか過激だったが。
「初恋の方って、どんな男性なのかしら?」
「それが、名前は教えてもらえなかったのです。けれど、一途な方なのですって。その方が愛する人には既に婚約者がいて、それでも一途にその方を愛しているのだとか」
「それは……、なかなか難しい方ですね……」
初恋というからには、それなりに昔の話だと思われる。ひょっとすると、リゼットの初恋の人は件の『愛する人』を諦めて、既に他の婚約者、または伴侶を作っているかもしれない。
「そうね。ですが、私は彼女の恋が成就すれば良いと思っているのよ」
そう言って寂しそうに微笑むオルタンス。アレッタは彼女が元婚約者である王太子を愛していたのだと察した。自らの手で愛していたはずの人を叩き潰そうと思うくらいに、愛していたのだと。
***
オルタンスと昼食を共にした翌日。
アレッタはいつも通り朝の鍛錬をすべく鍛錬場へ向かっていた。
既に何人かの騎士候補生がそこにおり、それぞれが汗を流している。
普通、ここを使用するのは騎士科の学生のみだ。しかし、次期領主でもあるアレッタが所属している科は普通科。一学年時は他の生徒と同じ内容を普通科で学び、二学年の時に領主候補生には特別カリキュラムが追加されるのだ。故に、アレッタや歴代のベルクハイツ家当主は、特別に鍛錬場の使用を許されていた。
「アレッタ!」
「あ、おはよう、フリオ」
「ああ、おはよう」
アレッタが準備運動をしていると、フリオがやってきた。
彼が籍を置くのは騎士科ではあるが、普通科のアレッタの勉強をしれっとした顔で教えられるあたり、彼の頭には普通科の、もしくはそれ以上の知識が入っている。しかし、アレッタも二つ年上であり、騎士科所属のフリオの剣の振り方や身のこなしにダメ出しをするのだから、まあ、そういうものなのだろう。
二人は共に鍛錬し、シャワーを浴びるためにその場を後にした。
アレッタがシャワーを浴び、急いで着替えて外に出ると、待っていたフリオが、ニッと笑って手招きする。
「やっぱり生乾きだな。ほら、乾かしてやるから、後ろ向きな」
「うぅ……」
正式に婚約してからというもの、フリオは何かとアレッタを構いたがる。
いや、元から世話焼き気質なのかな、と思わせる構いぶりだったのだが、婚約してからはそれに遠慮がなくなったのだ。
いつだったか、人目を気にしなくて済むようになった、というフリオの呟きを聞いて、アレッタは彼の気遣いらしきものに気づいた。まあ、婚約者のいる女に対し、あの構い方はどうだったんだ、と一瞬脳裏に過ったが、それには気づかないふりをしている。今の婚約者はフリオなので問題ない。
髪を乾かしてもらい、二人で食堂へ向かう。
鍛錬前に牛乳と果物を軽く食べているが、当然それだけではお腹が空く。二人共、鍛錬後にがっつり朝食を食べるのだ。
そうして食堂へ向かう途中、サーモンピンク色の髪をした女生徒が目に入った。
その珍しい髪色に見覚えがないことから、アレッタは、彼女が例の留学生の片割れかな、と見当をつけてフリオに話しかける。
「ねえ、フリオ。もしかして、あの人、留学生の人かな?」
「ん? ああ、そうだぜ。確か、あれは子爵家の令嬢のほうだな」
どうやら、彼は既に情報を仕入れていたらしい。
「確か、『初恋の人』とやらに会いに来たんだろ?」
「えっ、フリオ、どうして知ってるの?」
オルタンスから聞いた情報を出され驚くアレッタに、フリオは呆れたように肩を竦めて告げる。
「食堂なんかで話すほうが悪い。あんな場所で話されたら、広められても仕方がないぜ?」
そして、フリーの令嬢にとって広められても困る内容ではないかもしれないが、と付け足した。
「まあ、オルタンス嬢としては広めるのが目的かもな。噂の内容としては、初恋が叶えば素敵だね、と概ね好意的だったぞ。相手によっては、周りが手助けしてくれる可能性があるしな」
その手のことが好きな令嬢もいるからな、と彼は言い、食堂の席に着く。すぐさま給仕が来て、盛り付けられた朝食が提供された。今日の朝食はスクランブルエッグとベーコン、トマトサラダ、コンソメスープに、マッシュポテトと白パンである。
そうして朝食をとっていると、フリオに一人の令嬢が近寄ってきた。
「あの、こちらの席、よろしいでしょうか?」
おずおずとそう尋ねたのは、先程のサーモンピンクの髪色をした留学生だ。
噂の人物がちょうど目の前に現れたことに少し驚きつつも、アレッタはフリオと目配せし合い、どうぞ、と席を勧めた。
アレッタ達が座る席は長方形の長机であり、彼女はフリオと向き合って座っている。隣に見知らぬ誰かが座るのは普通だが、令嬢が一人で男子生徒の隣に座ろうとするのは珍しかった。
国の違いなのだろうかと思いつつも、それは違うと心の奥底で否定の声が上がる。そして、女の勘が囁いた――
「――あのう、失礼ですが、フリオ・ブランドン様でいらっしゃいますか?」
「そうだが……」
――この女、フリオ狙いである、と。
口元に浮かべた微笑みはそのままに、アレッタは目をすっと細める。それを見たフリオは、婚約者が戦闘モードに移行したことに気づき、内心慌てた。嫉妬と取れる反応は嬉しいが、その先に起きるのは、ドラゴンの宝を目の前で奪った人間の末路と同じ惨劇である。死にはしなくとも、恐ろしい事態になるのは、傾国と謳われるオリアナを娶った現ベルクハイツ子爵が証明している。これは血筋なのだ。
この留学生の顔を変形させるわけにはいかない。フリオはさっさと朝食をすませてこの場を去るのが賢明だと判断し、食事のスピードを上げた。
「あの、私、今学期からこちらの学園で学ぶことになりましたカルメ公国のリゼット・フォルジュと申します」
「……そうですか」
「フリオ様は三年生なのですよね? 私は二年生なんですけど、気をつけたほうが良いカリキュラムとかありますか?」
「……さあ? 私は騎士科ですので、お答えしかねます」
リゼットの質問には答えるが、フリオの纏う空気は明らかに迷惑だと告げている。それなのに、そんな彼の態度にもめげず、果敢にリゼットは話しかけていた。――フリオの対面の席で、じわじわと殺気に似た気配を放ち始めたアレッタには、気づいていない。
ある種の緊張状態を形成し始めた食堂の一角に、じわじわと視線が集まる。特に騎士科の人間の目が多いのは、アレッタの放つ気配に敏いせいだろう。彼らは留学生と思しき女生徒がベルクハイツの婚約者に粉をかけている光景を二度見して、マジかよと、その女生徒の正気を疑った。
女同士の諍いに男がしゃしゃり出るものではないと言い訳をして、騎士科の男子生徒達は見て見ぬふりをする。女生徒達は本人が決着をつけるべきと目を逸らした。
大丈夫だ、万が一、手が出るとしても頬を張る程度になるだろう。――留学生の頬骨が砕ける可能性はあるが……
巻き込まれまいと生徒達がじりじりと後退していく中、フリオはさっさと朝食を食べ終えて席を立った。
「フリオ様、あの……」
「失礼、食べ終わりましたので、この辺で――アレッタ」
彼に呼ばれ、まだ朝食を完食していなかったアレッタも、席を立つ。
「行くぞ、アレッタ」
「ええ、フリオ」
フリオに手を差し出され、エスコートされながら彼女は食堂を出た。後には、緊張状態から解放されて弛緩した空気と、アレッタの背を困惑と嫉妬を混ぜた目で見つめるリゼットが残される。
「何、あのモブ……」
そんな彼女の不満げな呟きは食堂の騒めきの中に掻き消され、誰かの耳に届くことはない。
食堂は緊張状態から解放されたものの、その原因の一人は未だに食堂に残っている。興味と警戒を含んだ視線がリゼットに集まっていた。
しかし、周囲の目を気にしていないのか、それとも気づいてすらいないのか、彼女はただひたすら己の欲望を胸にたぎらせる。
「どうにかヒロインを出し抜けたんだもの。必ずフリオを攻略してみせるんだから……!」
その表情は、ほんの少し前までこの学園にいた少女や、カルメ公国の学園に今も居座る少女によく似ていた。
***
食堂での一件から一週間。
その噂は、静かに、けれど恐ろしい速さで広まり、リゼットは孤立していた。
別にいじめられているわけではないのだが、全生徒に見えない壁を作られ、深い関わりを持つことを拒否されているのである。
これは、彼女が粉をかけた相手がベルクハイツの婚約者であったことも大きいのだが、その後の行動が悪かったせいだ。
それは、ある親切な令嬢の忠告から始まった。
「あの、リゼット様。ブランドン先輩に対して、少し距離が近く感じました。我が国では少々感心しない態度です。ブランドン先輩には婚約者がいらっしゃいますので、もう少し遠慮されたほうがいいかと思います」
それは、令嬢の優しさから出た言葉だ。知らずにフリオに粉をかけ、ベルクハイツに睨まれたら可哀想だと心配したのだ。
そうして、お国が違うから仕方ないかもしれないけど、もう少し距離を置きましょうね、と割とやんわりと注意した。それに対するリゼットの返しが眉を顰めるものだったのだ。
「え? 婚約者? 何それ、設定と違うじゃない!」
言っている意味が分からず、令嬢は困惑する。彼女が首を傾げているのにも構わず、リゼットはブツブツと呟く。
「もしかして、設定がくるってる? なんで――そうよ、そうだわ。あのヒロインもそうだったんだもの、私以外にも転生者がいるのかもしれない……!」
内容は聞き取れないものの、リゼットのその姿は不気味だ。令嬢は少し引き気味にそれを見ていたが、それでも勇気を出して言葉を重ねた。
「あの、ブランドン先輩の婚約者であられるアレッタ様のお家は、この国にとって重要なお家でいらっしゃいます。ですので、淑女として適切な距離を――」
「まあ! では、権力でフリオ様と無理やり婚約したのですね!?」
リゼットの言葉に、令嬢はぎょっとして目を丸くする。まさか、自分の言葉でそんな結論に着地するとは思わなかったのだ。
「えっ、ち、違います! ちゃんと両家が合意し、喜びをもって迎えられた正式な婚約です! この婚約にベルクハイツ家が権力を使ったなど、聞いたこともありません!」
令嬢は慌てて否定するが、リゼットは無視して納得したように頷く。
「そう、そうなんだわ。だって、フリオは初恋の人を忘れられない一途なキャラだもの。無理やりでもない限り、婚約者ができるはずないし」
そう言って、再び己の考えに没頭するようにブツブツと呟き出した。
「前作の王太子や他のキャラ達が『ざまぁ』されてるみたいだし、絶対に転生者がいるわね。そこから設定がくるって、彼に婚約者ができたんだわ。そうなると、悪役令嬢が転生者かしら? 一応、彼女を探ったほうが良さそうね。邪魔されたら堪らないもの」
令嬢の言葉は届かず、独り言を言う様子に周囲の生徒も寒気を覚える。一方、令嬢はリゼットに己の言葉を聞く気がないのだと察し、気力がごっそり削られるのを感じた。
この脱力感には覚えがある。先頃までこの学園にいた、男爵令嬢と話している時に感じたのと同種のものだ。あの、何を言っても聞く耳を持たず、忠告をただの嫉妬として片付ける話の通じなさ。それが、目の前にいるリゼットとそっくりだったのだ。
嫌な予感がした令嬢は、リゼットから距離をとり、最後に婚約者がいる男性に近づくのは感心しませんよ、とやんわり告げて、さっさとその場を後にした。
そして、その令嬢の嫌な予感は見事に的中する。
「フリオ様! あの、よろしければ昼食をご一緒に――」
「すみません、約束がありますので」
リゼットが、フリオに付き纏い始めたのだ。
「フリオ様~! 勉強を教え――」
「すみません、科が違いますので分かりかねます」
「フリオ様! 私、フィナンシェを作ってき――」
「ああ、魔物は雑食ですから。誘き出すにはちょうど良さそうですね。騎士科の教諭に渡してみてはいかがですか?」
しかも、明らかに避けられ、最近ではかなり辛辣な対応をされている。それでも近寄っていくのだから、リゼットは随分と図太い神経をお持ちだと生徒達は噂した。
そんなふうに、彼女は一週間で学園中の生徒達から距離を置かれることになる。
普通であれば、お節介な誰かが何度も忠告してくれるのだろうが、生憎この学園は普通の状態ではない。何せ、とある女生徒が、つい最近まで学園の平穏を引っ掻き回したばかりだ。その女生徒を彷彿とさせる人物に、好き好んで近づく人間はいない。
何より、相手が悪かった。よりにもよって、あのベルクハイツの婚約者である。先頃某公爵令嬢とベルクハイツの元婚約者が浮気し、現子爵が王都に乗り込んできたのは記憶に新しい。あの、王都の上空を舞うブラックドラゴンの姿も――
生物の本能が悲鳴を上げるあの存在は、王都中の人間の脳裏に焼き付いて離れない。あんな恐るべき魔物に騎乗できる人間が率いる一族の不興を生徒達は間違っても買いたくないのだ。
これがアレッタに非があるならば、勇気を振り絞る者もいたかもしれないが、今回の件は明らかにリゼットが悪い。周囲が距離を置くのも仕方のないことだ。
そんなリゼットに今でも注意をしてくれるのは、生国を同じくするオルタンスだけだった。
「リゼット、貴女、フリオ・ブランドン様に付き纏っていると噂になっているわよ? あの方には婚約者がいるのだから、淑女として適切な行動を心掛けるべきだわ」
これは、最初に忠告した令嬢と同じく、オルタンスの優しさだ。
令嬢は国が違うからかもしれないがと考えていたが、カルメ公国でも男女の適切な距離はウィンウッド王国と同じである。婚約者がいる男性に必要以上に近づくのは、当然良くないことだ。
リゼットの行動から、彼女の『初恋の人』がフリオだとオルタンスは察したが、婚約者がいるのならば不用意な行動はすべきではないと判断する。そして、不用意に彼女の初恋を応援し、それを広めてしまったことを後悔していた。まさか、リゼットが既に婚約者がいる男性に積極的に絡み、付き纏うとは――そう、自国の学園にいた、オルタンスの婚約者を堕落させた少女と同じような行動をとるなど、夢にも思わなかったのだ。
「もう、オルタンス様までそんなことを言うんですか? 私、フリオ様はもっと自由にしても良いと思うんです。権力で無理やり婚約するだなんて、間違ってます!」
それは、いつかの焼き増しのようなセリフだった。
――オルタンス様、どうか殿下を解放してあげてください! 望まぬ婚姻なんて、間違っています!
そんな言葉が、オルタンスの脳裏を過る。
彼女は思わず顔を歪めた。
リゼットは、あの少女によって婚約者を奪われた、いわば同胞、同じ被害者であったはずだ。しかし今は、どうだ。彼女は、あの少女と同じことを言っているではないか。
「……リゼット、貴女、自分が何を言っているのか分かっているの?」
苦々しい表情でそう問うものの、リゼットは変わらぬ調子で胸を張って言う。
「はい、もちろんです! 私が必ず、あの方を解放してみせます!」
話が通じない。
かつて味わった苛立ちが胸に渦巻く。
あの少女もそうだった。貴族の義務、王太子が公爵家の令嬢と婚約する必要性、全てを丁寧に教えた。しかし、あの少女は、そんなのは言い訳だ、本当は王妃の地位が欲しいだけなのだろうなどと決めつけ、オルタンスを責め立てた。
思い出すだけで、腸が煮え返る思いだ。厳しい王妃教育に、どれだけの忍耐が必要だったと思っているのだろう。
オルタンスは、それを王太子への恋心で乗り切った。その想いを、何故あんな女に否定されなければならないのか。
あの少女に、今のリゼットはそっくりだった。
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