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君とのキスは涙味。
その日は休み明けのテストに備えて確認したい資料があり、大学の図書館に足を運んだ。
講義終わりの放課後、利用者の少ない時間帯。数多の本と静寂に包まれたそこで雪弥は固まった。
視線の先は僅かな読書スペース。
見覚えのありすぎる横顔に、雪弥は反射的に本棚の陰に隠れた。
頭の中では、どうして彼が此処にと疑問符を浮かべる一方で勉学に本腰を入れた報告を思い出す。
どうやら嘘ではなかったらしい。隙間からそろりと窺った夏史は何やらPCのキーボードを叩いており、雪弥の来訪には気が付いていない様子だった。
その事実にほっと胸を撫で下ろし、見つからない内に早く出ようと目的の本棚を目指し五分ほど経過したその時――。
ドタン。
夏史のいた方向から何か大きなモノが落ちるような鈍い音がした。
驚き振り返れば、他の利用者らしき女性が血相を変えて駆け寄ろうとしているところだった。もしやと思い、雪弥も彼女の後に続く。するとやはり発生源は夏史のいたところで、“それ”を目撃した瞬間、雪弥は目を見開いた。
そこには先程の女性により介抱されようとしている倒れた夏史の姿。
彼に触れる嫋やかな白い指。
雪弥の胸がどうしようもなくざわつき、彼女に対して本来抱くべきでない感情が心を蝕む。
「やだ、すごい熱! どうしようどうしよう、誰か……すみません、手を貸してくださいっ!」
「はっ、はいっ!」
その鬼気迫る形相に、彼女に対して膨らみ始めていた敵対心が針を刺した風船のように萎れていく。
そして彼女と二人、力を合わせて夏史を起こし、椅子に座らせる。
夏史はされるがままで、触れた体は熱く、吐く息もやや浅く苦しげだ。
頭は打っていないか女に尋ねたところ、熱に浮かされた夏史の目が雪弥を捉える。
「ゆき……?」
「え。貴方、彼の知り合いなの!?」
「あー……一応」
「そうなんだ。じゃあ、私ちょっと先生呼んでくるからその人見ててもらっていい?」
「え」
「いらねぇ」
踵を返そうとした彼女を制し、夏史はあろう事か雪弥の腰に抱きついた。
「ゆき」
「ちょっ、離してください」
「いやだ」
普段の彼からは考えられないような駄々っ子ぶりを発揮し、ぎゅうぎゅうと顔を埋めた。
大分と熱にあてられているようだ。雪弥が引き剥がそうとすればするほど彼は腕の力を強め、頭が痛いと弱々しく訴える。
「それなら病院に行ってください」
「ゆきがいっしょならいく」
「絶対嫌です」
「じゃあいかない」
「はぁっ!?」
「あの……」
二人の関係を察したらしい女性は困ったように口を挟み、それを直視した、否、いつの間にか方々から突き刺さる視線の矢に雪弥の顔が蟹のように赤く茹だる。
「すみません。後は僕がなんとかします。皆さん、お騒がせしました! ほら、須天先輩立って!」
「なつふみ。まえみたいに、なつふみってよんで。そしたらたつ」
「~~っ! 夏史先輩。はい、これでいいですね。帰りますよ」
「ん。かえる」
半ばヤケクソで叫ぶ雪弥とは対象的に、夏史は屈託なく微笑んだ。
心臓がどくりと跳ねる。
「っ、……ハァ」
「ゆき?」
「今タクシー呼びます。それで校門まで送りますから大人しく帰るか病院行ってください」
「いやだ。びょういんもいえもだれもいない。だれもおれをしんぱいしてくれない」
「っ、」
あの義母の顔が脳裏を掠める。
「後藤先輩がいるじゃないですか」
「あいつは……おれにおんがあるだけ」
「恩?」
それだけ言うと、夏史は辛そうに眉を寄せた。
「ゆき、おれ、よこになりたい」
「ちょっ!? そこで寝ようとしないで!……あぁもう、送ります送ればいいんでしょ!」
*・*・*
結局また此処に来てしまった。
柑橘の匂い漂う最上階マンション。
須天の表札を掲げたその中で、雪弥は一人、項垂れた。
現在地は薄暗い寝室。部屋の中心に男二人寝ても余裕のある寝台が鎮座しており、その上に家主が載っている。
気が緩んだ所為か、それとも悪化したのか。唇から苦しげな呼吸音を奏でつつ、額にはうっすら汗をかいていた。
雪弥は手元の体温計を見やる。
表示された数字は38.5℃。
結構な高熱だ。
「須天先輩。やっぱり病院に行った方が……」
「ただのかぜだからいい」
「いや、風邪じゃなかったらどうするんですか」
「寝てれば、治る」
「あぁ、もう!」
勢いよく立ち上がった雪弥はリビングに置いた自分のエコバッグから赤い小箱を取り出す。
帰宅途中、立ち寄ったドラッグストアにて購入した解熱鎮痛剤だ。それと冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を持って夏史に突き出した。
「薬と水です。これ飲んで熱が下がらないようなら病院に行ってください」
「……ん」
錠剤を飲み下した夏史が、ありがとうと口にする。その、熱に浮かされながらも心底愛しい者を見る眼差しに、雪弥は外方を向いた。
心臓が煩くて仕方ない。
「っ、じゃあ僕はもう帰りますから」
「ゆき」
「……なんで掴むんですか」
「そばにいて」
「嫌です」
断りを入れた途端、夏史の美しい顔が悲しみに染まる。
きっと弱って心細くなったのだろう。
はらはらと泣き出した姿に謎の後ろめたさを感じつつ、雪弥は首を振った。
騙されたらいけない。この人は僕に酷いことをした相手だ。
「あの日の言葉。忘れたんですか?」
「……わすれてない。でも今だけ」
「今の須天先輩は熱で情緒不安定になってるだけです。甘えないでください。貴方が甘える相手はご家族です。お母様は無理でもお父様はいらっしゃいますよね。僕、連絡しますから番号か、スマホ貸してもらえますか」
夏史の目が揺れる。
「いい」
「……そうですか」
「した所でアイツは来ない」
「え」
「ガキの頃から。あの女に遠慮して俺のとこに来たことなんてねぇ。いつも秘書だけだ」
「そんな……っ」
「アイツから渡されるのはいつも謝罪のメッセージと金の二つだけ」
「――――っ。すみません、お手洗いお借りします!」
いたたまれなくなった雪弥は、その場から逃げた。リビングと寝室を繋ぐドアを背にして顔を覆う。
「なんで」
大企業須天グループの子息。
出生ガチャ勝ち組で、いつも人に囲まれて、何不自由なく暮らしているのだと思ってた。
――けど違ってた。
「いや同情しちゃ駄目だ」
心を強く持って前を向いたその時、突然ソファーに積まれていた本の小山が雪崩を起こした。仕方なく拾いに行くと、その本の題名に雪弥は驚く。
それはいずれも夏史の専攻とは関連のない、寧ろ全て雪弥の専攻ジャンルだったからだ。
どうしてそんなものが此処に?
そう思いながら一冊を捲れば、雪弥の目が更なる驚愕に襲われた。
どの頁も相当量の書き込みがなされ、極めつけに挟まっていた秀頼から贈られた過去問と同じコピー用紙と、そこにあった助言と筆跡が雪弥の物と全て一致していた。
「な、んでこれが!?」
全身から血の気が引く。
震える指で口元を覆い、雪弥はもう片方の手で自身の携帯を開くと、ある男へ向けてメッセージを書き込んだ。
『正直に答えろ』
『僕に渡した過去問は須天先輩から貰った物?』
既読がついたのはその一分後。
返信は三分後だった。
『違う。俺は元々過去問だけ渡す予定だったけど、夏史が自分も噛ませろって無理矢理』
舌打ちしたい気持ちを抑え、何故言わなかったか問い質すと、秀頼は訊かれなかったからと解答する。
どこの刑事ドラマだ。
次は過去問だけにしろとだけ打ち込み、雪弥は携帯を閉じた。
狐につままれた、いや騙し討ちに見事引っ掛かった馬鹿の気分だ。
肺腑の中の空気を全て出し切るように吐いた後、取り出した自分の過去問を破り捨てようとするが、どうしてもそれが出来ない。
「……自分のテスト勉強もあるのに何してるんだよ」
両方の筆跡をなぞり、呟く。
腹立たしくて、悲しくて、苦しくて――少しだけ、嬉しい。
「ゆき」
「っ、ちょっ、なに起き上がってるんですか」
ふらつきながら歩く夏史に慌てて近寄れば、ちょうど力尽きたのか、彼が半ば倒れ込むように雪弥を抱きしめる。
「っ、病人なんですから大人しくベッドに戻ってください」
「ゆき」
「……はい」
「俺、頑張ってるよ」
「……そうですか」
「ゆきにゆるしてもらいたいから」
「……はい」
顔を上げた夏史が雪弥を見た。
「ゆき、すきだ」
「僕は……」
彼の唇と雪弥のそれが重なる。
啄むように合わさり、また角度を変えて重なった。
「ん……んぅ……ぁ」
久しぶりのキスは涙の味がした。
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