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Episode.02
覚えていること、いないこと
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永浜准教授の診断結果、鷹也はその日のうちに帰宅を許された。裕二とともに、明日は大学を休み、3日後に再診を受けてから通学を再開する、という条件で。
裕二たちは、車で信彦と美耶を順に送ってから、マンションへ帰ってきた。
時刻はまだ、18時を過ぎた頃。広いリビングの窓からは、夕焼けに染まり始めた富士山のシルエットが、遠くに見える。
ぼんやりと外を眺める鷹也に、裕二が冷たいジャスミン茶を手渡した。
「これ飲んだら、先に風呂に入っておいで
その間に、夕飯準備するから」
病室を出てからずっと、黙ったままだった鷹也が、小さく頷く。
脱衣所で全裸になり、鷹也は鏡に映った自分の姿が目に入った。
下腹、ヘソの下、左上から右下にかけて、10センチほどの大きな縫い傷がある。だが、この傷が、いつどこで、どういった経緯でついたものなのか、全く覚えていない。
痛みもなく、痕だけが残るこの傷は、きっと、今日の出来事に関連しているはずだ。鷹也はそう思った。
風呂から上がり、着替えはしたものの、相変わらずぼんやりとしている鷹也に、裕二が声をかけた。
「うどん、食べるかい?」
裕二に、鷹也が首を横に振る。
代わりに、と手渡されたハニーホットミルクを1口飲んだだけで、鷹也はそのマグカップを裕二に返した。
「……ごめんなさい、先に休みます」
つまずくことを心配した裕二が、鷹也に付き添って階段を上る。
部屋に着くと、倒れこむように、鷹也はベッドに、仰向けに転がった。
「このままゆっくり、気が済むまで寝てな」
鷹也に肩まで布団をかけてから、ベッドから離れようとする裕二の、左手を掴んで引き止める。
ためらって、少し、考えてから、鷹也が小さな声で言った。
「……少し、話を …聞いて、もらえますか?」
鷹也の濡れたままの髪をかきあげ、頬に触れながら、裕二がベッドの横に座った。
「あの人たちのこと、覚えていないのは、本当です」
そういって、鷹也はゆっくりと話し始めた。
鷹也の一番古い記憶、それは、15歳の冬。
当時の鷹也は、北海道の十勝平野の小さな町の外れで、母方祖父母と暮らしていた。両親は離れて札幌に住み、共働きをしている。
その日は、珍しく朝から晴れて、逆に厳しく冷え込んでいた。とはいっても、断熱施工のしっかりした家なので、屋内で凍えることはないのだが。
昼過ぎになって、急に祖父母が慌ただしく何かを準備時始めた。ぼんやりと、鷹也が居間でその様子を眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。
待っていました、と祖母が出迎える。
平日だというのに、両親が何かを手に、満面の笑顔で鷹也に駆け寄って来た。
父が、大きな厚紙を広げ、鷹也に見せる。
「ほら、卒業証書、もらえたぞ」
証書には、三ツ橋鷹也、の名前があった。
「お祝いよ、お祝い」
父に続き、母が涙目で、鷹也を強く抱きしめる。
祖父母の元に来て、一度も通わなかった中学校と初めて見る校長の名前。それでも、これで義務教育が終わったという、妙な開放感に包まれた。
「画数の多い名前だね」
証書に書かれた自分の名前を見る鷹也の目に、大粒の涙が溢れてくる。
「オレが考えたんだ、大切に名乗れよ」
祖父が、母親ごと鷹也を抱きしめ、涙声で言った。
母方の祖父の養子になって、この名前、三ツ橋鷹也になった、ということだけは、わかっていた。両親は、結婚当初は父方の名前だったが、一度離婚し、再婚して母方の苗字になったことも、知っている。だが、それまでの苗字も自分の名前も、なぜか、鷹也は覚えていない。もちろん、祖父の養子になって北海道に引っ越すまでの、それまで暮らしていた場所も、そこでの友人たちも同級生たちも、記憶にない。
「中学を卒業してから、1年くらいかな
祖父を手伝って、一緒にいろんなところへ行った
それから、祖父のような畜産獣医になりたくなって、
大検を取って、進学したんだ」
それから、と、布団と服をめくり、鷹也は自分の下腹部の傷を裕二に見せた。
「ボクは、どうしてこの傷があるのか、覚えてない
たぶん、両親は、家族は、傷と、祖父の家に住むことになった経緯を知っていると思う
でも、怖くて聞けない」
言葉とは真逆の、抑揚のない声。その鷹也を、裕二はそっと抱きしめた。
「この大学を進学先に選んだのは、主治医の先生がいたからなんです
今日、診てくれた永浜先生」
祖父と暮らしていた時は、数ヶ月に一度、札幌まで出かけ、大学病院で定期診断を受けていた。診察は、出張してきたバース性医療専門の永浜准教授だった、と。
「……先輩は、
ボクのこと、いつから気づいてましたか?」
「それは
……明日、落ち着いたら、ゆっくり話そう」
裕二はそう言ってから鷹也を寝かしつけ、そっと部屋を出て行った。
裕二がリビングに戻ると、投げ置かれた自分のスマートフォンに、メッセージの着信が数件、あったことに気がついた。
相手は全て、上杉晃。
『例の兄弟が連絡を取りたがっている』
短いメッセージの下に、翔と瞬のアプリアドレスが添付されていた。
裕二たちは、車で信彦と美耶を順に送ってから、マンションへ帰ってきた。
時刻はまだ、18時を過ぎた頃。広いリビングの窓からは、夕焼けに染まり始めた富士山のシルエットが、遠くに見える。
ぼんやりと外を眺める鷹也に、裕二が冷たいジャスミン茶を手渡した。
「これ飲んだら、先に風呂に入っておいで
その間に、夕飯準備するから」
病室を出てからずっと、黙ったままだった鷹也が、小さく頷く。
脱衣所で全裸になり、鷹也は鏡に映った自分の姿が目に入った。
下腹、ヘソの下、左上から右下にかけて、10センチほどの大きな縫い傷がある。だが、この傷が、いつどこで、どういった経緯でついたものなのか、全く覚えていない。
痛みもなく、痕だけが残るこの傷は、きっと、今日の出来事に関連しているはずだ。鷹也はそう思った。
風呂から上がり、着替えはしたものの、相変わらずぼんやりとしている鷹也に、裕二が声をかけた。
「うどん、食べるかい?」
裕二に、鷹也が首を横に振る。
代わりに、と手渡されたハニーホットミルクを1口飲んだだけで、鷹也はそのマグカップを裕二に返した。
「……ごめんなさい、先に休みます」
つまずくことを心配した裕二が、鷹也に付き添って階段を上る。
部屋に着くと、倒れこむように、鷹也はベッドに、仰向けに転がった。
「このままゆっくり、気が済むまで寝てな」
鷹也に肩まで布団をかけてから、ベッドから離れようとする裕二の、左手を掴んで引き止める。
ためらって、少し、考えてから、鷹也が小さな声で言った。
「……少し、話を …聞いて、もらえますか?」
鷹也の濡れたままの髪をかきあげ、頬に触れながら、裕二がベッドの横に座った。
「あの人たちのこと、覚えていないのは、本当です」
そういって、鷹也はゆっくりと話し始めた。
鷹也の一番古い記憶、それは、15歳の冬。
当時の鷹也は、北海道の十勝平野の小さな町の外れで、母方祖父母と暮らしていた。両親は離れて札幌に住み、共働きをしている。
その日は、珍しく朝から晴れて、逆に厳しく冷え込んでいた。とはいっても、断熱施工のしっかりした家なので、屋内で凍えることはないのだが。
昼過ぎになって、急に祖父母が慌ただしく何かを準備時始めた。ぼんやりと、鷹也が居間でその様子を眺めていると、玄関のチャイムが鳴った。
待っていました、と祖母が出迎える。
平日だというのに、両親が何かを手に、満面の笑顔で鷹也に駆け寄って来た。
父が、大きな厚紙を広げ、鷹也に見せる。
「ほら、卒業証書、もらえたぞ」
証書には、三ツ橋鷹也、の名前があった。
「お祝いよ、お祝い」
父に続き、母が涙目で、鷹也を強く抱きしめる。
祖父母の元に来て、一度も通わなかった中学校と初めて見る校長の名前。それでも、これで義務教育が終わったという、妙な開放感に包まれた。
「画数の多い名前だね」
証書に書かれた自分の名前を見る鷹也の目に、大粒の涙が溢れてくる。
「オレが考えたんだ、大切に名乗れよ」
祖父が、母親ごと鷹也を抱きしめ、涙声で言った。
母方の祖父の養子になって、この名前、三ツ橋鷹也になった、ということだけは、わかっていた。両親は、結婚当初は父方の名前だったが、一度離婚し、再婚して母方の苗字になったことも、知っている。だが、それまでの苗字も自分の名前も、なぜか、鷹也は覚えていない。もちろん、祖父の養子になって北海道に引っ越すまでの、それまで暮らしていた場所も、そこでの友人たちも同級生たちも、記憶にない。
「中学を卒業してから、1年くらいかな
祖父を手伝って、一緒にいろんなところへ行った
それから、祖父のような畜産獣医になりたくなって、
大検を取って、進学したんだ」
それから、と、布団と服をめくり、鷹也は自分の下腹部の傷を裕二に見せた。
「ボクは、どうしてこの傷があるのか、覚えてない
たぶん、両親は、家族は、傷と、祖父の家に住むことになった経緯を知っていると思う
でも、怖くて聞けない」
言葉とは真逆の、抑揚のない声。その鷹也を、裕二はそっと抱きしめた。
「この大学を進学先に選んだのは、主治医の先生がいたからなんです
今日、診てくれた永浜先生」
祖父と暮らしていた時は、数ヶ月に一度、札幌まで出かけ、大学病院で定期診断を受けていた。診察は、出張してきたバース性医療専門の永浜准教授だった、と。
「……先輩は、
ボクのこと、いつから気づいてましたか?」
「それは
……明日、落ち着いたら、ゆっくり話そう」
裕二はそう言ってから鷹也を寝かしつけ、そっと部屋を出て行った。
裕二がリビングに戻ると、投げ置かれた自分のスマートフォンに、メッセージの着信が数件、あったことに気がついた。
相手は全て、上杉晃。
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短いメッセージの下に、翔と瞬のアプリアドレスが添付されていた。
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