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第一章
12・極限状態
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帰宅するなり私はすぐさまスーツを脱ぎ捨て、フリルミニスカートとオフショルダーのトップスに着替えた。
急いで部屋中を掃除し、ベッドルームを整える。休む間もなく夕飯作りに取り掛かった。
以前、タクトは私が作った肉じゃがをおいしいと絶賛してくれた。今日のメインはそれにしよう。トマトサラダも作って味噌汁も作って。あとはビールも冷やしておかなきゃ。
肉じゃがを煮込んでいる間、部屋の状態に不備がないか何度も確認した。室内に夕食の香りが充満した頃。
玄関の扉が開く音がした。
タクトだ。
手を止め、急いで玄関まで出迎えに行く。
「おかえり、タクト。お疲れさ──」
労いの言葉を言い切る前に、グイッと腕を引き寄せられた。
タクトは無言で私の体を締めつけてくる。その手は、酷く震えていて。
タクトは今日の出来事をすでに知っているだろう。
ベル・フルールがレガーロ社との契約を打ち切ったこと。一方的に、しかも営業担当であるタクトがいない場で起きた話。
タクトは事実を受け入れられず、混乱しているはずだ。
レガーロ社と契約を打ち切るなんて話、私も戸惑ってる。神楽オーナーは前からそのつもりだったらしいけれど、私はなんにも知らなかったの。商品にアルコールやパラベンが含まれているなんてことも今日初めて知った。
だから、止めることができなかった。
だから、だから。
頭の中で「言い訳」を整理する。
でも、タクトは全く関係のないひとことを言い放った。
「変だな。煙草の匂いがするね」
え……煙草?
今、そんなことが気になるの……?
「ほら。髪の毛に煙草の匂いがついているよ。アスカは今日、誰かと一緒にいたんだよね?」
「それは」
今朝、私はタクトに嘘をついてしまった。
でも、誤魔化すのだけはダメ。きっと悪いことが起こるから。正直に、謝るしかない。
私は震えた唇を動かした。
「実は今日、休日出勤になって……。神楽オーナーと一緒にレガーロ社を訪問したの」
「ふーん。今日は休みだと言ってたのに? どうして嘘をついた? なにかやましいことでもあるのかい?」
やましいこと? そんなものないよ。
タクトはそっと私の体を放すと、じっと見下ろしてきた。その目は、あまりにも冷たくて。
「ベル・フルールがうちとの契約を打ち切った。アスカは前から知ってたんだよね?」
「ち、違う。それは、私も予想してなくてっ」
「土屋部長から聞いたよ。神楽オーナーがうちの商品にケチつけて、契約を解除した挙句、損害賠償まで請求する気だって。たしかにうちに落ち度があるけど、酷い話だよね」
抑揚のない口調で訴えるタクトの言葉に、私は肯定も否定もできない。目を伏せ、どう答ればいいのか考えて、考えて、考える。
だけどなにも思いつかない。
抜け殻になったように、私はただ立ち尽くしていた。
「しかもアスカは、神楽と一緒にうちに訪問してたんだよね」
「……うん」
やっぱり。タクトは私が同行したのにこんなことになってしまって怒っているんだ。
どうしよう。
謝らなきゃ。
謝らなきゃ……!
けれど、次に放たれた言葉は、私が予想もしていないことだった。
「アスカが、僕以外の男と二人きりで過ごしていたなんて。許せない」
「……え?」
タクトの言っている意味が、わからなかった。理解しようとしても、無理だった。
混乱していると──突然、頬に激痛が走った。鈍い音が部屋中に鳴り響く。
……タクトに、叩かれたんだ。
叩かれるのなんて、慣れているよ。全然、平気だよ。
それなのに、痛い。すごく痛い。
心が、痛くて痛くてたまらない。
タクトは冷酷な眼差しを向けて、今度は私の肩を押してきた。とんでもなく強い力だ。
受け身も取れず、私の体は床へ倒れていった。
目の前には、鬼のような形相で私を見下ろすタクト。
「タ、タクト……」
私の本能が、叫んでいる。「今すぐ立ち上がれ」と。
だけど、体に力が入らない。立てない。動けない。
瞳に影を落とすタクトは、おもむろにしゃがみ込む。片手で私の両腕を荒々しく拘束する。覆いかぶさってくる。
怖い。……怖い!
「君は僕のものなんだよ? 他の男と二人きりで過ごすなんてありえない。絶対に許さない。許されないことなんだよ!」
なにを言っているの……? 今日は仕事だったんだよ?
声に出したくても、喉の奥で言葉が止まってしまう。
タクトは私の首をもう片方の手で掴み取ってきた。
喉元を押され、いつもよりも遙かに強い力で締めつけられる。
あっ。あぁ。
苦しい……苦しい。
タクト。やめて。
息が……息が、できない……!
「あーあ。君には心底呆れた。女しかいないサロンで働いてるし、女友だちしかいないし、アスカなら他の男と浮気する心配はないと思ってたのに。神楽がオーナーになってから、アスカは変わったよな。浮気するなんて、ありえないよ」
私、浮気なんて、してない……!
「最近、神楽の話ばかりしてるよね。仕事のことだから最初は許してたけどさ、結局アスカはあの男が好きなんだろ。僕がいるのに? ふざけるなよ、アスカ。なあ、アスカ!」
タクトはさらに私の首を強く締めつけてきた。
抵抗したくても、力が出ない。なんにも、できない。
「お前は僕のものだ。僕だけを見ろ! 痛めつけてやらないとわからないか!」
タクトの目が、怖い。見るからに、正常じゃない。
いや。やめて。助けて。お願い。お願い……
喉の奥が冷たい。目の中から涙が滲み出てきて、顔全体が痺れてる。でも、その感覚すら失われていって。
ダメだ。私は、もう、このまま……。
全てが終わり。なにもかもが終わり。そう思った──。
急いで部屋中を掃除し、ベッドルームを整える。休む間もなく夕飯作りに取り掛かった。
以前、タクトは私が作った肉じゃがをおいしいと絶賛してくれた。今日のメインはそれにしよう。トマトサラダも作って味噌汁も作って。あとはビールも冷やしておかなきゃ。
肉じゃがを煮込んでいる間、部屋の状態に不備がないか何度も確認した。室内に夕食の香りが充満した頃。
玄関の扉が開く音がした。
タクトだ。
手を止め、急いで玄関まで出迎えに行く。
「おかえり、タクト。お疲れさ──」
労いの言葉を言い切る前に、グイッと腕を引き寄せられた。
タクトは無言で私の体を締めつけてくる。その手は、酷く震えていて。
タクトは今日の出来事をすでに知っているだろう。
ベル・フルールがレガーロ社との契約を打ち切ったこと。一方的に、しかも営業担当であるタクトがいない場で起きた話。
タクトは事実を受け入れられず、混乱しているはずだ。
レガーロ社と契約を打ち切るなんて話、私も戸惑ってる。神楽オーナーは前からそのつもりだったらしいけれど、私はなんにも知らなかったの。商品にアルコールやパラベンが含まれているなんてことも今日初めて知った。
だから、止めることができなかった。
だから、だから。
頭の中で「言い訳」を整理する。
でも、タクトは全く関係のないひとことを言い放った。
「変だな。煙草の匂いがするね」
え……煙草?
今、そんなことが気になるの……?
「ほら。髪の毛に煙草の匂いがついているよ。アスカは今日、誰かと一緒にいたんだよね?」
「それは」
今朝、私はタクトに嘘をついてしまった。
でも、誤魔化すのだけはダメ。きっと悪いことが起こるから。正直に、謝るしかない。
私は震えた唇を動かした。
「実は今日、休日出勤になって……。神楽オーナーと一緒にレガーロ社を訪問したの」
「ふーん。今日は休みだと言ってたのに? どうして嘘をついた? なにかやましいことでもあるのかい?」
やましいこと? そんなものないよ。
タクトはそっと私の体を放すと、じっと見下ろしてきた。その目は、あまりにも冷たくて。
「ベル・フルールがうちとの契約を打ち切った。アスカは前から知ってたんだよね?」
「ち、違う。それは、私も予想してなくてっ」
「土屋部長から聞いたよ。神楽オーナーがうちの商品にケチつけて、契約を解除した挙句、損害賠償まで請求する気だって。たしかにうちに落ち度があるけど、酷い話だよね」
抑揚のない口調で訴えるタクトの言葉に、私は肯定も否定もできない。目を伏せ、どう答ればいいのか考えて、考えて、考える。
だけどなにも思いつかない。
抜け殻になったように、私はただ立ち尽くしていた。
「しかもアスカは、神楽と一緒にうちに訪問してたんだよね」
「……うん」
やっぱり。タクトは私が同行したのにこんなことになってしまって怒っているんだ。
どうしよう。
謝らなきゃ。
謝らなきゃ……!
けれど、次に放たれた言葉は、私が予想もしていないことだった。
「アスカが、僕以外の男と二人きりで過ごしていたなんて。許せない」
「……え?」
タクトの言っている意味が、わからなかった。理解しようとしても、無理だった。
混乱していると──突然、頬に激痛が走った。鈍い音が部屋中に鳴り響く。
……タクトに、叩かれたんだ。
叩かれるのなんて、慣れているよ。全然、平気だよ。
それなのに、痛い。すごく痛い。
心が、痛くて痛くてたまらない。
タクトは冷酷な眼差しを向けて、今度は私の肩を押してきた。とんでもなく強い力だ。
受け身も取れず、私の体は床へ倒れていった。
目の前には、鬼のような形相で私を見下ろすタクト。
「タ、タクト……」
私の本能が、叫んでいる。「今すぐ立ち上がれ」と。
だけど、体に力が入らない。立てない。動けない。
瞳に影を落とすタクトは、おもむろにしゃがみ込む。片手で私の両腕を荒々しく拘束する。覆いかぶさってくる。
怖い。……怖い!
「君は僕のものなんだよ? 他の男と二人きりで過ごすなんてありえない。絶対に許さない。許されないことなんだよ!」
なにを言っているの……? 今日は仕事だったんだよ?
声に出したくても、喉の奥で言葉が止まってしまう。
タクトは私の首をもう片方の手で掴み取ってきた。
喉元を押され、いつもよりも遙かに強い力で締めつけられる。
あっ。あぁ。
苦しい……苦しい。
タクト。やめて。
息が……息が、できない……!
「あーあ。君には心底呆れた。女しかいないサロンで働いてるし、女友だちしかいないし、アスカなら他の男と浮気する心配はないと思ってたのに。神楽がオーナーになってから、アスカは変わったよな。浮気するなんて、ありえないよ」
私、浮気なんて、してない……!
「最近、神楽の話ばかりしてるよね。仕事のことだから最初は許してたけどさ、結局アスカはあの男が好きなんだろ。僕がいるのに? ふざけるなよ、アスカ。なあ、アスカ!」
タクトはさらに私の首を強く締めつけてきた。
抵抗したくても、力が出ない。なんにも、できない。
「お前は僕のものだ。僕だけを見ろ! 痛めつけてやらないとわからないか!」
タクトの目が、怖い。見るからに、正常じゃない。
いや。やめて。助けて。お願い。お願い……
喉の奥が冷たい。目の中から涙が滲み出てきて、顔全体が痺れてる。でも、その感覚すら失われていって。
ダメだ。私は、もう、このまま……。
全てが終わり。なにもかもが終わり。そう思った──。
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