私の愛した彼は、こわい人

朱村びすりん

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第二章

15・リュウお兄さんとの思い出

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 ※ ※ ※

 私の手を引いたまま、神楽オーナーはアパートの裏へ回り込む。

「こっちだ」

 見覚えのある黒い車が見えた。アルファードだ。
 キーが解錠され、二人で乗り込む。
 呼吸は乱れ、息つく間もなく車が発進した。

 車内は本当に静かで。息を整える二人の吐息と、激しい心音が体内で響くのみ。

「あの……神楽オーナー。ありがとうございます」
「……いい。気にするな」

 オーナーは無表情で運転している。その横顔は、どことなく暗かった。


 車は大通りを走り続ける。ナビを確認すると、横浜方面からどんどん離れているようだ。
 今の状況に、私の心は乱れたまま。タクトから逃げてきた現実に対し、どうしようもない不安感が襲ってくる。
 いつもなら、あの御守りを握りしめて気持ちを落ち着かせるのに。今に限っては、私の手元に大切なものがない。
 無意識に大きなため息が漏れる。

「どうした」

 オーナーはチラリと横目でこちらを見るも、すぐに視線を前に戻す。

「アパートに、御守りを置いてきてしまって」
「ああ。あの青い御守りか」
「私が四歳のときからずっと持っているんです」
「ずっと? 肌身離さずか」
「はい。私を助けてくれた人からもらった大切なもので……」

 その話を口にした瞬間、幼い頃の記憶が一気に蘇る。
 気弱だった私を救ってくれた、八歳上のリュウお兄さん。当時四歳だった私にとって、彼はあまりにも大きな存在だった。
 考えただけで胸がキュッとなる。

 車は赤信号に引っかかった。
 ゆっくりとブレーキをかけ、オーナーはおもむろにこちらへ手を伸ばした。そのまま逞しい指先が私の頭に触れて──
 優しく、撫でられる。

 わ。
 えっと……神楽オーナー。
 また、ですか?

 以前、早朝のサロンでも髪を触られた。
 この、唐突で理由もわからないオーナーの行動に戸惑う反面──なぜか胸が高鳴ってしまう。
 なにか言いたげな顔をする割に、彼の口から言葉は出てこない。ぎこちなく首を横に振り、再び前を向いた。

 とんでもないよ、これ。非常に気まずいです。
 胸のドキドキは収まらないし、顔は熱くなるし、肩に力が入っちゃうし。
 だけど、なんだろう。彼に頭を撫でられると緊張と共に「懐かしさ」も感じた。
 リュウお兄さんが私を撫でてくれたときの感情と重なって……。
 全くの別人なのに。おかしいよね。気が動転しているせいか、私、どうかしてる。

「今でも忘れられないのか、そいつのこと」

 青信号になり、オーナーは静かにアクセルを踏み込んだ。
 私は大きく頷く。

「今でも夢に出てくるほどです。彼のこと、リュウお兄さんと呼んでいました」

 忘れない。忘れられない。この先もずっと忘れたくない人。
 過去の記憶が次々と蘇り、思い出話が口から溢れていく。

「実は私、施設で過ごしていた時期がありまして」
「施設。養護施設のことか」
「はい」

 私、やっぱり変だ。
 封印していた自分の過去を、このタイミングで語ろうとするなんて。サロンのみんなにも友だちにも、それにタクトにさえ話したことがないのに。
 よくわからないけれど……オーナーには伝えたいって、心がうずいてしまった。

「お恥ずかしい話、二歳のときに保護されました。母親の育児放棄が原因です。自宅に私を放置したまま、家を空けることがしばしばあったそうです。ベランダで私が一人泣き叫んでいるところを近所の人に見られ、通報されたんです。母は私が施設に保護された直後に行方をくらませました。今もどこにいるのか知りません。顔も覚えていません。父親も誰か、わからないんです」
「それは……辛いな」

 オーナーは、相槌を打ちながら話を聞いている。
 ちょっと意外だった。こんな話「どうでもいい」と突き放されると思ったから。

「リュウお兄さんとは施設で出会いました。私が四歳のときに彼が入所してきたんです。当初は全然関わりはありませんでしたけどね」

 リュウお兄さんは口数が少なく、近寄りがたい雰囲気があった。しかも、施設の子たちとも支援員さんたちとも積極的に関わろうとしていなかったから余計に。

「その頃から私、施設でつらいことがあって……」

 一緒に生活していた三人の男の子たちに虐められていたこと。支援員さんたちの目の届かない場所で酷い仕打ちをたくさんされたこと。
 私は気弱で、自分の思ったことも上手く伝えられなくて、いつも端の方で遊んでるような子どもだった。
 そんな私を揶揄し、意地悪を言い、嫌なことをしてくる歳上の男の子たち。

『バカ』『チビ』『カス』『ゴミ』『ブス』

 こんな罵詈雑言も浴びせられた。
 身体的にも傷つけられたのを覚えている。触られたくないところを無理やり触られたりもした。思い出すだけで、吐き気がする。
 でも──

「リュウお兄さんだけは、他の子たちと違ったんです」

 逃げ出したくても逃げ出せない日々の中、味方になってくれたリュウお兄さん。私にとって唯一の救いだった。
 私が男の子たちに虐められている姿を見て、彼は躊躇せず庇ってくれた。三人を相手に、全く動じずに、むしろ威圧感たっぷりで返り討ちにしていた。
 けれど、その騒ぎが施設中に知られたとき、男の子たちとリュウお兄さんはものすごく叱られたそうだ。
 リュウお兄さんは私を助けるために男の子たちと喧嘩をしたのだと、私はどうにか支援員さんたちに訴えようとした。
 けれど、当時四歳の私には上手く説明できなくて。とても悔しい想いをしたんだ。

「その騒ぎがあってから、男の子たちは私に嫌がらせをしてこなくなりました。リュウお兄さんのおかげだと今でも思います」

 それをきっかけに、私は彼と仲良くなりたいと思うようになった。いつもお兄さんのそばに寄って、小心者ながら一生懸命話しかけた。

「今思えば、初恋だったんでしょうね。純粋にお兄さんのことが大好きでした」
「初恋。……そうか」

 呟くオーナーの表情が、少しだけ柔らかくなった。
 車はなだらかに走り続け、やがて東京の中心へと誘われていく。

「でもその数ヶ月後、リュウお兄さんは知人の家に引き取られることになりました」

 養護施設は子どもたちの入れ替わりがとても激しい。何年も施設で生活する子もいれば、数日でいなくなる子だっている。それはリュウお兄さんも例外じゃない。

「二度とお兄さんと会えなくなるとわかったとき、すごく寂しくなっちゃったんですよね……。大したお礼もできなかったのがもどかしくて、私、ドラゴンの折り紙を折って渡したんですよ。せめてもの感謝の気持ちとして」
「ああ……」

 ひたすら私が思い出話を語っているだけなのに、オーナーは真剣に聞いてくれている。どうにも嬉しくて、私の話は止まらない。

「あんまり上手にできたとは思えないけど、リュウお兄さん、ちゃんと受け取ってくれたんですよ。『ありがとう』と言って。嬉しかったです」
「リュウって名前だからドラゴンの折り紙を折ったのか」
「そうです」
「四歳児にしては頑張ったな」

 なんだか恥ずかしい。私はうつむき加減になる。

「最後まで優しい人でした。別れ際『幸せになれよ』と言ってくれたんですが……。リュウお兄さんが今の私を見たら、きっと呆れちゃいますね」
「いや──」

 オーナーは語尾を強くし、こんな言葉を紡いだ。

「これから幸せになればいいんだよ」

 サングラスの向こうで、彼の瞳が束の間揺れていた。
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