私の愛した彼は、こわい人

朱村びすりん

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第二章

19・安らぎのぬくもり

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 帰り際、裸足の私を哀れむようにユウキさんがヒールを貸してくれた。
 オーナーの家に私がお邪魔すると知ったユウキさんはずいぶんと機嫌がよくなっていて。「また来てくれても構わないわ」と言い、オアシスの会員証まで渡してくれた。


「行くぞ」

 バーを後にし、神楽オーナーに連れられたのは西新宿の高層マンションだ。二十階部分にある2DKの部屋がオーナーの自宅だそう。

 オーナーはマンション駐車場に車を停め、そこからエントランスへ抜ける扉のロックを解除した。エレベーターホールのセキュリティを通過し、さらにフロアでのロックを抜け、やっと部屋前に行き着いた。
 私とタクトが暮らしていたアパートなんて、オートロックすらない普通の賃貸だった。いくつものお店を経営しているオーナーだけあって住む世界が違うんだな……。

「入れ」

 カード式のルームキーをドアノブの上に翳して解錠すると、オーナーは玄関をゆっくりと開けた。部屋の中からは空気のこもった匂いと、ミント系の香りが漂う。

「お、お邪魔します」

 ちょっと、緊張。誘いに乗っておいて、未だに動揺してしまう。
 オーナーはスタスタと廊下の奥へ進み、部屋でダークスーツを脱いでいた。

「なに突っ立ってんだよ。さっさと上がれ」
「は、はい!」

 震える手でヒールを脱ぎ、そろりと部屋へ向かう。
 リビングには三人掛けのソファと、大きい壁掛けテレビと、こぢんまりとしたテーブルがあった。シーリングライトは控え目な明るさだ。
 開けたカーテンの向こう側に広がるのは、東京の夜──絶景が広がっていた。

「わあ。綺麗……」

 深夜にも拘わらず新宿の街は絶えず光り輝き、立ち並ぶビルや道路にダイヤモンドをばら撒いたかのような美しさを描いていた。

「なんだ。こんな景色に感動してんの」
「滅多に見られないものですから」 
「だったら毎日でも見せてやるよ」
「……え?」

 思いがけない言葉に、私は目を見開く。
 窓ガラスに映り込む彼の姿を見れば、さりげなくサングラスを外していた。
 初めて見る、彼の素顔。つり目で大きな瞳が、私をじっと捉えている。

「それは、どういう意味でしょうか」
「行く当てがないだろ。今晩だけじゃない。明日も明後日も好きなだけここにいろ」

 これは……彼の優しさなの? ちょっとは警戒した方がいい?
 戸惑う私を前に、オーナーはふっと鼻で笑う。

「そんなにビビるなよ」
「す、すみません」
「取って食いはしない。ただお前を守りたいと思っただけだ」

 神楽オーナーの声が、あたたかみのあるものに変わった。仕事中には決して聞くことのできない、どこか甘い声色。
 同時に──私の心臓が高鳴る。

「どうして。守りたいだなんて……」
「お前の幼少期の話を聞いて放っておけなくなっただけだ。大人になってからも、あんなクソ野郎に苦しい思いさせられて。見過ごせねぇよ」

 あ……そっか。きっとオーナーは困っている人を放っておけないタイプなんだ。

 これまでオーナーは、様々な問題を抱える女性たちを保護してきたとユウキさんが話していた。だから私のことも放置できない。そういうわけなんだ。
 神楽オーナーって案外心優しい人なんだね?

 私のそんな解釈を裏切るかのように、混乱させられるような事態が起こる。

「別れろよ、早く」
「え」
「あんなクソ野郎のこと、本気で好きなわけじゃないんだろ?」
「そ、それは」
「俺が忘れさせてやろうか」

 耳元でそう囁くと、オーナーは突然──私の全身を思いきり抱き寄せてきた。
 彼のシャツから、セブンスターの匂いがふわっと漂う。

「オーナー? あ、あの……?」

 あまりにも予想外な出来事に、急激に私の心拍数は上がっていく。
 なに、この状況。神楽オーナーに、抱きしめられてる? なんで、どうして?
 がっしりした両腕に包まれ、立派な胸元が私の頬に触れた。
 緊張のせいで、体が固まってしまう。
 なんだろう……この感じ。
 嫌だとか、怖いとか、不快な気持ちは全然なくて。むしろ、ドキドキの中に「安心感」が混ざり込んでいて。
 瞳を閉ざし、私は彼のぬくもりを感じた。

「アスカ」
「は、はい」

 まただ。また、私の胸が締めつけられる。
 なぜ。彼に名前を呼ばれると、既視感を覚えるの?

「もっと自分を大事にしろ。傷つけてくる奴がいたら、逃げるべきなんだ」
「オーナー……」

 私は、言葉に詰まる。
 神楽オーナーがあたたかい言葉を向けてくれるなんて、思ってもみなかったから。それに、男の人にこんなにも優しい抱擁を一度だってしてもらったことがない。未知なる経験で、戸惑いが一番大きかった。けれど、オーナーの気持ちはすごく嬉しい。
 返事をする代わりに、私は彼の腰に腕を伸ばして抱き返した。彼の心音を感じながら、私はひとこと言った。

「ありがとうございます。もう少しだけ、このままでいさせてください」

 オーナーは、無言で頷いてくれる。
 心地のよい夢の中へ、彼と一緒にいざなわれていくようなひとときだった。
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