私の愛した彼は、こわい人

朱村びすりん

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第三章

28・心から笑える時間

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 ジュースを飲み干し、彼は小さくため息を吐いた。

「あの野郎からお前を守るためなら、送迎くらい大したことじゃない。スタッフを守ることも、オーナーとしての責務だ」

 私の方を見て、彼は静かにそう言った。
 スタッフを守ることもオーナーとしての責務。
 そっか。うん。たしかに……そうだ。
 当たり前なのに、そのひとことが私の中で引っかかってしまう。

 一週間前、彼にリュウお兄さん本人なのだと打ち明けられたとき──私の中で何かが芽生えた。彼とキスを交わす寸前になって、心がときめいた。
 あの行動の意味はなんだったのか。ずっと頭の中でぐるぐる回っていたけれど。
 ……ただの、私の勘違いだったみたい。
 神楽オーナーにとって、私はベル・フルールのいちスタッフ。その前提を忘れて、一人勝手に期待していた。オーナーと同居をすることになって、舞い上がっていたのかも。恥ずかしい。

「どうした。寒いのか?」

 震える私の拳を、大きな手が優しく包み込んできた。ぬくもりを感じ、私はハッと彼の顔を見る。
 仕事では決して見られない、優しさで溢れた表情。私の心臓が、ドクドクと高く音を響かせる。気持ちだけは嘘をつけないのが悔しい。

「いえ……寒くないです。お腹が空いてしまいました」

 そうやって、誤魔化した。
 彼はあまり納得した表情を見せなかった。私が「スーパーに寄って食材が買いたいです」と笑ってみせると頷いてくれた。

 幼い頃に憧れていたお兄さんと一緒に暮らすことになるなんて、それだけでも奇跡なんだよ。充分幸せだし、ありがたいと思わなきゃ。
 彼とどうにかなりたいなんて、欲張っちゃダメ。

 けれど──彼の言動で一喜一憂する私は単純な女かもしれない。


 帰路の途中でスーパーへ寄り、二人で食材を選びながら彼に何を食べたいか訊ねた。キノコパスタがいいと言うのでエリンギと舞茸をカートに入れた。麺は家にあったはず。サラダも作りたいから、レタスなども揃えよう。

 自然な振る舞いで彼と一緒に買い物をしているが、私たちは単なる他人。恋人でも夫婦でもない。それなのに同じ屋根の下で暮らしている。未だに奇妙な状況だと思う。
 彼氏と別れてすぐ別の人と一緒に暮らすなんて、普通なら非常識な行いだ。ただ、事情が事情なだけに、私は彼の言葉に甘えている。

 私が部屋に転がり込む形になるので、生活費は折半すると提案したが頑なに断られてしまった。

『俺を誰だと思っている。お前に金を出させるわけないだろう』なんて、結構な怒り口調で言われた挙げ句『お前を養うぐらいの覚悟も余裕もある』と付け加えられた。

 養う。私、養われるの?
 と、違和感が半端なかったが、そのときの彼の真剣な顔を見たら何も言い返せなかった。
 代わりと言っていいものか、早番の日や休日には私が家事や料理をすることにした。彼に許可をもらって部屋の掃除をしたり洗濯をしたり……。さすがに下着は彼が自分で洗っているけど、それ以外はできる限り私が担当してる。
 食事を作れば、彼は毎回喜んで食べてくれた。

『外食やデリバリーばかりだったが、こういう家庭の味もいい。……むしろ、こっちの方が好きだ』

 そんな嬉しい言葉ももらった。


「──あとは、オレンジジュース」

 私が思いに耽る隣で、彼は飲料コーナーでオレンジジュースを手に取った。
 一緒に過ごしてきてわかってきた。強面に似合わず、どうやら彼はオレンジジュースが好きみたいだ。
 煙草の後に飲むジュースは泥みたいな味がするらしい。そのまずさがクセになる、なんて言っていて。一体全体どんな味覚をしてるんだろうと心配になる。
 慣れた手つきで八百ミリリットルのペットボトルをカートに入れる彼を見て、なんだか可愛いとさえ思ってしまった。

「……なんだ?」

 オーナーはチラッと私を見てくる。
 やばっ。私、たぶんニヤニヤしちゃってるよ。

「な、なんでもありません」
「笑ってるな?」
「いえ?」
「どうせ俺がジュースばかり飲んでるのが気に入らないんだろ」
「そ、そんなことないですよ! でも……ちょっと、可愛いなって」 
「あぁ、可愛いだと……?」
「すみません! あの、神楽オーナーって意外にお酒は飲まないですよね。そのギャップが素敵ですってことで……」
「悪かったな。俺は甘党だ」 

 堪えきれず私が肩を震わせて笑うと、彼は顔を真っ赤にしていた。
 ただスーパーで買い物をしているだけなのに。彼と一緒にいるとこんなに心が安らぐなんて、不思議だね。
 さっきまでの憂いが嘘みたい。

「ったく。ニヤニヤしやがって」
「すみません。楽しくて、つい」
「……楽しい?」
「はい! オーナーのおかげです」

 私が素直にそう伝えると、彼は自分の顔に手のひらを当てぷいっと背を向けてしまった。

「……もういい。会計するぞ」

 スタスタとレジに歩いていく後ろ姿は、なんだか忙しない。
 どうしたんだろう。もしかして、怒らせちゃったかな……?

「ごめんなさい、気を悪くさせてしまいましたか?」

 慌てて彼の後を追おうとした。
 そのときだった。


『──アスカ──』


 背後から私の名を呼ぶ低い声が、聞こえた気がした。
 ……なに?
 反射的に足を止める。

 恐る恐る、振り返ってみると──。

 買い物を楽しむ数人のお客さんと、品出しをする店員さんしか見当たらなかった。誰かが私を呼び止めた様子は、ない。
 ……気のせいだよね?
 声を聞いて、一瞬ゾワッとした。胃の辺りが気持ち悪くなって、フラついてしまう。

「アスカ? 大丈夫か」

 異変に気付いたのか、彼がこちらを振り返る。
 手を差し伸べられ、私は反射的にその指先を握った。
 ……しっかりして。平気。平気だよ。空耳だから。気にしちゃ、ダメ。

「なんでもないです。ちょっと疲れちゃったのかも」
「さっさと帰って休むか」
「はい」

 セルフレジで購入品の会計をする。金額は三千五百円。彼が現金で精算をした。

 大丈夫。私には用心棒の彼がいてくれる。何も心配はいらない。
 心の中で何度も「大丈夫」と唱えた。
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