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第三章
34・問いつめる
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マンションに帰るなり、彼は汚れたスーツを脱ぎ捨てた。
椅子に雑にかけられたスーツを見ると、なんとも言えない気持ちになる。私はずっと悶々としたままだ。
窓の外に映る東京の夜は今宵も変わらず美しい。この景色を見飽きることなんてない。
会話を交わすこともなく、何もない時間が流れていった。
そんなとき──不意に、背後から大きなぬくもりに包まれた。
窓ガラスには、私の背中を抱き寄せる彼の姿が映っている。
「……オーナー?」
彼に抱きしめられると心地よいはずなのに。今日は心のわだかまりのせいで、安らぎが感じられない。
彼は項垂れ、私の耳元で囁く。
「アスカ」
体は、なんて正直なんだろう。優しく名を呼ばれるだけで全身が火照り、心臓が早鐘を打ちはじめた。
彼は抱き寄せる力を強くして、私の頬に顔を近づけてくる。
「こっち見て、アスカ」
聞いたこともないような高い声。
どうして。なんで? こんなに甘えてくるの……?
いつもと様子が違う彼の振る舞いに違和感を覚えた私は、途端に冷静さを取り戻す。
「待って、オーナー」
やっぱり、教えてほしい。モヤモヤしたままなんて無理。
おもむろに両腕を離し、私は体を彼の方に向けた。
「何があったんですか。怪我は大丈夫ですか? スーツまで汚れていますよ」
「……それは」
彼の瞳が、揺れた。
ほら。何か隠してる。
「……悪い。先にシャワー浴びてくる」
「えっ」
「さっさと汗を流したい」
「すまない」と言って、彼は着替えを持ってせかせかとシャワールームへ行ってしまった。
……何、それ。
今、あきらかに逃げられた。
……どうして、隠そうとするの?
これ以上は深入りしない方がいいんだという気持ちと、彼が頑なに話そうとしてくれないことに対する疑念が膨らみ、やるせない気持ちになる。
スーツは放置されたまま。
しわができてしまう前にクローゼットにしまっておこう。
手に取ると、胸ポケットからスマートフォンが滑り落ちた。ゴトッと鈍い音を立てて床の上に転がる。
仕事用の、スマートフォン。
「……ロックが、解除のままになってる」
一度、シャワールームの方を振り返った。
彼は、だいたいいつも十五分くらいシャワーを浴びるから……。
再度スマートフォンを見下ろす。
そっと手に取り、私は悪魔の囁きに導かれるように中を確認してしまった。
震える手で画面をスクロールし、メッセージアプリをタップする。新宿のキャバクラ店のスタッフから送られた大量のメッセージが目に付いた。
「勝手に見てはいけない」という自分の中の警告なんて、聞こえぬふり。
もう、止められない。
固唾を呑み込み、私はスタッフからのメッセージを表示した──。
《神楽オーナー。すぐに来てください。お願いします》
《他のお客様にも迷惑がかかってしまいます》
《あとどれくらいで到着しますか》
《男が、小野タクトがオーナーを出せと叫び続けています》
……、頭の中が、真っ白になった。
小野タクト。タクトって。
あの人のこと……だよね?
なんで、タクトが。
彼のお店で何をしてるの……?
スマートフォンをスーツのポケットに戻すが、手が勝手に震えてしまう。
落ち着いて。落ち着いて。
クローゼットにスーツをしまった。
今のは見なかったことにしたい。忘れたい。
彼がシャワーを浴びている間、晩ご飯でも用意しておく? 何作ろうかな。
冷蔵庫を開けて食材を確認しても、全然頭が働かない。
ああダメ。
集中できない。
【小野タクト】の文字が、どうしても離れなくて。
一体、どうなっているの。
「アスカ」
「……ッ!」
後ろから声をかけられ、音にもならない叫び声が漏れた。
「すまん、そんなに驚くなよ」
「いえ、違うんです。私……」
たどたどしい答えになってしまった。
彼は、まだ半乾きの髪をタオルで拭きながら私の前に立つ。ふわっとシャンプーの香りがして、こんなときでさえもドキッとしてしまう。
「顔色が悪いぞ」
「なんでもないです。晩ごはんどうしようかなと……」
「今日は遅いしたまにはデリバリーでもいいんじゃないか。ウーバーでも頼むか」
「……はい」
「アスカもシャワー浴びて来いよ」
なんで。どうしてよ。なんでもない顔をしていられるの? 大変なことが、起きているんじゃないの……?
シャワーを浴びている間も、上がってからも、晩御飯を食べた後も、私は考え事をしてばかり。
就寝前。
暢気にオレンジジュースを堪能する彼の後ろ姿を見ると、ますます心が苦しくなって。
私は、衝動的に彼の背中を抱きしめた。
「……アスカ? どうした?」
戸惑ったような声だった。
驚かせてごめんなさい。でも、こうでもしないと不安に押し潰されそうで──
「訊きたいことが、あります」
「なんだ?」
「……今夜起きたトラブルについてです」
彼の耳が、ピクリと反応した。飲みかけのジュースが入ったグラスをキッチンに置くと、ゆっくり私の方を振り返った。
「……その件なら、アスカは心配しなくていい」
困ったような顔をしないで。
もう、はっきりと言うしかない。
「タクトが、迷惑をかけているんでしょう?」
「……!」
彼は目を見開いた。
お願いだから、正直に話して。
「先に謝っておきます。さっきオーナーのスマホを見てしまいました。ごめんなさい。お店の人たちから助けを求めるメッセージがたくさん送られていました。……その中に、タクトの名前があって」
私の言葉に、彼は目を逸らす。歯を食いしばり、眉を下げ、とても困惑しているようだ。
私のせいで、大変なことになっているんでしょう……?
「教えてください。タクトがオーナーの店に嫌がらせをしてるんじゃないですか?」
「……」
「オーナー」
「……」
「黙ってないで、何か答えてください!」
思わず厳しい口調になってしまった。
誤魔化してほしくない。
彼は今にも泣きそうな顔をして、うつむき加減になった。
「……そうだ。アスカの言う通りだよ。小野タクトが、俺の店にかちこんできた」
……やっぱり。
彼は声を震わせながら、先ほどの出来事を語り出した──。
椅子に雑にかけられたスーツを見ると、なんとも言えない気持ちになる。私はずっと悶々としたままだ。
窓の外に映る東京の夜は今宵も変わらず美しい。この景色を見飽きることなんてない。
会話を交わすこともなく、何もない時間が流れていった。
そんなとき──不意に、背後から大きなぬくもりに包まれた。
窓ガラスには、私の背中を抱き寄せる彼の姿が映っている。
「……オーナー?」
彼に抱きしめられると心地よいはずなのに。今日は心のわだかまりのせいで、安らぎが感じられない。
彼は項垂れ、私の耳元で囁く。
「アスカ」
体は、なんて正直なんだろう。優しく名を呼ばれるだけで全身が火照り、心臓が早鐘を打ちはじめた。
彼は抱き寄せる力を強くして、私の頬に顔を近づけてくる。
「こっち見て、アスカ」
聞いたこともないような高い声。
どうして。なんで? こんなに甘えてくるの……?
いつもと様子が違う彼の振る舞いに違和感を覚えた私は、途端に冷静さを取り戻す。
「待って、オーナー」
やっぱり、教えてほしい。モヤモヤしたままなんて無理。
おもむろに両腕を離し、私は体を彼の方に向けた。
「何があったんですか。怪我は大丈夫ですか? スーツまで汚れていますよ」
「……それは」
彼の瞳が、揺れた。
ほら。何か隠してる。
「……悪い。先にシャワー浴びてくる」
「えっ」
「さっさと汗を流したい」
「すまない」と言って、彼は着替えを持ってせかせかとシャワールームへ行ってしまった。
……何、それ。
今、あきらかに逃げられた。
……どうして、隠そうとするの?
これ以上は深入りしない方がいいんだという気持ちと、彼が頑なに話そうとしてくれないことに対する疑念が膨らみ、やるせない気持ちになる。
スーツは放置されたまま。
しわができてしまう前にクローゼットにしまっておこう。
手に取ると、胸ポケットからスマートフォンが滑り落ちた。ゴトッと鈍い音を立てて床の上に転がる。
仕事用の、スマートフォン。
「……ロックが、解除のままになってる」
一度、シャワールームの方を振り返った。
彼は、だいたいいつも十五分くらいシャワーを浴びるから……。
再度スマートフォンを見下ろす。
そっと手に取り、私は悪魔の囁きに導かれるように中を確認してしまった。
震える手で画面をスクロールし、メッセージアプリをタップする。新宿のキャバクラ店のスタッフから送られた大量のメッセージが目に付いた。
「勝手に見てはいけない」という自分の中の警告なんて、聞こえぬふり。
もう、止められない。
固唾を呑み込み、私はスタッフからのメッセージを表示した──。
《神楽オーナー。すぐに来てください。お願いします》
《他のお客様にも迷惑がかかってしまいます》
《あとどれくらいで到着しますか》
《男が、小野タクトがオーナーを出せと叫び続けています》
……、頭の中が、真っ白になった。
小野タクト。タクトって。
あの人のこと……だよね?
なんで、タクトが。
彼のお店で何をしてるの……?
スマートフォンをスーツのポケットに戻すが、手が勝手に震えてしまう。
落ち着いて。落ち着いて。
クローゼットにスーツをしまった。
今のは見なかったことにしたい。忘れたい。
彼がシャワーを浴びている間、晩ご飯でも用意しておく? 何作ろうかな。
冷蔵庫を開けて食材を確認しても、全然頭が働かない。
ああダメ。
集中できない。
【小野タクト】の文字が、どうしても離れなくて。
一体、どうなっているの。
「アスカ」
「……ッ!」
後ろから声をかけられ、音にもならない叫び声が漏れた。
「すまん、そんなに驚くなよ」
「いえ、違うんです。私……」
たどたどしい答えになってしまった。
彼は、まだ半乾きの髪をタオルで拭きながら私の前に立つ。ふわっとシャンプーの香りがして、こんなときでさえもドキッとしてしまう。
「顔色が悪いぞ」
「なんでもないです。晩ごはんどうしようかなと……」
「今日は遅いしたまにはデリバリーでもいいんじゃないか。ウーバーでも頼むか」
「……はい」
「アスカもシャワー浴びて来いよ」
なんで。どうしてよ。なんでもない顔をしていられるの? 大変なことが、起きているんじゃないの……?
シャワーを浴びている間も、上がってからも、晩御飯を食べた後も、私は考え事をしてばかり。
就寝前。
暢気にオレンジジュースを堪能する彼の後ろ姿を見ると、ますます心が苦しくなって。
私は、衝動的に彼の背中を抱きしめた。
「……アスカ? どうした?」
戸惑ったような声だった。
驚かせてごめんなさい。でも、こうでもしないと不安に押し潰されそうで──
「訊きたいことが、あります」
「なんだ?」
「……今夜起きたトラブルについてです」
彼の耳が、ピクリと反応した。飲みかけのジュースが入ったグラスをキッチンに置くと、ゆっくり私の方を振り返った。
「……その件なら、アスカは心配しなくていい」
困ったような顔をしないで。
もう、はっきりと言うしかない。
「タクトが、迷惑をかけているんでしょう?」
「……!」
彼は目を見開いた。
お願いだから、正直に話して。
「先に謝っておきます。さっきオーナーのスマホを見てしまいました。ごめんなさい。お店の人たちから助けを求めるメッセージがたくさん送られていました。……その中に、タクトの名前があって」
私の言葉に、彼は目を逸らす。歯を食いしばり、眉を下げ、とても困惑しているようだ。
私のせいで、大変なことになっているんでしょう……?
「教えてください。タクトがオーナーの店に嫌がらせをしてるんじゃないですか?」
「……」
「オーナー」
「……」
「黙ってないで、何か答えてください!」
思わず厳しい口調になってしまった。
誤魔化してほしくない。
彼は今にも泣きそうな顔をして、うつむき加減になった。
「……そうだ。アスカの言う通りだよ。小野タクトが、俺の店にかちこんできた」
……やっぱり。
彼は声を震わせながら、先ほどの出来事を語り出した──。
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