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第四章

違和感

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 夜になった。
 リョウがいなくなってから初めての就寝時間を迎える。これまで彼が使っていたベッドは空っぽだ。呼べばすぐに返事をくれたリョウは、もうここにはいない。

 すでに十時を回っている。
 いい加減、寝ないとな……。あれこれ考えたって、余計虚しくなるだけだ。泣かないと決めたんだから。
 瞼をギュッと閉ざす。無心で、何も考えず、身体を休ませよう。

 今夜も、君とチャコに会えるかな。こういうときこそ、彼女たちに慰めてもらいたい。

 視界は真っ暗なのに、僕の意識ははっきりしすぎだ。
 なんにも音が鳴らない病院内は、静寂だけを響かせてなんだか落ち着かない。
 寝なきゃ……寝るんだ……。眠れば、会える。今夜は彼女たちが、会いに来てくれるはず……。

 僕は一人、夢の中へと落ちていった。

 ──気づくと僕は、見知らぬ川のほとりにいた。綺麗な夕陽が水面をオレンジに輝かせ、美しさを放っていた。カモの親子なんかもいて、まったりしたひとときが流れる。

 どこだろう、ここは。見たことがあるような、ないような。

 石造の段差があって、僕はそこに座りこんだ。
 このとき、ふと、何か違和感を覚えた。
 足もとに目線を落とすと、すぐにしっくりしない訳を知った。
 なぜか僕は、右脚に装具をつけていたんだ。

 これが現実の世界ならおかしいことなんて何もない。でも、夢の中では自分の足だけで歩けるはずだろ? どうして、装具なんか履いているんだろう。杖も持っていないのに。 
 ぐっと手を伸ばし、僕は装具を外そうと固定テープに触れた。
 
 そのときだ。

『何してるの?』

 背後から、話しかけられた。彼女の声だ。ちょっとだけ驚いたような口調だった。
 僕が返事をする前に、彼女は隣に座る。それから、サッと手を握ってきたんだ。

『装具は外さないで』
『えっ、どうして?』
『これからも必要になるから』

 彼女の手が、僅かに震えている。
 どうしたんだろう。声もどことなく暗い。

 僕が首を傾げていると、川辺の向こう側からひとつの影が現れた。こちらを見やっていて、四本脚で立っている。前脚で丁寧に顔を洗ってから、スタスタとこちらに向かって歩いてきた。

『チャコ』

 僕が呼びかけると、チャコの耳が反応するように動いた。いつものように喉をゴロゴロと鳴らして、僕の足にすり寄ってくるんだ。

『相変わらず、チャコは可愛いな』

 優しくチャコを抱き上げると、高い声で『ミャオ』と鳴き声を漏らした。
 ふわふわな毛が腕全体に伝わってきて、ものすごく癒される。

『ねえ、コウ君』 
『うん?』
『目標に向かって頑張ってること、私は知ってるよ。でもね、もしかしたら全部は叶わないかもしれないの』
『え……どういうこと?』
『現実はね、夢の中ここみたいに簡単じゃないから』

 彼女の声は少し沈んだトーンだった。どうして突然、そんなことを言うんだろう。

『コウ君自身が一番理解してるとは思う。生まれつき足が不自由なのは、どれだけ努力しても完全に治ることはないの』
『それは──』

 そんなこと、知ってるよ。
 あれだけ大変な手術をしても、リハビリをこなしても、麻痺がなくなるわけじゃないって。
 これは、僕の身体の一部だから。

 けれど頑張っていけば、今よりももっと歩ける可能性はあるんだ。だから日々努力している。
 彼女は今更、何の話をしているんだろう?

『もちろん理解してる。だからって、僕は嘆いたりしないよ』
『うん。コウ君は前向きだもんね。だけど……きっと、過信しないで』

 彼女の声は、あまりにも低かった。
 なんだ。一体、どうしたんだよ?

『ミャオ……』

 僕が戸惑っていると、チャコが腕の中で弱々しい鳴き声を上げた。そんなチャコの頭をそっと撫でてあげる。

『なあ、チャコ。彼女に言ってあげて。僕は大丈夫だって』
『ミャオ……』
『自分の身体のことは自分が一番よく分かってるし、過信もしないよ』

 僕がチャコに向かって語りかけると、左手を舐めてくれた。ザラザラした感触がする気がする。
 不思議だな。今日のチャコは、現実的だ。

 でもこのとき、僕はふとあることに気がついた。

『なあ、チャコ』
『ミャオ』
『どうして、喋らないの?』

 夢の中で会うときは、チャコはお喋り猫になっていたはず。可愛らしくて高い声で、いつも応援の言葉をかけてくれた。
 それなのに、今日は普通の猫のようにしか鳴かない。

 おかしい。この世界では、なんでもありのはずじゃないのか……?

 唖然としたまま僕がチャコを眺めていると──彼女の握る手がかすかに強まった。柔らかくて優しいぬくもりが、僕に癒やしをくれる。

『ごめんね、コウ君』
『えっ?』
『変なこと言っちゃって……』
『いや、別に大丈夫だよ』
『うん。でも──この世界でコウ君と会えるのは最後だから、ちゃんと伝えたかったの』
『えっ。最後って?』

 聞き捨てならないひとことに、僕は目を見開いた。
 それでも切ない声で、彼女の話は綴られていく。

『入院してから今までで、コウ君はとっても強くなったよね。心も身体も立派になった。大事な友だちのことも、笑顔で見送れた』
『ああ……そうだね』
『手術も検査もリハビリも、全部全部頑張ってきた。だからもう、私とチャコちゃんがここに来る必要はなくなったの』
『……なんだって?』

 思いがけない言葉に、僕は息を呑んだ。
 必要ないって? どうしてそんなこと言うんだよ……?
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