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七章 蓮の使いと虹の空

七章 [13]

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「なんだか……。……ありがとう」

 今まで、何年もかけて積み重ねてきた努力を誉められた気がして、泉蝶せんちょうはどうしようもなく恥ずかしくなった。

「ふふっ」

 抑えきれずに、志閃しせんの口から笑みが漏れる。彼の顔を見たくなくて、泉蝶は自分の茶器に目を落とした。

「気は嘘をつかないからねぇ~」

 志閃がじろじろ泉蝶の気を眺めている気配を感じる。

飛露とびつゆも俺も妖舜ようしゅんも、泉蝶ちゃんのことは信頼してるよ。安心して。ただ――」

 志閃の声が大事なことを言うように低くなった。

「こんなことを言われたら泉蝶ちゃんは嫌だと思うけど、泉蝶ちゃんは仙術に対する防御が甘すぎる。相手を意のままに操る術、動きを封じる術、意識を奪う術、自白を促す術――。そういう危険な術から身を守るすべをもってないから、そこだけは気を付けて欲しい。だから、飛露や妖舜が何か大事なことを教えるのを渋るってことはあると思う」

「……確かにそうかもしれないわね」

 自分の弱さを指摘されて、泉蝶はうつむいた。今までも自覚していたつもりだったが、自分以外の人間から改めて言われると心に響く。

「でも、鎧や着物には仙術攻撃に耐性があるものを身に着けてるし、術師と模擬戦をやってもさほど遅れをとったことはないわ」

 そして、泉蝶の口から出たのはそんな自己擁護だった。確かに自分は弱いが、志閃やほかの人が思うほど未熟ではない。禁軍将軍と言う矜持もある。

「……泉蝶」

 志閃は厳しい声で短く呼びかけながら、泉蝶の目の前に片手を出した。指をパチンと一回鳴らす。そしてすぐにもう一回。

「……なによ?」

 猫だましの類だろうか。

 尖った口調で問う泉蝶に、志閃は眉間にしわを寄せた厳しい表情のまま、彼女の茶器を指さして見せた。先ほどまでほとんど空だったカップに紅茶がたっぷり注がれ、熱い湯気を立てている。いつの間に――?

「俺くらいの術師になると、泉蝶ちゃんを好き勝手するくらい簡単なんだよね」

 志閃は落ち着いた低い声で言って立ち上がった。机を回り込み、ゆっくりと泉蝶に近づいてくる。

 泉蝶は首を巡らせて、その姿を追った。しかし、どんどん近づいてくる彼から離れることができない。体が動かない。小さくなら動くが、立ち上がったり、身をかわしたり、手を挙げたり――、そういう動作ができなくなっている。

「怖いっしょ?」

 志閃が後ろから泉蝶を抱きしめてきた。ひどく緩慢な動作で、普段ならば逃げるなり、殴るなり簡単にできる隙がある。それでも、泉蝶は何もできず彼の抱擁を受けるしかなかった。

「俺にはできないけど、妖舜みたいなもっと気に繊細な術師なら、その恐怖を消し去って、自分に惚れさせることだってできる。だから、あいつはタチが悪いんだよ」

 ぴったり触れた志閃の体から、彼の声が振動として伝わってくる。泉蝶は身を固くした。志閃の手が泉蝶の胸元に伸びてくる。

「ちょっと……!」

 泉蝶は言葉で抵抗することしかできない。

 志閃はいつの間にか彼女の胸元に貼られていた札を剥がした。片手でくしゃくしゃに握りつぶすと、もう片方の手で泉蝶の肩を軽く押す。

「もう体動くっしょ?」

「ひどいわ」

 泉蝶は自分の肩を抱いた。体が震える。鼓動が速いのは恐怖のせいだ。

「そだね。ごめん」

 志閃は毛布を泉蝶の肩にかけなおすと、彼女の隣に腰を下ろした。

「二度としないよ、こんなこと、絶対に。約束する」

 そう言う志閃の顔は、予想外に申し訳なさそうで、ひどく不安そうでもあった。

「あなたのやったこと、本当にひどいと思うわ」

 泉蝶はうつむいた。今まで感じたことがない種類の恐怖に、小さな震えが止まらない。

「……うん」

 志閃がうなずいた。

「…………」

 しばらくの間、気まずい沈黙が続く。

「……でも」

 先に口を開いたのは泉蝶だった。

「確かにあたしに強い術にあらがうすべはないみたいね」

 志閃に術をかけられたことよりも、術に勝てない自分の無能さが苦しい。

「教えてくれて、ありがとう」

 泉蝶はいまだに眉を垂れている志閃にほほ笑みかけた。うまく笑えている自信はないが。

「泉蝶ちゃん……」

 志閃が口を開いたが、次の言葉が見つからない。言いたいことはあるのだが、それを彼女を傷つけずに伝える最適な言葉が浮かばなかったのだ。どう言っても、言い訳のようにしか聞こえないだろうから。

「泉蝶ちゃん、暴力的なことして本当にごめんね」

 しかし、それだけは繰り返し伝えたい。

「いいのよ。ああでもされないと、あたしはあなたの言葉に納得できなかったと思うから」

 実際に術を掛けられなければ、どれだけ説得されても、心の底で「自分は術に打ち勝てるはず」と考え続けていただろう。そして、「泉蝶は術に勝てない」と思い込んでいる志閃に不信感を抱き続けたはずだ。

「……うん」

 志閃の返事は、相槌のようにも、泉蝶の意見に同意したようにも聞こえる。
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