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前日譚 - 孤独な暗殺者
前日譚 - 孤独な暗殺者
しおりを挟む【暗鬼が中州に行く直前に請け負った仕事の話】
「豊かさも安全も、身分の高いほんの一握りの人しか得られないもの。しかしそれ自体も見せかけの幻想だ。それを思い知らせてやろう」
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一国の主が死んだ。眠るような穏やかな死に、彼を慕う人々は嘆いた。ある女官は彼にすがりつき、いつもは弱さを見せない武官も顔を背け涙している。
「殿っ……!」
誰ともなく叫ぶ。長い髪を振り乱し、着物の袖を濡らして――。
「百合、外に……出ましょう」
ある武官が、その中でもひときわ激しく泣く女官に声をかけた。
念入りにしていたであろう化粧は完全に崩れ、襟元や袖口を白く汚してしまっている。彼女のひどい姿を気の毒に思ってのことだろうが、周りの人がみな泣いている中で彼女の顔に目を留めるものはいない。
しかし、彼の厚意を察した女官は、浅くうなずいて立ち上がった。武官はその腕をやさしく支えている。
誰にとがめられることもなく、静かに退室した武官と女官は人気のない通路を行く。ほとんどの人々はどこかにこもり、主の突然の死を悼んでいるのだろう。
そう、彼の死は突然だったのだ。まだ三十代半ば。持病もなかった。
十日ほど前に不調を訴え医師を呼んだものの、そのまま急激に体調を崩して亡くなってしまった。
「成功しましたね、義兄さん」
あたりに誰もいないことを確認して、武官は隣の女官に声をかけた。さっき退出を促した重々しい声とは全く違う、明るくうれしそうな声。
「当たり前でしょう」
女官も悲しみなど微塵も感じられない口調で返す。その声はやや高めではあるが、声変わりした男のものだ。
「失敗は許されませんからね」
その口元に浮かんだ笑みは、ぞっとするほど冷たく悲しげだ。
「義兄さんはすごいです」
武官は兄弟子である青年を尊敬のまなざしで見つめている。
「本当の女より美しく化けられますし、声色だって思いのまま。あっという間に標的の側仕えになるし、誰にも気付かれずに食べ物に毒を盛ったり、別の人がやったように見せかけて殺したり――。しかも、自分が殺したのにその人のために誰よりも激しく泣けて――。さすが華金王の『影』。暗鬼義兄さんです」
「当たり前でしょう」
暗鬼はそう繰り返す。自分が生きるために完璧な仕事をこなすのは、当たり前のことだ。自国の王に指示されるまま諜報や暗殺を行うようになって、何年が経っただろうか。暗鬼の中には、その若さに見合わない技術がいくつも蓄積されている。
薬や毒の知識もその一つ。原因不明の衰弱死だと診断された国主の死因が、毒薬によるものだと知っているのは、暗鬼とその弟弟子のみだ。
「わたしも、早く義兄さんみたいに、うまく仕事がこなせるようになりますね」
「期待していますよ」
そう言いつつ、暗鬼は全く期待していなかった。王に仕える「影」は少ない方が良い。あまり増えすぎると、同業者同士で潰し合いになりかねない。今でさえ、華金の王宮は王や王子、貴族たちのさまざまな思惑が渦巻いて、生き苦しいと言うのに。
「ありがとうございます!」
暗鬼の考えなど知らず、弟弟子はにっこり笑んだ。
「……覇呪。あなたは、少し自分の感情を殺すことを覚えなさい。無邪気すぎます」
「義兄さんの前だからですよ」
彼はやはりにこにこしている。
「義兄さんの仕事を見るのは楽しいんです。次の仕事にはついていけなくて、残念です」
弟弟子――覇呪は、笑顔から一転、とても悲しそうな顔をした。
「そうなのですか」
「腕試しに東の領主を殺ってみろ、って言われたんです……」
「そうですか、がんばりなさい」
暗鬼は全く気のない様子で言う。
彼には期待も、信頼もない。いつか刃を合わせることになるのが分かっているからだ。
「ありがとうございます!」
弟弟子は心底嬉しそうに笑った。これから人を殺しに行くにもかかわらず、全く邪気のない笑顔を浮かべられる彼に、暗鬼は空恐ろしいものを感じている。彼には人を殺す恐怖も罪悪感もないのだろう。暗殺者としてはかなり優秀なのだろうが、だからこそ近いうちに彼と敵対することになる気がしていた。標的と認識すれば、彼は尊敬していた兄弟子でさえ笑顔で弑しそうで……。
「義兄さんも次の仕事、がんばってくださいね。――中州、でしたっけ?」
暗鬼の内心など知らぬ弟弟子の明るい声が聞こえる。
「そうですよ。中州城下町。強い団結力で平和を守る国」
そう言って、どこか胸がざわつくのはなぜだろう。その言葉には何か感じるものがある。
暗鬼は弟弟子ほど自分の心を殺しきることができない。その「甘さ」が人々の信頼を得る際、役に立っているのだが、同時に弱点であることも理解していた。人心を動かすには、自分も心をさらけ出さなくてはならない。その時には、自分も相手の心に動かされる危険を伴う。
暗鬼は目を閉じて深呼吸した。わずかに揺らいだ心を、深い闇の底へ閉じ込める。
――平和も団結もまやかしでしかない。そんなもの存在しない。
存在するわけがない。
豊かさも安全も、身分の高いほんの一握りの人しか得られないもの。
――そして、それ自体も見せかけの幻想だ。
金にモノを言わせて手練れの武人を集め、屋敷の最奥にこもって安全だと思い込んでいる奴らに思い知らせてやろう。寄せ集めの「団結」をかいくぐって、見せかけの「平和」を打ち砕いて。
――でも、もしそれが幻想じゃなかったら……?
そこまで考えたものの、暗鬼にはその先が思いつかない。
「わたし、絶対仕事を成功させて帰ってきますね」
思案する暗鬼の頭に、弟弟子の無邪気な声がやけに大きく響いた。
【前日譚 - 孤独な暗殺者 完】
【次:幕間話 - 本当の名前】→
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