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幕間話 - 本当の名前
幕間話 - 本当の名前
しおりを挟む【暗鬼の過去とその後のお話】
赤は炎と血の色。
「赤は嫌いな色だった。でも、薄赤の花に囲まれた彼女はとっても輝いて見えて――」
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――お前は、人の心に付け入るのがうまいな。
師はそう言った。彼は赤く染まった自分の両手を見ながらそれを聞いていた。
――相手は、殺されるその瞬間までお前に殺されるとは思っていなかっただろう。
狙われている。しかし誰に狙われているのか分からない。誰にやられるか、いつやられるか。そもそも、本当に狙われているのか。疑心暗鬼に陥り、相手が疲弊したところでとどめを刺す。
なかなか良いやり方だ。
師はいつも彼を誉める。
親が子にするように育て可愛がる。
ただ普通の親と違って、師は彼の本当の名を決して呼ばなかった。
そして、彼に暗殺技術を教え込んだ。
彼の足元に転がる骸は、正確に急所を一突きされている。彼が、やったのだ。
じわじわと上質な畳の上に赤いしみが広がっていく。
それがつま先を赤く染める直前に彼は踵を返した。すでに確保していた経路をたどり、安全な場所まで逃げる。
彼は王の「影」。その存在を誰にも知られてはならない。彼の師と彼を使う華金王以外。
駆けた。見つかってはならない。
一刻も早く逃げなければ。
人の通らない暗い裏路地を駆け、町をぬけて木のまばらな森に入る。
それでも止まらず、さらに小川を飛び越え、尾根を一つ越え、やっと足をゆるめた。そばにあった岩の陰に座りこみ、光のない空を見上げて息を整える。
虫の声も、獣の遠吠えも聞こえない。ただ、彼の荒い息だけが暗闇に響いた。
長い髪が汗でほほに張り付く。
今回の暗殺も成功だ。
しかし、彼はそれを喜ぶでもなくただぼんやりと宙を見つめている。
しばらくして、彼は懐から紙を取り出した。さきほど暗殺を行った部屋にあったものを拝借したのだ。
漆黒にぼんやりと浮かぶ白い表面をじっと見つめる。そこに何か大事な言葉が書いてあるかのように。
そして、思い切ったように自分の人差し指の腹を噛み切った。じわじわと血がにじんでくるそれを紙に押し付ける。ゆっくり、ゆっくり文字がかすれないように指を動かした。
幼いころ――多分まだ本当の母か父がいたころに聞いた言葉。
――ひ、こ。
間者として育てられる前の記憶はない。しかし、気付いた時にはこの名前が脳裏に焼き付いていた。記憶をたどると「ひこ」とやさしく呼びかける女性の声が浮かぶ。いや、きっとそれは自分で創り出した嘘の記憶なのだろう。
「ひ、こ」
彼は小さな声で呼んだ。応える者はいない。
――おい、そんなものは必要ないだろう。忘れてしまいなさい、暗鬼。
師はそう言って、何度も何度もその名前を忘れさせようとした。時には暗い部屋に閉じ込めて、時には暴力で。それでも、忘れなかった。忘れたくなかった。
「僕は、ひこ?」
分からない。それが本当に自分の名前なのだろうか。
彼はじっと名前の書かれた紙を見つめた。闇の中で生きていくうちに忘れてしまうのだろうか。これを忘れた時、自分はどうなってしまうのだろう。
目の前で、赤い炎が彼の名前を焼きつくす。赤い血しぶきが彼を覆う。そんな光景が脳裏に浮かんだ。
いや、そんなことはない。ここは、安全な森。彼に一時の居場所を与えてくれる冷たい闇の中だ。闇は嫌いだが、何も見ないで済むところは良い。色がないところも。赤い炎や血を見るたびに何かを失った気になる。
赤は嫌いだ。
* * *
嫌いだった。
彼は、目の前に咲き乱れる赤い花を見つめた。
あたりには日の光が降り注ぎ、過去の記憶を霞ませていく。
赤は、嫌いだったはずだ。
「お~い、比呼っ!」
彼は自分の名前を呼ぶ声に振りかえった。昔は枷のようだと思った長い髪が、やさしい風に緩やかになびく。
振り返った先には、満開の薄赤いつつじの花。
それに埋もれないように、背伸びしてめいいっぱい手を挙げた少女。
「比呼!」
もう一度彼女が呼ぶ。あたりまえのように自分の名前を――。その張りのある声は、ゆっくりと彼の体にしみ込んだ。
嘘の記憶ではなく、自分の声でもなく――。本当の自分の名前を呼んでくれる人がいてくれる。それがこんなにうれしいことだとは思わなかった。
赤は嫌いな色だった。しかし、薄赤の花に囲まれた彼女はとても輝いて見えて――。
「待って! 今行くから!」
彼は駆けだした。逃げるためではなく、誰かに指示されたわけでもなく、自分のために走ったのは初めてかもしれない。
――彼女は僕のありのままを受け入れてくれるから――。
彼女の周りには、彼と志を同じくする同志が一緒に彼を待っている。
――暗くて冷たい森を抜けて、
花を散らしながら、一目散に駆けた。
――やっと見つけた。
その勢いのまま、彼女の胴を抱える。
「な……!」
相手が驚きの声を上げるのも気にせず、自分が下になって彼女を引き倒した。
――あの時、君は僕を抱きしめて言ってくれたよね。
彼女の周りにいた目付役と護衛官の心配と怒りの顔が、青い空の手前に見える。それが無性にうれしくて、彼は笑った。声をあげて、まだ胸の上にいる少女を抱きしめて。
――僕はもう一人じゃないんだね。
「比呼」
自分の名前を呼んでくれる少女のぬくもり。暖かな日差し。
なぜだろう、涙が出てきた。
「比呼?」
腕の中から、気遣わしげな声が聞こえてくる。そんな風に呼んでもらえる日が来るなんて思わなかった。ずっと想像と夢の中だけで終わるのだと――。
明るくて、暖かくて、鮮やかな世界。
大きな声で笑い声とも泣き声ともつかない声を上げながら、真っ青な空を見上げた。
――ここが、僕の居場所。
【幕間話 - 本当の名前 完】
【次:キャラクター紹介と第二部あらすじ】→
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