龍神の詩 ~龍の姫は愛されながら大人になる~

白楠 月玻

文字の大きさ
19 / 201
  幕間話 - 本当の名前

幕間話 - 本当の名前

しおりを挟む
 
【暗鬼の過去とその後のお話】

赤は炎と血の色。

「赤は嫌いな色だった。でも、薄赤の花に囲まれた彼女はとっても輝いて見えて――」


-----


 ――お前は、人の心に付け入るのがうまいな。

 師はそう言った。彼は赤く染まった自分の両手を見ながらそれを聞いていた。

 ――相手は、殺されるその瞬間までお前に殺されるとは思っていなかっただろう。

 狙われている。しかし誰に狙われているのか分からない。誰にやられるか、いつやられるか。そもそも、本当に狙われているのか。疑心暗鬼に陥り、相手が疲弊ひへいしたところでとどめを刺す。

 なかなか良いやり方だ。

 師はいつも彼を誉める。
 親が子にするように育て可愛がる。

 ただ普通の親と違って、師は彼の本当の名を決して呼ばなかった。

 そして、彼に暗殺技術を教え込んだ。


 彼の足元に転がる骸は、正確に急所を一突きされている。彼が、やったのだ。

 じわじわと上質な畳の上に赤いしみが広がっていく。
 それがつま先を赤く染める直前に彼はきびすを返した。すでに確保していた経路をたどり、安全な場所まで逃げる。

 彼は王の「影」。その存在を誰にも知られてはならない。彼の師と彼を使う華金かきん王以外。

 駆けた。見つかってはならない。
 一刻も早く逃げなければ。

 人の通らない暗い裏路地を駆け、町をぬけて木のまばらな森に入る。
 それでも止まらず、さらに小川を飛び越え、尾根を一つ越え、やっと足をゆるめた。そばにあった岩の陰に座りこみ、光のない空を見上げて息を整える。
 虫の声も、獣の遠吠えも聞こえない。ただ、彼の荒い息だけが暗闇に響いた。

 長い髪が汗でほほに張り付く。

 今回の暗殺も成功だ。
 しかし、彼はそれを喜ぶでもなくただぼんやりと宙を見つめている。

 しばらくして、彼は懐から紙を取り出した。さきほど暗殺を行った部屋にあったものを拝借したのだ。
 漆黒にぼんやりと浮かぶ白い表面をじっと見つめる。そこに何か大事な言葉が書いてあるかのように。

 そして、思い切ったように自分の人差し指の腹を噛み切った。じわじわと血がにじんでくるそれを紙に押し付ける。ゆっくり、ゆっくり文字がかすれないように指を動かした。

 幼いころ――多分まだ本当の母か父がいたころに聞いた言葉。

 ――ひ、こ。

 間者として育てられる前の記憶はない。しかし、気付いた時にはこの名前が脳裏に焼き付いていた。記憶をたどると「ひこ」とやさしく呼びかける女性の声が浮かぶ。いや、きっとそれは自分で創り出した嘘の記憶なのだろう。

「ひ、こ」

 彼は小さな声で呼んだ。応える者はいない。

 ――おい、そんなものは必要ないだろう。忘れてしまいなさい、暗鬼あんき

 師はそう言って、何度も何度もその名前を忘れさせようとした。時には暗い部屋に閉じ込めて、時には暴力で。それでも、忘れなかった。忘れたくなかった。

「僕は、ひこ?」

 分からない。それが本当に自分の名前なのだろうか。
 彼はじっと名前の書かれた紙を見つめた。闇の中で生きていくうちに忘れてしまうのだろうか。これを忘れた時、自分はどうなってしまうのだろう。

 目の前で、赤い炎が彼の名前を焼きつくす。赤い血しぶきが彼を覆う。そんな光景が脳裏に浮かんだ。

 いや、そんなことはない。ここは、安全な森。彼に一時いっときの居場所を与えてくれる冷たい闇の中だ。闇は嫌いだが、何も見ないで済むところは良い。色がないところも。赤い炎や血を見るたびに何かを失った気になる。

 赤は嫌いだ。


  * * *


 嫌いだった。

 彼は、目の前に咲き乱れる赤い花を見つめた。
 あたりには日の光が降り注ぎ、過去の記憶を霞ませていく。

 赤は、嫌いだったはずだ。

「お~い、比呼ひこっ!」

 彼は自分の名前を呼ぶ声に振りかえった。昔はかせのようだと思った長い髪が、やさしい風に緩やかになびく。

 振り返った先には、満開の薄赤いつつじの花。

 それに埋もれないように、背伸びしてめいいっぱい手を挙げた少女。

「比呼!」

 もう一度彼女が呼ぶ。あたりまえのように自分の名前を――。その張りのある声は、ゆっくりと彼の体にしみ込んだ。

 嘘の記憶ではなく、自分の声でもなく――。本当の自分の名前を呼んでくれる人がいてくれる。それがこんなにうれしいことだとは思わなかった。

 赤は嫌いな色だった。しかし、薄赤の花に囲まれた彼女はとても輝いて見えて――。

「待って! 今行くから!」

 彼は駆けだした。逃げるためではなく、誰かに指示されたわけでもなく、自分のために走ったのは初めてかもしれない。

 ――彼女は僕のありのままを受け入れてくれるから――。

 彼女の周りには、彼と志を同じくする同志が一緒に彼を待っている。

 ――暗くて冷たい森を抜けて、

 花を散らしながら、一目散に駆けた。

 ――やっと見つけた。

 その勢いのまま、彼女の胴を抱える。

「な……!」

 相手が驚きの声を上げるのも気にせず、自分が下になって彼女を引き倒した。

 ――あの時、君は僕を抱きしめて言ってくれたよね。

 彼女の周りにいた目付役と護衛官の心配と怒りの顔が、青い空の手前に見える。それが無性にうれしくて、彼は笑った。声をあげて、まだ胸の上にいる少女を抱きしめて。

 ――僕はもう一人じゃないんだね。

「比呼」

 自分の名前を呼んでくれる少女のぬくもり。暖かな日差し。

 なぜだろう、涙が出てきた。

「比呼?」

 腕の中から、気遣わしげな声が聞こえてくる。そんな風に呼んでもらえる日が来るなんて思わなかった。ずっと想像と夢の中だけで終わるのだと――。

 明るくて、暖かくて、鮮やかな世界。
 大きな声で笑い声とも泣き声ともつかない声を上げながら、真っ青な空を見上げた。

 ――ここが、僕の居場所。



【幕間話 - 本当の名前 完】

【次:キャラクター紹介と第二部あらすじ】→
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双

四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。 「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。 教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。 友達もなく、未来への希望もない。 そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。 突如として芽生えた“成長システム”。 努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。 筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。 昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。 「なんであいつが……?」 「昨日まで笑いものだったはずだろ!」 周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。 陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。 だが、これはただのサクセスストーリーではない。 嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。 陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。 「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」 かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。 最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。 物語は、まだ始まったばかりだ。

ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜

KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞 ディノッゾ、36歳。職業、馬車の御者。 諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。 そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。 捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。 腕には、守るべきメイドの少女。 眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。 ―――それは、ただの不運な落下のはずだった。 崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。 その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。 死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。 だが、その力の代償は、あまりにも大きい。 彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”―― つまり平和で自堕落な生活そのものだった。 これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、 守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、 いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。 ―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。

処理中です...