龍神の詩 ~龍の姫は愛されながら大人になる~

白楠 月玻

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  第三部 - 二章 三冬尽く

二章七節 - 氷中闇を呼ぶ

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 隣で氷が砕けた次の瞬間、比呼ひこの体の下から支えが消えた。何か音がしたのかもしれないが、衝撃と恐怖で混乱した比呼には何も分からない。

「落ち着け、チビ」

 冷たい世界で息を止めた比呼の耳に、男の声が届いた。

「死にたいのか? 与羽ようの顔に泥を塗ったら許さんぞ」

 どうしてここで与羽の名が出てくるのか。

 ――ああ、僕が与羽に仕えているから……?

 あんたを信じると言った与羽の言葉がよみがえる。
 比呼の体から、無駄な力が抜けた。混乱していた心が落ち着きを取り戻す。

 体を浮かせておくための、必要最低限の動作。水の冷たさを感じないほどの集中力。暗殺者として鍛えてきた技術を駆使しているが、その心にかつての黒い塊はない。

 比呼は冷たい水をかいた。一かき、二かき――。三かきで池に落ちた少年のところまでたどり着く。周りの氷は男の持つ長い竹竿で全て割られていた。

「もう、大丈夫だから」

 比呼は少年の冷たい手を強く握った。少年が比呼に縋り付いてくる。必死に生きようとする動作が比呼の体勢を崩すが、比呼はあえて自分が沈むことで少年の体を水の外に出した。目を固く閉じ、息を止めて岸の方へ。

 頭の近くで水面を軽くたたく振動を感じる。男が竿を使って戻るべき方向を示してくれているようだ。

 ――大丈夫。

 比呼は自分の心に言い聞かせた。冷たい闇の中でも、進むべき道は見失わない。

 少年を頭上に掲げて慎重に泳ぎ、池の底に足がついたらさらに速度を上げて歩く。水面から顔を出した比呼の目の前には一本の道――水路ができていた。氷が池の縁までまっすぐ割られているのだ。

「がんばれ……」

 はじめよりおとなしくなった少年に声をかけて、比呼はそこを進んだ。氷の破片をかき分けて。

「大丈夫」

 比呼は自分の着物に縋り付こうとしてる少年を強く抱き寄せた。彼の顔が水につからないよう細心の注意を払うのも忘れない。

 水路の終点には、例の男が立っていた。そこは氷が厚いらしい。

 比呼は寒さで痙攣けいれんする腕を意志の力で動かして、少年を男に渡した。池の深さは腰ほどまでに浅くなっている。

「よく耐えたな」

 少年に励ましの言葉をかけた男は、手早く少年のぬれた服を脱がせた。寒さで震える少年の体を頭に巻いていた手拭いで拭き、自分の上着を羽織らせている。手ぬぐいの下は綺麗に剃り上げた禿げ頭だ。

 比呼は少年の処置をする男を横目に、凍った池からはい出した。

「おいおい。自力で出られるのか」

「着衣水泳の経験はあるので」

「すさまじい精神力と体力だな」

 男は感心したように言う。比呼はそれを聞きながら、水を吸って重たくなった足袋たびを脱いだ。その瞳にはまだ闇が残っている。

「まぁ、ご苦労さん」

 比呼の表情が池に落ちる前とまったく違うことに気づいて、男はねぎらいの言葉を口にした。

「手伝ってやろう」

 濡れた着物を脱ぐの手間取っていた比呼に代わって、男が水を吸って固くなった帯をほどいてくれた。男の手が肌に触れる。その熱に比呼ははっとした。

「ありがとう、ございます」

 ぎこちなくほほえんで、顔を上げた。

「礼を言うのはこっちの方だ」

 比呼は男の手を借りながら濡れた衣服を脱いで、乾いた着物を羽織った。男が着ていたものと池に入る前に比呼が脱いでいた上着。少年にも比呼にも着物を貸してくれた男はかなり薄着になっているが、その表情に寒さを感じている様子はない。

「あなたは――?」

 そう問いかける比呼の目からは、すでに闇が消えていた。人懐っこい表情に、男は満足そうにうなずいた。

「その前に、少しでも暖かいところに行こう」

 彼の言う通りかもしれない。様々な過酷な環境を経験してきた比呼ならば耐えられるが、彼よりも長い間氷水に浸かっていた少年は気がかりだ。男は軽々と比呼を肩に担ぎ上げ、がたがた震えている少年を片腕で抱き上げた。

「竿は置いといてくれていい」

 氷を砕くのに使った竹竿を一瞥いちべつして、歩きはじめる。

「悪かったな。いつもこの時期になると、城下町周辺の氷を割って回るんだが、今年は急に暖かくなって間に合わなかった」

「いえ……」

 比呼は小さく首を振った。

「だが、お前が居合わせてくれて良かった。さすがの胆力だと言っておく」

 うすうすそんな気はしていたが、彼は比呼の素性を知っているらしい。ほんの一握りの人間にしかおおやけにされていないそれを把握しているということは――。

「……あなたは?」

 比呼は再び尋ねた。

「中州国武官第一位九鬼北斗くき ほくと

 大斗だいと千斗せんと兄弟の父親。中州最強の男。

 比呼はもう一度彼の顔を確認しようとしたが、肩に担がれた状態では背中しか見えない。

「いつもは息子が世話をかけて申し訳ない」

 謝罪にしては軽い口調で北斗は言う。彼の長男大斗は、比呼の暗殺任務を失敗に追いやった武の達人で、次男の千斗は冬の間何度も比呼の様子を確かめに来てくれた。

「いえ……」

「だが、大斗は気に入った奴の相手しかしないから、お前は大斗に気に入られたんだろうな」

「そうなんですか」

 たしかに大斗も長期任務で城下町を離れるまでは、比呼を繰り返し訪れていた。あれは彼なりの気遣いだったのか。比呼と関わりたくないなら、初めから比呼の監視を弟に任せることもできたはずだ。

「と言うことは、お前はそれなりの使い手なんだろう」

 少しだけ北斗の雰囲気が変わったが、比呼は気にしないことにした。たとえそれが、大斗の纏う好戦的な空気にとても近かったとしても――。

「そんなことないです。与羽にも水月すいげつ大臣にも負けましたし」

 比呼は自分の暗殺失敗時を思い返した。城主一族を殺す任務を負った彼は、不意打ちで中州の姫与羽を殺そうとした。しかし、彼女の回避は思いのほか早く、彼女やその護衛をしていた雷乱らいらんに手間取っている間に、城主を守る大臣や大斗に追い詰められてしまったのだ。

「あいつらを一人で相手できるわけないだろ。うちの若手最上位にいる奴らだぞ」

「そうだったんですね」

 どうやらあの時の比呼は、とんでもない人々を相手にしていたらしい。

「毎年晩夏に武術大会があるから、それを見に来るといい。もちろん、参加してくれても良いけどな」

 北斗は少し楽しそうだ。

「もう少し、馴染めたら――」

 比呼はその答えを曖昧にぼかした。先ほどの子どもたちの反応を見てもわかる。比呼はまだこの町に受け入れられていないのだ。いつ彼の素性が民衆に知られるかもわからない。比呼はいまだ薄氷の上。
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