143 / 201
外伝 - 第四章 文官登用試験
四章七節 - 夏の化身
しおりを挟む
「辰海!」
アメが言い淀んでいる隙に、与羽はどんどん進んでいく。空き部屋をいくつか通り過ぎて、辰海の部屋の前へ。
「辰海、入るよ」
与羽は入室の許可を得る前に、アメが閉め切った部屋の戸を力強く開いた。アメの位置から辰海の声は聞こえない。わかったのは、与羽が満面の笑みでその部屋に飛び込んだことだけ。
一方の与羽には、突然差し込んだ夏の日差しに目を細める辰海が見えた。
「何?」
「辰海!」
辰海が低い声で言うのと、与羽が明るく呼ぶのがほとんど同時だった。
与羽が勢いよく辰海の前に座ると、彼女のまとっていた夏の空気が熱い風になって辰海に吹き付ける。息苦しくなる湿気と、緑の匂い。少しでも暑さをしのぐためにむき出しにした、良く日に焼けた腕。同じ目線の高さに入り込んでくる、大きな青紫色の瞳。まぶしい夏日の庭園を背景に座る彼女は、夏の化身のように見えた。
「辰海」
与羽はとがった犬歯を見せて、にっこり笑っていた。
「四次試験一位通過おめでとう!」
明るい声での賞賛。
そういえば、夏は好きな季節だった。緑色が鮮やかで、虫の息づかいを感じられて、世界全体が生命に満ち溢れているから。脳内を埋め尽くす夏の記憶と目の前の眩しい笑顔に、辰海のほほは自然と緩んでいた。そうすると、自分の吐く息さえも熱をもって、夏の息吹の一つのように感じられる。
しかし、ダメなのだ。辰海ははっとして、表情を引き締めた。
「当たり前のことだよ」
できるだけ冷たく聞こえるように答える。
「当たり前のことを当たり前にがんばれるって、すごいことじゃん」
それでも、与羽のまとう熱は消えない。自分のことのように喜んでいる与羽を見ると、心が乱れた。嬉しいような。いらだたしいような。この結果に一番感動して、安心しているのは辰海であるはずなのに、目の前の与羽は辰海以上に大きな感情を見せている。
「……与羽」
久しぶりに本人の前でその名前を呼んだ気がする。
「僕の邪魔をしないで」
「こういう日くらいハメ外して喜んで、遊んでもいいじゃん。ほら、アメたちと一緒にさ」
与羽はアメがいるであろう方向を腕全体で指した。
五次試験の面談は、辰海の家柄ならば合格確実。六次試験は官吏見習いとしての実務なので、辰海の文官登用試験は四次試験を通過した時点で終わったようなもの。しかし――。
「遠慮しておく」
反射的にそんな言葉が辰海の薄い唇から飛び出した。
「なんで?」
「そういう気分じゃないから」
今まで何度となく繰り返してきた答え。与羽はアメと同じように怒るだろうか。辰海が冷めた視線を送る前で、与羽の表情はめまぐるしく変わった。悲しそうな顔をしたと思ったら、怒りを見せ、呆れたように息をつこうとして、結局笑顔に戻る。
「それなら、しかたない、か」
残念そうに、少し寂しさの見える笑顔で与羽は納得を示した。ゆっくりと立ち上がり、退室の意志まで見せている。
「まぁ、さ。辰海。繰り返しになるけど、四次試験一位通過おめでとう。あんたは当たり前のことって言うけど、私は今までいっぱい勉強して努力した結果だと思う。本当に、すごいと思う」
辰海が口をはさむ間もなく言い切って、与羽は退室していった。「じゃ」と言う短い別れの言葉だけを残して。
突然やってきて、言いたいことだけ言って、すぐに帰っていく。強い風が吹き抜けたような衝撃だった。しかし、彼女の言葉にアメのような不満は一切なく――。
――なんだろう。
与羽は辰海を褒める言葉しか言わなかった。にもかかわらず、アメと話した時以上に神経がいら立っている。感情を乱す熱い塊に、辰海は自分の胸を押さえた。ひたひたと与羽の素足の足音が遠のいていく。騒々しい、でも、元気な気配。
「やめてよ」
辰海はほほをなでるぬるい風につぶやいた。与羽は部屋の戸を少し開けた状態でいなくなったようだ。辰海が暑くないように。辰海が大好きだった風景が見えるように。
顔をあげれば、頭痛を覚えるほど強烈な夏の日差しに照らされた庭園がある。光の帯があたりを白くかすませ、その中で桜の若木が緑の葉をめいいっぱい伸ばしている。辰海が生まれた時に植えられた、山桜の木だ。それが一番よく見えるから、かつての辰海はこの場所を自分の定位置にしたのだった。顔をあげれば、すぐに好きな風景が目に飛び込んでくるように。辰海はすっかり忘れていたが、与羽はそれを覚えていて、戸を開けたまま行ったのだろう。
「あぁ」
小さく漏れた吐息は、感嘆にも絶望にも思えた。とてもきれいだ。
どれだけ与羽を敵視しても、与羽はずっと辰海の味方でいてくれる。与羽に感謝するべきなのはわかっている。しかし、心がそれを許さない。与羽を憎めと大声で叫ぶ。
――救いようがない。
自分に非があると知っていても、改められない。ふと浮かんだ諦めの感情に、乱れた心が落ち着くのを感じた。
――本当に、救いようがない。
「僕は、いい官吏にはなれないよ」
虚空につぶやいた辰海のほほを、熱いしずくが伝った。
アメが言い淀んでいる隙に、与羽はどんどん進んでいく。空き部屋をいくつか通り過ぎて、辰海の部屋の前へ。
「辰海、入るよ」
与羽は入室の許可を得る前に、アメが閉め切った部屋の戸を力強く開いた。アメの位置から辰海の声は聞こえない。わかったのは、与羽が満面の笑みでその部屋に飛び込んだことだけ。
一方の与羽には、突然差し込んだ夏の日差しに目を細める辰海が見えた。
「何?」
「辰海!」
辰海が低い声で言うのと、与羽が明るく呼ぶのがほとんど同時だった。
与羽が勢いよく辰海の前に座ると、彼女のまとっていた夏の空気が熱い風になって辰海に吹き付ける。息苦しくなる湿気と、緑の匂い。少しでも暑さをしのぐためにむき出しにした、良く日に焼けた腕。同じ目線の高さに入り込んでくる、大きな青紫色の瞳。まぶしい夏日の庭園を背景に座る彼女は、夏の化身のように見えた。
「辰海」
与羽はとがった犬歯を見せて、にっこり笑っていた。
「四次試験一位通過おめでとう!」
明るい声での賞賛。
そういえば、夏は好きな季節だった。緑色が鮮やかで、虫の息づかいを感じられて、世界全体が生命に満ち溢れているから。脳内を埋め尽くす夏の記憶と目の前の眩しい笑顔に、辰海のほほは自然と緩んでいた。そうすると、自分の吐く息さえも熱をもって、夏の息吹の一つのように感じられる。
しかし、ダメなのだ。辰海ははっとして、表情を引き締めた。
「当たり前のことだよ」
できるだけ冷たく聞こえるように答える。
「当たり前のことを当たり前にがんばれるって、すごいことじゃん」
それでも、与羽のまとう熱は消えない。自分のことのように喜んでいる与羽を見ると、心が乱れた。嬉しいような。いらだたしいような。この結果に一番感動して、安心しているのは辰海であるはずなのに、目の前の与羽は辰海以上に大きな感情を見せている。
「……与羽」
久しぶりに本人の前でその名前を呼んだ気がする。
「僕の邪魔をしないで」
「こういう日くらいハメ外して喜んで、遊んでもいいじゃん。ほら、アメたちと一緒にさ」
与羽はアメがいるであろう方向を腕全体で指した。
五次試験の面談は、辰海の家柄ならば合格確実。六次試験は官吏見習いとしての実務なので、辰海の文官登用試験は四次試験を通過した時点で終わったようなもの。しかし――。
「遠慮しておく」
反射的にそんな言葉が辰海の薄い唇から飛び出した。
「なんで?」
「そういう気分じゃないから」
今まで何度となく繰り返してきた答え。与羽はアメと同じように怒るだろうか。辰海が冷めた視線を送る前で、与羽の表情はめまぐるしく変わった。悲しそうな顔をしたと思ったら、怒りを見せ、呆れたように息をつこうとして、結局笑顔に戻る。
「それなら、しかたない、か」
残念そうに、少し寂しさの見える笑顔で与羽は納得を示した。ゆっくりと立ち上がり、退室の意志まで見せている。
「まぁ、さ。辰海。繰り返しになるけど、四次試験一位通過おめでとう。あんたは当たり前のことって言うけど、私は今までいっぱい勉強して努力した結果だと思う。本当に、すごいと思う」
辰海が口をはさむ間もなく言い切って、与羽は退室していった。「じゃ」と言う短い別れの言葉だけを残して。
突然やってきて、言いたいことだけ言って、すぐに帰っていく。強い風が吹き抜けたような衝撃だった。しかし、彼女の言葉にアメのような不満は一切なく――。
――なんだろう。
与羽は辰海を褒める言葉しか言わなかった。にもかかわらず、アメと話した時以上に神経がいら立っている。感情を乱す熱い塊に、辰海は自分の胸を押さえた。ひたひたと与羽の素足の足音が遠のいていく。騒々しい、でも、元気な気配。
「やめてよ」
辰海はほほをなでるぬるい風につぶやいた。与羽は部屋の戸を少し開けた状態でいなくなったようだ。辰海が暑くないように。辰海が大好きだった風景が見えるように。
顔をあげれば、頭痛を覚えるほど強烈な夏の日差しに照らされた庭園がある。光の帯があたりを白くかすませ、その中で桜の若木が緑の葉をめいいっぱい伸ばしている。辰海が生まれた時に植えられた、山桜の木だ。それが一番よく見えるから、かつての辰海はこの場所を自分の定位置にしたのだった。顔をあげれば、すぐに好きな風景が目に飛び込んでくるように。辰海はすっかり忘れていたが、与羽はそれを覚えていて、戸を開けたまま行ったのだろう。
「あぁ」
小さく漏れた吐息は、感嘆にも絶望にも思えた。とてもきれいだ。
どれだけ与羽を敵視しても、与羽はずっと辰海の味方でいてくれる。与羽に感謝するべきなのはわかっている。しかし、心がそれを許さない。与羽を憎めと大声で叫ぶ。
――救いようがない。
自分に非があると知っていても、改められない。ふと浮かんだ諦めの感情に、乱れた心が落ち着くのを感じた。
――本当に、救いようがない。
「僕は、いい官吏にはなれないよ」
虚空につぶやいた辰海のほほを、熱いしずくが伝った。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
セクスカリバーをヌキました!
桂
ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。
国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。
ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双
四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。
「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。
教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。
友達もなく、未来への希望もない。
そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。
突如として芽生えた“成長システム”。
努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。
筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。
昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。
「なんであいつが……?」
「昨日まで笑いものだったはずだろ!」
周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。
陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。
だが、これはただのサクセスストーリーではない。
嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。
陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。
「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」
かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。
最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。
物語は、まだ始まったばかりだ。
ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜
KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞
ディノッゾ、36歳。職業、馬車の御者。
諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。
そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。
捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。
腕には、守るべきメイドの少女。
眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。
―――それは、ただの不運な落下のはずだった。
崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。
その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。
死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。
だが、その力の代償は、あまりにも大きい。
彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”――
つまり平和で自堕落な生活そのものだった。
これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、
守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、
いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。
―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる