龍神の詩 ~龍の姫は愛されながら大人になる~

白楠 月玻

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  外伝 - 第四章 文官登用試験

四章十節 - 劣等感

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辰海たつみ?」

 それは、辰海が一番聞きたくない声だった。自室へ向かう縁側えんがわに、与羽よう太一たいちが腰かけている。太一は辰海を見た瞬間に離席したが、与羽は立ちあがって辰海に駆け寄ってきた。

「辰海、大丈夫?」

 与羽は辰海の表情からその内心に渦巻く闇に気づいたようだった。もしかすると、与羽とこの場所で会うのも、中州城主の計画のうちなのかもしれない。太一に依頼すれば簡単にお膳立てできるだろう。太一が一瞬でいなくなったのも、きっと辰海と与羽だけで話せる空間を作るため……。

 まだ、挽回できるのかもしれない。辰海の面談は終わったが、結果が出るのはすべての面談が終わったあと。それまでに、与羽との関係を改善できれば――。

「無様な奴って笑いにきたの?」

 しかし、辰海はどうしても与羽を受け入れられなかった。

「……面接、うまくいかんかったん?」

 与羽の心配そうな声が聞こえる。辰海は足を止めることなく自室へと向かった。この場所は眩しすぎる。そう思った。

「辰海は全然無様なんかじゃないと思う」

 与羽は声をかけなくてもついてくる。

「あんたがひとりで誰よりもがんばっとったの、知っとる。朝早くから、夜遅くまで。毎日毎日。遊びもせずに、ずーっと。四次試験の成績、一番だったじゃん」

 書斎に倒れ込むように座った辰海の隣に、与羽もゆっくりと腰を下ろした。

「首席で準吏じゅんりになれなかったら、……意味なんてないんだよ」

 辰海自身が驚くほど冷たい声が出た。

「……そんなことないと、私は思う。辰海がどう思っていようと、私にとってあんたは賢くてまじめで努力家な、最強の幼馴染じゃもん」

 辰海の努力を認めてくれる。それは今の辰海が最も望んだ行動だった。

「僕は古狐ふるぎつねなんだから当たり前だよ」

 それでも、なぜか彼女に対しては冷たい言葉ばかりを投げつけてしまうのだ。

「当たり前なら、あんたはそんなに苦しんどらんじゃろ。無理するくらいがんばったんだと思う」

 与羽の言葉は、本当に――。

「……っ!」

 辰海の目から大粒のしずくがこぼれ落ちた。慌てて膝を抱えて顔を隠したが、きっと与羽に見えてしまっただろう。

「辰海……」

 固く目を閉じた暗い世界に与羽を感じる。あたたかい。明るく輝く世界の中心。この光とともにいれば、辰海は幸せなのかもしれない。脇役として、ほどほどの仕事をして、一生――。その未来は手を伸ばせば簡単に届くところにある。

 ――僕は、出来損ないだから、しかたない。

 龍の名残を持てず、官吏登用試験に失敗し、城主の隣にもいられない。古狐家は代々中州城主を支えてきたというのに、辰海は乱舞らんぶではなく与羽を任された。いや、与羽の後見人になって欲しいという言葉さえ、辰海を試すための虚言うそだったのかもしれない。すべては、辰海が「古狐」として不出来だから……。

 そう考えると苦しみが止まらない。自分は一位の大臣になって、この国を導いていく。当たり前だと思っていた未来が、ひどく遠く思えた。このまま努力を続けるのも、諦めるのもつらい。どちらの未来を考えても、涙が止まらなくなるのだ。

「たつ……」

 与羽のやさしい声は、救いなのか誘惑なのか。

 与羽は辰海の努力を見てくれている。その一方で、与羽さえいなければもっと多くの人が辰海に注目してくれたのではないかという疑問もある。与羽の思いやりを素直に受け入れられなかった。

「私、辰海なら立派な古狐大臣になれるって信じとる」

 それは辰海が求める言葉とは違う。重い重い期待のかせ

 ――無理だよ。

 心の中でそう答えた。

「…………」

 与羽の言葉はない。かける言葉が尽きてしまったのだろうか。ただ、熱い彼女の手が辰海の腕や肩に触れ続けている。そこから何かが流れ込んでくるようにも、流れ出していくようにも感じられた。

 ――苦しい。
 ――つらい。
 ――出来損ない。

 そんな言葉が、辰海の脳裏をぐるぐる巡り続ける。そのたびに、涙があふれだす。

「辰海」

 時折、与羽がその名を呟いた。それだけの時間。与羽が思いやり深くて、心やさしい少女であることは良く知っている。アメや他の人に言われるまでもない。それに比べて、自分の性根がどれほど暗く、劣等感にまみれているかも。

 わかっているのだ。与羽の周りに人が集まるのは、彼女の才能によるものだと。辰海がうらやんでねたむのは筋違いだと。ただ、辰海が自分の無能を受け入れられない。与羽を突き放せば、彼女は一人で迷い、何もできなくなると思っていた。しかし、与羽は新たな居場所を作り、笑顔で暮らし、辰海に手を差し伸べ続けてくれる。何もできなくなったのは辰海の方。

「辰海」

 与羽のあたたかい声。暗くふさぎ込んだ心に光が差すような。アメの言う通り、きっと辰海はこの太陽のような少女が好きなのだろう。すべてのしがらみを捨てて、彼女とだけいられたら――。

 ――でも。

 受け入れられない。

 胸が締め付けられるようだった。軽い吐き気を覚えて、辰海は膝を抱く両腕に力を込めた。

「たつ……。大丈夫?」

 与羽の気づかわしげな声。

「君とは、……いたくない」

 与羽よりも劣っている自分を強く感じてしまうから。与羽が明るく輝けば輝くほど、辰海は世界の端へと追いやられていく。暗くて醜い自分があらわになってしまう。

「……ごめん」

 怒るでも理由を尋ねるわけでもなく、与羽はただ小さく謝罪の言葉を口にした。しかし、その態度がいっそう辰海をみじめにさせるのだ。

「謝らないでよ」

 与羽とちゃんと話し合うことができれば、この気持ちは楽になるのだろうか。かつての与羽はそれを望んでいたはず。

「与羽……」

 名前を呼んだ。劣等感にまみれた自分をさらけ出したかった。

「…………」

 しかし、矜持プライドがそれを許さない。自分は筆頭文官家の長男で、誰よりも賢くて、誰よりも努力してきた。弱い自分を受け入れられないから、頼れない。一度突き放した与羽を頼るのは、今の辰海にとって大きな敗北だった。

「辰海……」

 与羽が名前を呼んでくれる。少し低めた、やさしい声。

「もうちょっとだけここにいても良い?」

 ――嫌だ。
 ――嬉しい。

 相反する感情が辰海の中を駆け巡る。

  無言でうつむく辰海の頭を、与羽はポンポンと撫でた。褒めるように、ねぎらうように。言葉はなかったが、その動作が辰海を思いやったものであることは疑いようもなかった。

 体が熱い。心を焼くのは屈辱か、恋慕か。胸中に灯る大きな炎は、受け入れるには大きく、手放すには惜しい。

 ――与羽。

 その呼びかけは声にならなかった。

 ――ああ……。

 僕は出来損ないだ。本当に。

 首席で準吏になるのなら、今が最後の挽回チャンス。それなのに、何もできない。謝罪の一言が言えない。この無垢な光を直視できない。

 ――僕は、本当に。

 救いようのない、ダメ人間だ。
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