龍神の詩 ~龍の姫は愛されながら大人になる~

白楠 月玻

文字の大きさ
161 / 201
  外伝 - 第六章 炎狐と龍姫

六章五節 - 幸運の贈り物

しおりを挟む
「ダメ!」

 与羽ようの手が辰海たつみの手を押さえた。辰海の想像にあるのよりも強い力で引きはがされる。

「辰海が死ぬ必要なんかこれっぽっちもないよ。辰海は何も悪くないもん!」

「与羽……」

 辰海を見上げる与羽の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだったが、きっと辰海も同じようなものだろう。

「君は常識知らずで、度を越したおせっかいで、本当に腹立たしい。君は僕の非を許し続けてくれるのに、僕は謝罪の一つもできない」

 辰海は与羽の手を払い、ゆらりと一歩踏み出した。

「君はやさしくて、お日様みたいで、みんなに愛されていて――」

 ――そして、僕も君が大好きだ。

「僕は君に嫉妬してばかりいる。それは君が自分の人柄と才能と努力で得たものなのに」

「辰海?」

 急に冷静な口調で話しはじめた幼馴染を案じて、与羽の手が再び辰海に触れた。しかし、辰海はそれを強く押し返す。与羽は石垣の前に尻餅をついた。

「僕も、君みたいになりたかった」

 真っ直ぐ見つめてくれる青紫の双眸そうぼうにそう笑いかけた。辰海の背後にはそれ以上地面がない。三メートルほど下に大岩の転がる川原があるだけだ。

「たつ!」

 与羽は辰海のただならぬ雰囲気に気付いたのだろう。辰海の記憶にない俊敏さで飛び出してきた。その必死な様子が、少しうれしかった。

 背後に身を投げようとした辰海の手を、与羽がつかんだ。しかし、与羽の体重と筋力では、辰海を引き戻せない。二人の体が傾いた瞬間、辰海の心を今まで感じたことがないほど大きな恐怖と後悔が襲った。

「放して!」

 叫んだ。

 与羽が好きだから? 城主一族を大切にする古狐ふるぎつねの本能? 理由は何でも良い。辰海はなんとか与羽を押し返そうとした。

 しかし、辰海を助けたいと思う与羽の意志も強い。与羽は自分の体を回転させた。その勢いで、辰海の体と位置を入れ替える。与羽が辰海の腹を鋭く蹴った。

「うぐっ……」

 予想外の衝撃に、辰海はそのまま石垣の上に膝をついてしまった。一方の与羽は下へ。

「なれるよ!! 辰海は頑張り屋さんだから!」

 与羽の顔はひきつっていた。辰海を安心させるために笑おうとしているのがわかる。しかし、その表情には恐怖もはっきりと見てとれて……。

「与羽!」

 手を伸ばそうとしたにも関わらず、恐怖にすくんだ体はほとんど動かない。ただ、ゆっくりと落ちていく与羽を見つめるだけ。同時に、たくさんの与羽との思い出が脳裏を駆け巡った。笑って、怒って、いたずらして、泣いて、そしてまた笑ってくれる少女。永遠にも感じられた一瞬で見たのは、宝物のような幸せな記憶だった。与羽に対する憎しみも嫉妬も消えていた。今はただ与羽を失う恐怖と、その苦痛をごまかそうとするかのように浮かぶ走馬灯だけが辰海の中にあった。

 このまま時間が止まって欲しい。辰海がそう祈った瞬間、与羽がわずかに身をよじって――。
 ゴッと、嫌な音がした。その瞬間、幸福の記憶は完全に消え失せた。残ったのは恐怖と後悔。

「与羽!」

 頭から川原に落ちた与羽に、辰海は階段を飛び越えて駆け寄った。

「……そんなことしたら、足くじく」

 どうやら与羽に意識はあるようだ。石垣をなかば落ちるように滑り降りた辰海に、青紫色の瞳を向けている。
 上の方で、「ひゅー」と指笛を吹く音が聞こえた。異常に気付いた警備の武官が人を呼んでいるのだ。

「すぐに助けが来るから」

 辰海は自分の着物の袖を与羽の額に押し当てた。そこから、多量の血が流れ出ていたから。

「辰海」

「動かないで。頭を打ってるんだから」

「あんたはやさしいなぁ」

 そんな言葉に涙があふれた。

「君ほどじゃないよ」

「言い損ねとったけど、私も、ずーっとあんたみたいになれたらなぁって思っとった。賢くて、努力家で、かっこよくて、何でもできる……。私は、誰かに助けてもらわんとなんにもできないから」

「与羽……」

「与羽!」

 誰かが駆けてくる。警護の武官だ。辰海が顔をあげるのと、若い男が膝をつくのが同時だった。

大斗だいと先輩のそんなに必死な顔、初めて見たかも」

 与羽は彼の顔を見上げて力なく笑った。

「傷にさわる。黙ってて」

 大斗の大きな手が、与羽の前髪を慎重にかきあげた。傷口を押さえる辰海の着物が赤く染まっている。

「お前が突き落としたの?」

 辰海を見る大斗の目は、今にも切りかかりそうなほど殺気に満ちていた。

「違います」

 辰海が答える前に声を発したのは与羽だ。

「私が足を滑らせて。辰海は助けてくれようとしたんです」

 大斗の顔には見え透いた嘘をつくなと書いてある。彼は辰海の敵対心を良く知っているのだから。だから、辰海と与羽が屋敷を抜け出したことに気づいて注視していた。何かあったらすぐに駆けつけられるように。

「本当です。先輩」

 与羽は否定を繰り返す。

「お前の言い分は?」

 しかし、辰海に尋ね直す大斗の厳しい面持ちは変わらない。

「僕は――」

 素直に白状するべきだ。自分が突き落としましたと。与羽が落ちたのは辰海のせいなのだから、辰海が突き落としたようなものだ。

「辰海」

 しかし、辰海が覚悟を決める前に与羽が話しかけてくる。

「辰海、あんたはだめなんかじゃないし、あんたならなんでもできるって、私信じとる。だから生きて欲しい」

 震える与羽の手が辰海の頭に伸びた。弱い力だった。それでも、促されるまま、辰海は頭を下げる。一瞬、唇に柔らかいものが触れた。

「おまじない。私の幸運が、辰海に移りますように。辰海が、幸せになれますように」

 小さく笑う与羽の唇は、辰海の涙でぬれていた。自分の身を危険にさらしても、与羽は辰海の幸せを祈り続けてくれる。温かいものが、辰海の心にあふれた。

「与羽……。ごめん」

 自然とそんな言葉が漏れた。

九鬼くき武官、僕はどんな罰でも受ける覚悟があります」

 この一瞬だけかもしれない。それでも、辰海の枯れた心は、彼女の口づけによって確かに満たされたのだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

セクスカリバーをヌキました!

ファンタジー
とある世界の森の奥地に真の勇者だけに抜けると言い伝えられている聖剣「セクスカリバー」が岩に刺さって存在していた。 国一番の剣士の少女ステラはセクスカリバーを抜くことに成功するが、セクスカリバーはステラの膣を鞘代わりにして収まってしまう。 ステラはセクスカリバーを抜けないまま武闘会に出場して……

旧校舎の地下室

守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

クラス最底辺の俺、ステータス成長で資産も身長も筋力も伸びて逆転無双

四郎
ファンタジー
クラスで最底辺――。 「笑いもの」として過ごしてきた佐久間陽斗の人生は、ただの屈辱の連続だった。 教室では見下され、存在するだけで嘲笑の対象。 友達もなく、未来への希望もない。 そんな彼が、ある日を境にすべてを変えていく。 突如として芽生えた“成長システム”。 努力を積み重ねるたびに、陽斗のステータスは確実に伸びていく。 筋力、耐久、知力、魅力――そして、普通ならあり得ない「資産」までも。 昨日まで最底辺だったはずの少年が、今日には同級生を超え、やがて街でさえ無視できない存在へと変貌していく。 「なんであいつが……?」 「昨日まで笑いものだったはずだろ!」 周囲の態度は一変し、軽蔑から驚愕へ、やがて羨望と畏怖へ。 陽斗は努力と成長で、己の居場所を切り拓き、誰も予想できなかった逆転劇を現実にしていく。 だが、これはただのサクセスストーリーではない。 嫉妬、裏切り、友情、そして恋愛――。 陽斗の成長は、同級生や教師たちの思惑をも巻き込み、やがて学校という小さな舞台を飛び越え、社会そのものに波紋を広げていく。 「笑われ続けた俺が、全てを変える番だ。」 かつて底辺だった少年が掴むのは、力か、富か、それとも――。 最底辺から始まる、資産も未来も手にする逆転無双ストーリー。 物語は、まだ始まったばかりだ。

ラストアタック!〜御者のオッサン、棚ぼたで最強になる〜

KeyBow
ファンタジー
第18回ファンタジー小説大賞奨励賞受賞 ディノッゾ、36歳。職業、馬車の御者。 諸国を旅するのを生き甲斐としながらも、その実態は、酒と女が好きで、いつかは楽して暮らしたいと願う、どこにでもいる平凡なオッサンだ。 そんな男が、ある日、傲慢なSランクパーティーが挑むドラゴンの討伐に、くじ引きによって理不尽な捨て駒として巻き込まれる。 捨て駒として先行させられたディノッゾの馬車。竜との遭遇地点として聞かされていた場所より、遥か手前でそれは起こった。天を覆う巨大な影―――ドラゴンの襲撃。馬車は木っ端微塵に砕け散り、ディノッゾは、同乗していたメイドの少女リリアと共に、死の淵へと叩き落された―――はずだった。 腕には、守るべきメイドの少女。 眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。 ―――それは、ただの不運な落下のはずだった。 崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。 その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。 死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。 だが、その力の代償は、あまりにも大きい。 彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”―― つまり平和で自堕落な生活そのものだった。 これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、 守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、 いつしか、世界を救う伝説へと祭り上げられていく物語。 ―――その勘違いと優しさが、やがて世界を揺るがす。

処理中です...