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第四部 - 二章 龍姫の恋愛成就大作戦
二章二節 - 作戦開始
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与羽は部屋の前で兄の帰りを待った。
縁側に腰かけて耳を澄ませると、下方を流れる月見川の激しい水音が聞こえる。川の様子は見えない。他の棟や外から見えないように生垣と漆喰塀で二重に隠されているからだ。与羽は生け垣と、その手前に植えられた木々をぼんやりと眺めた。
山桜が散ってしまった代わりに、八重桜がほころんでいる。まぶしい若緑を添える柳の枝がそよ風に音もなく揺れ、生け垣の下方を占めるつつじのつぼみが膨らみつつある。まだ春ははじまったばかりだ。
「与羽?」
聞きなれた声に、与羽は春の陽気から意識を呼び戻した。声の方を向くと、廊下の先に小さく兄の姿がある。与羽を見た瞬間、彼女の名を呼んだらしい。
乱舞の速まった足音を聞きながら、与羽は立ち上がった。うつむき気味になってしまうのは、口の端がほころぶのを我慢できないからだ。こういうとき、長い前髪が顔を隠してくれるのでありがたい。
「与羽?」
目の前まで来た乱舞が与羽の顔を心配そうに覗き込んだ。うつむいた様子が落ち込んでいるように見えたのだろう。
「乱兄! あんたクビ!」
与羽はその瞬間、彼に指を突き付けてそう叫んだ。
「……はい?」
困惑する乱舞の姿は与羽の想像した通りで、いたずら姫君は笑顔を隠せなくなった。ニヤニヤ笑う妹に不安の表情を深める兄。
そんな彼の目の前で、与羽は懐から一枚の紙を取り出した。
妹の悪だくみに巻き込まれていると察した乱舞が、慎重な様子でそれを受け取る。嫌な予感がありつつも、与羽の期待を察してその通りに動いてくれるのが、兄の美点の一つだと与羽は考えている。そんな乱舞にこそ幸せになって欲しいと思うのだ。
恐る恐る紙を眺めた乱舞の目が、横長の紙の最後で止まった。中州を支える上級文官上位六人の直筆署名が連なっているのだから、無理もないだろう。
「これ――?」
「とりあえず内容を確認して」
与羽に言われて、乱舞は読みやすく整った文字で書かれた文章に目を通した。
「まぁ、二日休みをあげようってこと」
辰海がこの提案書を作り、与羽と絡柳が大臣たちと交渉して署名をもらった。もちろん、城主には内緒で。正式に卯月(四月)の二十三日から二日間、乱舞の仕事はなしだ。代わりに与羽が城主代理として政務にあたる承認も得ている。
「え、でも……」
「皆があげるって言うんだから、もらっといて」
「ね?」とさらに促す。
「……ありがとう」
それでやっと、乱舞ははにかんだようにほほえんだ。
「どういたしまして」
与羽も明るい笑みを浮かべる。
「けどさ、一つ乱兄の承認がいるもんが残っとった。これ、署名して」
自然な動作で再び与羽が一枚の紙を取り出した。乱舞は筆と墨つぼを手に取って、与羽が示す紙を見る。
「ここ」
与羽が折りたたまれた紙の一点を指差した。
「ちょっと手ぇどけて。文が見えない」
しかし、乱舞は筆の先を墨つぼにつけただけで、すぐの署名はしなかった。
「私が確認したから、大丈夫だって」
「だめ。城主の僕がそんないい加減なことできん。見せて」
普段の穏やかな様子からは想像できない強い眼光と厳格な雰囲気に、与羽は仕方なく畳んだままだった書類を開いた。
「…………」
その瞬間乱舞は固まった。
「これ……?」
「『婚約届』ってやつ?」
与羽は開き直ったようにいたずら娘の笑みを浮かべた。中州では個人や家同士の関係を証明するために戸籍を管理する橙条家や神殿、集落の長などに婚姻や元服、死亡の届けなどを提出することが多い。庶民の場合は任意だが、城主や歴史ある家の場合はほとんど義務だ。
「何で今そんなもの――?」
乱舞はわずかに顔を赤らめている。
「せっかくならさ、沙羅さんとこに行って署名もらってくるのが良いかなって」
「そんなこと……」
「強制するつもりはないけど。でも、おやすみまではまだ少しあるし、考えてみて。せっかくの休みなんじゃし、悔いのないように!」
与羽の表情は何とも表現しがたい微妙なものだった。兄を気遣うようでもあり、楽しんでいるようでもあり、少しだけ不安もある。
与羽はあらゆる感情を隠すために兄に背を向けた。
「ちょ……、与羽!」
乱舞が慌てて声をかけるが、与羽はすでに足を動かしはじめていた。必要なことは伝えたし、彼にゆっくり考えて欲しかった。自分の将来と伴侶のことを。与羽や他の誰の意見にも左右されることなく。
しかし、照れと緊張で身を固くした乱舞に、与羽の内心を推し量る余裕はない。背中を向けたままひらひらと手を振って去っていく与羽を、乱舞は棒立ちになったまま見送った。
縁側に腰かけて耳を澄ませると、下方を流れる月見川の激しい水音が聞こえる。川の様子は見えない。他の棟や外から見えないように生垣と漆喰塀で二重に隠されているからだ。与羽は生け垣と、その手前に植えられた木々をぼんやりと眺めた。
山桜が散ってしまった代わりに、八重桜がほころんでいる。まぶしい若緑を添える柳の枝がそよ風に音もなく揺れ、生け垣の下方を占めるつつじのつぼみが膨らみつつある。まだ春ははじまったばかりだ。
「与羽?」
聞きなれた声に、与羽は春の陽気から意識を呼び戻した。声の方を向くと、廊下の先に小さく兄の姿がある。与羽を見た瞬間、彼女の名を呼んだらしい。
乱舞の速まった足音を聞きながら、与羽は立ち上がった。うつむき気味になってしまうのは、口の端がほころぶのを我慢できないからだ。こういうとき、長い前髪が顔を隠してくれるのでありがたい。
「与羽?」
目の前まで来た乱舞が与羽の顔を心配そうに覗き込んだ。うつむいた様子が落ち込んでいるように見えたのだろう。
「乱兄! あんたクビ!」
与羽はその瞬間、彼に指を突き付けてそう叫んだ。
「……はい?」
困惑する乱舞の姿は与羽の想像した通りで、いたずら姫君は笑顔を隠せなくなった。ニヤニヤ笑う妹に不安の表情を深める兄。
そんな彼の目の前で、与羽は懐から一枚の紙を取り出した。
妹の悪だくみに巻き込まれていると察した乱舞が、慎重な様子でそれを受け取る。嫌な予感がありつつも、与羽の期待を察してその通りに動いてくれるのが、兄の美点の一つだと与羽は考えている。そんな乱舞にこそ幸せになって欲しいと思うのだ。
恐る恐る紙を眺めた乱舞の目が、横長の紙の最後で止まった。中州を支える上級文官上位六人の直筆署名が連なっているのだから、無理もないだろう。
「これ――?」
「とりあえず内容を確認して」
与羽に言われて、乱舞は読みやすく整った文字で書かれた文章に目を通した。
「まぁ、二日休みをあげようってこと」
辰海がこの提案書を作り、与羽と絡柳が大臣たちと交渉して署名をもらった。もちろん、城主には内緒で。正式に卯月(四月)の二十三日から二日間、乱舞の仕事はなしだ。代わりに与羽が城主代理として政務にあたる承認も得ている。
「え、でも……」
「皆があげるって言うんだから、もらっといて」
「ね?」とさらに促す。
「……ありがとう」
それでやっと、乱舞ははにかんだようにほほえんだ。
「どういたしまして」
与羽も明るい笑みを浮かべる。
「けどさ、一つ乱兄の承認がいるもんが残っとった。これ、署名して」
自然な動作で再び与羽が一枚の紙を取り出した。乱舞は筆と墨つぼを手に取って、与羽が示す紙を見る。
「ここ」
与羽が折りたたまれた紙の一点を指差した。
「ちょっと手ぇどけて。文が見えない」
しかし、乱舞は筆の先を墨つぼにつけただけで、すぐの署名はしなかった。
「私が確認したから、大丈夫だって」
「だめ。城主の僕がそんないい加減なことできん。見せて」
普段の穏やかな様子からは想像できない強い眼光と厳格な雰囲気に、与羽は仕方なく畳んだままだった書類を開いた。
「…………」
その瞬間乱舞は固まった。
「これ……?」
「『婚約届』ってやつ?」
与羽は開き直ったようにいたずら娘の笑みを浮かべた。中州では個人や家同士の関係を証明するために戸籍を管理する橙条家や神殿、集落の長などに婚姻や元服、死亡の届けなどを提出することが多い。庶民の場合は任意だが、城主や歴史ある家の場合はほとんど義務だ。
「何で今そんなもの――?」
乱舞はわずかに顔を赤らめている。
「せっかくならさ、沙羅さんとこに行って署名もらってくるのが良いかなって」
「そんなこと……」
「強制するつもりはないけど。でも、おやすみまではまだ少しあるし、考えてみて。せっかくの休みなんじゃし、悔いのないように!」
与羽の表情は何とも表現しがたい微妙なものだった。兄を気遣うようでもあり、楽しんでいるようでもあり、少しだけ不安もある。
与羽はあらゆる感情を隠すために兄に背を向けた。
「ちょ……、与羽!」
乱舞が慌てて声をかけるが、与羽はすでに足を動かしはじめていた。必要なことは伝えたし、彼にゆっくり考えて欲しかった。自分の将来と伴侶のことを。与羽や他の誰の意見にも左右されることなく。
しかし、照れと緊張で身を固くした乱舞に、与羽の内心を推し量る余裕はない。背中を向けたままひらひらと手を振って去っていく与羽を、乱舞は棒立ちになったまま見送った。
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