チキンピラフ

片山春樹

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3度目の失恋と4度目の恋の始まり

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日曜日。体調は、とりあえずまあまあ。歩いてお店に向かいながら、電話の画面を見ると。
「無事です!」のまま凍り付いたように変化はなくて。はぁぁとため息を吐くと。
「どんな手を使ってもいいからあの子を口説いてみなさい」
と知美さんの声が聞こえた気がして。
「男を落とすのにひと月あれば十分でしょ。8月31日までに美樹ちゃんは春樹君をモノにする。どんな手を使ってもいい」
と、本当に幻聴が聞こえている私。今、自分でそうつぶやいたのかな? 
「あーもぉ・・なんであんな約束しちゃったんだろう」とぼやいているのは間違いない。
はああああああ。とため息吐きながら、お店の一つ目の重いドアを開けると。二つ目のドアのノブを磨いている由佳さんがいて。
「お疲れ様です」と挨拶したら。手を止めて。
「おつかれ、って・・美樹って・・大丈夫?」とものすごく真剣な顔をした。
「私、顔色悪いですか?」と思ったけど。
「ううん・・顔色はいいけど、表情が・・・すごい」
って?
「春樹の事、何か怒っているの・・やっぱり」
って。なんかもう、春樹さんの事を話題にするのはやめい欲しい気がし始めている。から。
「春樹さんの事はもう、話さないでください」
と言うと。
「やっぱり・・何かあって、終わっちゃったの?」
何かありましたけど、終わってません。というより、始まってもいないような気がしてるし。
「本当にもう、春樹さんの事は、もういいんです」いいわけないんだけど。
どうして、こんな雰囲気になってしまったのだろ。
今日。「好きです」って言わなきゃならないのに。「付き合ってください」って、言わなきゃならないのに。「知美さんと別れてください」「私のカレシになってください」「私の恋人になってください」と、言わなきゃならないコトを頭の中でリハーサルしてるのに。
「まぁ、そういうことなら、言わないけど・・」
その一言で、春樹さんの事は話題にならないまま。いつも通りにモーニングタイムのピークが過ぎて。ランチタイムの準備。している最中に。いつも通りの衣装といつも通りの雰囲気で現れた春樹さん。
「美樹ちゃんおはよ・・」と、真っ先に私にそう挨拶してくれるけど。春樹さんの、心配していそうな不安そうな表情を見ると。
「あ・・おはようございます」
と、どうしても、うつむき加減に返事してしまう。のはなぜ? 私何かした? と自問自答すると。思い当たるのは、あの夜、春樹さんを蹴っ飛ばした・・こと。だけど。それはもう謝ってるし。許してあげますって言ったでしょ。と思いながら春樹さんを見ると。
「おはよ・・」
と力なくうなずきながらつぶやいて。そのまま、裏に入って行く。そんな重苦しい雰囲気のまま。忙しいランチタイムを慎重に冷静にノートラブルで乗り切って。また、春樹さんと二人で休憩できるかなと思っていたのに。今日に限って。3時になってもお客さんが引かなくて。
「美樹、今しかないから、さっと休憩行っといで」
と言われたけど。カウンターにずらーっと並んでいるオーダーシート。をチェックしながら、ものすごく真剣な表情で、お料理を作り続けている春樹さん。今日は、チキンピラフも頼めそうにないかな。

結局、何も話せないまま、時間が過ぎて。もうすぐ上がる時間になってようやく、自分の事を考えられるようになった。
今日を逃したら、明日。そう言えば、春樹さんって平日はどう過ごしているのだろう。明日、電話したら出てくれるだろうか・・・いやいやいやいや、だめだめだめだめ。
「ずるずると何もできないまま人生終わってしまうから」と言ったのは、知美さん。
もう、今日しかないと、決意しなきゃいけない。でも、どうやって言う? なんて言う? どこで言う? そんなことを考えながらキッチンにチラッと目を向けると。はっ・・と、春樹さんと目が合って。先にニコッとしたのは私? いや・・春樹さん? でも、すぐ、私の方から視線を反らせて。反らせてしまう理由は。なんて言えばいいんだろう。どうやって言えばいいんだろう。言い出すきっかけはどんな感じで作れば。そう考えているからで。私は、別に、春樹さんがしたことを怒っているわけではなくて。蹴っ飛ばしたことは悪かったかな・・と少し思っていて。あ・・、そのこと、ちゃんと話して、「本当にごめんなさい」と言って。それから、「本当は、春樹さんの事が好きですっ」って流れで言えば。自然な感じ? 「何て言おうか考えてたらメールとかも返事しにくくて、素敵な一言を探していたらこんなに日にちが過ぎてしまって」とか、そんな言い訳をカワイク言えばいいかも。突然そんなシナリオがパズルのように頭の中で組みあがった気がした。その時。
「美樹、そろそろ上がる、お疲れ様、引き継ぐお客さんは・・」
と、言ってくれたのは美里さん。が、こんな風に声をかけてくれるのは初めてじゃないかな? と思った。
「あ・・3番と、4番のお客様は食後にアイスクリームを注文されていますから」
「はーい・・これと、これだね。了解。あのアベックか、まだ大丈夫そうかな。でも、美樹って結構冷静だったね今日。何だかロボットみたいだったよ」
「って?」
「今日の美樹って、なんかこう、無って感じだった」
「ム?」
「仕事以外何にも目に入っていないって感じ。どうしたの? 春樹と仲直りしたの?」
「なかなおり・・」って、また、じゃなくて‥今日初めての話題かも。というか、みんなが私を避けていたから、美里さんが話しかけてくれて、避けてた理由は、やっぱり、春樹さんの話題・・。もうやめてくださいって。そういうことか、と言う気もする。けど。
「ほら、雰囲気悪かったじゃない昨日。でも、春樹に、どっちが先に謝るのって聞いたら、俺からに決まってるだろ、って言うもんだから、ま、とりあえずは美樹の事、真剣に思っているんだなとは思ったけど」
そう一方的に話す美里さんに、真剣に思っていると思ったけど・・?
「アレって、どっちにしようか悩んでいるんじゃないの。だから、私にしなさいって、決めさせてあげれば。男って、女がこうしろって言わないと何も決められないから」
なんか、違うような。というか。この話も誰かに聞いた・・オトコは決められない・・女は・・何だっけ。
「美樹も、カノジョがいる男でも諦めつかないんでしょ。行くとこまで行ってすっきりすれば。彼女と別れてくれとか、私にしろとか言ってさ」
女は諦められない・・だったな。
「行くところまで行って?」というか。私にしろとか言ってさ?
「静かな所で、向かい合って話をして、お互い気持ちを打ち明けて。男は決めて、女は諦める」
「諦める」だなんて・・。
「くすくす、違うよ。まぁ、とりあえず、今は、こんな男で我慢するか。という意味の。諦める、よ。ったく、春樹のどこがイイの?」
なんて美里さんとはこんな話したことがないからかもしれないけど、「春樹のどこかイイの?」だなんて、唖然としてしまいそうなセリフ。と。そう言えば、どこがいいんだろう。と冷静に思ってしまうセリフなのかも。と思いながら。顔をあげると。春樹さんは真剣な横顔でフライパンをガチャガチャジュージューさせていて。あの真剣な表情はやっぱり・・・。キュン・・として、潤・・としてしまう。から。
「まったくもぉ、はい、じゃ、あとは私がするから上がりなさい。いつもの所に春樹を呼び出してちゃんと話すれば、アイスリームでも食べながら。何なら、私もついて行ってあげようか?」
えっ? と美里さんのその笑顔は何ですか? というか、美里さんってこんなに綺麗な美人だったかしら。というか。
「今日は二人の時間がなかったでしょ。ちゃんと向き合って話をする。手が届かない距離で話をするのよ。手が届くところで話すると、話す前に始まっちゃうかもしれないでしょ」
だなんて。何が始まる・・ってあの続きかな。なんてことを一番に考えてしまうのはなぜ。それに、どうして、そんなお節介というより。確かに今日は二人の時間がなかったけど、美里さん、どうして気にしてくれているの・・。「私、美樹の事世界で一番大事な妹だと勝手に思っているから」と昨日言ってたかな。
「あなたたち、もうケンカするような仲になってるんでしょ、ケンカした後は向き合って話をして。男が謝るなら、許してあげる。謝らないならポイしなさい。はい、じゃ、お疲れ様」
「お疲れ様でした」
というか。なんの話というか・・いつもの店に呼び出して、向かい合って話をする。男が謝るなら許して、謝らないならポイ。そう頭の中でリピートさせてから。
「いつもの店」と呟いたとき。
「どうする、今日アイス行く」と奈菜江さんの仕事が終わった合図のような一言に。
「あー行く行く、今日は疲れたから、糖分補給したい」と優子さんが続いて。
2人が私をじろっと見つめたから。
「じゃ・・私も・・」とうなずいてみた。そして、うなずきながら。帰り際に春樹さんに一言言ってみよう。そう言えば今まで一度も、いや・・何回か誘ったね。デートとか。いつも、このタイミングで。でも、これって、ワンパターンだよね。

そして。着替えて。財布の中から指輪を取り出して、薬指につけながら、「向かい合って話をする」と魔法の呪文のように心の中で呟いた一言。二人には聞こえないように。指輪に向かって呪文を唱えるように。
「向かい合って、話をする」よし、向かい合って話をしよう。
そんな決意をしてから、いつもの3人でキッチンに挨拶に行って。
「お疲れ様でした」と春樹さんに言ったその瞬間。春樹さんは、ふぅぅと汗を拭きながら、お水を飲んでいた。今日に限ってコンロの上フライパンは一つもなくて。そして、私に。
「あ・・お疲れ様」と、まだ、ぎこちない返事をして。
「帰り道気を付けて」と、いつもの一言を優しい響きで言ってくれたから。よし行ける、と思えたんだと思う。
「お疲れ様でした、お先に」と奈菜江さんと優子さんが挨拶するのを待って。
「じゃ、アイス行こ」
と、ふたりがキッチンから離れたその瞬間。私は立ち止まって振り返り、大きく息を吸って。
「あの・・春樹さん・・」と話し始めた時、今日に限って、脚はガタガタしていないし、呼吸は乱れていないし、ナニを言うのかも解っている。私は結構落ち着いていると自分で思っていた。
「・・ん・・なに」とコップを持ったままの春樹さんは、真正面から私をしっかり見つめて。いつものように首を傾けて、ぎこちなくてもニコッとしてくれたから、私も、にこっとしながら言ったんだ。
「あの・・お話があります」
「おはなし・・」
「はい、お仕事が終わったら、向かいの喫茶店に来てください」
「向かい・・って、そこ?」と、小さく指を差した春樹さん。喫茶店はそこだけでしょ。と思いながら。
「はい、私、春樹さんに話したいことがあります」
「はなしたいこと・・」
「はい、だから、お仕事終わったら来てください。私、待ってますから」
そう言って、返事をもらわずに、私はくるっとキッチンに背を向けて。ポカンとしたまま私を待っている優子さんと奈菜江さんに。
「さ、行きましょ、アイス」
と言った。よし、大丈夫、脚は踊っていないし、心臓は、少し弾んでいるけど、ばくばくはしていない。呼吸も少し乱れている程度で、一度深呼吸したらいつも通りのリズムに戻った。
「って・・美樹、待ってますからって・・春樹さん呼んだら、私たち邪魔じゃない」
「いえ・・春樹さん、お仕事終わるの9時だし、まだ、3時間もあるから」
といったら、春樹さんのスケジュールを確かめていることがバレるかな?
「美樹って3時間も待つ気なの」
「あ・・まぁ」ちょっと長いかな。
「で、どんなお話しする気?」
「どんなって・・」と言い返してから、やっぱり、この二人はジャマかも。と思ったから、返事ができなくなったようだ。

いつものアイスクリームを注文した瞬間以外は、無言のまま。カチャカチャとお皿とスプーンが立てる大きな音。と。いつも美味しすぎるこの店のイチゴバニラのアイスクリーム。のせいで、誰もしゃべらないまま、しばらく。
「なんか・・重いね」
と口火を切ったのはやっぱり奈菜江さん。
「で、春樹さんにどんな お話し があるの」
と聞くのは優子さんで。
「まぁ、別に大したことではないですから」
と目を右に左に泳がせている私。そのまま、また黙り込んでしまったけど。奈菜江さんが、私の横顔を観察しながら。ものすごく真剣な顔で。
「ねぇ・・美樹・・もしかして、生理がこないの? 本当につけずにしちゃってできちゃった」
って、春樹さんもそんなこと聞いたけど、
「いつか、そんなこと言い放ったよね」
だなんて、どうしてそんなことを思い出すのですか。奈菜江さんも。というか。あの日、そんなことを言い放って、みんなが大笑いしたのは確か、この席だったかな?
「もしそうなら大変なことだけど、本当にちゃんと調べてからにしないと、男の子って・・ねぇ」
と大真面目な顔で話している奈菜江さんは、優子さんに話を振ったけど。
「う・・うん・・ってどうなるの?」と優子さんも聞いてくれる、私が思っていること。男の子って・・ねぇ?
「その、つまり、見たくない現実を見てしまうことがあるとか、今までの愛情が突然の手の平返しで、くるんとか。かもしれないって言うだけで」
「って、慎吾のこと」と優子さん。
「違うわよ」
って、何のことかな? と思うけど、そのまま続ける奈菜江さん。
「ドラマとかでもあるでしょ、妊娠の疑い発覚と同時に突然の破局。とか。ケッコンしてれば、できちゃったらおめでとう。ってなるけど。美樹もまだ17歳だし。春樹さんも別の彼女がいる男だしさ」
って、だんだん、話が膨らみ始めて、私と春樹さんとの間で、できちゃったことになっていきそうだから。
「違います」とはっきり言っておかないと。奈菜江さんの提案を受け入れるとまた、こんな風にわけわかんなくなってしまうかもしれない。こんな風に・・つまり・・。
「そんなことより、奈菜江さん、春樹さんに何言ったんですか?」
と、どうしても聞きたかったことを聞き始めてみたら。奈菜江さんは。
「ナニって、先週の土曜日、予想通りに、今日、美樹ちゃんいないの? って春樹さんが聞いてきて。田舎に帰っていること聞いてないの? ってわざとらしく言ったら、最初のドン引きだったかな」
そう話始めた。最初のドン引き・・?
「最初のドン引き、私も見てた、えぇって顔して、動揺がオーラになって見てたよね」
「すんごい動揺だったよねぇ。その後、春樹さん美樹に何かした? って聞いたら、止まっちゃって」
「何かしたんでしょ、美樹にナニしたのよって追及したら、みるみる顔面蒼白になって」
「二度目のドン引き」
「まぁ、何かしたんだな、って感じだから、それ以上は追及してないけど。美樹って、何かされたの?」
と二人がジローっと見つめるから、私は力なく首をプルプル振ったけど。
「それにさ、二週間ぶりに会ったのに、あの春樹さんの雰囲気とか、美樹の雰囲気とか。いつもは、顔を見合った瞬間に、初日の出が眩しすぎる、って感じだったのに。昨日の二人の雰囲気って、誰かしんだ? って」
と説明してる奈菜江さんにうなずいている優子さん・・と目が合って。春樹さんからのメールの話はしないでくださいよ、と思った瞬間に。
「で、春樹さんからの謎めーるの話、ちゃんと言ったの」
言わないでって思ったのに、どうして言っちゃうの?
「えぇーなぞめーるってナニよ」
「奈菜江の所には来てないの?」
「何の話ソレ?」
「春樹さんから、最近美樹ちゃんと話した? ってメールが来てたの、私の所に2回も」
「美樹ちゃんと話した? って美樹の所には、春樹さんからのメールがずらーでしょ」
「メールがずらー?」
「美樹が返事しないから、春樹さんが5分おきに、大丈夫? 怒ったの? 返事して、大丈夫、無事なの、どこにいるの、ってねぇ」
「えぇー、5分おき? それって、美樹の安否を私で確認しようとしたわけ」
「みたいだね・・美樹も、どうして返事してあげなかったのよ」
って、奈菜江さんが黙っていなさいって言ったからでしょ。と思ったことを。
「奈菜江さん、それって、無責任じゃないですか」と表現したら。
「まぁ、黙っていなさいって、言ったけどさ・・そこまで頑なに真に受けなくても・・」
「でも、春樹さんってどうして美樹に直接電話しなかったのかな」
「本当に嫌われたと思って怖くなった」
「美樹に嫌われたと思った、振られたと思った。電話するのが怖いって感じ、もう春樹さんの事キライです、って言われたらどうしよう。もしそうなら直接聞くなんて無理」
「あの、春樹さんが、実は、そんなに臆病な男の子だったと」
「そういうことかもね、意外な一面が知れてよかったんじゃないの」
って、勝手すぎるような意見だと思うけど。
「でも、それは、美樹の事が好きだから、嫌われるのが怖いわけで。美樹の事想っているから、キライって言われたくないのであって、だから、遠いところから、そうじゃないことを祈るように優子にメールした」
「そういうことかも。って、どうして奈菜江にはメールないの」
「私、春樹さんにアドレス教えててないし、それより、どうして優子は春樹さんとメールできるの?」
「え・・」
と私に振り向く優子さんは。
「いや・・どうしてって、だいぶ前に、交換したというか・・美樹が来る前の話で」
と、上ずっている声で、おどおど喋って。
「えぇー優子も実は、春樹さんに気があった」
と、にやける奈菜江さんが私のセリフを横取りしたけど。
「ち・・ちがうわよ」違うよね・・。絶対違う。
「あゃしぃ」と、私もそう思うけど。
と、それは、いつものお姉さま達の身勝手なおしゃべりを視線を右に左に横で聞いているだけの私なのだけど。春樹さんの遠回しな態度って、やっぱり、本当は私の事、少しは気があるのかな、とも思えるような。
「やっぱり、春樹さん、美樹の事相当気にかけてるよね」
「気にかけてるね、あの態度」
気にかけてるって、どういうことですか? と思っていると。
「美樹って、春樹さんに好きって言われたの?」
と急に私に話を振ったのは優子さん。何度が言われた気がするけど。はっきり覚えていないし。
「それより、美樹って春樹さんと、寝た? こないだ、ヘルメット抱えてた大人の衣装の日」
えぇ・・寝た・・ってそれは、かもしれないから。背筋が凍り付くような首筋が引き攣るような、そんな感じ。が視線を下げさせて、顔が小刻みに震える。ことを敏感に察した二人は。
「・・・・・・・・・・」
と数秒間の沈黙と。
「寝たんだね」と奈菜江さん。その深刻過ぎる一言って何ですか? と思っていると。
「だから、春樹さんのあの態度・・あーなるほどね」と続けて。
何が なるほど なのですか?
「この間、もしそうだったらオメデトって言ったけど。同意してからじゃなかった・・がまんできなくて無理やりだった、春樹さん、だから、美樹にナニしたの、って言った時の春樹さんのあの。ものすごい動揺。ふううううぅぅん。これで辻褄が合ったね」
って奈菜江さんの追及に・・そんなこと、白状しなければならないことなんですか? と思うし。とうつむいていたら。ぷぷぷっと笑い始めた奈菜江さん。
「これ以上追及したら、また泣きだしそうだからやめとく・・って、美樹、もぉ、その嘘つけない顔やめてよ、空想がどんどん膨らみ過ぎるでしょ」
と、どうして笑っているのですか奈菜江さん。
「はぁぁぁ、でも、本当に美樹に先を越されたの? 私・・はぁーあ」
とため息を二段階に吐く優子さんも私をじぃぃーっと見つめて。だから・・。無意識な言葉が勝手に出始めて。
「そんな・・つけずにしちゃったわけじゃないし・・」
というか、つけてなかったかもしれないけど。それに、
「ちゃんと、今、生理中だし、その・・春樹さんもまぁまぁ優しく・・して・・その・・」思い出すと、気持ちよかったと表現していいものなのか・・。
「イヤじゃなかった・・から・・」
と白状し始めながら、あの時の事を思い出すと、やっぱり、体がジンジン反応して。ジュンって感じが太ももにむずむずと伝わってくる。からモジモジすると。
「美樹、美樹・・ちょっと、いいのよいいのよ、別にしゃべらなくてもいいの、白状しろなんて言ってないし、そんなことは、赤裸々にしゃべっちゃだめよ。喋ることじゃないから」
と奈菜江さんが慌てて私の口をふさいで。
「私たち、羨ましく思っているだけだから。したことまで喋らなくていいの。言わなくてもわかるから」
と言うけど。
「美樹の事応援してるから、春樹さんとそうなっちゃったのなら、次は、二人のあの雰囲気をどうやって元に戻すかってことでしょ」
と、それは、同意できる提案だから。
「そうですよね・・」と答えるけど。
って、奈菜江さんが黙っとけ、とか、ナニしたの、とか。話をややこしくした張本人だと思うのに。まぁ、議題はやっぱり、私、今日、春樹さんに「好きです」って言わなきゃならなくて、どういう流れで「好きです」と言うべきか、そのこと、この二人に相談したら、今度は、どんな風に私をからかうだろう。そんなことを考え始めた。その時。
「あれ・・」
と窓の外を眺めた優子さんが指さしたのは。
「あれ、春樹さんじゃない?」
「あれ・・本当だ、あの格好とヘルメット・・どうして、もう上がる時間だっけ」
と奈菜江さんもそう言うから、私も振り向いたら。間違いなく春樹さんが、横断歩道を渡っている。小走りに・・。
「まだ、7時前でしょ・・お店の中も結構ごった返しているけど」
「って、春樹さん抜けて大丈夫なの」
「というか、こっち来るよ」
「えぇ・・美樹とお話しするため?」
と優子さんも、私が思っているとをつぶやいて、本当にこっちに来る春樹さんと目が合って。春樹さんは軽く私に手を振って。
「えぇ~、お話がありますって。待ってますって・・本当に来ちゃった」
「春樹さん、まさか、仕事ほったらかして、美樹を優先させたの?」
「ちょっと、それだったら、私たち邪魔?」
「えぇ~、ちょっと、まだ半分残ってるし」
と慌ててアイスクリームをがつがつ食べる二人は。
「えぇ~、ちょっと・・それより美樹って、なに話する気」
と私にそう言ったけど。
「いらっしゃいませ」
と響いた店員さんの声と。
「あら、いらっしゃい、こんばんは、あちらの席かな?」
といつしか顔見知りになってるマスターに促されてる春樹さんは、まっすぐに私たちが座る席に来て。
「やぁ・・」
と言ったまま、止まってしまって。そんな春樹さんを黙ったまま見上げる奈菜江さんと優子さんが・・。
「や・・やぁ」とギクシャク返事してから。
「あ・・じゃ・・じゃぁ・・私たちはこれで・・あ、美樹、払っとくから、あとは二人でゆっくりしてね」
「え・・あの・・ちょっと・・」
と春樹さんは、視線を合わせないように立ち去る二人を目で追ったけど。ゆっくり、私に振り返って。私を見て、チラッと春樹さんを見上げた私と一瞬だけ視線を合わせて。ぎこちなく微笑んでくれたから、もう一度視線を合わせた私に。
「いいかな・・座っても」と言った。
「どうぞ」と返事したけど。そのまま、ゆっくり座った春樹さんも沈黙モード・・。
「ご注文は?」
と尋ねてくれた綺麗な店員さんに、お互いがドキッとして。
「わ・私はいいです」と言ったのに。「コーヒーを二つ」と注文した春樹さん。
「かしこまりました」
と帰っていく店員さんに・・あの・・私はいいです・・と思ったけど。言えない。というか、目の前に座った春樹さんの顔を見ると。どうして、また、春樹さんに両腕を押さえつけられて、されるがままの私が思い浮かんで、なんでこんな時にそんなこと、とジンジンし始めている私。そして。春樹さんは。
「あの・・やっぱり、怒ってる・・あの事」
と切り出した。あの事って言うのは、つまり、いま、私が思い出している、あの夜の事で、私は怒ってなんかないのに、今も、こんなに体の中からジンジンして、太ももが、勝手にむずむずしてしまって。頭の中エッチな空想が溢れそう・・なんて思っているから、もじもじと恥ずかしいのに。
「あの時は、本当に、美樹ちゃんが綺麗で うわ って感じで、がまんできなかったこと後悔してる。だから、その・・・」
とつぶやき始めた春樹さんに、うわって、なんの話してるのですか、と思っている私。
「どうすれば、許してくれるのかな、さっきも、奈菜江や優子にそんな相談してたの? その、田舎に帰ることも、メールも、黙り込まれると本当に俺、美樹ちゃんの事が心配で、どういっていいかわからなくて、その・・」
とつぶやき続ける春樹さんの小さく震えているような声を聞いていると、なんとなく、私も気持ちが落ち着いてくるというか、冷静に・・この人、何か勘違いしてる? と思い始めている。
「蹴っ飛ばされたとき、目が覚めたというか。どうかしてたというか。急にあんなことして・・ごめんなさいって」
やっぱり、勘違いしてる・・そう確信したから。
「あの・・春樹さん・・私、怒っていませんって言いました。許してあげますよって言いました・・のに、どうして、そう、怒っているとか、許していないみたいに思っているのですか」
と、思っているまま、言葉にできたのたと思う。すると、少し考えるそぶりの後。
「あ・・女の子は、言ってることと思っていることが正反対の時があるから。今も、怒ってないって言うけど、顔は怒っていそうだし・・その」
こんな弱気な春樹さんを見るのも初めてかなと思う。から、私が強気に。
「じゃ、とんな顔すればいいんですか」
そう言うと、また、少し考え込んでいるような春樹さんは。小さく笑みを浮かべて。
「お好み焼き食べてる時に見せてくれた笑顔に戻ってくれたら、安心できるかも」
と言った。だから、思いっきりの作り笑顔で、「こうですか」って、にーってしたら。少し引いた春樹さんの顔から笑みが消えて。何だか余計にシラケたような・・・。
「無理しなくてもいいから」だなんて一言に。笑顔を中止して。
「別に無理なんかしてないし」と言い返す。
すると、春樹さんは、じぃぃーっと私の顔を見つめて。
「美樹ちゃん・・なんか、変わったね、なにかあった?」
って、あなたとあんなことがあったでしょ。と思い返すと、やっぱり、むずむずするのが恥ずかしくて・だから。
「べ・・別に、なにも・・でも、なにかって、なんですか?」
「なんですかって、まぁ、そんなにずけずけ話す女の子じゃなかったのに」
「ずけずけ話す・・・別にずけずけ話しているわけじゃないし」
生理で、こんな気分だからと言う理由もあるけど、それに・・いつか・・
「ずけずけ話せって言ったの春樹さんでしょ」
ていうか、そんな話をしたいのではなくて。その・・今かな「好きです」って言い出すタイミング。いや・・ちがう。今じゃない。というか、言っちゃえって思っているのに。言えない・・。「好きです」って、どういう流れで言えばいいのだろう。そればかり考えているのに。
「それに、雰囲気も・・・」ってまた関係ない質問に・
「雰囲気って、見た感じですか」と、ストレートに言い返すと、ますます「好きです」と言えないし。それに、そんな、とげとげしく話しちゃダメだってわかっているのに。どうして、言葉がこんなにとげとげしくなるの、それはやっぱり。
「うん・・見た感じ・・もそうだけど・・やっぱり・・」
この、春樹さんの弱気な雰囲気のせいかな。
「なんですか、はっきり言ってください」
と、なんだか、弱気な春樹さんにイラっとしている私。だけど。
「と言うか、話があるって言ったのは美樹ちゃんの方でしょ」と言われると、立場が逆転したかのようで。だから、今が言う時かな・・そうです、話があるんです。「好きです」って言いたいのですけど。と、今度は私がむちゃくちゃ弱気になってるし。
「お話がありますって、さっき」って続ける春樹さんに。
まぁ、そうですけど。こんな流れで「好きです」なんて。言える雰囲気じゃないし。でも、だから、どんな雰囲気なら「好きです」って自然に話せるのかわからない。だから。意を決して。もう、勢いだ、言ってしまおう。たったの4文字。大きく息を吸って。言おう。好きです。たった4文字だ。よし。
「す・・・」
まで言おうとしたその時。
「お待たせしました。コーヒーお持ちしました」
「あ、どうも、ありがとう」
だなんて、店員さんが横入りして。また膨らみ切った決意がみるみる萎んでゆく。それに、この店員さんも結構、美人だからなのか、春樹さんの鼻の下が伸びているような気もして。
「以上でよろしいですか?」と店員さんに言われて。
「はい」と返事してる春樹さん。少しにやけているような。
「では、ごゆっくり。御用がございましたら遠慮なくお呼びください」
「はい、どうもありがと」
って、私に話すより優しい音質の声、それに、どうして店員さんの背中を目で追うのですか。お尻を見てるの? それに。そんな私に気付きもしないまま私に振り向いて。
「ここのコーヒー、結構好きなんだ、飲んだことある?」だなて。急に話題が変わって。
ありませんよ、いつもここではアイスクリームしか食べないし。と思う。それに。
「これぞコーヒーって、とりあえずブラックで試してみて。大人の味って言うのかな」
だなんて、だから、そんなことはどうでもいいのに。とりあえず一口すすってみると。苦いけど、本当に初めて知ったような、コーヒー? ってこんな味だっけ。美味しいという感じじゃないけど。口に広がる苦みに、気分が一気に落ち着いてゆくのがわかるような。そんな私を観察しながらくすっと笑った春樹さん。 
「美樹ちゃんも、初めて会ったときと比べたら、一段と大人になったというか。カワイイ。プリティガールだと思っていたら、いつの間にか、こんなに綺麗なビューティフルレデイになって、なんかこう話しにくくなったというか、まじめに話そうとすると緊張してしまうというか、ときめくというのか」
そんなことを言いながら、とろん と私を見ている春樹さん。ときめくって、どういう意味ですか。とまた初めて聞くような言葉だと思ったから。急にナニを言おうとしていたのか忘れたような。
「おいしいでしょ、気持ちがほっとするコーヒー。ほっとした気分で、どんなお話があるのか、ゆっくり話してください。俺もどんなお話でもちゃんと聞くから」
あ・・そうだ。好きですって言うんだった。なのに、気持ちがほっとしてくると、今度は、「好きです」って言ったら、どうなるのかが不安になり始めて。また、はぐらかすのかな。俺も好きだよって。でも、今度はもっと真剣に言えば、はぐらかしたり、ごまかしたりしないように、知美さんと別れて、私のカレシになって、私の恋人になって、この指輪をつけてくれた時の一言が現実になるように。と、左手をテーブルの下に隠して、指輪をモジモジといじって、なにかのおまじないをしている私。いつもなら、こんなことをしようとしただけで、心臓がバクバクしたりするのに。今日はどうして、こんなに静かにトクントクンとしたリズムで。呼吸も乱れていない。ナニを言うかもわかっている。一言、好きですって。おばあちゃんも言ってたでしょ。好きですって言えたことを誇りに思えたら、次の恋はもっとって。次の恋・・・次の恋・・・もしかして、好きですって言ってしまったら、春樹さんの事、好きでなくなってしまうのかな・・。ふとそんな気がして。顔をあげて、春樹さんの顔をじっと見つめてみると。小さく微笑んでくれたその顔は。初めて会ったあの日の顔をありありと思い出す優しい微笑みで。
「もっと強くならなきゃ、人生長いんだし」
あの時のセリフまでもが頭の中でこだましている。
私は、あの時と比べたら、どのくらい強くなったかな。人生長いんだし・・って言うけど、春樹さんと知り合ってからまだ半年も過ぎていないのに。それが私の人生のすべてだったかのような錯覚もしている。たった数か月の間に、失恋もした・・知美さんは、夏休みの自由研究のような気持で男を口説いてみなさいって。お母さんは、責任取ってよねって・・セキニン・・ちゃんと振ってあげてください。って。おばぁちゃんも、二三回は失恋も経験しなきゃ。今まで聞いたいろいろな言葉が頭の中でぐるぐるしている。だけど、誰かの言葉は今の私に何もしてくれない。助けてくれない。私の代わりに言ってくれない。だれも私の代わりになってくれない。私のこの気持ちは私しか知らないことだし。私のこの気持ちは、私が言わないとこの人には伝わらない。
「美樹ちゃん、俺の事好きか?」
っあの時聞いた春樹さんに。私は「別に」って答えたけど。今は違う。でも、もう一度聞いてほしい「俺の事好きか」って。そう思っても、思っているだけじゃ聞いてくれない。それに、聞かれてから答えることでもないかな。そう気づいた。
そんな何も言わない私を優しい顔で見つめたまま、コーヒーカップを口につけてコーヒーをすすっている春樹さん。そのカップをお皿に置いたら言ってみよう。言いなさい私。好きですって。誰も私の代わりに言ってくれる人なんていないんだし。言わなきゃわからないでしょ、どうなるかなんて。それに、私の気持ちも言わなきゃ伝わらない。大丈夫、今の私はこんなに落ち着いているし、春樹さんもゆっくりと、カップをお皿に置いた。カチャン・・と響いて。言おう‥言ってしまおう・・。私はそう決意した。
「春樹さん」と名前を呼んだら。
「・・はい」と返事した春樹さん、の顔をじっと見つめて・・睨んで。唾を飲んで。
「春樹さん・・あの」
どうして・・名前ばかり・・呼んでしまうのよ・・と思った時。
「はい・・ちゃんと聞いて、返事するから、なんでも言ってください」
と春樹さんは言った。ちゃんと聞いて返事するから。好きですって言ったら・・どんな返事してくれるの? 好きですって言おうとしていること予感していますか? だめだめ、そんなことをまたぐるぐる考え始めたら、また、言えなくなってしまいそうだし。
「春樹さん・・あの」もう一度そうつぶやいたら、今度は。
「・・・・・・」となにも返事せずに、真剣な顔で、じっと私を見つめている春樹さん。目を反らさずに、私を見つめて、早く言えよって感じがした。だから・・かな。
「私、あなたの事が、好きです」
と、あっけなく言ってから、私、言った? 言えた? 声に出せた? 聞こえた? そんなことを考えながら、春樹さんが止まっているかのような錯覚を感じている。何時間止まったまま? さっき、返事するからって、言ったのに。早く返事して、何か言って。と思っているのに。春樹さんの表情がゆっくりと変わり始めて。視線が一度下がった。その瞬間に、何度か予行演習したセリフが、自動的に出てきたような感じで。
「だから、知美さんと別れて、私と付き合ってください。私のカレシになって、私の恋人になって、私のお婿さんになって、私の・・私の・・」
だんだん早口になって。そこから先は、ナニを言っていいかわからない。それ以上の言葉は思いつけない。すーはーすーはーと息をしている私。お店のBGM、他のお客さんたちの静かなざわめき。いろいろなものが聞こえ始めて。そんな雑音に混じって聞こえたのは。
「あ・・そうなんだ・・そんなに・・俺の事」
ととぎれとぎれにつぶやくような春樹さんの声。
「あ・・そうなんだ」
ともう一度繰り返して。私を真正面から見てくれない。視線をわざと反らせているかのようで。でも、少ししてから、顔をあげて、私を真正面から見つめてくれた。視線も、私の視線に乗せてくれて。深呼吸している。そして。
「美樹ちゃん、よく聞いて」
と話し始めたこと、私は意外に、冷静に聞こうとしている。そして。
「俺には、恋人がいて、その人はかけがえのない人で、そんな人がいるのに、この間はあんなことしてしまって、そのことは本当にごめんなさいって思っている。それと、恋人、知美の事、別れてほしいなんてそれはできない相談で、美樹ちゃんがそんなに思ってくれていること嬉しい。けど、今以上親しくなることはできないんだ・・わかってほしい」
聞き終わって、やっぱりそうですか・・という第一印象。というか、これって、予想してた返事? というか。今、春樹さんが言ったこと、私、心の中で十分理解しきれていない? いや、全部理解している。これ以上親しくはなれないって・・知美さんの事かけがえのない人って。そんなにはっきり言わなくても。という気もする。それに。無理なのかな。おばぁちゃんも言ってた。「美樹がムリって思っているならムリ」って。そんなことを考えている。
「美樹ちゃんも、かけがえのない人だけどね、いつか、そんなこと聞いたとき、別にって言うから・・だから・・そこまで思ってくれているとは考えたことがなくて・・あの・・その・・でも・・本当は俺の事、好きなのかなって、思いながら、美樹ちゃんの事ずっと見てるんだけど」
と、しどろもどろの春樹さんを見るのは初めてかな。こんなにしどろもどろと言うか。おどおどしているというか。小さくなっているというか。弱々しく見えるというか。
「俺も、美樹ちゃんの事は好きなんだ、可愛いし、綺麗で、お店の中でも一番の特別で、大事にしたいと思っているし、ほっとけないし、頼み事も断れないし。この間も気持ちがどうにもならなくなって、でも、その・・」
そんなおどおどとしゃべっている春樹さんって、こんなに弱々しい人だったんだな、という幻滅? これは幻滅じゃない。これが男の子? という感じ。私はどうして、春樹さんの仕草を、こんなに冷静に観察しているの? こんなに落ち着いたまま。
「好きだって打ち明けてくれたこと、本当にうれしい、でも、解ってほしい、知美の事。あいつには俺しかいないんだ」
あいつには俺しかいないってどういうこと?
「それなのに、こないだは、がまんできなくなっちゃって・・ごめんなさい。あの・・今のままじゃダメかな、気軽に会えて、気軽に話せて、ときどきこうして二人きりになったりして・・その・・」
それでもいいかな、と言う気持ちもある。コーヒーに手を伸ばして、もう一口。少しぬるくなって、私の気持ちも、なんだか冷めた感じがするのかな。でも、このコーヒー、本当に気持ちが落ち着くというか、安らぐというか、ほっとするというか。ちょうどいいぬるさのようにも思えて。飲み干して、カップをお皿に戻して。
「あの・・その・・」
と、まだ、おどおどしている春樹さんがなんとなくおかしいというか、いつもと違うことを見つけたような気分もして、なんとない優越感もしているから。くすくす笑ってみる。そして。
「私、言えました」
と言ってみた。言えた。好きですって、言えた。おばぁちゃんが言ったように、なんとなく誇りに思えているかな。言ったよ、言えた。本当に、そんなことを思っている。
「言えた?」
「はい・・好きですって‥一度言ったら、次からは簡単ですね。私、春樹さんの事が好きです。だから、こないだの事は、別に・・その・・本当はイヤじゃなかった・・」
蹴っ飛ばしちゃったけど、それは、入れるよ、とか、したいんだろ、だなんて、あのセリフがダメだったから・・とは言わないでおこうかな。だから、とりあえず一瞬考えて、用意したのはこんなセリフ。
「私も、蹴っ飛ばしたりして、ごめんなさい。それと・・知美さんの事、そんなに好きなんですね。だから、あの事はだまっててあげます。貸しができました」
小さな声でそう言って、ニヤッと頬を持ち上げながら春樹さんを睨むと。
「貸しってのは・・」と、まだおどおどしている春樹さん。
「貸しです・・」と強気にもう一度押して。
「はい」とうなずいた春樹さんは、私をじっと見て。にこっと笑った。だから、言いやすくなったのかなこんなこと。
「私、振られましたか? やっぱりムリですか。子供ですよねまだ」
でも、そう言ったら、さっきはニコッとしてくれた春樹さんの表情がまた変わって。
「振ったつもりはないし、ムリって言うのも違うと思うし。今の美樹は、息をのむほど綺麗で美しい大人の女に見えるよ・・俺も・・その・・決められないというか・・本当の気持ち・・こんなに綺麗な女性に好きだなんて言われて・・舞い上がりたい気持ちもあるし、知美の顔も思い浮かぶし。どうすればいいのか・・」
息をのむほど綺麗で美しい大人の女・・こんな綺麗な女性に好きだなんて・・生まれて初めて耳にするそんなセリフが、なんだかくすぐったいような。そんな言葉をささやきながらこの間のように触られたら。そんな空想もしてしいる私。決められない男。諦められない女。それってこのことだね。と実感してしまう、空想の中でいちゃいちゃしている私たち。だけど、それは、空想の中だからできることで。現実にはならない。大きく息を吸って、はぁぁぁっと吐き出して。空想を断ち切って。諦めよう。そう思った。
「じゃ、私が春樹さんの事、諦めます・・知美さんにはかなわないから」
こんなこと言ってもいいのかな。こんなことを言えるほど、私は大人になっているのかな。それに、私が諦めたら、春樹さんは決めることができるのかな。
「そう・・ごめんなさい・・でも、ありがと、嬉しい、好きだって言ってもらえて。でも、やっぱり、ウワキとか、フタマタとか、俺にはムリかも」
ごめんなさい、って言われたから。私は諦めて、春樹さんは知美さんに決めたんだな。という実感がした。そして。ウワキとかフタマタとか俺にはムリ・・かも・・。かも。この人、まだ決めてない。と思ってしまう。この・・かも・・だから。
「黙っていれば、大丈夫ですよ」
そう言ってあげると、春樹さんはニコッとして、うなずいて、でも、その顔をじいーっと睨むと、また怯えていそうな不安な表情に戻って。こうして観察していると、男の子の表情って何考えているか、すぐにわかる気がして。顔には出さないようにくすくすと笑っていると。
「お話は、それだけ?」
と聞いた春樹さん。に。
「うん・・それだけです」と答えて。もう少し何かお話ししたい気持ちもあるけど、これ以上は話すことがないことにも気づいて。
「じゃ、そろそろ遅いし、家まで送ろうか」と提案する春樹さんに。
「うん」とうなずく私。
喫茶店を出ると、春樹さんが眺めて心配しているのは、お店の中。結構なお客さんの数。
「お仕事大丈夫だったんですか?」と私も心配したキッチンの人数。今何人いるのだろう?
「うん・・どうだろう、なんとかなるだろ。でも、これって美樹ちゃんに責任があることだぞ」
「なんですかセキニンって」
「お話がありますって言った時、チーフが見てて。美樹ちゃんが待ってるんだろ。仕事なんて俺たちだけでできるから行ってやれ、待たせるんじゃない、早く行ってやれ。って」
チーフが見てた・・まぁ・・みんな見てたけど。そう言えば私、春樹さんを見てる時って周りの視線をあまり意識していないな・・とも気付いて。ちらっと春樹さんを見上げると。
「今まで通りでいてくれないか」とつぶやき始めて。
「今まで通り」からもう少し先に進めたと思ったからこんな気持ちになったのに、あんなことがあって、少し離れると心配してくれて。だから「好きです」って言ってしまったのに。そのこと、後悔してるのかな私。今まで通り・・か。お母さんは、「これからは美樹の事、子供相手のお付き合いなんてできないんだから」
そんなこと言ってたのに。春樹さんは、今まで通りに、子ども扱いのお付き合いをしてくれるのかな。
「うん・・」とうなずくけど。私は、もっと先に進みたいという実感が体をこんなにむずむずさせている気もするし。「今まで通り」じゃ物足りなくなってきているとも言えそうだし。
そんなことをぶつぶつ考えていると、お店の駐輪場、あの大きなオートバイを引っ張り出して、押し始めた春樹さん。
「もう少し、歩く、乗る?」と聞いた。私は。
「歩きます・・」と返事して。歩き始めながら。
「あの・・重くないですか?」と付け足した。
「まぁ・・重いけど、それほどでもないし。すぐそこだし、もう少し話したいこと」
「話したいこと、ありますか」
「うん・・田舎に帰ってたこと、どうして黙ってたの」
「それは、奈菜江さんたちが、黙っていたら春樹さんどんな反応するか見てみたいって」
「あ・・そういうこと・・」
「あの、試したとか、そういうことではなくて、ただ、どんな顔するか見てみたかっただけで」
「こんな顔したよ、心配で、心配で、嫌われたかと思ったり・・まさか・・それはないでしょ・・でも・・なんて」
言いにくいのは、できちゃったかも、という一言だと思うから。
「それは、春樹さんがあんなことするからでしょ」と反応して。
「まぁ、それは、美樹の裸が・・その・・オトコは誰だって理性がなくなるよ、あんな」
といってから、私を見つめる春樹さんが今想像していることがわかるような気がして。これ以上その話を続けると・・。手が届くところだから話す前に始まってしまいそう・・と美里さんが言ってたこと、が怖いというか。だから。慌てふためいて。
「もう。その話はやめましょう」
と言わなきゃ、私がどうかしてしまいそうになる。だから、無理やり話を変えて。
「あ・・田舎で おはぎ 作りました」
「おはぎ」
「春樹さんにも食べさせてあげようかと手作りしたのですけど、お店にもっていったらみんなが食べちゃって・・また、今度作ってあげますから」
「おはぎ・・そう言えば、長いこと食べてないね、おはぎ・・小豆のあんこのお餅」
「うん・・私の手作りだったのに・・優子さんは3つも食べちゃって」
「ああ、いいよ、また今度でも。楽しみにしてるから」
「それと、おばぁちゃんも、春樹さんに会いたいって」
「えぇー俺の事を話したの」
「話しました・・まだ、片想いだってこととか、そしたらいろいろ言われて」
「だから、急に、好きですだなんて・・」
まぁ、それもありますけど、知美さんとの約束と言うか、グータッチの件もあるわけで。
「うん・・おばぁちゃん、振られたことを悲しむより、好きですって言えたことを誇りにして、長い人生、二三回は失恋もしなきゃって。強くなれって・・みんな同じこと言いますね。私、春樹さんにも言われました」
「いったね・・初めて会ったあの時」
覚えているんだ。という思いが溢れて。その思いが、諦めようとしている気持ちを押しとどめているかのようで。もう一つ向こうの角を曲がると、見えてくる私の家。
「あの時から比べたら、本当に変わったな、妹のように思っていたら、いつの間にか・・」
「いつのまにか・・?」なんですか。
「たれにも渡したくない宝物のように思えたり、返事がないだけで耐えられなくなっていたり、今も、このまま帰していいのかどうか・・・帰したくないというか」
と、つぶやいて、高いところから私を見る春樹さんに、ぞくっとしたものを感じた。私を狙っている? そんな直観がする。だから。
「もう、ここでいいです、家はすぐそこですから」
これは、直感が逃げ出しなさいって言ってる気がしたから言ったこと。
「うん・・お母さんに挨拶とかは」
「いりません」早く逃げたい。それに。
やっぱり、これって、男は決められないんだな、ここで、じゃ、とでも言って、いつも通りに知美さんの所にあっけなく帰ってくれれば、私もすんなり諦められるのに。そう思っているのに。
「美樹、あの・・好きだって言ってくれて嬉しい・・」
って、もう、その話はいいんです。やっぱり、私が諦めていることも、はっきりと伝えないといけないのかな。
「春樹さん、私もういいです。あの、知美さんの所に帰ってください。私、やっぱり、知美さんはかなわないから」
そう、私が諦めたこと、はっきりと伝えて。くるっと背を向けて。
「さようなら」と言って、歩き出しながら、今この瞬間に決意したこと。右手で、左手の薬指から指輪を抜き取って、一瞬ためらったけど。「決意したんでしょ、諦めたんでしょ」と自分に言い聞かせて。左側にポイした。そして、一歩一歩。なんだろな、いつもなら泣き出してしまいそうなシーンなのに。春樹さんも、すんなり帰ってよ。と思っている気持ちが、イラっとした気持ちだから泣けないのか。私が強くなっただけなのか。そんなことを考えていたら。ガシャンと後ろから大きな音が聞こえて。振り向こうとしたら、春樹さんが後ろから私の肩を掴んで。ドキィってする前に。
「美樹・・」と呼び止めた。
強引な力でそのまま振り向かされて、両手で私の肩を掴んでいる春樹さん。の向こうでオートバイが横向いてる・・。それより。ナニする気・・。というか。
「なんですか」と返事した私は、今、怖い顔していそう。という自覚がある。そんな私を見つめたまま。春樹さんは・・。
「さようなら・・だけは、言わないで。そんなの、死ぬ奴に言うセリフだろ」
と言った。だから、私は。
「死にたいですよ・・」と、心にもないことを言い放って。春樹さんを睨んでいる。今、こんな気分でいるのは、春樹さんがごめんなさいと言ったからではない。彼氏になってくれないからでもない。私は諦めたんだから、春樹さんも決めてください。そう思っているからになのに。
「お前の彼氏にはなれないけど、他になにかなれるものがあるだろ。例えば・・その」
何が言いたいのよ、早く、知美さんの所に帰ってくれないと、私も諦められなくなるでしょ。と思っていることは伝わらなさそう。
「だから」
と言いながら見上げている私を見つめ続けている春樹さん。でも、これは、絶対にキスシーンに移行する場面ではない。
「だから・・何ですか・・私はもう諦めたんです。だから、春樹さんは知美さんの所に帰ってあげてください。知美さんに決めて、私なんか気にしないでください」
そう言い放ったら、そっと肩を掴む手の力を緩めた春樹さん。肩から腕に持つ所を変えて。
「じゃ、帰るけど、その前に・・さようならを取り消してくれないか」
「取り消す・・って」
「会えなくなるわけじゃないし、会ってはならない関係になるわけでもないし」
「なんて言えばいいんですか」さようならでしょ、こんな時の言葉は。
「そうだな・・・じゃ、またな・・とでもいおうか」と言う春樹さんの表情は穏やかで。
「またな・・?」
またな・・また今度、また明日、またね・・のどれ? と思いながら。もう一度。
「また・・な」とつぶやくと。
「うん・・さようならだけは、死ぬまで言わない。で欲しい」
どういう意味なのかな・・それ。と考えながら。
「またな・・」とつぶやいた春樹さんを見上げて。
「うん・・また」
そうつぶやくと、なんとなくほっとしたように微笑んだ春樹さん。腕を掴む手で私をくるりと回して。優しく私の背中を押しながら。
「それじゃ、また・・おやすみ・・」と言って、一度だけ振り向いた私を送ってくれた。そこから、家まではほんの少し。意識して振り返らないように、玄関のドアを開けると。いつも通りに台所から顔を出すお母さん。が、きょうはなぜかニヤニヤしてる。
「どうしたの遅かったね ちゅう するかと思って見てたのに」
えぇって・・。なによ・・それって。と思っていると。
「あらら、オートバイひっくり返しちゃって、春樹さん、連れてくればよかったのに」
なんてぼやきながら、流し台の窓から外を見てる。さっきのシーンがここから丸見えじゃない・・。
「春樹さん・・何してるのかな・・」
って、もういいから。と思うから。
「もう、春樹さんの事はいいの」と窓を閉めてやった。
「もういいって・・」
「振られたの、お母さんの望み通りに」
と言い放って。そのまま二階の部屋に上がった。しばらくして、聞き覚えのあるおなかに響く重低音。春樹さん、何してたのかな、今頃あのオートバイの音が聞こえて、すぐに遠ざかった。知美さんの所に帰ったんだな・・そう思いながら。「諦めたんでしょ」とつぶやくと。
「美樹、ご飯食べてきたの」と大きな声に。
「食べたくない」と、もっと大きな声で返事する。
はぁぁぁぁーっとベットに仰向けになって。
「終わったのかな、私たち」とつぶやいて。枕を抱き寄せて。「またな・・」か。と思いながら、春樹さんが言った一言一言を回想して。
「妹だと思っていたら、いつの間にか誰にも渡したくない宝物のように思えて、返事がないだけで耐えられなくなったり。プリティーガールがビューティフルレディーになって、振ったつもりはないし、ムリって言うのも違うと思うし。今の美樹は、息をのむほど綺麗で美しい大人の女に見えるよ・・俺も・・その・・決められないというか・・本当の気持ち・・こんなに綺麗な女性に好きだなんて言われて・・舞い上がりたい気持ちもあるし、知美の顔も思い浮かぶし。どうすればいいのか・・」
あんなにぶつぶつしていた春樹さんがスクリーンいっぱいに広がって。セリフの一言一言が、それって、女の子を振るときに使う言葉? とも思えてきた。春樹さん・・どうしてあんな人なんだろう。
「俺も、美樹ちゃんの事は好きなんだ、可愛いし、綺麗で、お店の中でも一番の特別で、大事にしたいと思っているし、ほっとけないし、頼み事も断れないし。この間も気持ちがどうにもならなくなって、でも、その・・美樹の裸が・・その・・オトコは誰だって理性がなくなるよ」
思い出す一言一言を、私を口説きながら使ってくれたら。私だって舞い上がってしまいそうなのに。こんな綺麗な一言一言を振るときに使うだなんて。
「もういいんでしょ、諦めたんでしょ」
と私自信に言い聞かせるけど。やっぱり、諦めるなんて無理かも。という気持ちのまま。もやもやしていると。
「ご飯食べないの」
というお母さんの声が遠くに聞こえて、ごはんなんてどうでもいいよ。と思った。

そして、そんなことがあった翌朝、なんだか体調がひどいような・・起き上がりたくないような。でも、おなかが空いて。
「美樹・・どうしたの」
「うん、ちょっと」
とお母さんに返事して。これだけはお母さんも判ってくれるみたいだし。それなのに、こんな時に、あんなこと、と思ってみる。
「あ・・そうだ」と思い出すことは。アルバイト。私、春樹さんの事諦めたのなら、行く理由がないかも。
「お母さん・・私、アルバイト辞める」
「やっぱり・・春樹さんと何かあった」って、どうしていつもそんな会話になるのよ。と思いながら。
「振られたの・・・」と続けた私。
と言うか、もしかして、昨日のことをおぼろげに思い出すと。私が振った?
「はいはい、そう言えば昨日も言ってたね・・自分で言いに行くの。言ってほしいの」
「あ・・自分で言いに行く・・」
由佳さんには、ちゃんと言っておこう。奈菜江さんと優子さんには・・私がそんな理由で辞めたと知ったら、どんな顔するかな・・。心配してくれるのかな・・。もとはと言えば、奈菜江さんがあんなこと言うから、と言う思いもあるし。

でも。由佳さんにそれを告げに言ったら。
「えぇ~、またぁ~」だなんて。
うんざりと言った。確かに、春樹さんといろいろあって、アルバイト辞めますって言うのは、3回目かな・・いや・・2回目? どっちだっけ・・。でも。
「また春樹と何かあったのね」って、どうしていつもそんな会話になるのよ。だから。
「好きですって言ったのに、ごめんなさいって。振られました」
私はこんなに深刻なのに。
「また、冗談言ったんじゃないの、春樹も口が下手だから」
って、由佳さんはあっけらかんと返してきて。だから。
「今回は、本気です。もぅ、本当に春樹さんの事諦めました」
「って、振られたって、ケンカでもしたの?」
「春樹さんには恋人がいて、私なんか叶わないコト知ったんです」
そんな会話をしながら、イライラしていることわかっているけど抑えられないのは。
「美樹って今、もしかして、生理中? なんか昨日一昨日くらいから、情緒不安定と言うか、仕事以外に集中力ないというか。そんな時にそういうこと決断とかしない方がいいと思うけど」ズボシだから。
「いいんです」と言うしかないし。でも。
「はいはい、わかりました」
と由佳さんはあきあきとうんざりしながら言ったけど、本当は笑っているような。
「じゃ、また、気が変わったらいつでもおいで。今週のシフトはとりあえずキャンセルしとくから、生理なんでしょ、そう言う時はムリしないでゆっくり休んでいいから」
「ごめんなさい」
「でも、男なんて春樹ひとりじゃないんだし、男を選ぶ権利は女が持ってるんだから、振られたって言うより、振ったって言った方がいいと思うけど」
選ぶ権利は女が持ってる・・誰かもそんなこと言ってたかな。それに。
「振られたというか、私が振りました。春樹さんに会ったら、私が振ったことにしててくださいよ」
「はいはい。美樹に振られたんだねって、カワイソカワイソって私も春樹君を慰めてあげるから」
「慰めて・・」
「美樹が諦めたのなら、私が手出しちゃおうかな・・ってこと。優しく胸に顔とか埋めさせてあげようかなぁ。カワイソカワイソよしよしって」
・・・・返す言葉が重いつかないから。
「どうぞお好きに」
そう言うとくすくす笑う由佳さん。
「じゃ、気が変わったら、いつでも帰っておいで」
「・・はい」
と弱々しい返事をして。お店を後にして。やっぱり、体調が最悪・・。頭痛いし、吐き気もしそう。あーもーこんな時にどうしてあんなこと。もう帰って寝よう。

そして、今度の生理はどうしてこんなに長引いて、このまま死んでしまうかもと思ったけど、すこし眠ったら、なんとなく体調がよくなり始めたから、冷静にカレンダーを見ると、8月30日になってる。明日は31日。その次は、知美さんと「正々堂々としていましょ」と約束した9月1日。私、どれだけ精一杯できただろう。思えば、知美さんのあんな提案のせいで、私、一生分のハプニングを経験した夏休みになったような気もする。プールに行って、デートして、二人で食事もしたね。家出をして、初体験・・未遂。告白もしたけど、あっさりと・・諦めたのは私から・・もう少し食い下がる余地はあったかな・・って思うのは、まだ諦めていないからかな。本当に、男は決められない。女は諦められない。のだろうな。はぁぁぁぁ。

何度もため息を吐いてるうちに、いつのまにか気持ちが静まると。春樹さんのセリフが何度もリピートされる頭の中。
「俺も、美樹ちゃんの事は好きなんだ、可愛いし、綺麗で、お店の中でも一番の特別で、大事にしたいと思っているし、ほっとけないし、頼み事も断れないし。この間も気持ちがどうにもならなくなって、でも、その・・美樹の裸が・・その・・オトコは誰だって理性がなくなるよ」
私の裸・・理性がなくなりましたか。あの夜、こんな風に両腕を押さえられて、と、ベットで横になったまま万歳して、春樹さんがチュッチュッと音を立てながら吸った乳首、そんなことを思い出しながら、無意識が私の体を乗っ取ったかのように、乳首をそっと触って、摘まんでみると、びくっ・・とアノ時の感覚が蘇ってくるようで、むずむずするあそこも、触ってみると、ぬるっと・・あん・・って、この感じ。もっと・・。あっ・・。ってなりそうな手前で。あっ・・てなった後かな・・これって。はぁはぁと息をして。
「諦めたんでしょ」
とつぶやいて起き上がり、別の何かが支配し始めた私の心を取り戻してみた。諦めた。諦めた。諦めた。はぁぁぁぁぁ。そう何度もつぶやいても。
「諦められないかも・・」
とつぶやいてしまう。すると、春樹のどこがイイの。と美里さんの声が聞こえた気がしたけど。どこがイイとかワルイとかじゃなくて。他の事が何も考えられなくなるんです。あーもぉ。私、おかしくなってる。じっとしているともんもんとしてくるし。だからと言って起き上がっても、春樹さんからのメールはないし。何していいかわからないし。
「諦めたんでしょ」
と言い聞かせるのに。「むり・・諦められない」と、心が大きな声で叫んでいる。

そうこうしているうちに、また時間が進んで。
「ねぇ美樹、宿題終わってる?」
と弥生からのだるそうな電話がかかってきたのは31日の16時ころ。
「・・・えぇ?」しゅくだい・・って。ナニ?
「あーぁもぉ、まだ7月31日だと思っていたら、信じられない8月31日になってるし。宿題よ宿題。カレに手伝ってよって言ったけど、勉強なんてしたことない男だし。お店あれだけ手伝ってあげたのに、ったく、何にもできないのよ、あのバカ」
って、弥生って、私にブツブツ何言ってるの。
「美樹はどうなの、宿題、何か一つでも終わっていたら、写させてくれない?」
「・・・・・・・・・」宿題って・・そう言えば、夏休みの間、学校のカバンなんて開けたこともない・・。
「もしかして・・美樹も、カバンがタイムカプセルになってる?」
「・・・・・・・・・」タイムカプセル・・・その表現はまさに、ピッタリ・・・。
「えぇ~・・でも、美樹はいいよね、春樹さん勉強できるから・・あぁ~もぉ、諦めるしかない? さっきあゆみに電話したら、私も電話しようとしてたところだなんて言うしさ」
「そう言えば、私たちって、学校があるんだっけ・・」
と返事してる私の上ずっている声。私は、恋に夢中になっていたから忘れていました。という言い訳が通じるはず。そう思ったけど。夢中になってた恋は、あんな結末で・・。
「・・どうして今年は9月1日が土曜日で宿題の提出日になってるの、あー、もぅ最悪。風邪ひいて休もうかしら」
「・・宿題って・・どのくらい?」
「夏休み始まる前にプリントもらったでしょ・・私も見たのさっき・・まぁいいわ、自分で何とかする・・しかなさそう。じゃね」
じゃねって・・えぇ、「手分けして・・」という手段も思い浮かんだけど。あっけなく電話が切れて。おそるおそるカバンを開けると・・・。そこには、約ひと月半の間眠り続けていたお弁当箱もあったりして・・・。こんなの出したらまたお母さんに何言われるかわからない。という恐怖と。宿題リストと書かれたプリントには、ナニコレ・・。英語、数学、理科、国語、自由研究、社会、課題問題集を全部解答すること。って・・・。脳は思考停止、体は機能停止、呼吸だけが自動的に継続されているような錯覚がしていて、カラスの鳴き声が近くで「かぁーかぁー」と響いた。

とりあえず、机に向かってみたけど。宿題なんて、このひと月半鉛筆すら握ったこともないし。何から手を付けていいかも、こんな思考停止中の脳が判断なんてするはずない。あぁーもう駄目だ・・諦めよう。そう思うと。春樹さんの事諦めたんだな私。そんな思い出が連想されて。また、ため息が出ると何も手に付かなくなって、機能停止している手から鉛筆が転がり落ちて、判断力もゼロだから拾う気力もない。
そうこうしているうちに。
「美樹、ごはんよ、降りてきなさい」といつも通りの大きな声に。
「はーい」と力なく返事するけど。夕食のテーブルについた私に。
「夏休みも終わっちゃったね、明日学校でしょ」と言い放つお母さんの一言がますます気力を奪うかのようで。はぁー食欲もないかも。
「どうしたのよ、まだ気分悪いの、長引いてるね大丈夫」
と気を使ってくれるのはいいけど、今、こんな気持ちなのはまた別の理由だから。
「大丈夫」としか返事できないし。
「どうしたんだよ、また、春樹君の事か」
だなんて、お父さんのニヤけた一言は気分をもっと逆撫でするし。
「なんでも、こないだ振られて諦めたみたいよ」
だなんてお母さんの無慈悲な一言も私の今の気持ちを打ち砕く。振られて諦めたんじゃなくて、諦めて振ったのよ・・・どっちも同じか。はぁぁぁ。
「もういい」
「もういいって、全然食べてないし、どうしたのよ」
「食べれない」
「ちょっと美樹・・大丈夫なの」
「大丈夫だから・・食欲ないだけ」
はぁぁぁ、本当にどうしよう。今占いとかしたら最悪の最低の全滅な結果かも。
もう一度、机に向かうけど。やっぱりだめだ・・どうしてこんな風になっちゃったんだろう。何もかも辞めてしまいたい。はぁぁぁぁぁ。
「美樹、おにぎり置いとくから、寝る前に一口でも食べなさいよ」
そう言ってくれるお母さんに。
「はーい」と返事して。お母さんが。
「そんなになるんだったら、春樹さんの声でも聞けば」
だなんて提案するけど。春樹さんの声を聞いただけで元気になれるのなら苦労しないよ。と宿題のリストを眺めてみる。けど、何が書いてあるのかを理解しようとしない私。
「美樹はいいよね、春樹さん勉強できるから」
そう言ったのは、弥生・・。
「カレに手伝ってよって言ったけど、勉強なんてしたことない男だし。お店あれだけ手伝ってあげたのに、ったく、何にもできないのよ、あのバカ」
とも言ってたかな・・。はぁぁ。と無意識の力を振り絞って携帯電話を掴んで。やっぱり。春樹さんからのメールは何も来てないし。
「無事です!」のまま止まっているし。何かフォローしてくれてもいいじゃない。という気持ちもあるけど。
「私はもう諦めたんです。だから、春樹さんは知美さんの所に帰ってあげてください。知美さんに決めて、私なんか気にしないでください」
あんなこと言っちゃったし。でも、私、本当にそんなことを言ったのかな。ぶつぶつ考えながら、メールをさかのぼっていくと。春樹さんからのメールが本当に5分おきに届いているようにズラーって。そのひとつひとつを見ていると。大丈夫ですか? どこにいるの? どんなことでもしますから返事してください。心配してます。いま何していますか? 大丈夫ですか? 無事ですか? 怒っているの? どんなことをしてでも償います。許してください。返事して。バカでもキライでもいいから一言返事して。春樹さん、これを書いてる時どんな気持ちだったのかな、という感情が生まれて。私の事、好きだったのかな。でも、私の彼氏にはなれないって言ったのは春樹さんで。知美さんの所に帰れって言ったのは私だし。でも。
「お前の彼氏にはなれないけど、他になにかなれるものがあるだろ。例えば・・その」
と言ってたことを思い出して。ピンっときた。
「例えば、その。宿題を手伝ってくれる人」
それに。
「美樹はいいよね、春樹さん勉強できるから」
と言っている弥生の声も私の背中を押してくれて、ハッと起き上がれた。もやっとするけど、起き上がると、体中にエネルギーが充電されていく感じがする。
「お前の彼氏にはなれないけど、他になにかなれるものがあるだろ。例えば・・その。宿題とか手伝ってあげられる人」
と春樹さんが今そうつぶやいてくれた気がするから。よし・・手にしたままの携帯電話。自動的に呼び出した春樹さんの番号。そして。
「もしもし、美樹ちゃん? どうしたの?」
と春樹さんの声、この優しい響きを聞くと、なんだか ほわん として、体中に纏わりついていたモヤモヤしてる棘がぱらぱらと剥がれ落ちてゆくような気分がしている。
「あの・・春樹さん。お話があります」いつもよりおしとやかな意識をして。
「お話・・?」と聞く春樹さんに。もっとおしとやかに。
「ちゃんと聞いて返事してくれると言いましたよね、この間」
「言ったけど・・それは、この間のお話? のこと、じゃなくて?」
と言っている春樹さんに。
「あの・・その・・」と、わざと、とぎれとぎれに話しているのは私の作戦。
「どうしたの? 何でも聞いてあげるから、美樹ちゃんの頼み事なら、ゆっくりでいいから、落ち着いて話してみて」
よし、思っている通りの返事。あの時言った春樹さんの言葉は何度でも使いまわせそうな気がしている。「お前の彼氏にはなれないけど、他になにかなれるものがあるだろ。例えば・・その」例えば、その、私の召し使い。
「あの・・その・・」
ともう一度そう言うのは、より確実な返事をもらうため。
「大丈夫だから、言ってみて、ナニ? どうしたの? なにか困っている?」
よし・・。勝った。と言う気がした。けど、もう少しこの勝ち戦を確実にするために。
「あの・・春樹さん・・」
「はい・・」
「その・・」
「なんでも言ってよ・・ちゃんと聞いてるから」ここまでくれば完勝確実。
「じゃ、言います、聞いてくれますか?」
「なんでも・・あ・・カレシになってとか・・アレ以外なら」
まぁ、それでもいいか・・。今はカレシになってもらうことより。
「宿題がたくさんあるんですど・・手伝ってもらえませんか?」
「はぁ・・?」はぁってなによ、はぁって。
「だから、宿題があるんです。明日提出しなければならなくて」
「宿題って・・それは自分でするものでしょ」声のトーンが変わった。優しい響きがなくなった。だから。
「さっき、何でも聞いてあげるからって、私の頼み事ならって言ったじゃないですか」
イラっとしたんだ。
「いや・・言ったけど・・宿題って、自分でするものだし、していないのならそれは美樹ちゃんがサボっていたからでしょ」
サボっていたわけじゃなくて、春樹さんの事を好きになっちゃったからできなかっただけで、よく考えたら全部春樹さんが私をこんな気持ちにさせたことが全ての諸悪の根源なわけだし。手伝ってくれないのですか・・手伝ってくれないなら・・ないなら。こんな時は頭脳が150パーセントくらいの能力を発揮しているような気持になる。頭脳の回路が目まぐるしく点滅して。ぐるぐるガチャガチャ計算して、最適な答えをカシャーンという響きとともにはじき出した。
「春樹さん・・」と言った声は、さっきとは打って変わったいつもより低く太い声で・・。
「はい・・」と聞こえた声はどことなく弱々しくて。だから。こんな強気に。
「手伝ってくれないなら、あの事、知美さんに喋ってもいいですか?」
「・・・・えぇ」
と聞こえた春樹さんの声の背景に・・。
「・・どうしたの、えぇって・・美樹ちゃんと話してるの?」
と、知美さんの声が聞こえて。
「えぇ・・って・・いや・・あの・・だから・・ちょっと」
「ちょっと貸してよ、美樹ちゃんなんでしょ」
やっぱり、知美さんがそばにいる。
「いや・・えぇ・・ちょ・・あの」
「いいから、貸してってば、美樹ちゃん、こんばんは」
と聞こえた、久しぶりに聞く知美さんの声はどことなく楽しそうな弾み方。
「あの、こんばんわ、お久しぶりです」って知美さんには・・この声色は・・でも、急におしとやかな声なんて出せないのに。
「お久しぶりだね、どうしたの?」と聞かれて。
「あ~の、その」って、何話していいの? これは想定外だったかも。
「遠慮しないで言ってよ、私と美樹ちゃんの仲じゃない」
なんて、ここは、とりあえず、素直にありのままを。
「じゃ、あの、宿題がたくさんありまして、終わってなくて、手伝ってほしいのですけど。と春樹さんに話しているところです」
って、なんで急に心臓がバクバクするほど緊張しちゃってる私。こんな時は無防備に何もかも喋ってしまいそうだけど。
「あー宿題ね」と返事してくれる知美さんの声はまだ軽く弾んでいて。
「あの・・その・・春樹さんとあんなことがあったから、全然できていないというか」
あんなこと・・って、そんなこと私しゃべっちゃった? 詳しいとこまでは言ってないし・・いや、知美さんはわかってくれているはず。あんなことの意味は、あんなことの話ではなくて。と微かに期待しているけど。
「あーそういう言い訳か。うふふふっ。説得力ありすぎるねその言い訳。それじゃ私にも責任あるのかな?」
と言ってくれたから、ほっとしたかも。だから。
「はい・・たぶん・・」と返事したら。
「はいはい。私も美樹ちゃんに 例のあの事 聞きたい気持ちもあるし、今から二人で行こうかな」
「え? 例のあの事」
「例のあの事。もう少し時間あるけど、諦めた? まだ諦めてないよね」
って、諦めてないよねって、例のあの事、期限は今日の12時まで? だけど。
「はい・・」
と、とりあえずは、そう返事して。
「ところで、春樹君が今、真っ青な顔してるんだけど、どうしたの? デスラー総統みたいよ」
ですらー総統? 真っ青? 
「どうしたの春樹君」
と電話から聞こえる知美さんの声に、私何も言ってないよね、と自問自答しているけど。間違いなく、あんなことがあったから、と言うのは、知美さんと約束したこと以外連想できないはずだし。
「私もね、美樹ちゃんにちょっと聞きたいことがあるのだけど、今聞いていいかな」
「はい・・何ですか?」って、そう言う以外に選択肢がない知美さんの口調だし。
「私ね、お盆休みの時、実家に帰ってたんだけど、こっちに戻ってきてから、まぁ、その」
まぁ・・その・・お盆休み・・こっちに帰ってきて・・と知美さんが言ってるそのタイミングは、あの日の事? 「知美の奴今盆休みで実家に帰っているんだ」ってあの時の事。だよね。
「あのね、洗濯機の中に女の子の下着とかシャツとかがあって・・アレ、私のじゃないのだけど、美樹ちゃんは誰のだか知ってる」と軽く聞く知美さんの声と。
「えぇぇぇぇ」と後ろから聞こえたのは春樹さんの声・・それは、そう言えばと思い出すことだけど。
「えぇってなによえぇぇって。アレ、美樹ちゃんのじゃなかったらどうなるつもりなの?」
どうなるつもりなのって・・すごい脅迫。
「いや・・あの・・・えぇ・・」
「今まで黙っていてあげたけど、あぁいうこと、普通忘れる? どうしたのよ、顔色が緑色になってるわよ、ナメック星人じゃあるまいし」な・・なめっく星人? それより、背景から聞こえる春樹さんの うろたえてる 声の方が心配と言うか。
「いや・・あの・・あれは・・」
「どうして、私のじゃない女の子の下着が洗濯機の中にあったのかな・・春樹君・・説明しなさい。青色のズボンもひらひらのシャツも着ようと思ってクリーニングに出してたらなくなってるし」
「・・あ・・あれは・・間違いなく私のモノで、それは、ちょっと借りてたというか」
「って美樹ちゃんが言い訳することじゃなくて、春樹君が今まで黙って しら を切り通していることに腹が立ってるの私。まぁ、美樹ちゃんのモノなら許してあげるけど」
まぁ・・そういう約束でしたしね・・とは言わないでおこうかな。
「じゃ、今から春樹君を連れて行くから、例のあの事、話してくれる」
「はい・・」
「それと、まだ諦めてないのでしょ」
「え・・」
「最後の最後まであきらめないの、期待してるからねぇ」
なにを? 期待してるからね? 最後の最後まで、そう思っているうちに電話が切れて。
えぇ? 知美さんって、なにを期待してるの。それに・・今から二人で来る、ここに。って、あの人の事だから、20分でここに来そう。20分。いや・・ワープとかして、もっと早いかも。

「ちょっと美樹、何してるの」
とお風呂上がりの緩い衣装のお母さんの声を聞き流しながら、座敷の一番広い部屋の真ん中に、一番大きなテーブルを用意して。
「ちょっと、春樹さんが来る事になったから」とわかりやすく説明したつもり。
「えっ?」
「春樹さんが、知美さんとここに来ることになって」
「ってどういうことよ?」
「だから、春樹さんと知美さんが来るから」
「どうして、えぇ?」
「私の部屋狭いから、ここ使うの」
「ちょっと美樹、どういうことよ、春樹さんと知美さんが来るって、何しに来るの」
「宿題手伝ってくれるの・・」
「宿題?・・なんのこと?」
「あーもぉ、知美さんの事だから、道が空いてたらもう来るかも」
「と・・知美さんって・・あの知美さん‥春樹さんのカノジョの知美さん?」
「そうよ・・」
「来るって、ここに来るの? こんな時間に?」
「そうって、さっきから言ってるでしょ」
って、用意している間に。ピンポーンとチャイムが鳴って、本当にあっという間に来た。どこをどう通り抜けるとこんなに早く来れるのだろう、という気がした。
「美樹ちゃんこんばんわ」
と言う声に玄関のドアを開けると、蒸し暑い夜にピッタリの細い手足をすらりと惜しげなく露出している薄着の知美さんとその後ろから少し小さくなったようないつも通りの衣装の春樹さんが本当にいて。
「あら、お母さんこんばんわ、お邪魔します」
と、知美さんの丁寧なあいさつと。
「あ・・こんばんは」
と、春樹さんの緊張気味な挨拶と、春樹さんの視線が向いたのは、お風呂上がりの緩くて薄いパジャマ姿のお母さんのはだけた胸元。春樹さんの視線に気付いたお母さんはさっと手で押さえて向こうに隠れたけど。
「あれ、どうしたのこんな夜遅くに」
と出てきたお父さんに。
「あら、美樹ちゃんのお父さんですか初めまして。私、知美と言います、素敵なお父さんね、なんか私の好みかも」
とものすごい笑顔で私につぶやいたのかお父さんに向かってそう言ったのか。一瞬で、
「えっ?」
と言いながら、でれーん・・とこんにゃくのようになっているお父さんが、薄着の知美さんをニヤニヤ見てるのがわかるような。
「お邪魔します・・いいでしょ」と遠慮なく上がる知美さんに続いて、遠慮してる感じがいっぱいの春樹さんが靴を脱いで、私をチラッと見つめる。
「あ・・はい」と返事しながら。
「ったく」と言う春樹さんから、「余計な事喋るなよ」とテレパシーが届いたような気もするような。
「あの・・」
「ほーら、何から始めればいいのかな、宿題ってどれ? 春樹君はそこに座りなさい。美樹ちゃんは私の隣、それと・・。」
と問答無用で仕切り始める知美さん。が、壁の向こうから顔を半分出してちらちらと見ているお母さんに。
「あの、お母さん、食べ物と飲み物を少しでいいですから用意できますか。美樹ちゃんは宿題のリストをここに置いて、私が振り分けるから。自由研究なんてあるんだ・・うーん・・」
とプリントに目を通す知美さんは。まだ知美さんの顔に見とれているお父さんに。
「私好みのお父さん」とものすごい作り笑顔と甘い声でお父さんを振り向かせて。
「はい・・」と気を付けするお父さんに。
「国際情勢についてお詳しいですか?」と笑顔のまま聞いた。
「こ・・国際情勢」
「最近の国際情勢、気候変動が及ぼす食料の貿易問題についてなんでもいいですから論文にまとめてください。五千文字程度で構いません」
「えぇ・・」
「できるでしょ」
って、「できるに決まってるでしょ・・」と聞こえたような。それより、その笑顔でこんな言い方、絶対断れない・・。それに・・。
「それじゃ春樹君は、英語と数学と理科だね、得意でしょ。私は国語と社会するから・・美樹ちゃんは歴史行ってみようか。」
ってそっけなく、拒否する間を与えない。圧巻と言うか、圧倒的と言うか。お父さんも、問答無用でキーボードをカシャカシャし始めるし。知美さんの指揮の元、無言で始まった、私の宿題処理作業。
「お父さん、キーボード早いというか、慣れてますね」
「あ・・まぁね・・」
「仕事できるお父さんなんですね、かっこいい・・」
「まぁ・・そうかな・・」
だなんて、なに、この、のろけ顔のお父さん・・を完璧にシモベにしている知美さんと言うか。お父さんのチラッとする知美さんの胸の谷間への視線も軽く受け流して、ニコッと微笑む知美さん。お母さんが飲み物を持ってきて、そんなデレデレのお父さんの仕草に気付いているのか。
「あら、お母さん、ありがとうございます。素敵なお父さんですねうらやましい」
だなんて、
「あ・・そうですか」
だなんて。お母さんも仕留められた? というか、お母さんの視線は春樹さんに向かっていて、気付いた春樹さんがチラッとお母さんを見上げて軽く恥ずかしそうに微笑むのを、不安そうに見ているお父さん・・。に気付いた私。だけど。
「さってと、全部揃ったから気合い入れて、終了目標時間は3時に設定。寝たらたたき起こすわよ」
「ちょっと・・知美・・その仕事モードは・・」
「うるさい・・さっさと処理しなさい」
うわ・・と言うか・・えぇっ・・と言うか。知美さんの実態を目の当たりにしているというか。私、こんな女性をライバルにしてたの? みんな、無言でモクモクと処理している私の宿題。課題の問題集をロボットのように解いてゆく春樹さんと。カシャカシャとキーボードを打つお父さんと。私にニコッと微笑んで、「本当の私はもっと優しくてカワイイのよ」とでも言いそうな知美さん。行き場のないお母さん・・は、向こうの部屋に隠れて。小一時間が過ぎて。
「はぁー一つ終わり」と、つぶやく春樹さんと。
「こんなものでいいかな、気候変動が及ぼす貿易問題についての考察」
とパソコンの画面を知美さんに向けたお父さん。
「うーわ・・素晴らしいじゃないですか。代金を払える国と払えない国の差がますます広がるにつれて、支払い能力のある国の支配が進むと、能力のない国からの難民が押し寄せることで社会保障コストがさらにかさみ、やがては共倒れになる懸念・・・人口抑制策も究極的には持続可能社会には必要ではないかと・・・」
「まぁ・・あくまで、個人的な意見で、そんなことを考えたりするのだけどね」
「お父さんって、へぇぇ、かっこいい、あこがれます、こんな論文書ける上司なんて私が欲しいくらい」
「そうですか・・じゃ、そろそろ休むよ」
と言った時。
「あなた、先に寝るからね」
と言いに来たお母さんが見てる前、どうしてこのタイミングで・・。
「お父さん、ご褒美です」
と、知美さんはお父さんのほっぺを手繰り寄せてチュッだなんて。それに。お母さんをチラッと横目で見た知美さんは。
「あ・・ごめんなさい・・いつもお二人ご一緒に」とお父さんに聞いて。
「あ・・ええ・・まぁ・・その夫婦だし」
「へぇぇ、羨ましい」
「君たちはご一緒じゃないのかな・・」
「私の仕事が忙しかったり、すれ違うことが多くて、結婚生活が長続きする秘訣とかありますか?」
「うーん・・秘訣かぁ、男はいつも控えに徹することかな」
控え? というか。お母さん・・立ったまま止まってるし。
「控え、家では、母さんが一番の権力者で。男は控えの召し使いであるべきなんだよ。な」
そう言いながらお母さんに振り返るお父さん。
「ちょっと、春樹君、聞いた」
「うちもそうしてるだろ」
「そうかな・・」
「まぁ、それじゃ、先に寝るよ」
「あ、はい、ご苦労様でした」
と、お父さんが部屋を出て扉が閉まってからしばらく。もくもくと処理している静粛なこの部屋に、向こうの部屋から声がかすかに聞こえて・・。

「ナニよあんなにデレデレして・・」
「デレデレって、あの娘が」
「なにがあの娘がよ・・・もぉ」
「そんな・・やきもち焼いたりしないで・・美樹が呼んだんだろ」
「・・・もぉ」
「・・ほら・・そんな顔しないの・・浮気なんてしないって・・」
「チュッてされてたくせに・・・」
「それは・・したわけじゃないだろ。ほら・・愛してるのは・・だから・・・ほら・・・お前も春樹君を色目で見てたじゃないか」
「色目だなんて・・ちょっと恥ずかしかっただけだし・・」
「俺の前でも、・・そんな・・恥ずかしそうに・・ほしい・・」
「うん・・もぉ・・」

と、そこから先の声は聞こえなくなったけど・・。知美さんが、くすっと笑って。
「始まっちゃったかも・・」
「え・・」なにが・・。と思った時、美里さんの一言が甦ったというか。手が届くところで話すると、話す前に始まっちゃう・・それって・・。
「いい、ご両親だね、若々しいし。あんなに愛し合ってるお父さんとお母さん。ホント、美樹ちゃんの事、全部がうらやましい」
そんなことをつぶやく知美さん。って。まさか。
「ちょっと触っただけなのにあんなにやきもち焼いて。お父さんも、春樹君にとられるのが怖いいみたいで・・」
「なにを・・」
「お母さんの心を春樹君に盗まれそうって思ってるお父さん。それに、お父さんの心を私が盗んでいきそうだとお母さんは感じた。だから・・今、愛を確かめ合ってるかもよ・・うふふ・・」
って言うから、そぉぉっと後ろに振り返ったけど。声は聞こえないし・・。
「こーら、美樹ちゃん・・ヘンな想像しちゃダメでしょ」
「って・・」知美さんがヘンな想像させているのでしょ。と思う。
「で、春樹君、どのくらい進んたの?」
「あと、半分くらいかな・・課題の問題集、結構深いよこの問題集」
とモクモクと鉛筆を走らせている春樹さんが、口だけでつぶやいて。
「大学入試問題レベルばかり、こんなの高校生、かなり苦労しそうだけどね」
「ホントだ・・さすがね。ご立派。誉めて遣わす」
「はいはい・・」
と、何気ない会話が行き交い。春樹さんがぶっきらぼうに返事したその瞬間。
「なによ、その返事」と、知美さんの雰囲気が突然変わった。
「なによって・・なに?」
「はいはいって・・誉めてあげてるのに、そう言う返事する」
「っていうか、なに急に・・最近のお前、俺にイラついてるだろ?」
って、急に何言い始めたの知美さんって。春樹さんも。
「イラつくわよ、あなたの返事の方が。はいはいってなによ」
「いや、別に、誉めてくれるなら、はいはいありがとって」
「今までそんな返事じゃなかったでしょ。私たち、もう、冷めてきた? もしかして、美樹ちゃんの方がよくなったとか」
「ナニを急に言い出すんだよ」と私もそう思う。ナニナニどうしちゃったの急に。
「あーソーダソーダ、洗濯機の中の下着事件の事・・」
「う・・って。さっき来るとき車の中で言い訳しただろ。何もなかったし、なにも・・」
「ホント? 美樹ちゃん」
「えっ・・・」それって、急に私に振るの?
「ほら。美樹ちゃんもどう答えていいかわからない感じ。何かしたでしょ」
「な・・な・・なにも・・」
「はぁぁあ。私たち、3年も一緒にいて、やっぱりお互い飽きてきたのかな」
「飽きてきただなんて」って、えぇ、なに急にどうしたの知美さん。
「だいたいさ、洗濯機の中に女の子の下着がある、つまり、その女の子、裸になってたわけでしょ、春樹君と狭い狭い部屋の中で」て、顔が知美さんに向いて。
「なんだよ、急に・・」と、顔が春樹さんに向いて。キョロキョロしながら聞いているけど。
「思い出すとむしゃくしゃするって言うか。無理しないで、美樹ちゃんに乗り換えれば」
「なに・・急に・・お前、ときどきそうやって突然怒り出すのやめてくれないか」
「怒り出すって、あなたが怒らせているんでしょ」
「俺のせいかよ・・また」
「だいたいね、洗濯機の中に女の子の下着を忘れて、今までしらを切り通してたことも気に入らない。あの日だって、誰か来てたって聞いたら。誰も・・ってウソ言ったでしょ」
「いや・・それは・・美樹ちゃんがいたこと、その」
「ほらほら。美樹ちゃんに乗り換えなさい、別に私は何とも思わないから」
って、本当にどうしちゃったの? え? って春樹さんを見つめると目が合って。怖くなるから知美さんに視線を向けるとうつむいてるし。
「そこまで言うんだったら、美樹、この間あんなこと言ったけど・・」
あんなことって?
「お前、俺の事諦めるって言ってたろ・・」
えぇー? なになにこの展開ってナニ?
「諦める必要なんかなくて、俺も本当はお前の事・・その・・好きと言うかさ」
そんなこと、知美さんの前で言っちゃったら・・。ええ?
「あの時から、ずっとお前の事考えていて・・心配していて」
えぇ? 知美さん、どうしてうつむいたまま。どうしたらいいの。
「美樹ちゃん・・俺の事まだ好きか・・・」
・・・・・・だなんて、そんなこと知美さんの前で言う? 春樹さんの顔、結構真剣。なの? って、どうして急にこんな展開? だめだめだめだめ。「好きです」なんて返事しちゃったら。「私と血みどろになって男を奪い合うんだから」とあの時言ったのは、知美さんだけど。そんな、本当に血みどろになりそうというか。えぇ。必死で逃げ場を探しているというか。キョロキョロしてしまうと。はっと、時計が目に飛び込んできた。時計の針、今、11時59分53秒・54秒・55・56・57・58・59・カシゃっと、1・2・3長い針と短い針が動いて。9月1日になってしまった。から・・思いついたセリフは・・。
「あの・・春樹さん・・私春樹さんの事好きですよ。好きですけど・・それは、12時を過ぎてから言っても意味がないんです・・」
「え?・・・・・・・」という顔が、かなり 間ぬけて いる春樹さん。と。知美さんの、くすっと笑い声が聞こえたような気がした後。
「くすんくすん・・私たちの3年間ってなんだったの・・」
と知美さん‥今度は本当に涙をポロポロ流しながら泣いてる。うそ・・なに・・どうしたの?
「ちょっと・・知美・・なんだよもぉ、そんな・・」
「はいはい、美樹ちゃんに乗り換えるんでしょ」って涙を一ぬぐいしてからすぐに顔をあげた知美さんが、私に向けて一瞬舌をペロッと出して。なんですか今の? まさか、その、でも、私を優しい目で見つめて「諦めちゃうの?」と聞こえたような気がしたから。小さく。「うん」とうなずいてみた。
「いや・・なんだよ・・本当に、泣くこと・・」とおろおろする春樹さん・・。
「美樹ちゃんに乗り換えるんでしょ」とさっき一瞬泣いてたのに、もう、素に戻っている知美さん・・。
「でも、そんな。それって、私ムリです」と、どうしていいかわからない私が言ったら。
「ムリだってさ、振られたけど、どうするの、今日は歩いて帰るしかないけど、鍵とか開けないかもしれないよ私」こわい・・。から。
「・・・・・・」何も言えない・・。
「美樹ちゃん・・俺の事まだ好きか。だってさ」と続ける知美さんに。
「お前たち・・・なにか、二人で企んでないか?」と春樹さん・・その一言に知美さんの右側の頬がびくっとした。春樹さんも意外と鋭い? 企んで・・。いるかも。
「え・・別に・・何も・・ねぇ」って、
知美さんも私に振らないでくださいよ。と思うのに。くすくす笑って。
「もぉ、美樹ちゃん、ヘタよ・・合わせなさいよ・・あーぁ。もぉ」
と、知美さん、さっきまでが嘘みたいに本当に笑っている。そして。
「知美・・それじゃ、俺、本当に美樹ちゃんに乗り換える‥決めた・・もう、そう言うの俺ムリだから」と春樹さん・・ふてくされてる、怒っていそう・・。
「あーもぉ、からかっただけでしょ」
ってアレがからかっただけだなんて・・。
「確かに、美樹ちゃんの下着を洗濯機に忘れたのはアレだけど」
「アレ? ってなに」
「誰か来てたって聞かれて、美樹ちゃんか来てましたよ、がまんできなくてエッチなことしてしまいました。知美さんより若くて綺麗でカワイイ美樹ちゃんの裸が眩しくて・・・なんて、そんなこと正直に言えるわないし」
って、春樹さん・・何言ってるのですか? そんな・・それ・・。また知美さんの顔色ががらりと変わって。
「いってるじゃない、そこまであらかさまに言う普通。したのねやっぱり・・私より綺麗でカワイイ美樹ちゃんと・・なによもぉ」
って、知美さんも、全然負けてないし・・。でも、私はその、したわけではない・・。
「いや・・だから・・あーもぉ・・本当は完全に忘れてただけだって。さっき説明しただろ」これは、春樹さんの負け?
「はいはい、乗り換えなさい」と勝ち誇る知美さん? だけど。
「なんだよ、・・もう、ちょっとムキになっただけだろ。そこまで言うんだったら弁当とか作ってやらないし」
「あーもぉ・・なによ・・そっち」
と攻守が入れ替わって、振出しに戻る・・・。子供のケンカだね・・まぁ、そのくらいこの二人は仲いいんだねと言うか。二人一緒に、にらみ合ったままふぅぅぅう。とため息を吐きあって終わった一瞬のバトルと言うか・・。これって引き分け?
「あーもぉ・・これでいいか?」
と問題集を私に手渡しそうとした春樹さん。
「終わったの?」と横取りする知美さんに。
「終わりましたよ。これで美樹に借りは返したからな」
「借り? ってなに」
「え・・借り・・まぁ、借りだよ借り」
「何かまだ私に言ってない秘密があるでしょ」
「ないよもぉ・・・疲れたし・・・すこし寝るから。あとは美樹ちゃんに聞いてください」
そう言いながら、横になった春樹さん。もぞもぞと不自然な動作で知美さんの腰にしがみついて膝に顔をうずめた・・。
「ちょっと、春樹君、美樹ちゃんが見てるでしょ」
と知美さんは言ったけど。そのまま、寝たふり? 本当に眠った? 春樹さんの寝顔を優しく撫でる知美さんの優ししい顔に気付いて。見とれていると。知美さんは真顔で。
「本当に諦めるの?」
と聞いた。はい・・と返事する前に。聞きたいのは・・。
「さっきの、演技ですか?」
「演技?」
「急に怒り始めて・・」
「演技・・でもあるし、本当にむしゃくしゃしたという気持ちもあるし。まだ9月1日になっていなかったから、美樹ちゃんに少し協力したというか。私の中にある本当の気持ち。私より美樹ちゃんと一緒になった方がこの子のためじゃないかな、って思い」
いつか、そんな話しましたねそう言えば・・と思い出すこと。
「で、どうだった?」
「どうだったって?」
「笑い話がたくさんできたかな」
あ・・それか。「とにかく挑戦して、うまくいかなくても笑い話のネタにすればいい」って。そんなことも思い出して。
「くくくくくくくく」って笑ってしまうのは、夏休みの間に起きたこと。思い出すと結構、おかしいかも。
「なによ、思い出し笑いしないで、話してよ」
「はい・・じゃ、私・・本当に、男の人に好きですだなんていいました。デートに誘ってくださいって。こないだは、もうあなたの事諦めます。知美さんの所に帰ってください。だなんて、なんだか、思い出すと笑ってしまいますねこれ、本当にアレって、この思い出って私だったのかなって」
そんなことを言いながら、笑っていたから気付かなかったのは。
「さっきの春樹君、まぁまぁ本気だったかもよ。俺の事好きかって・・お前の事が好きというかさって・・」
と言いながら、知美さんが私の涙を綺麗な親指でぬぐってくれたこと。
泣いてる・・? 私・・。
「いい恋だったの? あえて、過去形で言おうかな」
9月1日は正々堂々としていましょう。あの時のあの言葉。ありありと意味が解る気がした。だから、私は。その過去形の質問に。
「はい」
と返事して。くくくくくくって、笑いながら、
「ほーら、泣かないの・・こんなに可愛い顔が台無しでしょ」
と言いながら涙をぬぐってくれる知美さんに。
「3回も失恋しました、同じ男の人に」とつぶやく声が震えて。でも。
「3回目は美樹ちゃんが振ったんでしょ」
「はい・・振りました」間違いなく、私は春樹さんを振ったと思う。
「だったら、男を振ったぞって、誇らしい顔しなきゃ」そう言われて。
「はい」そう返事したら。止まった涙。二人で、くくくくくって笑って。笑いが収まってから知美さんが話し始めたこと。
「私も言うけどね。本当に、洗濯機の中にかわいいブラジャーと真っ白のパンツを見た時は、なんて言うか、取り乱しちっゃった・・本当に血の気が引いて、あの時の顔の脱力感、今でも思い出すと怖いくらい。もしかして本当にこの子を美樹ちゃんに・・奪われた・・って本気で思ったよ」
「ホントですか?」
「ホントにホント。その夜、この子が帰ってきた時、無茶苦茶不安になって、聞いたの、誰か来てたの? って。そしたら、この子が嘘ついてる時ってたいていわかるのだけど。その時に限って。いゃ誰も。って言ったこの子の顔、全然嘘じゃなくて、本当にわからなくて・・それってもしかして、私・・捨てられた? うそ・・だなんて」
「絶対ウソでしょそんなの」
「ホントよホントに、この子の心の中美樹ちゃんに占領されて私に嘘とかいう必要なくなってるのかも・・って勘ぐりすぎたというか、不安になりすぎたというか、勝手な思い込みがどんどん膨らんで、本当に美樹ちゃんのこと・・って空想が怖くなってね」
「へぇぇぇそうなんですか、知美さんが・・信じられないかも」
「そうなんですよ。でもわかった。ライバルの存在って大事ね」
「ライバル?」
「うん・・やっぱり私、美樹ちゃんにあんな強気に言ったけど。この子を誰かにとられちゃったら正気でいられなくなるってわかった。もっと大事にしてあげないとねって・・」
と言いながら、膝の上の春樹さんのほっぺに指を滑らせる知美さん。本当に寝てるのかな春樹さんの顔、なんだかカワイイし。でも、そんなこと言いながら、さっきのアレって。と思ったこと。
「でも、さっきのアレ・・急にびっくりしましたけど。私に乗り換えろって」
「最後の最後に、私の目の前でこの子を奪う気なのかなとか思ったのよ。ちょっと試したというか。賭けに出たというか。でも、美樹ちゃんが12時過ぎたらって言ったから」
「まぁ・・」本気だったら、怖いというか・・どうしたらいいかと言うか。
「この子の言葉かなり本気だったかもしれない。またあとで聞いといて。本当に乗り換えるつもりだったのって」
「そんなこと・・」
「まぁ、男の子も本当の事はなかなか口にしないからね」
とそこまで言ってから。ふぅぅぅっとため息を吐いた知美さん。
「それでも、本当に、この子の事想うと、私でいいのかなって・・私でいいの春樹君」
と寂しそうな顔で春樹さんの頬を撫でている知美さん。が。
「私ね・・この子と知り合う少し前・・」
と、話始めた瞬間に、知美さんの手をぎゅっと掴んだ春樹さん。目を開いて、知美さんの膝の上なのに、どことなく怖い顔。
「とも・・その話は、俺の前ではしないって約束だろ」
とも・・って、本当はそう呼ぶんだ・・。
「って・・寝たふりして聞かないでよ」
「ともがその話を し始めると目が覚めるんだよ」
「・・・・・・」知美さん、どうして黙り込むの。
「俺の前ではしないの。まだ十分ではないのかなって不安になるから」
何が? まだ十分ではないの? 
「うん・・ごめんなさい」
だなんて、今度は急にしおらしくなる知美さん・・俺の前ではするなって話。どんな話なの? そして、知美さんの膝の上から降りたというか、座布団に移った春樹さんの耳元に唇を寄せて
「・・・ごめんね・・ごめんなさい」と、つぶやいた知美さんの小さな声。このイントネーションは。まさにあの時、ベットの上で私を押さえつけた春樹さんのあの優しい響きと同じ。そのまま。
「・・この話は。春樹ごめんなさい、私はもう十分すぎるくらい愛されて癒されてもう大丈夫だから」
と小さな声で続けて囁いた。そして私に振り向いた知美さん。くすくすっと笑って。
「何でもないコト・・私たちの終わった話・・」
とわからない言い訳をしたけど。私が気になるのは別の事で。
「知美さんも言うんですね」って。
「ナニを?」
「え・・ごめんね・・ごめんなさい。って、なんだか春樹さんがそう言った時と同じイントネーションだったというか、優しい響きが同じでした」
なんだか、その響きが同じなこと、おかしく感じたというか。やっぱりこの二人の間には割り込める余地がないというか。私はそう思っているのだけど・・。
「春樹君も言ったの? ごめんね、ごめんなさいって」
そうまじめな顔で私に聞く知美さんに。
「はい・・何度も、ごめんね、ごめんなさいって続けるんです、まったく同じだから、なんかおかしい。ふふふ」
と笑いながら答えて。まぁ、どんな場面でそう言ったかは言わなければわからないことだし。軽く笑って受け流せる話題だと思っていたのに。
「何度も言ったの?」と聞く知美さんの顔には笑みがひとかけらもなくて。
「え・・はい・・」
と返事した瞬間、背中にムカデが忍び込んでいるかのような感触を感じた。えぇ? 鳥肌が・・なぜ?
「美樹ちゃんあのね、私って感が鋭い女なの。たぶん、美樹ちゃんの数千倍は感が鋭いと思う」と言ってニヤッとする知美さん。
え・・なんの話ですか? 怖い・・。これって私をコロしそうな・・魔女の微笑みリターン・・。
「ふふふ。だから、男の子がベットの上でしか言わない特定のセリフを気安く喋っちゃだめよ」
だなんて・・ごめんね、ごめんなさいって。春樹さんベットの上でしか言わないの?
「この子が私を軽く押さえつけて、私が軽く抵抗したとき言うのよ、痛いとか、待ってとか、そこじゃないって、抵抗したとき。この子は必ず、ごめんね、ごめんなさい。って続けるの」
「・・・・・・・・」そうなんですか? なんて言えないし。
「やっはり・・美樹ちゃん、この子と寝たんでしょ」
「・・・・・・・・」と目が見開いて瞬き禁止状態になった。
「ほーら、今、目がぐわって大きく開いた。瞬きできないでしょ」
「・・・・・・・・」こ・・コロさないで。と後ずさりしたいけどできないままでいると。
知美さんはじろっと私を睨んだままで。
「あの・・あの・・確かに、そんな雰囲気になりましたけど、アレは未遂です。未遂に終わりましたから、あの、私、怖くなって春樹さんを思いっきり蹴飛ばしちゃって・・その」
あらん限りの言い訳をしないと本当にコロされそう。
「未遂?」
「はい・・だから、寝てません」
間違いなく、一緒に寝たわけではない・・。
「くくくくく。そうなんだ・・なるほどね」
なるほどね・・?
「洗濯機に下着があった日の夜。田舎から返ってきてへとへとで、ご飯食べてシャワー浴びてすぐ眠ろうとしたら、この子が、したがったの」
「したがったの?」
「両手の人差し指をこんな風に曲げて」
「こんな風に曲げて?」と両手の人差し指を曲げて。
「寝入り始めた私のパンティーを下したのよ。つるんっと」
つるんっと・・だなんて、えぇ・・・。それって、想像できるけど。
「私も疲れてへとへとでさ、なにすんのよもぅ、そんなつもりないし。って、思いっきり蹴飛ばしちゃって」
あ・・そうですか・・。
「ちょっと、それから、気まずくなってるというか・・ここひと月、禁欲生活中」
あ・・そうですか・・。
「女の子によく蹴飛ばされる子なんだね。くくくく」
って、笑うところですか? 
「美樹ちゃんとできなくて、あの時、あんな風になってたわけだね、この子があんなことするのも初めてだった。なるほどね、一応、この子もオスなんだ・・なんとなく嬉しいかも」
う・・うれしいかもって。
「別に怒ったりしないから、そう言う約束だったし、どちらかと言うと、目覚めさせてくれてありがとう。なのかもね。ふううん、そっか。だから、あの時の顔、嘘じゃなかったのかも。残念だったね春樹君」
と春樹さんに優しく語り掛ける知美さん。本当にニヤニヤとして嬉しそうな顔で。嬉しそう? ではなくて、その。
「じゃ、帰ったら、目いっぱい甘えさせてあげますからね」
あの・・その・・お風呂上りに裸で挑発するのですか? なんて聞けないというか。想像している自分自身が恥ずかしいというか。
「それじゃ、どうする、少し眠った方がいいんじゃないの。私たちは明日は休みだけど、あ、この子はアルバイト行くのかな、美樹ちゃん学校でしょ」
「はい・・」
「じゃ、朝まであと3時間ほどあるから、横になって。何なら、春樹君を枕にしてもいいよ」
え・・。
「宿題。終わり。提出できるようにまとめてカバンに入れて用意して、私も少し横になってるから」とあくびして横になる知美さんに。
「はい」
と返事して、春樹さんのカワイイ寝顔を見つめると。何だか、寂しくなるような。

「3回目は美樹ちゃんが振ったんでしょ」
「はい・・振りました」
「だったら、男を振ったぞって、誇らしい顔しなきゃ」
「はい」

そんな会話をしたのは、夢の中の出来事だったのか。現実だったのか。
「美樹・・美樹・・学校でしょ、起きなさい」
と、肩を軽くたたかれながらの小さな声に、目を覚ますと。テーブルにうつぶせていた私。ちゅんちゅんとスズメの声が外から聞こえた、明るくなり始めた朝。薄暗い部屋、テーブルの向こう側に春樹さんにしがみついて幸せそうに眠っている知美さんと。知美さんの髪に顔をうずめて眠る春樹さんがいて。やっぱり、現実だっんだなと、受け入れなきゃならないんだなと自覚したあの出来事。

「3回目は美樹ちゃんが振ったんでしょ」
「はい・・振りました」
「だったら、男を振ったぞって、誇らしい顔しなきゃ」
「はい」

「ほーら、起こさないように。昨日遅かったんでしょ」
「うん・・」
誇らしい顔なんて・・むり・・本当は泣きたいくらいなのに。知美さんの寝顔を見ると。
「9月1日は正々堂々としていましょ」と声が聞こえて。仕方ない、正々堂々とするか。という気持ちになったようだ。

朝ごはんを食べて。
「お父さんは」と聞くと。
「まだ眠ってる、土曜日だし、疲れてるんじゃない。いいのよもう少し眠らせてあげても」
っていつもより優しい響きのお母さんになにか 違和感があるような。
「あ・・そ・・」とつぶやいて。
どうして疲れてるのかな・・。なんて。私、なに想像してるのだろ? 

そして、久しぶりに学校に行くと。
「宿題できてる子いる」とあゆみがみんなに聞いて回っていて。
「できるわけないでしょ、あんなムズイ課題」とほぼ全員の返事。
「美樹、おはよ、宿題どうなの、春樹さん手伝ってくれたの」
と弥生が私の顔を覗き込んで、一瞬で察したような。
「うそ・・本当に春樹さん手伝ってくれた?」
だなんて、私、なにも言ってないのに。
「ちょっと、ずるいでしょそれ、ちっょと美樹、昨日全然できてないって言ったじゃん」
って、私何も言ってないでしょ。
「ちょっと、美樹、見せてよ見せて。写させて」
って、勝手に私のカバンを開ける弥生が、課題の問題集を開くと。
「うーわ・・本当に全部やってる」
「えぇーうっそー・・美樹・・なんで」
なんでって・・そんなこと・・だれにも説明したくない理由は。
「美樹の彼氏って超イケメンの大学生でなんかすっごい頭良くてむちゃくちゃかっこよくて、どうしたの今日は指輪してないの」
「指輪? ってなによ」
「お揃いの指輪してたじゃん、アレ、どうしたの」
って、私に群がるのはやめてよ、と思うから。
「勝手に想像すればイイでしょ」
って、こんなこと、夏休みが始まる前は言えなかったかな・・。
「って美樹、ちょっとほら、写させてよ、ホントに全部できてるし、信じられない、こんな超ムズイのに」
って、なにするのよもぉ、と思いながら。
「今から写したって間に合うわけないし」
と抵抗したけど。
「大丈夫。先生来たら、全員持ってくるの忘れたって ごね れば提出月曜日でオッケーになるから」
って。
「それより、美樹って本当に大学生の男の子と付き合ってるの」
「そう言えば、美樹って雰囲気変わったよね、なんかおっぱい大きくなってるし」
「ええ・・ホントだ。ええ・・なんか美樹じゃない感じ・・美樹だよね」
「・・・・・・」なんて言えばいいのこんな時。
「美樹って、その大学生の彼氏と・・・」
「・・・・・・」なに想像してるのよ。
それに、どうしてみんな私から一歩退くわけ? 

そして。
「みんな宿題やってきたか」と先生の一言に。
隣に座っているあゆみが「しぃー」って合図して。
「あんなのできるわけないですよ、超ムズイ問題ばかり」
「えぇー、誰も提出できないのか」
「誰もできません」
「仕方ないなー、それじゃ、月曜日に提出だぞ」
「はーい」
「それじゃ、始業式10時からだから準備して、何か先生に報告することある奴いるか? いたら後でもいいから報告しに来るように、事故とか事件とかご不幸とか」
「いませーん。夏休みが終わってしまいました」
「そりゃ残念だったな」
それは、いつもの一こまだけど。本当に夏休みが終わってしまって。いろいろあった夏休みだったけど。別に先生に報告することでもないのに。
「美樹、あのコックさんとはうまくいってるのか」
だなんて・・。すれ違い際にこそっと言わないでよ。と思う。
「大きなお世話ですよ」
と言い返して。
「ずいぶん雰囲気変わったな」
と言い返された。まぁね・・と目で返事して。長い長い話が続いた始業式がおわって。
「月曜日にはちゃんと返してよ」
と春樹さんが処理してくれた宿題の問題集を弥生たちに渡して。
家に帰ると、そこには春樹さんも知美さんもいなくて。
「9時ころに帰ったけど・・何か用事あったの」
とお母さんが言った。
「別にないけど・・」とつぶやくと、なんだか眠気がして。背伸びしながらあくびをしたとき。
「春樹さんが手紙置いて帰ったよ、美樹の机に置いてるから」
って、そういうこと、先に言ってよと思う。ドタバタと階段を上がって。私の机の上。郵便番号を書く四角い赤い枠が並ぶ茶封筒・・女の子に渡す手紙なんだから・・と一瞬思ったけど、手にすると、小さなふくらみに気付いて・・なんだろコレ。のり付けされていない封をあけて、中には普通のノートを切り取った1ページに。
「俺を振った、俺のお姫様へ」
という書き出し。と。
「俺を捨てるのは構わないけど、思い出は生涯捨てずにいてほしい。お前との一瞬、あんなにときめいたこと、生涯忘れないから。俺は、美樹って言う名前の、世界で一番可愛くて、世界で二番目に綺麗なお姫様に好きですと言われたのに、ごめんなさいと言ってしまった哀れな召し使い。つらい気持ちを抑えて、愛する知美さんの所に帰ります。それじゃ、またな」
最後まで読んで、ぷぷ・・くく・・くくくくくくって笑ってしまうこのカワイイ文章。ナニコレ。
「はい、愛する人の元に帰ってください。またね・・」
そう手紙に向かってつぶやいて。封筒を逆さまにすると。コロンと転がったのは、あの時。ポイした指輪・・・。探したんだ、あの時。
「生涯捨てずにいてほしい・・思い出か・・」
そうつぶやいて。この指輪を手にすると、「僕のお嫁さんになってください。はい、私のお婿さんにしてあげます」あの瞬間の状況とセリフがありありと思い浮かんで。そのまま指輪を薬指にはめてみたけど、やっぱり。抜き取って、手紙をもう一度読んで、くるんで、封筒の中に仕舞った。
「はい、大切に、生涯忘れずにいます。あんなにときめいたあなたとの一瞬。春樹さんと言う名前の、哀れな召し使いさん。好きですって言ってあげたのに、ごめんなさいだなんて、一生後悔しますよきっと。私・・わたし・・・」
笑いながらそうつぶやいて・・涙がぽろぽろと溢れ始めた。やっぱり。私はあの人の事が好きなんだな。諦めるなんてやっぱりムリ。あの人の事考えるとこんなになってしまうほどに好きだから。でも。
「泣かない泣かない・・人生長いんだし、もっと強くならなきゃ」
そうつぶやいて、指で涙をぬぐって、無理やり涙を止めて。
「3度目の失恋か・・」とつぶやいて。大きく深呼吸。
そして。
「よし・・4度目の恋の始まり始まり」
おばぁちゃんも、好きですって言えたことを誇りに思えば、次の恋がもっと素敵になるって言ってたし。とりあえず、気持ちを整理してから出陣だ。春樹さんに好きですって言えたあのシーンを何度もリピートして。

いつも通りに。
「美樹、アルバイト行く時間じゃないの、早く起きなさいよ」
から始まる、4度目の恋は、これから、まだまだ、だらだらと続いてゆく。はず。
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