ハルの工房

わさろう

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ハルの工房 3話 

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 夢を見ていたことは覚えている。ネオンのロゴがじりじり照らす路地の片隅に少年が座っていた。その少年は路地を這いつくアリを見ていただけかもしれない。だが雪音は涙を流しているのだと思った。何故かは分からないが、この子は泣いているという確信があった。別に声をあげて泣いていたわけではないが、その子が叫び声が腑の中でこだました。「どうしたの?」
雪音ははっきりとそう口にした、ように思えた。
が、少年は脊髄が消えてしまったように首を落としたままだった。もしかしたら言葉を発していなかったのかもしれない。ただ感情だけが心の奥底に湧いて出ただけかもしれない。
少年が何故泣いているのか、わからないまま意識が遠のいていく。夢からの目覚めが近づいている。

 ピンクのカーテンの間から差し込んだ光は、雪音の目元をやさしく照らしていた。カエルのような呻き声をあげながら、雪音は徐々に夢を見ていたのだと自覚した。花柄の毛布はめくれあがってベッドから放り出されている。頭の中で起きるべきという思考と起きたくないという感情が喧嘩する。結局雪音は昨夜の夢の残り香を捕まえようと枕に顔を埋めるのであった。しかし夢は意識の中に消えていってもう跡形もなくなっていた。夢の片鱗をつかもうとしばらく脳を働かせるが、何も掴めない。どうすればいいか分からないままただ思考を巡らせるも掴みかけた夢の欠片は水のように指の間を抜けていった。そんなことを何回か試みるうちに諦めがついて、ボーと天井を見つめていた。ただ何か大事なことを忘れているようで少しむしゃくしゃする朝だった。
 
そんなぼんやりと不愉快な朝を時計の針が貫いた。
-8時22分
一瞬見間違いかと思ったが、すぐにいつもの時間より1時間半ほど遅く起きたと察した。
「うぇ、やっば」
雪音はベッドから飛び出すとクローゼットにかけてあった真っ白な制服を羽織り、ボタンを留めながら滑り落ちるように階段を下っていった。
リビングには母親の姿も妹の姿も無かった。
「出るときに起こしてけよー。」
愚痴とパン屑をこぼしながら、冷蔵庫の上にあった食パンを口に押し込んだ。いつもより遅い朝食を終えるとすぐにカバンを持って玄関を飛び出す。
「いってきまーす」
家に誰もいないというのに、言い慣れたその言葉は自然と口から出てきた。
「急げばワンチャン間に合うかな」
 道路の脇の未舗装の歩道はローファーで走るにはあまりにゴツゴツしていた。焦りから走り出そうとするもののすぐに走るのを躊躇った。グランドでハードルを飛ぶ時はどこに障害物があるかわかる。しかし不均一にデコボコな歩道では障害物の位置はわからない。雪音は何回か走ろうと試してみるもののやがて諦めて歩くことにした。

 駅にいいた頃にはすっかり日が昇っていた。駅の駐車場には車が何台か停まっているのがみえた。車が停まっているところなんてほとんど見たことなかったが、今日は8台停まれる駐車場に3台車が停まっていた。同じく遅刻した子供を送りにきた母親だろうか。自分が遅刻しているせいかそのような妄想が膨らむ。しかしすぐにそんなこと考えている場合じゃないと頭の中で警鈴が鳴った。

 腕時計の針は8時38分を指していた。時刻表によれば次の電車は9時17分、そこから学校まで40分かかる。今から向かっても1限には間に合わないだろう。
「課題提出あったっけ。」
ぽっと湧いて出た不安に駆り立てるように鞄から手帳を探り出す。
ー5/27ー
今日の日付の書かれた欄には古典課題と赤く書かれた文字がぐるぐると囲まれている。
「まじかー」
すっかり頭から消えていた。今日は古典の課題の提出日だった。他の科目ならまだしも、国語の担任は谷崎先生だった。
「部活前に呼び出しくらうな。」
谷崎先生は普段はやさしいが何故か課題提出だけには厳しい。3ヶ月前に授業ノートの提出があった時も、ノート提出をしていなかった友達の一人が職員室の前で大説教をくらっていた。課題を出すたびに「先生はお前らのために出してるだけで、嫌ならやらなくていい。」と言うものの、出さなければ結局怒られる。
「やったけど忘れましたじゃ、許してくれないよなあ。」
口から零れた言葉は初夏の活気の中に消えていった。

 あたりの異様に気づいたのはカバンに手帳をしまって向かいのホームに歩き出した時だった。
 はじめはいつもと違う時間に登校しているからだと思っていた。普段電車に乗る時間は朝の7時くらいでまだ夜の冷たさが残っていた。しかし今は朝の9時。日も登り暖かさを取り戻した朝に登校しているのは少し違和感を覚えた。
 だがそれでも雪音の抱いた違和感を説明することはできなかった。それ以上の不可思議さに包み込まれている、そのような感覚を拭きれなかった。新たに塗装された待合室のベンチには、昨晩飲み明かしたサラリーマンが置いたのであろう、アサヒの缶ビールの殻がレジ袋に包まれてポツンと置かれている。お客さんを見たことない駅構内のキヨスクには今人気の漫画を表紙に飾った雑誌が瓦のように積まれている。ところどころ茶色い錆のある駅の柱にはクモが糸で巣を作りその上を這っている。いつもと変わらぬ何気ない光景にも関わらずその異様さは悠々と雪音のまわりに広がっていた。
「誰もいない・・・。」
まるで皆どこかに吸い込まれたかのように駅は閑散としていた。
 郊外とはいえこの駅は都市部へ繋がっているため平日でも乗車客で賑わっている。いつもなら朝9時でも会社に通うサラリーマンが大勢いる筈だ。にも関わらず駅のホームには人っこひとりいない。
 不安に駆られ、雪音はすぐに改札の受付口を確認しにいった。この時間なら白髪と黒い髪の毛が入り混じった中年の駅員さんがいる。いつも改札を通るたびにいってらっしゃいと声をかけてくれるあの駅員さんがいる筈だ。そう思って降りて来た階段を駆け上がり改札のあるホームを目指す。走っても駅員さんは逃げないというのに何故か不吉な予感に駆られ、手にじわりと汗の湿り気を感じながら改札へと急いだ。階段を降りる途中でこけそうになったが、そんなことはお構いなしだった。いち早く改札へ行かねば。その指令だけが雪音の脳を支配した。

 改札にあの駅員さんの気配はなかった。それどころか窓口はすっかり締め切って窓にシアンの空が反射されていた。
「なんで・・・?」
呟いたため息混じりの言葉は空っぽのホームに消えていくだけだった。

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