80 / 103
柘榴の月 第三話⑧
石榴の月~愛され求められ奪われて~
しおりを挟む
「お前は、ここで俺と龍の帰りを待ってろ、なっ」
まるで幼子を諭すように言われ、お民は力なく頷いた。
「―十分、気をつけて下さいよ。相手は刀を持ったお侍ですから」
龍之助を攫った憶えなどないと突っぱねられ、最悪の場合、言いがかりをつけた無礼者としてその場で手討ちになったとしても、文句は言えない。―それが、当時の封建社会の武士と町人の身分差が生む理不尽さの最たるものであった。
「判ったよ」
源治はお民を安堵させるように笑い、部屋を出ていった。
それから夜明け前に源治が戻ってくるまでの時間が、お民には永遠にも続く果てのないもののように思えた。
気を利かしたおしまが客用の夜具を用意してくれたものの、むろんのこと、眠れるはずもない。
東の空が白々と明るくなる頃、源治は漸く帰ってきた。その力ない脚取り、龍之助の姿がないことからも掛け合いが不首尾に終わったことは判った。
「済まねえ。龍を連れて帰れなかった」
源治はがっくりと肩を落とし、その場にへたり込んだ。胡座をかいてうなだれる男の貌には疲れと焦燥が強く滲み出ている。
源治は石澤邸を訪れた際の事を訥々と語った。
門番に事の次第を話し、当主の嘉門に逢わせて欲しいと対面を願い出たところ、取り合っても貰えない。
仕方なく、源治は門前に座り込んだ。胡座をかいて両眼を閉じ、延々と座り続けたという。それでも、いっかな埒があかないので、今度は大声でわめき立てた。
―ここのお殿さまは、泣く子も黙る天下の御家人のくせに、人攫いのような真似を平気でなさるってえんだから、こいつは愕きだぜ。おい、俺の子を返せ。俺のガキがこの屋敷にいるはずなんだよ。他人(ひと)の子を勝手に連れてくな。龍を返せったら、返せ。
流石に、源治を無視していた門番たちもこれには慌てて、奥にお伺いを立てに引っ込んだ。何しろ、周囲は大名の上屋敷などの武家屋敷ばかりが建ち並ぶところで、そのようなことを門前で大声で叫ばれては、外聞も悪い。
ほどなく、用人だという水戸部邦親が例の数人の手練れの若侍たちを連れて出てきた。
顎をしゃくった水戸部に指図され、源治は男たちに寄ってたかって、滅多打ちにされた。
とはいっても、端から源治の生命までをも奪うつもりはなかったようで、数回殴られ、蹴られたところで突き放された。
去り際、水戸部は冷淡な声音でこう言ったそうだ。
―これ以上、しつこく詮索するなら、そのときは、今度こそ、そなたもただではあい済まぬぞ。花ふくも店がたちゆかなくなるようになるだろう。若君のことは、諦めることだ。
「お前さん、大丈夫ですか?」
お民は源治に事の次第を聞いて、初めて我に返った。よくよく見ると、源治の左眼の縁(ふち)が紫色に変色し、腫れ上がっている。着物もあちこち泥だらけで破れ、薄く血が滲んでいた。
「酷い―、何もここまですることはないのに」
お民は源治の無惨な姿を見て、涙が込み上げた。
「なに、俺の怪我はたいしたことじゃない」
そう言って左手を動かそうとした源治が〝ツ〟と小さく呻いて顔をしかめた。
「大丈夫ッ、お前さん」
お民は悲鳴を上げて、良人に駆け寄った。
恐る恐る手を伸ばし、源治の左腕に触れる。
「ごめんなさい。私なんかと関わり合ったばかりに、お前さんには本当に苦労ばかりかけちまいますね」
涙が、溢れた。
「本当の子でもない龍之助と松之助を心底から可愛がってくれるだけでもありがたいと思ってるのに―」
「馬鹿野郎、こんなときにそんなことを言うな」
源治の鋭い声がお民の言葉を遮った。
「俺は龍も松も二人とも俺の子だと思ってる。だから、石澤の屋敷にも行ったんだよ」
「そう、でしたね。済みません」
言うなり、もう耐えられず、お民は嗚咽を洩らした。
「とにかく、明日の朝にでももう一度、行ってみらあ」
そう言った源治に、お民はそっと首を振った。
「もう、止めましょう」
「―」
刹那、源治が信じられないといった面持ちでお民を見た。
まるで幼子を諭すように言われ、お民は力なく頷いた。
「―十分、気をつけて下さいよ。相手は刀を持ったお侍ですから」
龍之助を攫った憶えなどないと突っぱねられ、最悪の場合、言いがかりをつけた無礼者としてその場で手討ちになったとしても、文句は言えない。―それが、当時の封建社会の武士と町人の身分差が生む理不尽さの最たるものであった。
「判ったよ」
源治はお民を安堵させるように笑い、部屋を出ていった。
それから夜明け前に源治が戻ってくるまでの時間が、お民には永遠にも続く果てのないもののように思えた。
気を利かしたおしまが客用の夜具を用意してくれたものの、むろんのこと、眠れるはずもない。
東の空が白々と明るくなる頃、源治は漸く帰ってきた。その力ない脚取り、龍之助の姿がないことからも掛け合いが不首尾に終わったことは判った。
「済まねえ。龍を連れて帰れなかった」
源治はがっくりと肩を落とし、その場にへたり込んだ。胡座をかいてうなだれる男の貌には疲れと焦燥が強く滲み出ている。
源治は石澤邸を訪れた際の事を訥々と語った。
門番に事の次第を話し、当主の嘉門に逢わせて欲しいと対面を願い出たところ、取り合っても貰えない。
仕方なく、源治は門前に座り込んだ。胡座をかいて両眼を閉じ、延々と座り続けたという。それでも、いっかな埒があかないので、今度は大声でわめき立てた。
―ここのお殿さまは、泣く子も黙る天下の御家人のくせに、人攫いのような真似を平気でなさるってえんだから、こいつは愕きだぜ。おい、俺の子を返せ。俺のガキがこの屋敷にいるはずなんだよ。他人(ひと)の子を勝手に連れてくな。龍を返せったら、返せ。
流石に、源治を無視していた門番たちもこれには慌てて、奥にお伺いを立てに引っ込んだ。何しろ、周囲は大名の上屋敷などの武家屋敷ばかりが建ち並ぶところで、そのようなことを門前で大声で叫ばれては、外聞も悪い。
ほどなく、用人だという水戸部邦親が例の数人の手練れの若侍たちを連れて出てきた。
顎をしゃくった水戸部に指図され、源治は男たちに寄ってたかって、滅多打ちにされた。
とはいっても、端から源治の生命までをも奪うつもりはなかったようで、数回殴られ、蹴られたところで突き放された。
去り際、水戸部は冷淡な声音でこう言ったそうだ。
―これ以上、しつこく詮索するなら、そのときは、今度こそ、そなたもただではあい済まぬぞ。花ふくも店がたちゆかなくなるようになるだろう。若君のことは、諦めることだ。
「お前さん、大丈夫ですか?」
お民は源治に事の次第を聞いて、初めて我に返った。よくよく見ると、源治の左眼の縁(ふち)が紫色に変色し、腫れ上がっている。着物もあちこち泥だらけで破れ、薄く血が滲んでいた。
「酷い―、何もここまですることはないのに」
お民は源治の無惨な姿を見て、涙が込み上げた。
「なに、俺の怪我はたいしたことじゃない」
そう言って左手を動かそうとした源治が〝ツ〟と小さく呻いて顔をしかめた。
「大丈夫ッ、お前さん」
お民は悲鳴を上げて、良人に駆け寄った。
恐る恐る手を伸ばし、源治の左腕に触れる。
「ごめんなさい。私なんかと関わり合ったばかりに、お前さんには本当に苦労ばかりかけちまいますね」
涙が、溢れた。
「本当の子でもない龍之助と松之助を心底から可愛がってくれるだけでもありがたいと思ってるのに―」
「馬鹿野郎、こんなときにそんなことを言うな」
源治の鋭い声がお民の言葉を遮った。
「俺は龍も松も二人とも俺の子だと思ってる。だから、石澤の屋敷にも行ったんだよ」
「そう、でしたね。済みません」
言うなり、もう耐えられず、お民は嗚咽を洩らした。
「とにかく、明日の朝にでももう一度、行ってみらあ」
そう言った源治に、お民はそっと首を振った。
「もう、止めましょう」
「―」
刹那、源治が信じられないといった面持ちでお民を見た。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末
松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰
第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。
本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。
2025年11月28書籍刊行。
なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる