無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

めぐみ

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蓮野に降る雪③

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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「あのなぁ、当の本人のいる前で、攫ってきただなんて物騒な言い方は止めてくれよ」
 トンジュがむくれて見せる。
 女将はますます渋面になった。
「あんた、まさか本当にご主人さまのお嬢さんを攫ってきたのかえ?」
 女将が殆ど悲鳴のような声で叫んだ。
「そうだと言ったら、どうするんだ?」
 トンジュがふて腐れて言い返す。
「馬鹿なことはお止め。今なら、まだ間に合う。このお嬢さまを連れてお屋敷に帰るんだ。いや、お前が行くのは近くまでで良い。お嬢さんが無事に門に入ったのを見届けたら、お前はそっと誰にも判らないように引き返すんだよ」
「もう遅いさ」
 きっぱりと言い切ったトンジュに、女将はそれこそ息子の悪行を窘める母親のような口調で諄々と諭す。
「お前は自分が何をしでかしてるか判っちゃいないのさ。良いかえ、トンジュや、お前のしてることは正真正銘、立派な犯罪なんだよ? 世間のことも男女のことも何も知らない初(うぶ)なお嬢さんをうまく言いくるめて連れ出すなんざ、単なるかどかわかしじゃないか。それこそ、このお嬢さんがあんたと相惚れになって納得ずくで家を出たとか、お嬢さんが端(はな)からとんでもない男たらしのあばずれだったとかっていうんなら、話はまた別だけどね」
「随分な言い様なのは、俺じゃなくて、そっちの方じゃないのか」
 トンジュはぶっきらぼうに言い、肩をすくめた。
「あたしは、あんたのことが心配で堪らないんだよ。もし二人して、とっ捕まっちまったら、トンジュ、あんたは自分がどうなるか判ってるのかい? 今はいっときの激情で前後の見境や分別ってもんをなくしちまってるから、あんたには現実が見えなくなってるのさ」
 トンジュは仏頂面で黙り込んでいる。
 女将は焦れたように、今度はサヨンにまくしたてた。
「お嬢さんもよくお聞き。あんたが幾らトンジュを慕っていようと、あんたたち二人は住む世界が違いすぎる。恋に目がくらんでる中はまだ良いかもしれないが、直に互いに愛想が尽きて我慢ならなくなるだろう。親や家まで棄ててお屋敷を出てきたあんたには酷な言い様かもしれないが、いずれ、トンジュは世間知らずのあんたを厄介者扱いするようになる。そうなれば、あんたは身一つで棄てられちまう。後は墜ちるところまで墜ちるだけさ。男に棄てられた女が辿る末路なんて、知れてるよ? あんた、働いたことなんてろくにないだろ? そんな女にできることと言やア、自分の身体を切り売りするくらいのもんだ」
 あまりの言い様に、サヨンは固まっていた。
 だが、女将の言い分は何も間違ってはいない。それが現実なのだから。
 サヨンのような苦労知らずの娘が世間に一人で放り出されて、生きてゆけるはずがない。
「そうやって男に棄てられて不幸になってきた女をあたしはごまんと見てきた。悪いことは言わない。今ならまだ、あんたは元の居場所に戻れる。あんたのようなお嬢さんは所詮、飼い慣らされたきれいな小鳥と一緒で、豪奢な鳥籠の中でしか生きていけやしないんだよ」
 隣に座ったトンジュは女将の言葉に対して、否定も肯定もしなかった。
 サヨンは縋るような視線をトンジュに向けた。今、屋敷に戻れば、明日には李トクパルと婚約式を挙げなければならなくなる。
 だが、自分が大事になる前に屋敷に戻れば、女将の言うとおり、トンジュの身に危険は及ばないだろう。一応、捜索は行われるだろうが、たかだか下男が一人蓄電したからといって大騒ぎになるとは思えなかった。家僕の代わりは幾らでもいるのだ。
 一体、どうすれば良いのだろうか?
 女将の言うことをきいて、大人しく屋敷に戻った方が良いのだろうか? それとも、大人の忠告は無視して、自分の心の望むままに生きた方が良いのか。
 考えあぐねているサヨンの傍らで、トンジュがひと息に言った。
「俺はお嬢さまをお屋敷に返すつもりはない」
 刹那、女将が息を呑んだ。
「トンジュ、あんた―」
 〝お嬢さ〟と言いかけ、トンジュが息を吸い込んだ。
「サヨンは俺のものだ」
 そのひと言で、女将はトンジュの気持を察したようだった。
「お前はそこまでこのお嬢さんに惚れてるのかえ」
 トンジュが自分に惚れている?
 サヨンは予期せぬ展開に言葉を失った。
 眼を瞠ったサヨンを見て、トンジュが珍しく慌てたように言った。
「余計なことを言うなよ。本当に、おばさんは昔からお喋りだな。俺の口が悪いのがガキの時分から変わらないのと大差ないぜ」
「それで、どうするのさ」
 どうやら、女将は切り替えの速い質らしい。いや、生き馬の目を抜くこのような世界では、終わった話よりもこれから先の身の処し方を考える方が理にかなっているのだろう。さもなければ、厳しいこの世では、すぐに荒波に揉まれて沈んでしまう。
 やはり、サヨンとは生きてきた世界が違うのだ。サヨンは生まれてからこのかた十九年間、明日の暮らし、いや、その日に食べるものや住む場所について心配したことなどなかった。望むものはすべて与えられ、ありとあらゆるものが周囲に満ち溢れていた。
 そして、それが当たり前だと信じて疑っていなかった。今から思えば、何と贅沢で奢っていたことか!
「この娘を連れてゆくのなら、それ相応の覚悟は必要だよ」
「そんなことは最初から判ってるさ」
 さてと、と、トンジュがおもむろに立ち上がった。
「お嬢さま、できれば今夜はここでゆっくりと寝ませてあげたいが、そういうわけにもゆきません。追っ手が放たれることを考えれば、今夜の中に可能な限り距離を稼いでおかなければならないので」
 或いは既に追っ手は放たれ、自分たちの後を血眼になって追っているかもしれない。いや、むしろ、その可能性の方がはるかに高かった。
 怜悧で計算高い父は、手引きして屋敷を逃れさせたのがトンジュだとすぐに感づくだろう。
 トンジュは女将に頼んで、サヨンの纏っている衣服と古い衣服を取り替えた。
「まあ、あつらえたように大きさがぴったりで良かった」
 古着に着替えたサヨンを見て、女将が溜息混じりに呟く。
「うちの三(サム)泉(チヨン)にもこんな絹の服を一度で良いから、着せてやりたかったね」
 女将はサヨンが今まで着ていた黒色のチョゴリと桜色のチマを畳みながら、しみじみとした口調で述懐した。
「幸せにおなり。さっきはあんたを何とか翻意させようとあんなことを言っちまったが、トンジュはそこらそんじょの軽薄な若い男とは違う。心から頼れる男だ」
 女将がサヨンのチョゴリの紐を整えてくれた。
「あんたが今、着ているのは、うちの娘のお古さ。あたしの娘たって、もう数年も前になくなっちまったけどね。さっきも言っただろ、娘は男に棄てられたんだよ。金持ちの極道息子がぽっと出の田舎娘に甘い台詞を流し込んで、さんざん弄んだ挙げ句、娘が身ごもったって判ったら、さっさと棄てちまいやがった」
 女将のたった一人の娘は、心から愛した男に騙されと知り、自ら川に飛び込んで亡くなった。当時、わずか十六歳だったという。
「だからね。あんたを見ていると、他人事のような気がしないんだ。良いね、何があっても、トンジュから離れちゃ駄目だよ。トンジュの子どもをたくさん生んで、いつかまた孫の顔を見せにきておくれ」
「女将さん、ご恩は忘れません」
 サヨンは涙ぐんで女将を見つめた。
 トンジュが自分に惚れているとか、子どもがどうとかいう勘違いはともかく、女将の厚意は心から嬉しかったのだ。
「おい、おばさん。また余計なことを言ってるな」
 トンジュに睨まれても、女将は笑っているだけだ。
 女将は表まで見送ってくれた。温かいオンドルのきいた部屋から一歩外に出ると、身体の芯から凍えるような寒風が吹きつけてくる。
 この見世特製だというサムゲタンで温まった身体から忽ちにして熱が奪われていった。
 店先に掲げた〝酒〟と記された旗が夜風にはたはたと鳴り、揺れていた。殆ど字の消えかかったその旗が揺れているのが妙にわびしく見え、サヨンの心細さを募らせた。

 満月はいつしか中天に掛かっていた。
 屋敷を出たのが夜中前だったことを考えれば、夜もかなり更けた計算になる。
 風はおさまるどころか、ますます強くなる一方だった。少し歩いた頃、とうとう吹く風に小雪が混じり始めた。丸い月もいつしか鉛色の分厚い雲に遮られて見えなくなっている。
「畜生、道理で冷えると思ったら、降ってきたようですね」
 トンジュは彼にはふさわしくない悪態をつきながら、恨めしげに空を見上げた。
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