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幻の村⑥
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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この時期になると、トンジュも新参者扱いされなくなり、機転も利く働き者として執事や女中頭に眼をかけられるようになっていた。そのため、年少の使用人たちの間での苛めもなくなり、むしろ陰湿な苛めや嫌がらせから年下の子どもを庇ってやる立場になっていた。
その頃、トンジュは既に十歳になっており、屋敷に来たときに比べれば身の丈は幾分伸びていた。もう、三年前に泣いていた幼い男の子の面影はなくなっていた。とはいっても、まだ、その頃はサヨンよりもほんの少しは背が低かったのだ。
ゆえに、厳密にいえば、サヨンがトンジュを知っているのは十歳以降の彼だ。だからこそ、サヨンもあのときの泣いていた子どもがトンジュだとは気づかなかった。
「あのときから、俺は夢を見るようになったんです」
トンジュが懐から後生大切そうに取り出したのは、小さな髪飾りだった。
「これに見憶えがありますか?」
サヨンは差し出されたリボンを受け取った。半ば色褪せた子ども用の髪飾りは、昔は確かに鮮やかな牡丹色をしていたのだろうと彷彿させる。
「忘れるはずもないわ。私が使っていた髪飾りよ。私があの時、泣いていたあなたの手に巻いたものでしょう」
「俺にとって、これはずっと宝物でした。辛い時悔しい時、いつもこれを眺めていたんです。今日、哀しいことがあったのだから、明日は必ず良いことがあると言ってくれたサヨンさまの言葉を噛みしめながら生きてきました」
わずかな沈黙があった。新たにくべられた薪が勢いよく燃え上がった。
「あの日、俺はお嬢さまを妻にするんだ、あの優しくて賢い女の子をいつか手に入れたいと子ども心に決意したんです。あのときから、俺はずっとサヨンさまだけを見つめてきました」
焔を宿したトンジュの瞳は、彼自身の瞳の底で焔が揺らめいているように見えた。その燃えるような烈しいまなざしでひたと見つめられ、サヨンは居たたまれなくなった。
トンジュのたったひと言で、あのときの少年との〝再会〟の歓びも一瞬でしぼんだ。
今や懐かしさよりも当惑の方が強かった。
トンジュの気持ちは、あまりに重すぎる。〝好きだ、惚れている〟と何千回耳許で繰り返されても、今のサヨンにはただ重荷になるだけだった。
トンジュを嫌いというわけではない。しかし、ソン・トンジュという男は、自分の欲しいものを手に入れるためには、どこまでも計算高く冷徹になれる。
しかも、つい今し方、トンジュはこれまでの紳士的然とした態度を豹変させ、サヨンに飢えた獣のように襲いかかってきたのだ。サヨンがどんなに泣き叫んで懇願しても、途中で止めてはくれなかった。
もし、脚の痛みがぶり返さなかったら、今頃、自分はどうなっていたことか。その先を考えただけで、怖ろしさに気を失いそうになった。
―私はトンジュが怖い。
サヨンは、この男が怖ろしかった。穏やかで、どこまでも優しいかと思えば、次の瞬間には牙を剥き出しにして喉笛に食らいつき、サヨンのすべてを奪い尽くそうとする。
そのあまりにも違いすぎる人格の差も、自分を見つめるときに感じる欲望にぎらついたまなざしも―どれもが怖かったし、嫌だった。
真昼間だというのに、ここはあまりにも薄暗い。
名前すら知らない樹々は、冬でもなお青々とした葉をたっぷり茂らせている。まるでサヨンにのしかかってくるように立ちはだかり威嚇する。まさにトンジュの存在そのもののようだ。
静寂が無限に続くどこかで、小鳥が啼く声が聞こえた。
翌日から、サヨンは熱を出して寝込んだ。どうやら、ここに到着したその日、異常な熱さを感じた原因は、それだったようだ。
無理もない、都を出て以来、サヨンにとってはあまりにも心身に負担をかける出来事が多すぎた。
信じていたトンジュの裏切り、突然の豹変。あまつさえ、遠い道程を強行軍で旅を続け、この山上の森に辿り着いた。サヨンの身体も心も疲弊し切っていた。
サヨンは十日近くもの間、夢と現(うつつ)の狭間をさ迷った。その間中、ずっと熱に浮かされていた彼女の髪を優しく撫で、救いを求めて差し出した手を握ってくれたひとがいた。
この人里離れた森の中にはサヨンとトンジュしかいない。だとすれば、サヨンの側にずっと付いていてくれたのはトンジュしか考えられなかった。
恐らく、トンジュの望みどおりに素直に身を委ねれば、彼はサヨンにとって優しいだけのトンジュに戻るに違いない。
が、サヨンは自分の気持ちを偽れない。サヨンはトンジュが怖いのだ。側に来ただけで膚が粟立つほど恐怖感すら感じている。そんな男に躊躇いもなく抱かれるのは難しい。
サヨンが床に伏している間に、トンジュは、ここで暮らしてゆくための様々なことを行ったらしい。まず愕いたのは、家が出来上がっていたことだった。
家といっても、ひと間しかない粗末なものである。それでも、煮炊きのできる小さな厨房と板敷きのちょっとした広さのある部屋が付いており、暮らし心地は悪くはなかった。
天幕にいたのは寝込んでから数日間だけで、家が完成するなり、トンジュはサヨンを家に移した。高熱を発している身体に、夜露が十分に凌げない天幕はふさわしくないと判断し、自分は寝食の時間を削ってでも家の完成を優先させたのだった。
寝込んで十一日め、サヨンはやっと熱も下がり、外に出ることができた。
トンジュはまだ家で寝ていろと煩いのだけれけど、サヨンが勝手に動き回っているのだ。
サヨンが回復すると、トンジュは毎日、出かけるようになった。大抵は森に出て、薬草を採ったり、狩りをしたりする。朝早く出かけ、陽暮れ刻に帰ってくるのが常だった。
鹿肉や兎肉、猪肉はその日の夕飯の何よりのご馳走になった。サヨンは実を言うとー、あまり料理が得意ではない。しかし、トンジュはサヨンが拵えるどんな料理でも―もし、それが料理と呼べる代物であればの話だが―、歓んで食べた。
サヨンの手にかかると、折角のご馳走になるはずの食材が台無しになってしまう。トンジュは黒こげになった肉のかたまりを見ても、ただ笑っているだけだ。
「ごめんなさい」
しゅんとして肩を落とすサヨンの頭をくしゃくしゃと撫で、水で炭のような肉塊をようよう飲み下している。
あまりにそんなことが続くので、ついにはトンジュが自分で料理の腕をふるうようになった。
彼の腕の方がよほどサヨンよりも上だ。その事実に、サヨンは大いに傷ついた。
「私ってば、本当に何もできない役立たずね」
溜息をついて落ち込んでいると、トンジュが微笑んだ。
「これからゆっくり憶えていけば良いですよ。サヨンさまなら、何だって、すぐに憶えてできるようになりますから」
慰めとも励ましとも取れる言葉をくれる。
この頃のトンジュは凪いだ湖のように穏やかで、サヨンを温かく見守ってくれる。サヨンに対する態度は異性というよりも兄が妹に示す親愛の情に近かった。
サヨンは思った。
もしかしたら、このまま自分たちは今の心地よい関係を続けてゆけるのではないか。
男だとか女だとかの区別なく、異性だという意識を持たず、人生の協力者、或いは友達のような関係を作り上げてゆけるかもしれない。
かすかな希望が見え始めていた。
しかし、穏やかに流れているように見える日々の中、時にトンジュがあの瞳―燃えるようなひたむきさで自分を凝視していることがあった。
あの思いつめたまなざしを意識する度、サヨンは怖くなって、トンジュの眼の届かない場所に逃げた。
二人が共に暮らし始めて、ひと月が経ったある日のことである。
その朝、朝飯を食べながら、トンジュが言った。
「今日は一日、遠くまで出かけるつもりですが、一人で大丈夫ですか?」
「私なら大丈夫よ。心配しないで」
サヨンは雑炊を掬っていた手を休め、トンジュを見た。
「―こんなことを言いたくはないのですが、まさか逃げ出したりはしませんよね」
トンジュが探るような眼で見つめている。
サヨンは笑って首を振った。
「どうせ逃げ出したって、すぐに道に迷っちゃうんでしょ。何しろ、この森ときたら、海のように深くて、どこがどこに続いているかさえ判らないんだもの。私だって、生命は惜しいの。無駄死にしたくはないし、白骨死体になるのはご免蒙りたいのよ」
「それなら良いのですが。笑っている場合ではありませんからね。もしかしたら、サヨンさまは俺が脅しているだけだと思っているのかもしれないけど、この森は本当に危険なんです。よく知らない人が迂闊に入り込めば、絶対に迷います。くれぐれも早まったことだけは考えないように」
その頃、トンジュは既に十歳になっており、屋敷に来たときに比べれば身の丈は幾分伸びていた。もう、三年前に泣いていた幼い男の子の面影はなくなっていた。とはいっても、まだ、その頃はサヨンよりもほんの少しは背が低かったのだ。
ゆえに、厳密にいえば、サヨンがトンジュを知っているのは十歳以降の彼だ。だからこそ、サヨンもあのときの泣いていた子どもがトンジュだとは気づかなかった。
「あのときから、俺は夢を見るようになったんです」
トンジュが懐から後生大切そうに取り出したのは、小さな髪飾りだった。
「これに見憶えがありますか?」
サヨンは差し出されたリボンを受け取った。半ば色褪せた子ども用の髪飾りは、昔は確かに鮮やかな牡丹色をしていたのだろうと彷彿させる。
「忘れるはずもないわ。私が使っていた髪飾りよ。私があの時、泣いていたあなたの手に巻いたものでしょう」
「俺にとって、これはずっと宝物でした。辛い時悔しい時、いつもこれを眺めていたんです。今日、哀しいことがあったのだから、明日は必ず良いことがあると言ってくれたサヨンさまの言葉を噛みしめながら生きてきました」
わずかな沈黙があった。新たにくべられた薪が勢いよく燃え上がった。
「あの日、俺はお嬢さまを妻にするんだ、あの優しくて賢い女の子をいつか手に入れたいと子ども心に決意したんです。あのときから、俺はずっとサヨンさまだけを見つめてきました」
焔を宿したトンジュの瞳は、彼自身の瞳の底で焔が揺らめいているように見えた。その燃えるような烈しいまなざしでひたと見つめられ、サヨンは居たたまれなくなった。
トンジュのたったひと言で、あのときの少年との〝再会〟の歓びも一瞬でしぼんだ。
今や懐かしさよりも当惑の方が強かった。
トンジュの気持ちは、あまりに重すぎる。〝好きだ、惚れている〟と何千回耳許で繰り返されても、今のサヨンにはただ重荷になるだけだった。
トンジュを嫌いというわけではない。しかし、ソン・トンジュという男は、自分の欲しいものを手に入れるためには、どこまでも計算高く冷徹になれる。
しかも、つい今し方、トンジュはこれまでの紳士的然とした態度を豹変させ、サヨンに飢えた獣のように襲いかかってきたのだ。サヨンがどんなに泣き叫んで懇願しても、途中で止めてはくれなかった。
もし、脚の痛みがぶり返さなかったら、今頃、自分はどうなっていたことか。その先を考えただけで、怖ろしさに気を失いそうになった。
―私はトンジュが怖い。
サヨンは、この男が怖ろしかった。穏やかで、どこまでも優しいかと思えば、次の瞬間には牙を剥き出しにして喉笛に食らいつき、サヨンのすべてを奪い尽くそうとする。
そのあまりにも違いすぎる人格の差も、自分を見つめるときに感じる欲望にぎらついたまなざしも―どれもが怖かったし、嫌だった。
真昼間だというのに、ここはあまりにも薄暗い。
名前すら知らない樹々は、冬でもなお青々とした葉をたっぷり茂らせている。まるでサヨンにのしかかってくるように立ちはだかり威嚇する。まさにトンジュの存在そのもののようだ。
静寂が無限に続くどこかで、小鳥が啼く声が聞こえた。
翌日から、サヨンは熱を出して寝込んだ。どうやら、ここに到着したその日、異常な熱さを感じた原因は、それだったようだ。
無理もない、都を出て以来、サヨンにとってはあまりにも心身に負担をかける出来事が多すぎた。
信じていたトンジュの裏切り、突然の豹変。あまつさえ、遠い道程を強行軍で旅を続け、この山上の森に辿り着いた。サヨンの身体も心も疲弊し切っていた。
サヨンは十日近くもの間、夢と現(うつつ)の狭間をさ迷った。その間中、ずっと熱に浮かされていた彼女の髪を優しく撫で、救いを求めて差し出した手を握ってくれたひとがいた。
この人里離れた森の中にはサヨンとトンジュしかいない。だとすれば、サヨンの側にずっと付いていてくれたのはトンジュしか考えられなかった。
恐らく、トンジュの望みどおりに素直に身を委ねれば、彼はサヨンにとって優しいだけのトンジュに戻るに違いない。
が、サヨンは自分の気持ちを偽れない。サヨンはトンジュが怖いのだ。側に来ただけで膚が粟立つほど恐怖感すら感じている。そんな男に躊躇いもなく抱かれるのは難しい。
サヨンが床に伏している間に、トンジュは、ここで暮らしてゆくための様々なことを行ったらしい。まず愕いたのは、家が出来上がっていたことだった。
家といっても、ひと間しかない粗末なものである。それでも、煮炊きのできる小さな厨房と板敷きのちょっとした広さのある部屋が付いており、暮らし心地は悪くはなかった。
天幕にいたのは寝込んでから数日間だけで、家が完成するなり、トンジュはサヨンを家に移した。高熱を発している身体に、夜露が十分に凌げない天幕はふさわしくないと判断し、自分は寝食の時間を削ってでも家の完成を優先させたのだった。
寝込んで十一日め、サヨンはやっと熱も下がり、外に出ることができた。
トンジュはまだ家で寝ていろと煩いのだけれけど、サヨンが勝手に動き回っているのだ。
サヨンが回復すると、トンジュは毎日、出かけるようになった。大抵は森に出て、薬草を採ったり、狩りをしたりする。朝早く出かけ、陽暮れ刻に帰ってくるのが常だった。
鹿肉や兎肉、猪肉はその日の夕飯の何よりのご馳走になった。サヨンは実を言うとー、あまり料理が得意ではない。しかし、トンジュはサヨンが拵えるどんな料理でも―もし、それが料理と呼べる代物であればの話だが―、歓んで食べた。
サヨンの手にかかると、折角のご馳走になるはずの食材が台無しになってしまう。トンジュは黒こげになった肉のかたまりを見ても、ただ笑っているだけだ。
「ごめんなさい」
しゅんとして肩を落とすサヨンの頭をくしゃくしゃと撫で、水で炭のような肉塊をようよう飲み下している。
あまりにそんなことが続くので、ついにはトンジュが自分で料理の腕をふるうようになった。
彼の腕の方がよほどサヨンよりも上だ。その事実に、サヨンは大いに傷ついた。
「私ってば、本当に何もできない役立たずね」
溜息をついて落ち込んでいると、トンジュが微笑んだ。
「これからゆっくり憶えていけば良いですよ。サヨンさまなら、何だって、すぐに憶えてできるようになりますから」
慰めとも励ましとも取れる言葉をくれる。
この頃のトンジュは凪いだ湖のように穏やかで、サヨンを温かく見守ってくれる。サヨンに対する態度は異性というよりも兄が妹に示す親愛の情に近かった。
サヨンは思った。
もしかしたら、このまま自分たちは今の心地よい関係を続けてゆけるのではないか。
男だとか女だとかの区別なく、異性だという意識を持たず、人生の協力者、或いは友達のような関係を作り上げてゆけるかもしれない。
かすかな希望が見え始めていた。
しかし、穏やかに流れているように見える日々の中、時にトンジュがあの瞳―燃えるようなひたむきさで自分を凝視していることがあった。
あの思いつめたまなざしを意識する度、サヨンは怖くなって、トンジュの眼の届かない場所に逃げた。
二人が共に暮らし始めて、ひと月が経ったある日のことである。
その朝、朝飯を食べながら、トンジュが言った。
「今日は一日、遠くまで出かけるつもりですが、一人で大丈夫ですか?」
「私なら大丈夫よ。心配しないで」
サヨンは雑炊を掬っていた手を休め、トンジュを見た。
「―こんなことを言いたくはないのですが、まさか逃げ出したりはしませんよね」
トンジュが探るような眼で見つめている。
サヨンは笑って首を振った。
「どうせ逃げ出したって、すぐに道に迷っちゃうんでしょ。何しろ、この森ときたら、海のように深くて、どこがどこに続いているかさえ判らないんだもの。私だって、生命は惜しいの。無駄死にしたくはないし、白骨死体になるのはご免蒙りたいのよ」
「それなら良いのですが。笑っている場合ではありませんからね。もしかしたら、サヨンさまは俺が脅しているだけだと思っているのかもしれないけど、この森は本当に危険なんです。よく知らない人が迂闊に入り込めば、絶対に迷います。くれぐれも早まったことだけは考えないように」
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