無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

めぐみ

文字の大きさ
19 / 56
幻の村⑦

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

しおりを挟む
「一つだけ訊いて良い?」
「何ですか?」
 トンジュは早くも食べ終えたようだ。雑炊の入っていた器と木匙を重ねて立ち上がろうとしている。
「トンジュは今日、どこに行くの?」
「俺のことが気になります?」
 トンジュがどこか嬉しげに言う。
 サヨンは狼狽して、つい声がうわずった。
「な、何を言うのかと思ったら。トンジュは少し自意識過剰なのよ。私はただ、遠くって聞いたから、どこまで行くんだろうと思って」
 トンジュが笑った。
「麓の町ですよ。だから、今から出れば夜には戻れます。良い子で留守番していて下さいね」
 まるで駄々をこねる妹を宥める兄の口調そのものである。
「山を下りるの?」
 サヨンは眼を丸くした。
「はい、そろそろ一度町に出て、纏まった食糧やら衣糧やらを買い足しておかないとなりませんから。まだやっと二月の終わりです。寒さはこれからも長い間、続きますよ」
 トンジュが話している間に、サヨンも食べ終えた。慌てて自分の器と木匙を持ち、立ち上がる。
「あ、今朝くらいは私が洗うから、トンジュは出かけるなら、出かけてちょうだい」
「良いですよ。町に行って帰るくらい、別にたいしたことではないんです。俺がやりますから、サヨンさまは休んでいて下さいね」
「大丈夫だってば。器も匙も鍋も割れ物じゃないから、落としたって平気よ」
 実のところ、食事の支度だけでなく、後片付けまでトンジュが手際よくこなしてしまうのだ。
「おや、俺がさんざん苦労して作った木彫りの器を二度、真っ二つにしたのは、どこの誰でしたったけ。普通、木なんてものは割れないはずなのに、よほど強く落としたんでしょうね」
 悪戯っぽく言われ、サヨンはむうと頬を膨らませた。
「トンジュの意地悪」
 フンとそっぽを向くサヨンの頬をトンジュが人差し指でつついた。
「そんなにほっぺたを膨らませていては、元に戻らなくなりますよ。そういえば、サヨンさまの可愛らしい頬がいつもより随分と膨れているような」
 真面目に首を傾げて見せるのに、サヨンは蒼白になった。
「ほ、本当? 本当に頬がいつもより膨れている?」
 サヨンは蒼くなって自分の両頬を手のひらでさすっている。トンジュの表情が必死に笑いをかみ殺しているのにも気付かない。
 とうとう彼が堪えきれず笑い転げ出した時、漸く騙されているのだと悟った。
「酷い。トンジュは本当に本当に意地悪ね。ううん、そんな言葉じゃ足りないわ。そうね、トンジュみたいなのをイケズというのよ」
 トンジュの眼が愉快そうにきらめく。
「イケズ?」
「そう、透かしてる癖に、実は物凄ーく性格が悪かったりする人のことをイケズというのよ」
 トンジュがわざとらしい溜息をついた。
「仮にもコ商団の大行首コ・ヨンセさまのご息女が使うような言葉ではありませんね。良いですか、良家の令嬢は下品な言葉は使わないものですよ。一体、どこでそんないけない台詞を憶えたのですか?」
 半ば本気半ば真剣に滔々と述べる彼を見ていると、どうも自分より一歳年下だとは思えないサヨンである。
 サヨンがお嬢さま育ちの世間知らずだからということもあるだろうが、世慣れたトンジュの方がよほど年上のように思えた。
「あら、トンジュが私に教えてくれたじゃない?」
 サヨンはうつむき、わざと小さな声で言ってやる。
「え、俺がお嬢さまにそんなことを言いましたか!?」
「ええ、言いましたとも。あなた、自分で言っておきながら、憶えてないの? 都にいるときに、色町の妓房へ上がって、妓生から直接教わったとか何とか。見世の名前は、そうね、確か―」
 いつも冷静で落ち着き払っているトンジュらしくもなく、慌てている。サヨンは内心、ほくそ笑んだ。
 そっとトンジュの様子を窺ってみる。
 と、トンジュが見事に罠に填った。
「翠(チェイ)月(ウォル)楼(ヌ)ですか?」
 途端にサヨンはむくれる。
「なに、トンジュはその若さで妓房に行ったことがあるっていうの!? 大体、あなたは屋敷中でも評判の堅物だったはずよ。その真面目なあなたがどうして妓房の名前なんて知ってるのよ」
 ムキになって言い募るサヨンに、トンジュがニヤリと笑った。
「ああ、そういうことですね」
「何がそういうことなのよ? 勝手に一人で納得しないで」
「つまり、サヨンさまは妬いてるんだ」
「なっ、何を言うの? 馬鹿なことを言わないでちょうだい。あなたが妓生とどれだけ仲好くしようが、私には関係ないことだわ。失礼しちゃうわね。トンジュが妓房に上がったくらいで、どうして私がいちいち嫉妬しなければ駄目なの」
 サヨンは思い切り膨れっ面をして、プイとそっぽを向いた。トンジュをまんまと填めとやろうと目論んだものの、逆に彼に仕返しされる羽目に陥っている。
 からかわれているのだとは判らないのだ。
 トンジュがサヨンに近寄った―かと思うと、いきなり、ふわりと抱き上げられた。
「ト、トンジュ?」
 狼狽え、もがくサヨンを抱きかかえ、トンジュは極上の笑みを刻む。
―この男(ひと)は、何て素敵な笑顔で笑うの―。
 刹那、サヨンの胸の鼓動が速くなった。
「サヨンさま、よく聞いて下さい。屋敷内でどういわれていたかは知りませんが、俺は確かに妓房に上がったことは何度かあります。あなたには隠し事をしたくないから正直に言います。でも、俺が恋い慕っているのはサヨンさま、あなただけだ。ましてや、あなたとこうして一緒に暮らすようになったのだから、これからは二度と他の女は抱きません」
 あまりにも直截な告白に、サヨンは返す言葉が見つからなかった。
「ね、もう降ろして」
 消え入りそうな声で頼むと、サヨンの身体は静かに降ろされた。
「洗い物はやっぱり、私がしておくから。町までは遠いわ。早く出た方が良いと思う」
 トンジュの方を見ないで、もぞもぞと口の中で呟く。
「そんなに俺を早く追い出して、一人になりたいですか?」
 トンジュが眉をつり上げた。 
「―早く行って、早く帰ってきて。家を早く出れば、それだけ早く戻ってこられるでしょう」
 トンジュの顔を見ながらは到底口にできない台詞だ。
 現金なもので、途端にトンジュの顔がパッと明るくなった。
「俺がいないのが淋しいんですね」
「そんなのじゃないわ」
 サヨンはあらぬ方を向いたまま、わざと素っ気なく応えた。
 次の瞬間、サヨンはトンジュにきつく抱きしめられていた。
「トンジュ!」
 サヨンは取り乱し、懸命に小さな手で男の厚い胸板を押し返そうとする。
 トンジュがサヨンの背を撫でた。
「これ以上は何もしませんから、少しだけ、このままでいさせて下さい」
 そうまで言われて、抵抗はできない。
 実際、ここひと月の間、彼はサヨンの嫌がることは一切しようとしなかったし、不必要に身体に触れたりもしなかった。ひと部屋しかない部屋で眠る夜には、布団はむろん別々に敷いている。
「町で必要なものを仕入れたら、できるだけ早く帰ってきます」
 トンジュの声が耳朶をくすぐると、何やら得体の知れない妖しい震えが一瞬、サヨンの身体を駆け抜けていった。
―これは何なのだろう。
 馴染みのない感覚にサヨンは戸惑い、怯えた。
 慌てて身をよじって逃れようとするサヨンに、トンジュの端正な面がさっと翳った。
 しかし、すぐ思い直したらしく、サヨンの髪をいつものように優しい手つきで撫で、ついでに額に唇を落としていった。
「では、行ってきます」
「気をつけてね」
 トンジュが出てゆき、家の両開きの扉が閉まった。
 サヨンは思わず振り返り、たった今、トンジュが出ていったばかりの扉を見つめた。
 知らずトンジュの唇がかすめた額を手で触れてみる。その部分だけが何故か不自然に微熱を帯びているようだ。サヨンはその熱を冷ますかのように、勢いよく首を振った。
 急に思い立ち、扉を開けて外に飛び出してみても、既にトンジュの姿はどこにもなかった。
 家の外は、ぽっかりと拓けた平地と、その周囲を取り囲む鬱蒼とした森だけだ。
 サヨンは気が抜けたように、その場に立ち尽くした。風が吹き、緑の葉が一斉に揺れ、ざわめく。その音がサヨンには、あたかも我が身の心の声のように聞こえた。
 自分は一体、これからどうすれば良いのだろう。本当の想いは、どこにあるのだろう。
 耳を澄ましても、樹々からの応えは聞こえなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」完結

まほりろ
恋愛
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行中。 コミカライズ化がスタートしましたらこちらの作品は非公開にします。 「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」 イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。 対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。 レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。 「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」 「あの、ちょっとよろしいですか?」 「なんだ!」 レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。 「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」 私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。 全31話、約43,000文字、完結済み。 他サイトにもアップしています。 小説家になろう、日間ランキング異世界恋愛2位!総合2位! pixivウィークリーランキング2位に入った作品です。 アルファポリス、恋愛2位、総合2位、HOTランキング2位に入った作品です。 2021/10/23アルファポリス完結ランキング4位に入ってました。ありがとうございます。 「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

「お前を愛する事はない」を信じたので

あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」 お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係

紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。 顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。 ※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)

「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?

綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。 相手はとある貴族のご令嬢。 確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。 別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。 何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?

一夜の過ちで懐妊したら、幼なじみの冷酷皇帝に溺愛されました

由香
恋愛
没落貴族の娘・柳月鈴は、宮廷で医官見習いとして働いていた。 ある夜、皇帝即位の宴で酒に酔い、幼なじみだった皇帝・李景珩と再会する。 遠い存在になったはずの彼。 けれど、その夜をきっかけに月鈴の運命は大きく動き出す。 冷酷と恐れられる皇帝が、なぜか彼女だけには甘すぎて――。

処理中です...