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彷徨う二つの心⑨
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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サヨンはトンジュの背後から両手を回して彼を抱きしめた。
「私はあなたに人殺しにはなって欲しくないの。それに、民が両班を殺せば、死罪になるわ。こんなろくでなしのために、あなたが死ぬなんて耐えられない」
トンジュの動きが止まった。
「ね、だから、もう止めて。こんなことで、あなたの手を血に染める必要はないわ」
「だが、こいつはサヨンを犯そうとしたんだぞ?」
「私なら大丈夫だから。あなたが早く来てくれたから、何ともなかったの」
「本当か」
念を押され、サヨンは幾度も頷いた。
トンジュは自らを落ち着かせるように大きな息を吐き、勇民から手を放した。
「二度と俺の女に手を出すな。今度また同じことをしでかしたら、そのときは生命はないものと思え」
トンジュは仁王立ちになって、唾棄するように言い棄てた。
岩に大の字に転がった勇民は恐怖のあまり、血走った眼をカッと見開き、震えていた。サヨンですら気の毒になったほど、顔中がアザだらけになっている。唇と鼻から血が流れていた。
「行くぞ」
トンジュはサヨンの手を引くと、黙って歩き出した。
しばらく歩いたところでトンジュは立ち止まった。自分の上着を脱いで、サヨンに羽織らせてやる。
「危ないところだった」
トンジュがぶっきらぼうに言う。
サヨンはトンジュを真っすぐに見た。
「トンジュが来てくれなかったら、どうなったか判らない。本当にありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない。何だか妙に心が波立って、不安で堪らなくなったんだ。虫が知らせたのかもしれない。後を追いかけてきて良かったよ」
照れたように頬を少し紅くし、トンジュは無愛想な声で応えた。
「本当に何もなかったんだな」
念押しされ、コクコクと頷く。
トンジュの愁いに満ちた顔に漸く安堵の表情が浮かんだ。
トンジュがサヨンを引き寄せる。その抱擁にはむろん性的な匂いは全く感じられなかったし、トンジュがサヨンをこうやって抱きしめるのは実に久しぶりであった。半月ほど前から、彼はサヨンに全く近づかなくなっていたから。
トンジュはサヨンの髪に頬をすり寄せ、二度と離さないと言わんばかりに強く抱いた。
サヨンは顔を上げ、彼の愁いを帯びたまなざしを受け止めて、それ以上、何も言えなくなった。
「良かった。もしサヨンの身に危害を加えていたら、あいつらを纏めて漢江(ハンガン)にぶち込んで、鰐のえさにしてやる」
本気でやりそうなトンジュに、サヨンは笑った。
「ねえ、余計なことかもしれないけど、漢江に鰐なんているの?」
「さあな、俺も聞いたことがない。鰐でも鮫でも良いんだよ」
ますます赤らんだトンジュを見て、サヨンは明るい笑い声を上げた。
「サヨンの笑ったところ、久しぶりに見たよ。っていうか、俺と一緒に暮らし始めてから、笑顔なんて、ろくに見たことがない。漢陽の屋敷にいた頃は、いつも太陽みたいに笑っていたのに」
トンジュは首を振った。
「やっぱり、お屋敷を連れ出したことは、お前にとっては良くなかったのかもしれないな」
「トンジュ?」
「サヨンは知らなかっただろうが、俺は毎日、お屋敷中、お前の姿を探してたんだぜ。仕事が立て込んでるから、追いかけ回してる暇はないが、何をしていても、どこか近くをお嬢さまが通りかからないかとばかり考えてた」
トンジュが溜息をつく。
「考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ」
そのときのトンジュの声が何故かひどく淋しげに聞こえたのだった。
夕刻になった。サヨンは近くの池まで水を汲みにいった。いつもトンジュは自分がやると言うのだけれど、小さな瓶一つ運ぶくらいはサヨンにだってできる。サヨンはそう言って、自分でできることは自分でやっている。
「私はあなたに人殺しにはなって欲しくないの。それに、民が両班を殺せば、死罪になるわ。こんなろくでなしのために、あなたが死ぬなんて耐えられない」
トンジュの動きが止まった。
「ね、だから、もう止めて。こんなことで、あなたの手を血に染める必要はないわ」
「だが、こいつはサヨンを犯そうとしたんだぞ?」
「私なら大丈夫だから。あなたが早く来てくれたから、何ともなかったの」
「本当か」
念を押され、サヨンは幾度も頷いた。
トンジュは自らを落ち着かせるように大きな息を吐き、勇民から手を放した。
「二度と俺の女に手を出すな。今度また同じことをしでかしたら、そのときは生命はないものと思え」
トンジュは仁王立ちになって、唾棄するように言い棄てた。
岩に大の字に転がった勇民は恐怖のあまり、血走った眼をカッと見開き、震えていた。サヨンですら気の毒になったほど、顔中がアザだらけになっている。唇と鼻から血が流れていた。
「行くぞ」
トンジュはサヨンの手を引くと、黙って歩き出した。
しばらく歩いたところでトンジュは立ち止まった。自分の上着を脱いで、サヨンに羽織らせてやる。
「危ないところだった」
トンジュがぶっきらぼうに言う。
サヨンはトンジュを真っすぐに見た。
「トンジュが来てくれなかったら、どうなったか判らない。本当にありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない。何だか妙に心が波立って、不安で堪らなくなったんだ。虫が知らせたのかもしれない。後を追いかけてきて良かったよ」
照れたように頬を少し紅くし、トンジュは無愛想な声で応えた。
「本当に何もなかったんだな」
念押しされ、コクコクと頷く。
トンジュの愁いに満ちた顔に漸く安堵の表情が浮かんだ。
トンジュがサヨンを引き寄せる。その抱擁にはむろん性的な匂いは全く感じられなかったし、トンジュがサヨンをこうやって抱きしめるのは実に久しぶりであった。半月ほど前から、彼はサヨンに全く近づかなくなっていたから。
トンジュはサヨンの髪に頬をすり寄せ、二度と離さないと言わんばかりに強く抱いた。
サヨンは顔を上げ、彼の愁いを帯びたまなざしを受け止めて、それ以上、何も言えなくなった。
「良かった。もしサヨンの身に危害を加えていたら、あいつらを纏めて漢江(ハンガン)にぶち込んで、鰐のえさにしてやる」
本気でやりそうなトンジュに、サヨンは笑った。
「ねえ、余計なことかもしれないけど、漢江に鰐なんているの?」
「さあな、俺も聞いたことがない。鰐でも鮫でも良いんだよ」
ますます赤らんだトンジュを見て、サヨンは明るい笑い声を上げた。
「サヨンの笑ったところ、久しぶりに見たよ。っていうか、俺と一緒に暮らし始めてから、笑顔なんて、ろくに見たことがない。漢陽の屋敷にいた頃は、いつも太陽みたいに笑っていたのに」
トンジュは首を振った。
「やっぱり、お屋敷を連れ出したことは、お前にとっては良くなかったのかもしれないな」
「トンジュ?」
「サヨンは知らなかっただろうが、俺は毎日、お屋敷中、お前の姿を探してたんだぜ。仕事が立て込んでるから、追いかけ回してる暇はないが、何をしていても、どこか近くをお嬢さまが通りかからないかとばかり考えてた」
トンジュが溜息をつく。
「考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ」
そのときのトンジュの声が何故かひどく淋しげに聞こえたのだった。
夕刻になった。サヨンは近くの池まで水を汲みにいった。いつもトンジュは自分がやると言うのだけれど、小さな瓶一つ運ぶくらいはサヨンにだってできる。サヨンはそう言って、自分でできることは自分でやっている。
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