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彷徨う二つの心⑩
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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小さな瓶はすぐに一杯になった。頭に専用の輪を乗せ、もう大分馴れた手つきで瓶を乗せて運ぶ。家の前まで戻ってきた時、トンジュが表で薪割りをしているのが眼に入った。
トンジュは片肌脱いでいるにも拘わらず、汗をかいている。三月も半ば近くになり、日中は幾分春めいてきた。汗をかく質であれば、力仕事に精を出せば汗もかくだろう。
小麦色の膚を汗の玉が流れ落ちている。逞しい身体は引き締まり、余分な肉は全くない。半月前、あの腕に抱かれたのだ。
そう考えると、何か落ち着かない気持ちになった。今から思い出せば、あの折、トンジュがサヨンに与えたのはけして苦痛だけではなかった。むろん、破瓜の痛みは並大抵ではなかったし、サヨンの意思を無視して強引に抱かれたことには抵抗はある。
が、媚薬を使われたにせよ、あのときの自分の乱れ様は普通ではなかった。トンジュに抱かれ、たった一日の中に数え切れないほど何度も絶頂に達した。あのときの自分を思い出す度に、消えてしまいたいほどの羞恥を憶えてしまう。
もし、またあの腕に抱かれたら―、夜毎、極楽に遊ぶようなめくるめく忘我の境地にいざなわれるのだろうか。
そこまで考え、サヨンはハッと我に返り、頬を赤らめた。自分は一体、何というはしたないことを考えたのか。
と、頭上がふっと軽くなった。愕いて見上げると、トンジュが瓶を抱えて立っていた。
「お帰り。重くはなかったか?」
「大丈夫よ。いつも言ってるでしょう、これしきのこと、たいしたことではないわ。やせっぽちだけど、力はあるのよ、私」
力こぶを作る真似をして見せると、トンジュがプッと吹き出した。
「顔が紅いが、どうかしたのか?」
気遣わしげに訊ねられ、ふるふると首を振る。
「何ともないけど」
「どれ」
トンジュの手が伸びてきて、サヨンの額に触れた。
「確かに熱はなさそうだな」
サヨンは眼を瞠った。トンジュの逞しい身体がすぐ眼前にあった。うっすらと毛に覆われた均整の取れた身体から、かすかな香りがする。それは山の森を吹き渡る風の匂い、或いは冬なおたっぷりと青葉を茂らせる大木の香りであった。
知らぬ間に、サヨンは眼を閉じて、うっとりと男の香りに浸っていた。
「サヨン? どうした、やっぱり変だぞ?」
トンジュの声が耳を打ち、サヨンは眼を開いた。
「あ、ごめんなさい。本当に何でもないの、気にしないで」
サヨンは慌てて逃げるようにその場を離れた。これ以上、トンジュの剥き出しになった逞しい身体をまともに見ていられなかった。
夕飯をいつもより早く終え、サヨンは部屋の隅で針を動かしていた。先に繕い物を済ませて、今は気散じに刺繍をしている。
三月の初め、トンジュは町に薬草を売りにいった。そのときに知り合いの絹店の主人から、半端物の絹布を格安で譲って貰ってきたのだ。頼んでいた刺繍道具もちゃんと買ってきてくれた。
―こんな小さな端切れでは到底、服なんて縫えないだろうが、袋でも何か縫って使うと良い。
そう言って渡してくれたのだ。
サヨンの側には繕い終えたばかりのトンジュのパジとチョゴリが一枚ずつ畳んで置いてある。
巾着は簡単にできるので、数個纏めて作った。刺繍はそう手の込んだものではないが、できるだけ華やかに見えるものをと思い、四季それぞれの花を挿すことにした。春の梅、夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の椿。これは多少日数はかかるだろうけれど、刺繍をするのは久しぶりなので胸が躍る。漢陽にいた頃は、一日の大半を刺繍ばかりして過ごしていたのだ。
まずは春の梅だ。これは丁度、今の季節にふさわしい図柄である。が、実のところ、作業は全くと言って良いほど捗らなかった。というのも、サヨンは針で指を突いてばかりで、大切な巾着に危うく血を付けてしまうところだった。
サヨンは自分の気持ちを持て余していた。若い両班の男に心ならずも触れられたのは、まだ朝の出来事だ。思い出してしまうのは、そのときのことだった。あの時、見知らぬ男に少し触れられただけでも、嫌で堪らなかった。
だが、どうだろう。トンジュに先刻、額を触れられても一欠片(ひとかけら)の嫌悪感も感じなかった。河原で抱きしめられたときも平気だったし、怒り狂ったトンジュを宥めるためとはいえ、自分からトンジュに抱きつきさえしたのだ。
トンジュは片肌脱いでいるにも拘わらず、汗をかいている。三月も半ば近くになり、日中は幾分春めいてきた。汗をかく質であれば、力仕事に精を出せば汗もかくだろう。
小麦色の膚を汗の玉が流れ落ちている。逞しい身体は引き締まり、余分な肉は全くない。半月前、あの腕に抱かれたのだ。
そう考えると、何か落ち着かない気持ちになった。今から思い出せば、あの折、トンジュがサヨンに与えたのはけして苦痛だけではなかった。むろん、破瓜の痛みは並大抵ではなかったし、サヨンの意思を無視して強引に抱かれたことには抵抗はある。
が、媚薬を使われたにせよ、あのときの自分の乱れ様は普通ではなかった。トンジュに抱かれ、たった一日の中に数え切れないほど何度も絶頂に達した。あのときの自分を思い出す度に、消えてしまいたいほどの羞恥を憶えてしまう。
もし、またあの腕に抱かれたら―、夜毎、極楽に遊ぶようなめくるめく忘我の境地にいざなわれるのだろうか。
そこまで考え、サヨンはハッと我に返り、頬を赤らめた。自分は一体、何というはしたないことを考えたのか。
と、頭上がふっと軽くなった。愕いて見上げると、トンジュが瓶を抱えて立っていた。
「お帰り。重くはなかったか?」
「大丈夫よ。いつも言ってるでしょう、これしきのこと、たいしたことではないわ。やせっぽちだけど、力はあるのよ、私」
力こぶを作る真似をして見せると、トンジュがプッと吹き出した。
「顔が紅いが、どうかしたのか?」
気遣わしげに訊ねられ、ふるふると首を振る。
「何ともないけど」
「どれ」
トンジュの手が伸びてきて、サヨンの額に触れた。
「確かに熱はなさそうだな」
サヨンは眼を瞠った。トンジュの逞しい身体がすぐ眼前にあった。うっすらと毛に覆われた均整の取れた身体から、かすかな香りがする。それは山の森を吹き渡る風の匂い、或いは冬なおたっぷりと青葉を茂らせる大木の香りであった。
知らぬ間に、サヨンは眼を閉じて、うっとりと男の香りに浸っていた。
「サヨン? どうした、やっぱり変だぞ?」
トンジュの声が耳を打ち、サヨンは眼を開いた。
「あ、ごめんなさい。本当に何でもないの、気にしないで」
サヨンは慌てて逃げるようにその場を離れた。これ以上、トンジュの剥き出しになった逞しい身体をまともに見ていられなかった。
夕飯をいつもより早く終え、サヨンは部屋の隅で針を動かしていた。先に繕い物を済ませて、今は気散じに刺繍をしている。
三月の初め、トンジュは町に薬草を売りにいった。そのときに知り合いの絹店の主人から、半端物の絹布を格安で譲って貰ってきたのだ。頼んでいた刺繍道具もちゃんと買ってきてくれた。
―こんな小さな端切れでは到底、服なんて縫えないだろうが、袋でも何か縫って使うと良い。
そう言って渡してくれたのだ。
サヨンの側には繕い終えたばかりのトンジュのパジとチョゴリが一枚ずつ畳んで置いてある。
巾着は簡単にできるので、数個纏めて作った。刺繍はそう手の込んだものではないが、できるだけ華やかに見えるものをと思い、四季それぞれの花を挿すことにした。春の梅、夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の椿。これは多少日数はかかるだろうけれど、刺繍をするのは久しぶりなので胸が躍る。漢陽にいた頃は、一日の大半を刺繍ばかりして過ごしていたのだ。
まずは春の梅だ。これは丁度、今の季節にふさわしい図柄である。が、実のところ、作業は全くと言って良いほど捗らなかった。というのも、サヨンは針で指を突いてばかりで、大切な巾着に危うく血を付けてしまうところだった。
サヨンは自分の気持ちを持て余していた。若い両班の男に心ならずも触れられたのは、まだ朝の出来事だ。思い出してしまうのは、そのときのことだった。あの時、見知らぬ男に少し触れられただけでも、嫌で堪らなかった。
だが、どうだろう。トンジュに先刻、額を触れられても一欠片(ひとかけら)の嫌悪感も感じなかった。河原で抱きしめられたときも平気だったし、怒り狂ったトンジュを宥めるためとはいえ、自分からトンジュに抱きつきさえしたのだ。
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