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彷徨う二つの心⑪
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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もしかしたら、自分がトンジュをあれほど拒んだのは〝女になる〟ことへの本能的な恐怖があったから? 母親のいないサヨンは恋には奥手で、男女のことに関する知識は皆無だった。純真無垢といえば聞こえは良いが、要するに無知だったのだ。
トンジュに抱かれた時、彼が口にしていた話の半分も理解できなかった。徹底的に疎いサヨンにとって、初めての体験、男を受け容れるという行為は途轍もなく怖ろしいものに思えてならなかった。具体的なことを知らないがために、恐怖はいや増した。
サヨンが彼を拒み続けたことは、多分、彼への想いとは無関係といって良いのだろう。
―もしかして、私は彼を好きなの?
突如として目覚めた想いは、しかしながら、急に湧いてきたものではなく、かなり前から芽生えていたのかもしれない。第一、このことはトンジュも言っていたけれど、大嫌いな男ならば、共に逃げようと言われても絶対に逃げたりしなかった。
逃げようと手を差し出されてトンジュの手を取った時、胸が時めき、彼の手が触れた箇所から得体の知れない妖しい感覚が駆け抜けた。今から思えば、あの未知の感覚こそが男に抱かれたときに女が感じる〝快さ〟に近いものだったのだ。
あの頃から、自分はトンジュに少しずつ惹かれていたのかもしれなかった。だが、今となっては、どうしようもないように思える。
サヨンは〝好きだ〟と繰り返す彼の想いを受け取らなかった。身体を幾度も重ねた後でさえ、サヨンの方から背を向けたのだ。
―考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ。
今朝の河原からの帰り道、トンジュが洩らした言葉が何より今の彼の気持ち―心境の変化を物語っている。
トンジュは最早、サヨンへの気持ちに見切りをつけたのだろうか。いつまでも頑なな女を求め続けることに疲れてしまったのかもしれない。
自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか―。それがどれほど大切なものか知らず、気がついたときには失っていた。あまりにも愚かで哀しい失敗だ。サヨンは暗澹とした気持ちになった。自己嫌悪の塊になりそうだ。
想いに耽っていると、人の気配がした。
散歩に出かけると言って出ていったトンジュが帰ってきたらしい。顔を上げると、物言いたげなトンジュと視線が合った。
「お帰りなさい。ゆっくりとできた?」
「ああ、梅が見頃でね。いつかサヨンにも見せてやりたいと話していたろう? 梅林が見事な場所があるんだよ。今夜はそこまで行ってきたんだ。丁度今が満開だ。月に梅が照らされて、本当にきれいだった。絵心のない俺でも筆を持って描いてみたいと思うほどだ」
トンジュは懐からさっと何かを出すと、眼の前で振って見せた。
「一輪だけ貰ってきた」
「可愛い花ね」
サヨンは微笑んだ。薄紅色の小さな花をいくつかつけた細い枝を見つめる。トンジュはその枝をサヨンの髪に挿した。
「これは良い子で留守番をしていたサヨンへのおみやげだ」
「ありがとう。でも、トンジュってば、相変わらず私を子ども扱いするのね」
トンジュが少し笑った。
「サヨンは金を出して買ったものより、こういう素朴なものの方を歓ぶんではないかと思ったんだ」
「ごめんなさい。別にあなたから頂いた簪が気に入らないわけではないのよ」
トンジュも微笑み返してきた。
「別に気にしなくて良いんだよ。嫌いな男からあんなものを贈られて、身につける気にならないのは当然だからね」
「トンジュ、私はそういうつもりでは―」
いいかけるサヨンを遮り、トンジュは突如としてサヨンの傍らに置いてあった巾着を手にした。
「俺が買ってきた絹布で作ったのか?」
薄桃色の巾着を手で弄びながら言う。
「そうよ。これくらいの大きさだとたくさん作れるから、一度に済ませてしまったわ。刺繍もしてみようかと思ってるの」
梅の刺繍は既に半分以上は仕上がっている。トンジュは、なおも巾着を見つめている。大きな手のひらにちょこんと乗った巾着は随分と小さく見えた。
「見事なものだ」
褒められて、少しくすぐったいような気持ちになった。
トンジュに抱かれた時、彼が口にしていた話の半分も理解できなかった。徹底的に疎いサヨンにとって、初めての体験、男を受け容れるという行為は途轍もなく怖ろしいものに思えてならなかった。具体的なことを知らないがために、恐怖はいや増した。
サヨンが彼を拒み続けたことは、多分、彼への想いとは無関係といって良いのだろう。
―もしかして、私は彼を好きなの?
突如として目覚めた想いは、しかしながら、急に湧いてきたものではなく、かなり前から芽生えていたのかもしれない。第一、このことはトンジュも言っていたけれど、大嫌いな男ならば、共に逃げようと言われても絶対に逃げたりしなかった。
逃げようと手を差し出されてトンジュの手を取った時、胸が時めき、彼の手が触れた箇所から得体の知れない妖しい感覚が駆け抜けた。今から思えば、あの未知の感覚こそが男に抱かれたときに女が感じる〝快さ〟に近いものだったのだ。
あの頃から、自分はトンジュに少しずつ惹かれていたのかもしれなかった。だが、今となっては、どうしようもないように思える。
サヨンは〝好きだ〟と繰り返す彼の想いを受け取らなかった。身体を幾度も重ねた後でさえ、サヨンの方から背を向けたのだ。
―考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ。
今朝の河原からの帰り道、トンジュが洩らした言葉が何より今の彼の気持ち―心境の変化を物語っている。
トンジュは最早、サヨンへの気持ちに見切りをつけたのだろうか。いつまでも頑なな女を求め続けることに疲れてしまったのかもしれない。
自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか―。それがどれほど大切なものか知らず、気がついたときには失っていた。あまりにも愚かで哀しい失敗だ。サヨンは暗澹とした気持ちになった。自己嫌悪の塊になりそうだ。
想いに耽っていると、人の気配がした。
散歩に出かけると言って出ていったトンジュが帰ってきたらしい。顔を上げると、物言いたげなトンジュと視線が合った。
「お帰りなさい。ゆっくりとできた?」
「ああ、梅が見頃でね。いつかサヨンにも見せてやりたいと話していたろう? 梅林が見事な場所があるんだよ。今夜はそこまで行ってきたんだ。丁度今が満開だ。月に梅が照らされて、本当にきれいだった。絵心のない俺でも筆を持って描いてみたいと思うほどだ」
トンジュは懐からさっと何かを出すと、眼の前で振って見せた。
「一輪だけ貰ってきた」
「可愛い花ね」
サヨンは微笑んだ。薄紅色の小さな花をいくつかつけた細い枝を見つめる。トンジュはその枝をサヨンの髪に挿した。
「これは良い子で留守番をしていたサヨンへのおみやげだ」
「ありがとう。でも、トンジュってば、相変わらず私を子ども扱いするのね」
トンジュが少し笑った。
「サヨンは金を出して買ったものより、こういう素朴なものの方を歓ぶんではないかと思ったんだ」
「ごめんなさい。別にあなたから頂いた簪が気に入らないわけではないのよ」
トンジュも微笑み返してきた。
「別に気にしなくて良いんだよ。嫌いな男からあんなものを贈られて、身につける気にならないのは当然だからね」
「トンジュ、私はそういうつもりでは―」
いいかけるサヨンを遮り、トンジュは突如としてサヨンの傍らに置いてあった巾着を手にした。
「俺が買ってきた絹布で作ったのか?」
薄桃色の巾着を手で弄びながら言う。
「そうよ。これくらいの大きさだとたくさん作れるから、一度に済ませてしまったわ。刺繍もしてみようかと思ってるの」
梅の刺繍は既に半分以上は仕上がっている。トンジュは、なおも巾着を見つめている。大きな手のひらにちょこんと乗った巾着は随分と小さく見えた。
「見事なものだ」
褒められて、少しくすぐったいような気持ちになった。
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