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彷徨う二つの心⑫
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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「珍しいのね。褒めてくれるなんて」
サヨンの言葉に、トンジュは意外そうにまたたきした。
「そうか?」
しばらく間があった。トンジュは人差し指で巾着に咲いた白梅をなぞっている。
「その梅ね。家の前にある梅の樹を思い出して作ったのよ」
初めてここに連れてこられた日、絶望に覆われていたサヨンの心を慰めてくれたのが、あの白い梅の花であった。早咲きだったため、もう既に花は散ってしまったけれど。
返事がなかったので、サヨンは顔を上げ、トンジュを見た。と、こちらをじいっと見つめる彼の視線と視線がぶつかった。
思わず頬が染まるのを意識しながら、サヨンは視線を逸らした。どうも、朝の出来事以来、トンジュを必要以上に意識してしまうようである。
しかし、視線を逸らしたサヨンを見た彼が辛そうに眼を伏せるのには気づかなかった。
「そんなにやってみたいのなら、やってみれば良い」
え、と、サヨンが愕きに眼を見開いた。
「本当?」
「本当だよ」
トンジュがつとサヨンの手を取った。自分の手のひらに乗せたサヨンの小さな手を指で撫でる。
「可哀想に、ここに来てからまだ二ヶ月ほどだというのに、こんなに荒れてしまった」
サヨンは微笑んだ。
「たいしたことないわ。心配しないで」
「サヨン、俺はお前に余計な苦労をさせたくなかった。お前が今まで労働などろくにしたことがなかったのを俺はよく知っている。髪飾りを俺の手首に結んでくれたときのお前の手は、こんなに荒れてはいなかった。刺繍を町で売りたいとお前が言い出した時、反対したのは、そういう理由もあった」
綺麗なサヨンの手を汚したくなかったんだ。
最後の呟きは、囁くように落とされた。
「刺繍くらいで手は荒れないわ」
トンジュの最後の言葉が心に滲みた。あと一滴で満杯になる杯に落とされた最後の一滴のように、その言葉はサヨンの心に落ち、一杯に満たした。
そして、そのひと言が満たしたのは、これだけではなかった。サヨンのトンジュへの想いもまた、彼の優しさによって満ちたのだ。
溢れ出した心は涙となって流れ落ちる。サヨンの眼から透明な涙が次々にしたたり落ちた。
「サヨン、どうしたんだ。何故、泣く? 俺が何か気に障ることでも言ったか?」
「違うの、これは哀しみではなくて歓びの涙よ。あなたがそんな風に思っていてくれたなんて、そこまで私のことを心配してくれていたなんて、知らなかったもの」
そう言っている間にも、涙は次々に溢れてくる。
ただサヨンの予期せぬ逃亡を恐れたから、町で刺繍を売ることにトンジュが真っ向から反対した―、サヨンはそう思い込んでいた。よもや、その裏にトンジュの彼女を案じる心があるとは考えもしなかったのだ。
「判った、判ったから。もう泣くなよ、なっ」
トンジュが必死に慰める。急にサヨンが泣き出したので、慌てているのだ。トンジュを困らせてはいけない、泣き止まないといけないと思うのに、意思の力に反して涙は止まらなかった。
トンジュの優しさは不器用で無骨だ。恐らく一緒に暮らし始めてからの日々、彼は彼なりに精一杯優しさを示そうとしてきたに違いない。しかし、サヨンは最初から怯え、トンジュの優しさ―彼という男の内面を理解しようという努力はしなかった。
自分なりに理解してみようと努力した自覚はあるが、所詮、表向きなものでしかなかった。今なら、素直に認められる。サヨンは最初から彼に対して背を向けていた。
サヨンはトンジュの外見だけで、彼を判断していたのだろう。だからこそ、彼の本質を見極められなかった。
「おい、頼むから、泣き止んでくれよ」
トンジュの情けない声が聞こえてきて、やがて抱きしめられる。
「ああ、どうすれば、泣き止んでくれるんだ!?」
無骨な手がサヨンの背中を優しく撫でてくれる。その夜、サヨンはトンジュと心が近づいたように思えてならなかった。二人のこれからの関係に明るい希望が見えた瞬間だった。
やわらかい風が後頭部で纏めた髪を揺らす。サヨンは頭上を見上げた。トンジュと心が通い合ったと感じた翌朝、サヨンは髪を上げた。これまでは垂らしていた三つ編みを纏めて髷を結ったのである。
サヨンの言葉に、トンジュは意外そうにまたたきした。
「そうか?」
しばらく間があった。トンジュは人差し指で巾着に咲いた白梅をなぞっている。
「その梅ね。家の前にある梅の樹を思い出して作ったのよ」
初めてここに連れてこられた日、絶望に覆われていたサヨンの心を慰めてくれたのが、あの白い梅の花であった。早咲きだったため、もう既に花は散ってしまったけれど。
返事がなかったので、サヨンは顔を上げ、トンジュを見た。と、こちらをじいっと見つめる彼の視線と視線がぶつかった。
思わず頬が染まるのを意識しながら、サヨンは視線を逸らした。どうも、朝の出来事以来、トンジュを必要以上に意識してしまうようである。
しかし、視線を逸らしたサヨンを見た彼が辛そうに眼を伏せるのには気づかなかった。
「そんなにやってみたいのなら、やってみれば良い」
え、と、サヨンが愕きに眼を見開いた。
「本当?」
「本当だよ」
トンジュがつとサヨンの手を取った。自分の手のひらに乗せたサヨンの小さな手を指で撫でる。
「可哀想に、ここに来てからまだ二ヶ月ほどだというのに、こんなに荒れてしまった」
サヨンは微笑んだ。
「たいしたことないわ。心配しないで」
「サヨン、俺はお前に余計な苦労をさせたくなかった。お前が今まで労働などろくにしたことがなかったのを俺はよく知っている。髪飾りを俺の手首に結んでくれたときのお前の手は、こんなに荒れてはいなかった。刺繍を町で売りたいとお前が言い出した時、反対したのは、そういう理由もあった」
綺麗なサヨンの手を汚したくなかったんだ。
最後の呟きは、囁くように落とされた。
「刺繍くらいで手は荒れないわ」
トンジュの最後の言葉が心に滲みた。あと一滴で満杯になる杯に落とされた最後の一滴のように、その言葉はサヨンの心に落ち、一杯に満たした。
そして、そのひと言が満たしたのは、これだけではなかった。サヨンのトンジュへの想いもまた、彼の優しさによって満ちたのだ。
溢れ出した心は涙となって流れ落ちる。サヨンの眼から透明な涙が次々にしたたり落ちた。
「サヨン、どうしたんだ。何故、泣く? 俺が何か気に障ることでも言ったか?」
「違うの、これは哀しみではなくて歓びの涙よ。あなたがそんな風に思っていてくれたなんて、そこまで私のことを心配してくれていたなんて、知らなかったもの」
そう言っている間にも、涙は次々に溢れてくる。
ただサヨンの予期せぬ逃亡を恐れたから、町で刺繍を売ることにトンジュが真っ向から反対した―、サヨンはそう思い込んでいた。よもや、その裏にトンジュの彼女を案じる心があるとは考えもしなかったのだ。
「判った、判ったから。もう泣くなよ、なっ」
トンジュが必死に慰める。急にサヨンが泣き出したので、慌てているのだ。トンジュを困らせてはいけない、泣き止まないといけないと思うのに、意思の力に反して涙は止まらなかった。
トンジュの優しさは不器用で無骨だ。恐らく一緒に暮らし始めてからの日々、彼は彼なりに精一杯優しさを示そうとしてきたに違いない。しかし、サヨンは最初から怯え、トンジュの優しさ―彼という男の内面を理解しようという努力はしなかった。
自分なりに理解してみようと努力した自覚はあるが、所詮、表向きなものでしかなかった。今なら、素直に認められる。サヨンは最初から彼に対して背を向けていた。
サヨンはトンジュの外見だけで、彼を判断していたのだろう。だからこそ、彼の本質を見極められなかった。
「おい、頼むから、泣き止んでくれよ」
トンジュの情けない声が聞こえてきて、やがて抱きしめられる。
「ああ、どうすれば、泣き止んでくれるんだ!?」
無骨な手がサヨンの背中を優しく撫でてくれる。その夜、サヨンはトンジュと心が近づいたように思えてならなかった。二人のこれからの関係に明るい希望が見えた瞬間だった。
やわらかい風が後頭部で纏めた髪を揺らす。サヨンは頭上を見上げた。トンジュと心が通い合ったと感じた翌朝、サヨンは髪を上げた。これまでは垂らしていた三つ編みを纏めて髷を結ったのである。
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