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彷徨う二つの心⑬
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
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これは一般的には女性の成人、もしくは結婚したという意味を表す。もう自分は漢陽の屋敷で暮らしていた頃の自分ではない。一人前の女性になったのだ。トンジュに抱かれ、彼の〝妻〟なった。自分で髪を上げたのは、その決意の表れだった。むろん、艶やかな黒髪にはトンジュから贈られた黄玉(ブルートパーズ)の簪が煌めいている。
もう遅いのかもしれない。だが、半月前の夜、確かに彼と束の間、心が触れあったという確信があった。あのときの心の温もりを大切にして、今度はサヨンがトンジュに温もりをあげたかった。優しさという温もりを。そして、相手に気づかれないようなさりげない優しさがあると教えてくれたのは、トンジュだった。
大きく聳え立つ樹と樹は腕を交差するように互いに枝を張り出し、緑豊かな葉をふさふさと茂らせている。天蓋のように空を覆い隠すの樹々の隙間から、弱々しい光が洩れている。
たとえひとすじの頼りなげな光でも、サヨンはホッと安堵の息を零した。
三月下旬、サヨンは一人で山を下りた。トンジュが怪我をしたからだ。森に出て狩りをしている真っ最中に猪に襲われたのだ。トンジュが森に出かけるのは毎日のことゆえ、特に心配はしていなかったら、夕刻、血まみれになって帰ってきたトンジュを見たときは心臓が止まるかと思った。
何しろ、扉を開けたときの彼ときたら、着ているパジが胸から腹部にかけて鮮血に染まっていた。サヨンが生きた心地もしなかったのも無理はない。
幸い、見た目よりは傷は浅かった。トンジュは薬草に関しては高度の知識を有している。今や幻の村に代々伝えられてきた薬草の秘伝を知り、その処方ができるのはトンジュだけであった。トンジュの指示を仰ぎながら、サヨンは教えられたとおりに彼が取り置いた薬草を調合した。
塗り薬は傷口に塗って包帯を巻き、飲み薬は煎じて飲ませた。怪我をした翌日からは高熱が続き、一時はどうなるかと案じたほどだった。が、流石にトンジュ自身の処方だけあって、薬は確実に効いた。もちろん、十八歳という若さが早い回復に繋がったともいえるだろう。六日めには熱も下がり、十日めには床から出て普通の暮らしに戻った。
そうはいっても、まだ無理はさせられない。トンジュは大丈夫だと言い張るが、折角塞がりかけている傷口が開きでもしたら一大事である。そこで、サヨンがトンジュの代わりとして薬草を売りに町まで行くことになったのだ。
トンジュは病み上がりの我が身よりもサヨンの身をしきりに案じた。食糧にせよ何にせよ、ひと月分くらいの蓄えはある―と、直前までサヨンに思いとどまるように言った。
だが、サヨンの目的は薬草を売ることだけではなかった。折角、仕上がった刺繍入りの巾着を小間物屋に持っていって売り物になるかどうか見て貰おうと考えていたのである。
むろん、トンジュにはそのことも正直に打ち明けた。
山を下り、山茶花村を通り過ぎて町に着いたときには、既に昼前になっていた。サヨンは休む暇もなくトンジュがいつも薬草を卸している薬屋を訪ねた。
薬屋の主人は五十年配の小柄な、いかにも人の好さそうな赤ら顔の男だった。
「うへえ、あの若さで所帯持ちとは聞いていたけど、こいつア、たまげた。えらい美人の嫁さんだなぁ」
薬屋は町の目抜き通りに露店を出していた。お世辞にしては随分と大仰に愕き騒いでいる店主に薬草を渡し、その分の代金を貰う。そのお金で今度は様々な店を覗いて、生活に必要な物、足りない物を買ってくるのだ。
もう遅いのかもしれない。だが、半月前の夜、確かに彼と束の間、心が触れあったという確信があった。あのときの心の温もりを大切にして、今度はサヨンがトンジュに温もりをあげたかった。優しさという温もりを。そして、相手に気づかれないようなさりげない優しさがあると教えてくれたのは、トンジュだった。
大きく聳え立つ樹と樹は腕を交差するように互いに枝を張り出し、緑豊かな葉をふさふさと茂らせている。天蓋のように空を覆い隠すの樹々の隙間から、弱々しい光が洩れている。
たとえひとすじの頼りなげな光でも、サヨンはホッと安堵の息を零した。
三月下旬、サヨンは一人で山を下りた。トンジュが怪我をしたからだ。森に出て狩りをしている真っ最中に猪に襲われたのだ。トンジュが森に出かけるのは毎日のことゆえ、特に心配はしていなかったら、夕刻、血まみれになって帰ってきたトンジュを見たときは心臓が止まるかと思った。
何しろ、扉を開けたときの彼ときたら、着ているパジが胸から腹部にかけて鮮血に染まっていた。サヨンが生きた心地もしなかったのも無理はない。
幸い、見た目よりは傷は浅かった。トンジュは薬草に関しては高度の知識を有している。今や幻の村に代々伝えられてきた薬草の秘伝を知り、その処方ができるのはトンジュだけであった。トンジュの指示を仰ぎながら、サヨンは教えられたとおりに彼が取り置いた薬草を調合した。
塗り薬は傷口に塗って包帯を巻き、飲み薬は煎じて飲ませた。怪我をした翌日からは高熱が続き、一時はどうなるかと案じたほどだった。が、流石にトンジュ自身の処方だけあって、薬は確実に効いた。もちろん、十八歳という若さが早い回復に繋がったともいえるだろう。六日めには熱も下がり、十日めには床から出て普通の暮らしに戻った。
そうはいっても、まだ無理はさせられない。トンジュは大丈夫だと言い張るが、折角塞がりかけている傷口が開きでもしたら一大事である。そこで、サヨンがトンジュの代わりとして薬草を売りに町まで行くことになったのだ。
トンジュは病み上がりの我が身よりもサヨンの身をしきりに案じた。食糧にせよ何にせよ、ひと月分くらいの蓄えはある―と、直前までサヨンに思いとどまるように言った。
だが、サヨンの目的は薬草を売ることだけではなかった。折角、仕上がった刺繍入りの巾着を小間物屋に持っていって売り物になるかどうか見て貰おうと考えていたのである。
むろん、トンジュにはそのことも正直に打ち明けた。
山を下り、山茶花村を通り過ぎて町に着いたときには、既に昼前になっていた。サヨンは休む暇もなくトンジュがいつも薬草を卸している薬屋を訪ねた。
薬屋の主人は五十年配の小柄な、いかにも人の好さそうな赤ら顔の男だった。
「うへえ、あの若さで所帯持ちとは聞いていたけど、こいつア、たまげた。えらい美人の嫁さんだなぁ」
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