無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

めぐみ

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彷徨う二つの心⑯

無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。

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 後ろ手に手を組み、偉そうに立っているこの男の顔を忘れるはずもなかった。
「私の顔を憶えているか?」
 相変わらずきらびやかなパジチョゴリに身を包み、鐔広の帽子は顎の部分に紫水晶を連ねたものが垂れ下がっている。もっとも、その派手な衣装がちっとも似合ってない、むしろ貧相な容貌を余計に強調しているのを当の本人は全く理解していない。
「何のつもりで、こんなことを?」
 サヨンは気取り返ったアヒルのような男を下から睨んでやった。
 若い男―沈勇民は薄い胸を傲然と反らした。
「フン、身の程知らずの生意気な女め。まあ、良い。その美貌と私をさぞかし愉しませてくれるであろう身体に免じて、今のところは大目に見てやろう」
 勇民はサヨンの身体を無遠慮にじろじろと眺め回す。まるで衣服の下の素肌をなで回されているような嫌らしい視線がおぞましい。
「お前の亭主にもたっぷりと先日の礼をしてやらねばな。お陰で今もこのザマだ。今宵は大勢の来客があるというに、ええい、口惜しい」
 勇民はさも悔しそうに歯がみする。なるほど、妙に生白い顔のあちこちにまだアザが残っている。半月前、トンジュに殴られたときのものだろう。両眼の周囲に青あざがあるので、子どもの頃に絵本で見た〝大熊猫〟に似ている。大熊猫というのは何でも清国に生息する珍しい動物だという。真っ白な毛並みに耳や手足、身体の一部分だけが黒く、外見が可愛い割には性格は獰猛なのだとか。
 もっとも、絵本の挿絵は愛らしかったが、こちらの大熊猫は可愛いどころか不気味で滑稽だ。
 勇民がせかせかとした足取りで近づき、サヨンの顎に手をかけてクイと仰のけた。
「ふむ、やはり見れば見るほど、良い女だ。あのような貧しい若造に与えておくのは勿体ない。いかに美しき玉とて、それなりの場所を与えられねば、本来の美しさを発揮して光り輝くことはできぬ。私の側妾になれば、その雪肌に映える極上の衣(きぬ)と宝飾品を与えようぞ。今宵は客が多く多忙ゆえ、相手をしてやれぬが、明日の夜は愉しみにしておくが良い」
 全く、よく喋る男である。
「何もかも脱ぎ棄てた姿に、きらめく玉の首飾りと腕輪だけを身につけたそなたの姿。さぞ美しかろう」
 その様を想像しているのか、嫌らしげな眼でサヨンを見てから、満足そうな表情で笑った。
 勇民は一人で喋るだけ喋ると、さっさと出ていった。扉が元どおり閉まった後、サヨンは汚物に触れたように、勇民の触った顎を手のひらでごしごしと拭った。
 自分こそが世界の中心だと自惚(うぬぼ)れきっているあの増上慢! あの男はトンジュを〝貧乏な若造〟と言ったが、あの男こそ、みっともないくらい着飾った貧相なアヒルではないか。苦労して難しい学問を身につけ、日々汗を流して働くトンジュの足下にも寄れやしない。
 何の能もなく、ただ日々を遊んで暮らしているような腑抜けにトンジュを罵倒されたのが腹立たしくてならない。
 更にそれから幾ばくかの刻を経た頃になって外側から厳重にかけてある鍵が開く音が聞こえてきたかと思うと、今度は先刻の女中が再び顔を覗かせた。
「おや、何も食べてないじゃないかい」
 女中は大袈裟に愕いた。
「それにしても、うちの若(トル)さま(ニム)にも困ったものだよねえ。女好きだといったって、人間なんだから、節操ってものくらい持ち合わせてると思うのに、どうやら、奥さまのお腹から出てくるときに、それをどこかに落っことしてきちまったみたいだ」
 どうも、木彫り職人の女房といい、この女中といい、この町にはお喋り好きの女が多いらしい。
 女中は、サヨンの視線にやっと気づいた様子だ。
「あら、いやだ。あたしったら」
 女中がわざとらしい咳払いでごまかした。
「おばさん、ここの若さまって、そんなに悪さばかりしてるんですか?」
 訊ねると、女中は訳知り顔で首を振った。
「さ、さあね。お仕えするお屋敷の内輪のあれこれを無闇に喋るもんじゃないって女中頭さまがよく言ってるから」
 とはいえ、彼女の顔には〝本当は喋りたい〟と書いてある。そこで、サヨンは作戦を変更することにした。
 その時、運良くというべきか、向こうから大きな声が響いてきた。
「萬娍(マンソン)、萬娍、」
「はーい、今、行きます」
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