46 / 56
彷徨う二つの心⑰
無垢な令嬢は月の輝く夜に甘く乱される~駆け落ちから始まった結婚の結末は私にもわかりませんでした。
しおりを挟む
マンソンと呼ばれた女中は露骨に顔をしかめた。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。
「あんたが働いて、家計を支えているの?」
サヨンは泣く真似をしながら、頷いた。
と、サヨンはしゃくりあげ、上目遣いに女中を見上げた。
「おばさん、私、何でもおばさんの言うことを聞くから、味方になってくれる?」
女中はギョッとした顔で言った。
「だ、駄目だよ。逃がしてくれって頼まれたって、そいつはできない相談だからね。あたしにも亭主と子どもがいるんだ。一時の情にほだされて、あんたを逃がしたことがバレたら、若さまにどんな酷い罰を食らうことになるかしれやしないからね」
サヨンは首を振った。
「大丈夫、おばさんに迷惑はかけないから。ただ、私がここのお屋敷にいる間、味方になってくれるだけで良いの。その代わり、何でもおばさんの頼みをきいてあげるわ」
「判ったよ。そういうことなら、味方になろうじゃないか」
女中は頷き、両手に持っていた小卓を眼で指した。
「じゃあ、早速、頼むよ。これを客間に運んで」
「えっ、私なんかが運んでも良いの?」
「女中頭さまに見つかったら大変だけど、今はお屋敷中が大忙しだから、まず見つからない。大丈夫だよ」
「判った、おばさんの言うとおりにする。どうしたら良い?」
「簡単なことさ。この小卓を客間に持ってくだけ」
「今夜は忙しいの? あの若さまがさっき来た時、お客が大勢来るんだとか何とか言ってたけど」
「そうだよ。今日が若奥さまのお誕生日だっていうんで、お祝いにお客がわんさか来てるんだ」
「若奥さま?」
サヨンが不思議そうに訊くと、女中は小声で教えてくれた。
沈勇民が去年、迎えたばかりの妻が今の中(チユン)殿(ジヨン)、つまり国王の后の妹であること、勇民は美しいが気位の高いこの妻を持て余し、結婚してから余計に女漁りが烈しくなったこと。
「まっ、若奥さまはご実家や姉君さまのご威光をを笠に着て若さまを馬鹿にしてばかりだから、若さまが若奥さまに寄りつかなくなるのも無理はないと思うよ」
それで、今夜は大勢の祝い客が来るため、屋敷内がざわつき、女中も下男も飛び回っているのだという。
「客間には、どんな方がいらっしゃるの?」
無邪気に訊ねれば、声をなおいっそう潜めて〝義(ウィ)承(スン)大君(テーグン)さま(マーマ)だよ〟と教えてくれた。
義承大君というのは現国王の実弟で、町の外れに邸宅を構えている。都でも名の通った風流人で政治よりも書画や管弦に親しみ、自身も笛の名手として知られていた。かねてから田舎で自然を愛でながら暮らすのが夢で、今から数年前、兄王に頼み込んで、この鄙びた地方都市に移り住んだのだそうだ。
「義承大君さまは国王さまの弟君で、若奥さまさまは王妃さまの妹君だからね。だから、今夜もお祝いにお見えになってるんだ」
と、向こうから再び呼び声が聞こえた。今度は先刻より更に苛立しげに焦れている。
「マンソン、マンソン! この猫の手も借りたいほど忙しいってときに、どこで油を売ってるんだろうね。全く、肝心のときに役立たずなんだから」
女中がしかめ面で肩をすくめた。
「ああ、いやだ、いやだ。それじゃ、頼むよ」
彼女は慌てて〝はい、はーい〟と返事しながら駆けていった。
この人の良い女中は、あまり頭の回転が良くないようだ。サヨンを閉じ込めた部屋から出して、逃げるとは考えないのだろうか。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。
「あんたが働いて、家計を支えているの?」
サヨンは泣く真似をしながら、頷いた。
と、サヨンはしゃくりあげ、上目遣いに女中を見上げた。
「おばさん、私、何でもおばさんの言うことを聞くから、味方になってくれる?」
女中はギョッとした顔で言った。
「だ、駄目だよ。逃がしてくれって頼まれたって、そいつはできない相談だからね。あたしにも亭主と子どもがいるんだ。一時の情にほだされて、あんたを逃がしたことがバレたら、若さまにどんな酷い罰を食らうことになるかしれやしないからね」
サヨンは首を振った。
「大丈夫、おばさんに迷惑はかけないから。ただ、私がここのお屋敷にいる間、味方になってくれるだけで良いの。その代わり、何でもおばさんの頼みをきいてあげるわ」
「判ったよ。そういうことなら、味方になろうじゃないか」
女中は頷き、両手に持っていた小卓を眼で指した。
「じゃあ、早速、頼むよ。これを客間に運んで」
「えっ、私なんかが運んでも良いの?」
「女中頭さまに見つかったら大変だけど、今はお屋敷中が大忙しだから、まず見つからない。大丈夫だよ」
「判った、おばさんの言うとおりにする。どうしたら良い?」
「簡単なことさ。この小卓を客間に持ってくだけ」
「今夜は忙しいの? あの若さまがさっき来た時、お客が大勢来るんだとか何とか言ってたけど」
「そうだよ。今日が若奥さまのお誕生日だっていうんで、お祝いにお客がわんさか来てるんだ」
「若奥さま?」
サヨンが不思議そうに訊くと、女中は小声で教えてくれた。
沈勇民が去年、迎えたばかりの妻が今の中(チユン)殿(ジヨン)、つまり国王の后の妹であること、勇民は美しいが気位の高いこの妻を持て余し、結婚してから余計に女漁りが烈しくなったこと。
「まっ、若奥さまはご実家や姉君さまのご威光をを笠に着て若さまを馬鹿にしてばかりだから、若さまが若奥さまに寄りつかなくなるのも無理はないと思うよ」
それで、今夜は大勢の祝い客が来るため、屋敷内がざわつき、女中も下男も飛び回っているのだという。
「客間には、どんな方がいらっしゃるの?」
無邪気に訊ねれば、声をなおいっそう潜めて〝義(ウィ)承(スン)大君(テーグン)さま(マーマ)だよ〟と教えてくれた。
義承大君というのは現国王の実弟で、町の外れに邸宅を構えている。都でも名の通った風流人で政治よりも書画や管弦に親しみ、自身も笛の名手として知られていた。かねてから田舎で自然を愛でながら暮らすのが夢で、今から数年前、兄王に頼み込んで、この鄙びた地方都市に移り住んだのだそうだ。
「義承大君さまは国王さまの弟君で、若奥さまさまは王妃さまの妹君だからね。だから、今夜もお祝いにお見えになってるんだ」
と、向こうから再び呼び声が聞こえた。今度は先刻より更に苛立しげに焦れている。
「マンソン、マンソン! この猫の手も借りたいほど忙しいってときに、どこで油を売ってるんだろうね。全く、肝心のときに役立たずなんだから」
女中がしかめ面で肩をすくめた。
「ああ、いやだ、いやだ。それじゃ、頼むよ」
彼女は慌てて〝はい、はーい〟と返事しながら駆けていった。
この人の良い女中は、あまり頭の回転が良くないようだ。サヨンを閉じ込めた部屋から出して、逃げるとは考えないのだろうか。
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」完結
まほりろ
恋愛
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行中。
コミカライズ化がスタートしましたらこちらの作品は非公開にします。
「アリシア・フィルタ貴様との婚約を破棄する!」
イエーガー公爵家の令息レイモンド様が言い放った。レイモンド様の腕には男爵家の令嬢ミランダ様がいた。ミランダ様はピンクのふわふわした髪に赤い大きな瞳、小柄な体躯で庇護欲をそそる美少女。
対する私は銀色の髪に紫の瞳、表情が表に出にくく能面姫と呼ばれています。
レイモンド様がミランダ様に惹かれても仕方ありませんね……ですが。
「貴様は俺が心優しく美しいミランダに好意を抱いたことに嫉妬し、ミランダの教科書を破いたり、階段から突き落とすなどの狼藉を……」
「あの、ちょっとよろしいですか?」
「なんだ!」
レイモンド様が眉間にしわを寄せ私を睨む。
「婚約破棄ですか? 婚約破棄なら昨日成立しましたが、ご存知ありませんでしたか?」
私の言葉にレイモンド様とミランダ様は顔を見合わせ絶句した。
全31話、約43,000文字、完結済み。
他サイトにもアップしています。
小説家になろう、日間ランキング異世界恋愛2位!総合2位!
pixivウィークリーランキング2位に入った作品です。
アルファポリス、恋愛2位、総合2位、HOTランキング2位に入った作品です。
2021/10/23アルファポリス完結ランキング4位に入ってました。ありがとうございます。
「Copyright(C)2021-九十九沢まほろ」
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
「お前を愛する事はない」を信じたので
あんど もあ
ファンタジー
「お前を愛することは無い。お前も私を愛するな。私からの愛を求めるな」
お互いの利益のために三年間の契約結婚をしたアヴェリンとロデリック。楽しく三年を過ごしたアヴェリンは屋敷を出ていこうとするのだが……。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
嫌われたと思って離れたのに
ラム猫
恋愛
私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。
距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる