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雨の朝(あした)
第二話「絶唱~身代わり姫の恋~」
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雨の朝(あした)
千種(ちぐさ)は忙しなげに視線をあちこちにさ迷わせた。ここに来てから、ゆうに一刻余りにはなるはずだ。幾ら何でも、これはあまりに遅すぎる。
―河越家の姫たるもの、いつ何時も家名に恥じないようなふるまいを心がけねばならぬ。
千種は物心ついた時分から、常にそう言い聞かれさて育ってきたし、我が身にもそう戒めてきた。
その教えからすれば、今の自分はさぞかし落ち着かない娘、はしたなく見えることだろう。が、一御家人の娘がいきなり御所に呼び出されて長らく待たされたのでは、動揺しない方がおかしい。
飛ぶ鳥落とす勢いの家ならともかく、千種の父河越三郎康正は鎌倉幕府内では、殆ど発言権もなく、河越家そのものも逼塞している。ゆえに、その娘である千種もこれまで御所に上がったことなど一度もない。
康正の父、つまり千種の祖父恒興は元々次男で、家名を継ぐ立場にはなかった。それが何故、急に当主となるに至ったか。その理由は兄に当たる前(さきの)当主恒正が俄に出家・隠遁してしまったからだ。
恒正は初代将軍頼朝が流人時代から傍近く仕え、兄弟同然の間柄でもあった。従って、頼朝が将軍となってからも、重臣として幕府内で重きをなしてきたのである。ところが、頼朝直々に取り持った北条家との縁組みを一人娘楓が嫌い、どこの馬の骨とも知れぬ漁師の若者と駆け落ちしてしまった。
その頃から、頼朝と恒正の間に流れる空気が微妙になったといわれている。とはいえ、恒正の頼朝に対する忠誠は生涯変わらず、頼朝が亡くなるまで、常に影のようにまめやかに仕え続けた。
恒正が出家したのは、生涯忠誠を誓った主君頼朝が亡くなった後のことだ。頼朝の死後、まもなく、娘の楓がその良人、つまり河越家の婿養子となったばかりの時繁という男と蓄電した。蓄電の理由は定かではないが、恒正の突然の遁世は、後を託す娘夫婦の失踪と頼朝の死という身内の相次ぐ不幸によるものであろうと囁かれていた。
千種の父康正は祖父恒興の嫡男であり、兄の出家により急遽、河越家を継ぐことになった父から順当に家督を継いだ。しかし、恒正が頼朝の第一の臣と謳われた頃のかつての威勢は既に昔の語りぐさとなり果てている。
千種は、逼塞した一御家人の娘として、慎ましく育った。それでも、在りし日の河越家の隆盛を知る父康正は
―我らは初代の鎌倉どのの第一の臣といわれた家柄ぞ。その河越氏の者たる誇りを常に忘れてはならぬ。
というのが口癖であった。だからこそ、千種も己れを厳しく律してきたのだ。
それにしても、遅い。千種は大きな溜息をつき、周囲を見回す。昨夜から止むことのない雨がまだ軒を打つ音が聞こえている。秋の雨はひと雨毎に季節を深めてゆく。豪雨のようでもなく、ただ、しとしとと降り続く繊細な雨は女人の吐息をより合わせたようだ。
静かな雨が心の奥にまで降り込んでくるようで、千種はまた小さな溜息を一つ落とした。
そのときであった。突如として、秋雨のしじまを破る声が響いた。
「尼御台さまのおなりにございます」
その声に、千種は我に返り、我知らず居住まいを正す。何故、初代将軍頼朝の正室にして、三代実朝が非業の死を遂げた後もなお、隠然たる勢力を持つ政子がここに現れるのか。あり得ない疑問よりは、緊張の方がはるかに勝っていた。
源将軍家はここのところ、不幸続きであった。頼朝が亡くなってからというもの、二代頼家が後を嗣いだが、政子や外戚の北条氏により廃されてしまった。頼家は伊豆に幽閉され病死したが、北条がひそかに頼家を暗殺したともいわれている。
頼家は政子にとっては実の息子だが、この若い将軍は妻の実家比企氏の言うなりで、政子の言葉には耳も貸さず、母方の実家北条氏を無視した。それがために、若くして退職させられたのだ。
その点、政子は男にも負けないほどの冷静な判断力、言い換えれば、非情さがあった。我が子であれ、幕府のためにならねば切り捨てる。政子にとって最も大切なのは、良人と築いた鎌倉幕府であり、将軍家の安泰に他ならない。
三代実朝は頼朝と政子の次男である。将軍位についたときは、まだ十二歳の幼さであった。政子やその父時政は幼い将軍を傀儡として、自分たちが意のままに政権を操った。実朝は穏やかな性格で、母や北条と争うことはなかったのだが、不幸にも二十七歳で頼家の忘れ形見である公暁に殺された。
つまりは叔父が甥に殺されたのである。まさに血で血を争う醜い骨肉の争いを源氏は繰り広げたのだ。世の人は、それをひそかに〝平家の呪い〟と囁いた。かつて壇ノ浦合戦で源氏が平家を壊滅的に追いつめたその報いが源氏に下されたのだ、と。
果たして真偽のほどは定かではないが、頼朝の悲願の上に建てられた幕府は、わずか三代にして頭上に戴く将軍を失った。実朝の死後、幕府は皇族から新将軍を迎えたいと再三、朝廷に上訴したが、幕府嫌いの後鳥羽上皇はそれをついに許さなかった。そのため、やむなく摂関家から九条道家の三男、三寅(みとら)を将軍後継者として迎え入れるに至ったという経緯がある。
三寅という幼名は寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたがゆえに命名されたとか。わずか一歳で京から鎌倉に下り、尼御台政子の手によって大切に育てられた。
その間、幕府は未曾有の危機に晒された。後鳥羽院が企てた承久の乱がそれである。かねてから幕府の専横を快く思っていなかった院は時ここに至り、倒幕の兵を挙げた。その時、鎌倉武士は動揺し、幕府内は混乱の極みにあった。
尼御台政子はそんな彼らを一堂に集め、朗々とした声音で告げた。
―今こそ、亡き先代さまが築かれたこの幕府を我ら一丸となって守り抜くときが来た。思えば、そなたらは父祖の代から、こうして幕府のために働いてきてくれた忠義の者ども、どうか、頼朝さまの御霊に誓って、心を一にして闘うと私に誓って下され。
政子の説得に、屈強な東武者が皆、肩を震わせ泣いたという。
結局、院の企てはあえなく挫折し、戦いは幕府方の勝利に終わった。政子の幕府内での影響力は今や、執権北条氏をも凌ぐものであった。この頃から、政子は尼御台ではなく、〝尼将軍〟と呼ばれるようになった。承久の乱をはさみ、鎌倉にまた慶事もあった。襁褓(むつき)の赤児として迎えた将軍後継の三寅がつつがなく成長、七歳で元服し、翌年、将軍宣下があり、ついに幕府はここに四代将軍を戴くことにあいなった。
元服した三寅は頼経と名を改めて、今日に至っている。
摂関家の血を引く新将軍誕生には、やはり何と言っても、尼御台政子の力が大きい。しかも、政子は頼経にとっては育ての母も同然だ。そんな幕府の頂点に立つ女性がうらぶれた御家人の娘に何用があるというのだろうか。
千種は押し寄せる不安をひた隠し、その場に手をつかえた。先触れの後、ほどなく衣擦れの音がして、上座に人の気配があった。
「苦しうない、貌(かお)を見せてくれ」
予想外に気さくな声を聞き、千種は反射的に面を上げた。少し離れた前方に、一人の女人が座っていた。薄墨色の頭巾に同色の法衣を纏ったその姿は小柄で、到底、荒くれ者で知られる御家人たちを一声で圧倒する女傑には見えない。
小さな貌には年輪を刻んだ跡がくっきりと刻まれてはいたけれど、若き頃の溌剌さはいまだ失われておらず、眼は生き生きと輝きを放っている。
思わず政子と視線が合ってしまい、千種は慌てて面を伏せた。何という無礼だろう!
が、政子は気を悪くした様子もなく、柔和な笑みを湛えたまま千種を見ている。
「思うた以上じゃ。これならば、誰が見ても判るまい」
政子のひと言に、千種は小首を傾げた。何の話か皆目判らない。政子は謎めいた微笑をいっそう濃くし、また思いもかけないことを口にした。
「名は千種と申したか」
「は、はい」
千種は上擦った声で応える。既に千種自身のことは誰かから聞いて予備知識として知っているのかもしれない。
「そのように固くならずとも良い。千種、私は楓をよう知っておるのよ」
聞き憶えのない名前に、千種は首をひねる。
「楓―?」
訝しげな声で気付いたのか、政子が薄く笑った。
「そう申せば、そなたは楓に逢うたことはないのであったな」
そこで、千種は閃いた。
「私の父の従妹に、そのような名前の方がいたとは聞いたことがありますが」
政子は明るい笑顔で頷いた。
「そうじゃ、朗らかで笑顔の似合う娘じゃった。今頃、どこでどうしておるものやら。楓のことゆえ、いずこかで生きておるのであろう。我が娘同然とも思うた楓が野垂れ死んだなどとは今でも信じとうはない」
北条政子の弟時晴との祝言を控えた身で屋敷を飛び出し、漁師と夫婦になったという楓。その後、晴れて河越の屋敷に戻り、漁師は河越家の婿、次期当主として認められ、幸せな生活を送っていたある日、二人はまたしてもいなくなった。楓は今度こそ、永遠に姿を消したのだ。
それ以来、楓の話は河越家内では禁忌となっている。
千種の想いを見透かすかのように、政子は優しく微笑んだ。
「何も案ずることはない。私は先も申したように、楓を我が娘とも思うておったのじゃ。幼い頃には膝に抱いて、あやした憶えもある。そなたら身内の者には、あってはならぬ不祥事をしでかしたではあろうが、私は楓がどこにおっても、幸せであってくれれば、それで良い。無責任な言い方かもしれぬがの」
政子はそこで小さな生きを吐いた。
「女の幸せは、心から恋い慕う殿御に添うことじゃ。楓は紛れもなく女としての幸せを掴んだのであろうな」
政子の瞳は遠い。その眼は眼前の千種に向けられているようで、その実、千種を捉えてはいない。
―ああ、きっと尼御台さまは楓という娘が鎌倉で生きていた頃、はるか昔を見ているのに違いないわ。
千種が思ったのと、政子が想いを振り切るようにかぶりを振ったのはほぼ同時のことであった。
「ゆえに、これから私がそなたに申すことは、この上なく残酷であるとは理解しておる。じゃが、もう、そなたの力を借りるより、すべはない」
まだ何のことか判らず、千種は眼をまたたかせた。政子がふいに手で差し招いた。
「こちらへ」
逆らうこともできず、楓はそろそろと膝をいざり進める。尼御台さまに近づくなど、あまりにも畏れ多く、それ以上は到底、近づけるものではない。しかし、政子はあっさりとその千種との距離を縮め、自分から近づいてきた。
気が付けば、千種はその手を政子に取られ、握りしめられていた。
「間近で見ると、ほんによう似ておるのう」
最初、政子の言葉は千種が他ならぬ楓という見たこともない身内と似ていると指摘しているだけだと思えた。だが。
その底には、千種の窺い知れぬもっと別のの意味が二重に秘められていたのだ。
「私はそのように楓さまに似ていますか?」
無邪気に問いかけた千種に、政子はまた、謎めいた微笑を浮かべた。
「そなたが似ているのは、楓だけにはあらず。我が孫の紫(ゆかり)にもよう似ておる」
「紫さまと申せば、二代さまのご息女の―」
二代頼家と妻若狭局の間に生まれ、十三歳で三代実朝の猶子となり、現在は政子の許で暮らしているという姫君。不幸続きで亡くなった源氏一族の最後の生き残りであり、頼朝の直系を引く、ただ一人のやんごとなき身、紫姫。
政子もたった一人の孫として、溺愛していると聞く。
千種(ちぐさ)は忙しなげに視線をあちこちにさ迷わせた。ここに来てから、ゆうに一刻余りにはなるはずだ。幾ら何でも、これはあまりに遅すぎる。
―河越家の姫たるもの、いつ何時も家名に恥じないようなふるまいを心がけねばならぬ。
千種は物心ついた時分から、常にそう言い聞かれさて育ってきたし、我が身にもそう戒めてきた。
その教えからすれば、今の自分はさぞかし落ち着かない娘、はしたなく見えることだろう。が、一御家人の娘がいきなり御所に呼び出されて長らく待たされたのでは、動揺しない方がおかしい。
飛ぶ鳥落とす勢いの家ならともかく、千種の父河越三郎康正は鎌倉幕府内では、殆ど発言権もなく、河越家そのものも逼塞している。ゆえに、その娘である千種もこれまで御所に上がったことなど一度もない。
康正の父、つまり千種の祖父恒興は元々次男で、家名を継ぐ立場にはなかった。それが何故、急に当主となるに至ったか。その理由は兄に当たる前(さきの)当主恒正が俄に出家・隠遁してしまったからだ。
恒正は初代将軍頼朝が流人時代から傍近く仕え、兄弟同然の間柄でもあった。従って、頼朝が将軍となってからも、重臣として幕府内で重きをなしてきたのである。ところが、頼朝直々に取り持った北条家との縁組みを一人娘楓が嫌い、どこの馬の骨とも知れぬ漁師の若者と駆け落ちしてしまった。
その頃から、頼朝と恒正の間に流れる空気が微妙になったといわれている。とはいえ、恒正の頼朝に対する忠誠は生涯変わらず、頼朝が亡くなるまで、常に影のようにまめやかに仕え続けた。
恒正が出家したのは、生涯忠誠を誓った主君頼朝が亡くなった後のことだ。頼朝の死後、まもなく、娘の楓がその良人、つまり河越家の婿養子となったばかりの時繁という男と蓄電した。蓄電の理由は定かではないが、恒正の突然の遁世は、後を託す娘夫婦の失踪と頼朝の死という身内の相次ぐ不幸によるものであろうと囁かれていた。
千種の父康正は祖父恒興の嫡男であり、兄の出家により急遽、河越家を継ぐことになった父から順当に家督を継いだ。しかし、恒正が頼朝の第一の臣と謳われた頃のかつての威勢は既に昔の語りぐさとなり果てている。
千種は、逼塞した一御家人の娘として、慎ましく育った。それでも、在りし日の河越家の隆盛を知る父康正は
―我らは初代の鎌倉どのの第一の臣といわれた家柄ぞ。その河越氏の者たる誇りを常に忘れてはならぬ。
というのが口癖であった。だからこそ、千種も己れを厳しく律してきたのだ。
それにしても、遅い。千種は大きな溜息をつき、周囲を見回す。昨夜から止むことのない雨がまだ軒を打つ音が聞こえている。秋の雨はひと雨毎に季節を深めてゆく。豪雨のようでもなく、ただ、しとしとと降り続く繊細な雨は女人の吐息をより合わせたようだ。
静かな雨が心の奥にまで降り込んでくるようで、千種はまた小さな溜息を一つ落とした。
そのときであった。突如として、秋雨のしじまを破る声が響いた。
「尼御台さまのおなりにございます」
その声に、千種は我に返り、我知らず居住まいを正す。何故、初代将軍頼朝の正室にして、三代実朝が非業の死を遂げた後もなお、隠然たる勢力を持つ政子がここに現れるのか。あり得ない疑問よりは、緊張の方がはるかに勝っていた。
源将軍家はここのところ、不幸続きであった。頼朝が亡くなってからというもの、二代頼家が後を嗣いだが、政子や外戚の北条氏により廃されてしまった。頼家は伊豆に幽閉され病死したが、北条がひそかに頼家を暗殺したともいわれている。
頼家は政子にとっては実の息子だが、この若い将軍は妻の実家比企氏の言うなりで、政子の言葉には耳も貸さず、母方の実家北条氏を無視した。それがために、若くして退職させられたのだ。
その点、政子は男にも負けないほどの冷静な判断力、言い換えれば、非情さがあった。我が子であれ、幕府のためにならねば切り捨てる。政子にとって最も大切なのは、良人と築いた鎌倉幕府であり、将軍家の安泰に他ならない。
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果たして真偽のほどは定かではないが、頼朝の悲願の上に建てられた幕府は、わずか三代にして頭上に戴く将軍を失った。実朝の死後、幕府は皇族から新将軍を迎えたいと再三、朝廷に上訴したが、幕府嫌いの後鳥羽上皇はそれをついに許さなかった。そのため、やむなく摂関家から九条道家の三男、三寅(みとら)を将軍後継者として迎え入れるに至ったという経緯がある。
三寅という幼名は寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたがゆえに命名されたとか。わずか一歳で京から鎌倉に下り、尼御台政子の手によって大切に育てられた。
その間、幕府は未曾有の危機に晒された。後鳥羽院が企てた承久の乱がそれである。かねてから幕府の専横を快く思っていなかった院は時ここに至り、倒幕の兵を挙げた。その時、鎌倉武士は動揺し、幕府内は混乱の極みにあった。
尼御台政子はそんな彼らを一堂に集め、朗々とした声音で告げた。
―今こそ、亡き先代さまが築かれたこの幕府を我ら一丸となって守り抜くときが来た。思えば、そなたらは父祖の代から、こうして幕府のために働いてきてくれた忠義の者ども、どうか、頼朝さまの御霊に誓って、心を一にして闘うと私に誓って下され。
政子の説得に、屈強な東武者が皆、肩を震わせ泣いたという。
結局、院の企てはあえなく挫折し、戦いは幕府方の勝利に終わった。政子の幕府内での影響力は今や、執権北条氏をも凌ぐものであった。この頃から、政子は尼御台ではなく、〝尼将軍〟と呼ばれるようになった。承久の乱をはさみ、鎌倉にまた慶事もあった。襁褓(むつき)の赤児として迎えた将軍後継の三寅がつつがなく成長、七歳で元服し、翌年、将軍宣下があり、ついに幕府はここに四代将軍を戴くことにあいなった。
元服した三寅は頼経と名を改めて、今日に至っている。
摂関家の血を引く新将軍誕生には、やはり何と言っても、尼御台政子の力が大きい。しかも、政子は頼経にとっては育ての母も同然だ。そんな幕府の頂点に立つ女性がうらぶれた御家人の娘に何用があるというのだろうか。
千種は押し寄せる不安をひた隠し、その場に手をつかえた。先触れの後、ほどなく衣擦れの音がして、上座に人の気配があった。
「苦しうない、貌(かお)を見せてくれ」
予想外に気さくな声を聞き、千種は反射的に面を上げた。少し離れた前方に、一人の女人が座っていた。薄墨色の頭巾に同色の法衣を纏ったその姿は小柄で、到底、荒くれ者で知られる御家人たちを一声で圧倒する女傑には見えない。
小さな貌には年輪を刻んだ跡がくっきりと刻まれてはいたけれど、若き頃の溌剌さはいまだ失われておらず、眼は生き生きと輝きを放っている。
思わず政子と視線が合ってしまい、千種は慌てて面を伏せた。何という無礼だろう!
が、政子は気を悪くした様子もなく、柔和な笑みを湛えたまま千種を見ている。
「思うた以上じゃ。これならば、誰が見ても判るまい」
政子のひと言に、千種は小首を傾げた。何の話か皆目判らない。政子は謎めいた微笑をいっそう濃くし、また思いもかけないことを口にした。
「名は千種と申したか」
「は、はい」
千種は上擦った声で応える。既に千種自身のことは誰かから聞いて予備知識として知っているのかもしれない。
「そのように固くならずとも良い。千種、私は楓をよう知っておるのよ」
聞き憶えのない名前に、千種は首をひねる。
「楓―?」
訝しげな声で気付いたのか、政子が薄く笑った。
「そう申せば、そなたは楓に逢うたことはないのであったな」
そこで、千種は閃いた。
「私の父の従妹に、そのような名前の方がいたとは聞いたことがありますが」
政子は明るい笑顔で頷いた。
「そうじゃ、朗らかで笑顔の似合う娘じゃった。今頃、どこでどうしておるものやら。楓のことゆえ、いずこかで生きておるのであろう。我が娘同然とも思うた楓が野垂れ死んだなどとは今でも信じとうはない」
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それ以来、楓の話は河越家内では禁忌となっている。
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「何も案ずることはない。私は先も申したように、楓を我が娘とも思うておったのじゃ。幼い頃には膝に抱いて、あやした憶えもある。そなたら身内の者には、あってはならぬ不祥事をしでかしたではあろうが、私は楓がどこにおっても、幸せであってくれれば、それで良い。無責任な言い方かもしれぬがの」
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―ああ、きっと尼御台さまは楓という娘が鎌倉で生きていた頃、はるか昔を見ているのに違いないわ。
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「ゆえに、これから私がそなたに申すことは、この上なく残酷であるとは理解しておる。じゃが、もう、そなたの力を借りるより、すべはない」
まだ何のことか判らず、千種は眼をまたたかせた。政子がふいに手で差し招いた。
「こちらへ」
逆らうこともできず、楓はそろそろと膝をいざり進める。尼御台さまに近づくなど、あまりにも畏れ多く、それ以上は到底、近づけるものではない。しかし、政子はあっさりとその千種との距離を縮め、自分から近づいてきた。
気が付けば、千種はその手を政子に取られ、握りしめられていた。
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最初、政子の言葉は千種が他ならぬ楓という見たこともない身内と似ていると指摘しているだけだと思えた。だが。
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「そなたが似ているのは、楓だけにはあらず。我が孫の紫(ゆかり)にもよう似ておる」
「紫さまと申せば、二代さまのご息女の―」
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