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秘花㉕
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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自分たちは追われている身なのに、ジュチに触れられて胸を高鳴らせている自分自身が信じられない。
どうするのかと見ていたら、飯屋を後にしたジュチは雑踏でごった返す往来を足早に歩いていった。いかほど歩いたのか、急にジュチが立ち止まったので、真後ろにいる賢は彼の広い背中にぶつかりそうになった。
ジュチが振り返った。
「賢華さま、着きました」
「ジュチ、ここは?」
物問いたげに見上げれば、彼はまた賢を安心させるように笑みを浮かべた。
「商館ですよ」
「商館? どうして、こんなところに」
ジュチが頷いた。
「ここから夕方、元に向けて都を発つ隊商があります。その一行に紛れて開京を出ます」
賢は息を呑んだ。
「元に行くの?」
「いえ」
ここは、きっぱりと否定された。
「元までの道のりはあまりに遠く危険すぎます。確かに、ある意味、賢華さまは元に行かれた方が安全かもしれません。何しろ、元の皇帝は賢華さまの祖父君さまなのですから。ですが」
ジュチは声を落とし、何とも言えない顔で賢を見た。
「賢華さまはお美しすぎる。仮に元に渡って皇帝の庇護を得ていっときの平穏を得たとしても、元の王宮でその美しさがきっと賢華さまをまた新たな不幸に巻き込んでしまうでしょう。私はもう、賢華さまをこれ以上、醜い政に巻き込みたくないのです。王宮を出られたからには、これからは権力闘争とは拘わりのない場所で静かに暮らして頂きたい、そう思っています」
初めて知るジュチの想いに胸をつかれた。ジュチがここまで自分のことを考えていてくれているとは思わなかっただけに、賢は嬉しかった。何か温かいものが心を満たしてゆくようだ。
「ありがとう、ジュチ」
気の利いた言葉が言えたら良いのだけれど、適当な科白が浮かばない。だが、ジュチはいつものように優しい眼で賢を見た。
「賢華さまがお礼を言って下さるのはこれでもう、何度めでしょうか?」
ジュチは続けて言った。
「お礼などは必要ありませんよ。私があなたをお守りするのは、私がそうしたくてしているのですから」
「それは僕がジュチの主人だから―」
「いいえ」
予期せぬ強い口調で言われ、賢は眼を見開いた。ジュチは少し恥ずかしげに言った。
「もちろん、賢華さまは今もこれから先もずっと私のお仕えする大切な主人です。さりながら、それだけではありません。私の大切な方だから、ずっと側にいてお守りしたいと私自身が強く望んでいるのです」
早口で言うと、ジュチは照れたように視線を逸らした。
その日の黄昏時、ジュチと賢は都を出る隊商の列に紛れ込んでいた。何台も続く荷馬中が並ぶ中、人が乗った馬車も含まれている。美しく彩色された馬車をひとめ見れば、金持ちの夫人か令嬢が乗っていることはすぐに判る。実はその一つに、賢華はジュチと乗り込んでいた。
これに先立ち、ジュチは商館の主にして隊商を率いる行首(ヘンス)に多額の報酬を支払っていた。だが、その報酬というのは金子ではない。龍の文様を象った翡翠の美しい帯飾り(ノリゲ)だ。この龍こそが元国皇帝の血筋を正当に伝える者であると証す象徴であり、換金するのは難しいほど価値のあるものだ。
当初は山ほどの金子を用意していたのだが、賢が自分の持つノリゲをジュチに手渡し、これを役立てて欲しいと頼んだのである。
―ですが、これは賢華さまが元の皇帝の血筋であると証明する大切な品ではありませんか。
最初、ジュチは渋ったものの、賢は言った。
―ジュチ、僕はそなたにいつも守られているばかりで、何もできない。かえって足手まといになるばかりだ。だから、せめて僕にできることをさせて。それに、僕には母上の形見のノリゲがある。これを手放したからといって、困ることはない。
賢の持つノリゲは元の皇帝から高麗の第一王子生誕を祝う贈物の品々と共に届けられたものだ。裏には〝王賢〟と名前が刻み込まれている。元国の嫡流の姫である母永国公主もまた同じ意匠のノリゲを持っていた。
予想どおり、隊商を率いる沈(シム)行首はノリゲを見て大変歓び、できる限りの便宜を図ってくれると約束してくれた。
どうするのかと見ていたら、飯屋を後にしたジュチは雑踏でごった返す往来を足早に歩いていった。いかほど歩いたのか、急にジュチが立ち止まったので、真後ろにいる賢は彼の広い背中にぶつかりそうになった。
ジュチが振り返った。
「賢華さま、着きました」
「ジュチ、ここは?」
物問いたげに見上げれば、彼はまた賢を安心させるように笑みを浮かべた。
「商館ですよ」
「商館? どうして、こんなところに」
ジュチが頷いた。
「ここから夕方、元に向けて都を発つ隊商があります。その一行に紛れて開京を出ます」
賢は息を呑んだ。
「元に行くの?」
「いえ」
ここは、きっぱりと否定された。
「元までの道のりはあまりに遠く危険すぎます。確かに、ある意味、賢華さまは元に行かれた方が安全かもしれません。何しろ、元の皇帝は賢華さまの祖父君さまなのですから。ですが」
ジュチは声を落とし、何とも言えない顔で賢を見た。
「賢華さまはお美しすぎる。仮に元に渡って皇帝の庇護を得ていっときの平穏を得たとしても、元の王宮でその美しさがきっと賢華さまをまた新たな不幸に巻き込んでしまうでしょう。私はもう、賢華さまをこれ以上、醜い政に巻き込みたくないのです。王宮を出られたからには、これからは権力闘争とは拘わりのない場所で静かに暮らして頂きたい、そう思っています」
初めて知るジュチの想いに胸をつかれた。ジュチがここまで自分のことを考えていてくれているとは思わなかっただけに、賢は嬉しかった。何か温かいものが心を満たしてゆくようだ。
「ありがとう、ジュチ」
気の利いた言葉が言えたら良いのだけれど、適当な科白が浮かばない。だが、ジュチはいつものように優しい眼で賢を見た。
「賢華さまがお礼を言って下さるのはこれでもう、何度めでしょうか?」
ジュチは続けて言った。
「お礼などは必要ありませんよ。私があなたをお守りするのは、私がそうしたくてしているのですから」
「それは僕がジュチの主人だから―」
「いいえ」
予期せぬ強い口調で言われ、賢は眼を見開いた。ジュチは少し恥ずかしげに言った。
「もちろん、賢華さまは今もこれから先もずっと私のお仕えする大切な主人です。さりながら、それだけではありません。私の大切な方だから、ずっと側にいてお守りしたいと私自身が強く望んでいるのです」
早口で言うと、ジュチは照れたように視線を逸らした。
その日の黄昏時、ジュチと賢は都を出る隊商の列に紛れ込んでいた。何台も続く荷馬中が並ぶ中、人が乗った馬車も含まれている。美しく彩色された馬車をひとめ見れば、金持ちの夫人か令嬢が乗っていることはすぐに判る。実はその一つに、賢華はジュチと乗り込んでいた。
これに先立ち、ジュチは商館の主にして隊商を率いる行首(ヘンス)に多額の報酬を支払っていた。だが、その報酬というのは金子ではない。龍の文様を象った翡翠の美しい帯飾り(ノリゲ)だ。この龍こそが元国皇帝の血筋を正当に伝える者であると証す象徴であり、換金するのは難しいほど価値のあるものだ。
当初は山ほどの金子を用意していたのだが、賢が自分の持つノリゲをジュチに手渡し、これを役立てて欲しいと頼んだのである。
―ですが、これは賢華さまが元の皇帝の血筋であると証明する大切な品ではありませんか。
最初、ジュチは渋ったものの、賢は言った。
―ジュチ、僕はそなたにいつも守られているばかりで、何もできない。かえって足手まといになるばかりだ。だから、せめて僕にできることをさせて。それに、僕には母上の形見のノリゲがある。これを手放したからといって、困ることはない。
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