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秘花㊼
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
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賢は眼を開いた。一瞬、自分がどこにいるのか判らなくなったけれど、すぐに前後の記憶は繋がった。そう、我が身は川原であろうことか、王と遭遇してしまったのだ。恐らく、居所を突き止められたに相違ない。国王直属の諜報部隊を甘く見てはいけない。たかだか女一人男一人を高麗国内で捜し当てることなど、容易いものだったろう。
むしろ、王宮を逃れてふた月以上もの間、見つからなかったのが奇蹟といえた。
次第にはっきりとしてきた視界に、ジュチの優しい笑顔が映る。王に強引に連れ去られようとする寸前、確かにジュチを心で呼んだけれど、まさか本当に来てくれるとは思いだにしなかった。
―私がお側にいて、ずっとお守りします。
ジュチはいつでも賢に言ってくれる。本当に言葉どおりに助けに駆けつけてくれたのだ。胸に温かいものが流れ込み、賢は安心のあまり、涙が溢れそうになった。急いで身を起こそうとしても、何かがきつく身体に巻き付いているようで、身じろぎもできない。
ジュチは護衛官らしい男と何やら話しているみたいだ。
その時、賢は違和感を感じた。ジュチは今、自分を見つめていて、護衛官を見ていない。だが、護衛官の方は―。
「ジュチ―っ」
賢は声を限りに叫んだ。
賢の声に咄嗟に反応したジュチだったが、ほんのわずかに出遅れた。立ち上がって振り向いたジュチに白銀に輝く鋭い刃が振りかざされる。
悲痛な響きを帯びた叫びが辺りを満たすしじまにこだまする。剣が空を切る音が深い静寂を鋭く切り裂いた。ジュチの身体は大量の鮮血を溢れさせながら、ゆっくりと傾(かし)いでいゆく。
「ジュチ、駄目だ、死ぬな」
賢は自由にならない身体で虫のように地面をじりじりと這いながら、ジュチに近づいた。
ジュチの身体から流れ出る大量の血が一面の白い野原を血の色に変えていた。雪のように純白の清らかな花が今や禍々しいほど鮮やかな紅に染まっている。
「ジュチ、ジュチ」
賢はジュチの側まで来ると、這いつくばったまま彼の顔に自分の顔を押し当てた。
「賢華さま」
尽きることのない涙がしたたり落ち、ジュチの頬を濡らす。ジュチが優しい笑みを浮かべた。こんなときでも、この男は僕を安心させようと微笑むのか。
言いしれぬ哀しみが突き上げてきて、賢はすすり泣きながら幾度も言った。
「ジュチ、死なないでくれ」
ジュチはうっすらと笑み、その手を伸ばした。大きな手が賢の頬に触れる。
「申し訳ありません。ずっと側に居てお守りすると約束したのに、どうやら約束を果たせそうなくなりそうです」
「ジュチは死なない。絶対に死なせない。お願いだから、僕のためにも生きて」
しかし、ジュチの生命の焔が消えようとするのは賢にも判った。
「どうか生きて下さい」
ジュチが苦しい息の下から言う。
「ジュチ、そなたのいないこの世に僕一人で生きていたとしても仕方がない」
ジュチの息が一段と荒くなった。胸が苦しげに上下する。それでも彼は続けた。
「あなたさまはこの国、高麗にとって必要な方なのです。どうか高麗のゆく末を見届けて―、私があなたと共に見届けることのできなかった、この国のゆく末を―」
ジュチの手が力尽きたように地面に落ちた。縛められていては、その手を取ることもできない。
「ジュチ、いやーっ」
賢は絶叫した。ジュチを斬った護衛官が近づき、賢を縛めている鞭から解き放った。賢は急いでジュチの側に駆け寄り、その身体を抱きかかえた。
「ジュチ」
だが、幾ら呼んでも、ジュチが眼を開くことは二度となかった。震える手をジュチの口許に近づけると、既に息絶えていた。
「可哀想に」
賢はジュチのまだ温かみの残る頬に頬ずりした。立派な人だった。生活苦のために宦官になったと聞いたが、宦官ではなく官僚の道を歩んでいれば、頭角を現したに違いない。
こんな場所で死んで良い男ではなかった。
―僕が殺したようなものだ。
自分の背負った数奇な宿命に、ジュチまでをも巻き込んでしまい、結果、自分は生き残り、ジュチは非業の死を遂げた。
と、護衛官がさっと近づき、口早に告げた。
「ホン内官の亡骸は私が責任持って丁重に葬りますゆえ、どうかご安心下さい」
むしろ、王宮を逃れてふた月以上もの間、見つからなかったのが奇蹟といえた。
次第にはっきりとしてきた視界に、ジュチの優しい笑顔が映る。王に強引に連れ去られようとする寸前、確かにジュチを心で呼んだけれど、まさか本当に来てくれるとは思いだにしなかった。
―私がお側にいて、ずっとお守りします。
ジュチはいつでも賢に言ってくれる。本当に言葉どおりに助けに駆けつけてくれたのだ。胸に温かいものが流れ込み、賢は安心のあまり、涙が溢れそうになった。急いで身を起こそうとしても、何かがきつく身体に巻き付いているようで、身じろぎもできない。
ジュチは護衛官らしい男と何やら話しているみたいだ。
その時、賢は違和感を感じた。ジュチは今、自分を見つめていて、護衛官を見ていない。だが、護衛官の方は―。
「ジュチ―っ」
賢は声を限りに叫んだ。
賢の声に咄嗟に反応したジュチだったが、ほんのわずかに出遅れた。立ち上がって振り向いたジュチに白銀に輝く鋭い刃が振りかざされる。
悲痛な響きを帯びた叫びが辺りを満たすしじまにこだまする。剣が空を切る音が深い静寂を鋭く切り裂いた。ジュチの身体は大量の鮮血を溢れさせながら、ゆっくりと傾(かし)いでいゆく。
「ジュチ、駄目だ、死ぬな」
賢は自由にならない身体で虫のように地面をじりじりと這いながら、ジュチに近づいた。
ジュチの身体から流れ出る大量の血が一面の白い野原を血の色に変えていた。雪のように純白の清らかな花が今や禍々しいほど鮮やかな紅に染まっている。
「ジュチ、ジュチ」
賢はジュチの側まで来ると、這いつくばったまま彼の顔に自分の顔を押し当てた。
「賢華さま」
尽きることのない涙がしたたり落ち、ジュチの頬を濡らす。ジュチが優しい笑みを浮かべた。こんなときでも、この男は僕を安心させようと微笑むのか。
言いしれぬ哀しみが突き上げてきて、賢はすすり泣きながら幾度も言った。
「ジュチ、死なないでくれ」
ジュチはうっすらと笑み、その手を伸ばした。大きな手が賢の頬に触れる。
「申し訳ありません。ずっと側に居てお守りすると約束したのに、どうやら約束を果たせそうなくなりそうです」
「ジュチは死なない。絶対に死なせない。お願いだから、僕のためにも生きて」
しかし、ジュチの生命の焔が消えようとするのは賢にも判った。
「どうか生きて下さい」
ジュチが苦しい息の下から言う。
「ジュチ、そなたのいないこの世に僕一人で生きていたとしても仕方がない」
ジュチの息が一段と荒くなった。胸が苦しげに上下する。それでも彼は続けた。
「あなたさまはこの国、高麗にとって必要な方なのです。どうか高麗のゆく末を見届けて―、私があなたと共に見届けることのできなかった、この国のゆく末を―」
ジュチの手が力尽きたように地面に落ちた。縛められていては、その手を取ることもできない。
「ジュチ、いやーっ」
賢は絶叫した。ジュチを斬った護衛官が近づき、賢を縛めている鞭から解き放った。賢は急いでジュチの側に駆け寄り、その身体を抱きかかえた。
「ジュチ」
だが、幾ら呼んでも、ジュチが眼を開くことは二度となかった。震える手をジュチの口許に近づけると、既に息絶えていた。
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