秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ

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秘花78

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

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「とにかく、王妃殿に戻りましょう」
 崔尚宮に肩を抱かれるようにして、賢は王妃殿に戻った。居室に入った途端、賢はくずおれるようにその場に座り込んだ。
「崔尚宮、僕は殿下が怖い。僕が幾らいやだと言っても、僕に口づけたり身体中を弄り回したりするんだ。僕は、あんなことはされたくないのに、王妃だから、我慢しなければならないって言うんだよ。僕はなりたくて王妃になったんじゃない! いやだよ、怖い」
 懸命に取りなそうとする崔尚宮の言葉も賢には届かない。
「王妃さま、それは殿下の王妃さまへのご寵愛が深いからで―」
「そんなものは要らない。僕は触られたくないのに。あんな人、嫌いだ」
 もう、本当に昔の乾ではない。嫌らしげな眼でなめ回すように賢の身体を見るし、見るだけではなく、好き放題に弄ってくる。ジュチのときは全然厭ではなかった口付けもただ気持ち悪いだけだった。
 賢は乾を改めて怖いと思った。どんなことがあっても、もう王と二人きりにはならない。他の内官や尚宮たちがいる場所では、王も無体なふるまいはしないだろう。
 そう考えることで、賢はやっと自分を宥めることができたのだった。
 
 その九日後、王が南方視察に旅立つ前夜になった。即位後初めての本格的な視察とあり、国王の威厳を天下に遍く示すために、供回りの者たちも常よりは多くなることも公表された。
 いよいよ出立も明朝となり、宮殿内は何かと慌ただしい雰囲気で満たされている。遠方への視察とあり、明日の朝はまだ夜明け前に開京を発つことになっていた。そんな中、王妃殿だけは常と変わらず、ひっそりと静まり返っている。
 その夜、賢はいつものように夕餉の後は湯浴みを済ませた。湯上がりは自室で崔尚宮が寝支度を整えてくれるのも毎夜のことである。
 鏡に向かって座った賢の丈なす漆黒の髪は背中を流れ腰下まで届いている。その黒檀のように艶やかな髪を丁寧に梳り、うっすらと白粉を塗り深紅の紅を唇に刷いた。
「崔尚宮、もう寝るだけだから、化粧なんて要らないのに」
 いつもは寝化粧などしないのに、何故、今夜だけそんなことをされるのか理解できず、賢は丸い大きな瞳を崔尚宮に向けた。
「たまには、よろしいでしょう」
 崔尚宮は微笑んだ。賢は小首を傾げ、鏡に映り込んだ自分の顔を見つめた。
「それに、こんな派手な色は好きじゃないんだ。真っ赤だよ」
 良く言えば冬に咲く深紅の艶やかな椿のような色だけれど、賢には毒々しいほど派手な色合いに見える。
 崔尚宮は、これには何も言わず、うっすらと微笑んだだけだ。
 寝支度を終えた後、寝所に入る。寝台に座っていると、崔尚宮が盆を捧げ持ってきた。
「南の地方から王室に献上された柑橘茶だそうです。いかがですか?」
「南といえば、国王殿下は明日、視察に発たれるんだったね」
「え? は、はい」
 何故か崔尚宮のいつも落ち着いた面に一瞬、動揺が走ったように見えたのは勘違いだろうか。 
「道中、何事もなければ良いが」
 王位継承者がいない今、この国の未来は若い王にかかっている。王の身の安泰を願うのは高麗の民としての純粋な想いだった。
「供回りの者たちも腕利きの精鋭を揃えたそうですゆえ、いざとなれば殿下をお守りできましょう」
「そうだね。そなたの甥も伴に選ばれたのかい」
 崔尚宮の歳のあまり違わない甥は王を守る近衛隊の隊員だ。彼こそが王命によって、ジュチを殺したのである。だが、賢はあのときも今も崔尚宮の甥を恨んではいなかった。彼は王の命でやむなくジュチの生命を奪ったことを知っていたからだ。
 崔尚宮はそれ以上、王に関する話は続けず―というよりは、むしろ早く話題を変えたがっているように思える。それも考えれば、面妖なことだ。
 訝しく思いながらも、賢はそのことについて深く考えなかった。たとえ王命にせよ、甥が賢の恋人を斬殺したことを思えば、その話を賢の前でしたがらないのも不思議はない。
「柑橘茶? 酸っぱいのかな」
 どこかあどけない表情で問う賢から、崔尚宮は気まずげに視線を逸らした。
「そんなことはないと思います。とても美味しいと王族のご婦人方の間でも評判だそうですよ」
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