その筆で描かれた絵は女の匂いがした

志貴野ハル

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第1章

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 変わり映えのしない毎日になんとなく疲れて、いよいよ無理かもしれないと思った今この瞬間、職場の図書館の出入り口に一枚のポスターが貼られているのを見つけて、誠に単純ながら「あ、まだ大丈夫かもしれない」と思った。
 油絵画家、露崎涼成の展覧会。前回からもう二年が経つのか。
 早々に帰ろうとしていたことを忘れて、思わず足を止める。

 ポスターには髪をオールバックにして、艶やかな額とキリッとした鋭角の眉を剥き出しにした女性の顔がこちらを睨むように描かれていた。一昨年の、小動物を思わせる可愛らしい人とはまた正反対のエキゾチックな美女だ。今回はこの人がモデルだったのだろう。

 露崎涼成は、女性の裸婦画をメインに描く油性画家だ。二年に一度こうして個展を開き、書き溜めた絵を世に出している。
 露崎の名を世に知らしめたのは、彼の代名詞ともいえる裸婦画だった。およそ十年前、二十四歳で世界的に有名な絵画展で日本人として初めての賞を取り、それから画家としては珍しく長期に渡りメディアに取り上げられた。

 それはある昼のワイドショーに端を発する。
 「露崎の描く女性の表情はまるで情事の後のようだ」と、そのワイドショーで有名なコメンテーターが笑いながら言ったのだ。それを皮切りに、露崎のモデルに選ばれた女性は皆、彼のお手つきだと揶揄され、そのせいで彼の絵は百パーセントの賞賛から一転、文字通り賛否両論、猥褻物だと否定する者と高尚な芸術作品だと崇める者とで真っ二つに割れた。

 もちろん、私の中での評価は後者だ。
 高校一年の春、ニュースで彼の絵を知ったときの衝撃といったらない。公共の電波で発言したあのコメンテーターにはもっと場所を選ぶべきだったと苦言を言いたくなるが、「情事の後のように見える」は本当に的を射ていたと思う。だからと言って猥褻とは思えない。その言葉で片付けてしまえるほどの俗っぽさはなかった。

 例えていうなら天上人の秘め事を覗き見てしまったような、恐れ多くもなんとも言えない罪悪感に襲われるような感覚。油彩といえど女性の艶かしい表情を見るのはそれが初めてで、思春期の私の琴線に触れるどころかぶちぶちと引っこ抜いてきた。それ以降、私は露崎涼成の虜になった。

 ちなみに露崎は大衆の批判を嘲笑うように、その後四年間、同じ女性をモデルにして絵を描いて、今もなおモデルを二年ごとに替えては描き続けている。あの「情事の後のように見える」と揶揄される裸婦画を。
 露崎涼成が絵以外に凡庸であればきっとここまで言われなかった。そうなったのは、彼がモデル顔負けのビジュアルと長身を持っていたからかもしれない。二物を与えない神が贔屓しまくり、ありとあらゆる付加価値をつけて世に放たれたのが露崎涼成だった。


「あ、露崎だ。へえ、また個展開くんだ」

 このポスターを入手経路はどこかと思案していると、横から声をかけられた。

「大貫さん、お疲れ様です」

 振り向くと私の上司が立っていた。遅番で入った彼の手には通勤バッグではなく缶コーヒーが握られている。

「やぁ、お疲れ。高橋さんも好きなの、露崎涼成」
「はい、ベタですが十年前の『月下香』から」
「あれはすごかったよねぇ、猥褻物陳列罪になりうるかだっけ。え、待って、そのとき高橋さん、いくつ?」
「十六です。高校一年で。朝のニュースで初めて観てから。ミーハーですみません」
「はぁ、若いなぁ。俺は二十二だった」
「じゃあ露崎さんと歳が近いですね」
「あ、そうそう、さすがファン。よく知ってるね。でもさ、どんな騒がれ方してもこうして描きたいもの描いてコンスタントに個展開けてるんだから、やっぱり人気はあるよなぁ」
「そうですね」
「行くの? 個展」
「はい、もちろん。平日に有給取ってもいいですか? ゆっくり見たいから、土日だと混みそうで」
「ははっ、いいよ。じゃあ申請早めに出しておきなね。再来月ったらすぐだよ」
「ありがとうございます」
「それじゃお疲れ、気をつけて帰ってな」
「はい」

 ぺこりと頭を上げると大貫さんは颯爽とフロアの中へ戻っていった。入れ替わりで私の横を通り過ぎようとしていた女子高生二人組が「露崎だ」とポスターの前で足を止める。

「この町って、露崎で成り立ってるってマジなのかな」
「あーそれ、うちのお母さんも言ってた。展覧会開くたびにめちゃくちゃ寄付もしてくれるから、マジっぽいよね。去年、町役場が新しくなったのも露崎のおかげだって」
「すご、町長よりすご」

 そんな会話を耳にしながら職場を後にした。


 露崎涼成は五年前から母方の故郷であるこの町で、母方の実家である古いけれど立派な日本家屋をアトリエにして創作活動をしている。
 別の県に住んでいた私はその噂を聞きつけるとすぐに彼がいるこの町に飛んだ。もはや有名人ばりにプライバシーが筒抜けになっている彼のアトリエを探すのは簡単だった。

 寂れた無人駅から徒歩十五分歩いて見つけたアトリエは、黒い門扉と大人の男の人の身長くらいに高い塀で囲まれていて、中は見えなかったけどタバコの匂いがした。
 もしかしたらその塀の向こうに露崎がいると思うと、心臓が喉元まで迫り上がってきて耳から湯気が吹き出しそうなほど体中が熱くなって、目の奥がじわっと痛んで叫び出しそうになった。簡単にいえば嬉しさで発狂しかけた。私の崇拝する露崎(らしき人)が塀を隔てたすぐそこにいる……。

 そうして胸が焼け焦げるような想いを抱えて帰った私はあっさりと前職を辞め、露崎がいるであろうアトリエ近くのアパートに引っ越した。それから絶妙なタイミングで募集していた市役所の臨時職員に応募、採用され半年勤務し、今はそのつてでこの小さな町の図書館司書をしている。

 縁もゆかりもないこの町の住人になってご近所さんになれば、おのずと露崎に会えるかもしれないと期待を胸に秘めて三年目。今現在もそれは叶わずにいて、淡い期待を抱きながら毎朝、通勤途中に露崎のアトリエ前を通過している。時折漂ってくる本人のものかどうかもわからないタバコの匂いを嗅ぎながら。

 いくらファンでも、ここまでするのは私くらいだと思う。本当なら芸術家である露崎の創作の邪魔にならないよう、そっとしておくのが正しい。どのアイドルグループにも歌劇団にも暗黙のルールがあるように、抜け駆けは御法度だ。わかっている。でも私は認知されたい。名前を呼んでもらいたい。彼と目を見て話したい。
 特別な関係にならなくていい。そこまでは望まないから。
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