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第1章
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露崎涼成の展覧会は一番初めにこの町で開催され、それから都内を含む五つの主要都市を巡る。
小さな町とはいえ老若男女ファンの多い露崎だから、普段は寂れているこの町が展覧会の期間中は一気にお祭り状態になる。至る所で交通規制が敷かれ、市外、県外ナンバーの車が通り、臨時のシャトルバスまで手配される始末だ。
展覧会の初日と二日目は露崎の挨拶と抽選のサイン会があった。初日、あっさりと抽選漏れした私はせめて本物の彼を見れないかと小さな美術館の中で三時間粘った。
途中、今回の展覧会用に作られた図録を三冊購入し、人混みと空腹に敗れて離脱して、午後四時にもう一度入場する。閉館まであと一時間。午前中は盛況だったこの空間も、今は人がまばらだった。私含めて五人しかいない。残っているのは車で来た観光客か地元の人だろう。
「あと三十分で閉館となります」
今回のポスターにもなったメインである裸婦画を見上げてじっと立っていたら、美術館のスタッフに後ろから声をかけられた。
「……はい」
場所を移動しようと振り向くと「あれ、高山さん?」とさらに自分の名前を呼ばれた。
「え、あ、佐々木さん?」
目の前にいたのは露崎涼成の美術学校時代の後輩で、彼のマネージャーを務める佐々木洸太だった。十年前から露崎を追いかけていた私は、彼本人ではなくこの佐々木さんに認知されていた。
「やっぱり初日から来ると思ってた。サイン会にはいなかったね」
「……案の定、抽選に外れました」
「まぁそればっかりは運だからなぁ」
他のお客様の手前、声をひそめながら会話する。
「……今回もすごいですね」
「あぁ、これ?」
佐々木さんは手のひらを上向きにして裸婦画を指した。私の身長と同じくらいの高さがあるキャンバスに描かれたシーツに仰向けに横たわる裸の女性。触れられないように周りにはポールが立てられ、絵の両脇には仁王立ちの警備員が配置されている。これも主要都市を周った後オークションにかけられるのだろう。
「前回と違ってなんていうか、このまま近づいたら噛みちぎられそうというか」
「相変わらず独特な感想だね」
「露崎さんの絵を前にするとIQが下がるんです。本当はすごく好きなのに。すみません」
「本人が聞いたら喜ぶよ」
「でも今回も会えませんでした。直接伝えたかったなぁ。あ、でも露崎さんの絵は大好きだから、ここで見れるうちは何度でも足を運びます」
この町にいれば簡単に会えると思っていたのに思惑が外れた。ため息混じりに絵を見上げて自嘲する。三冊の図録が入った紙袋の持ち手が腕に食い込んで痛い。もう八時間近く持っている。
佐々木さんがくすりと笑った。私の隣に一歩踏み込んで近づいてきて内緒話をするように少し背を折り曲げる。
「……高山さん、この後少し時間ある?」
「え、はい」
「じゃあ一度ここを出たらエントランスで待っててくれる?」
「……わ、わかりました……」
驚くほど近くに顔があったものだから半歩下がって了承すると、「それじゃ」と佐々木さんは会場を出て行った。なんだろう、まさか、露崎涼成に会えるのだろうか……。
佐々木さんが出て行った会場をぐるりと見渡す。私の他にいた客は一様に絵を眺めていた。——よかった、さっきの会話は聞こえていないみたいだ。
人がいなくなってからの方ががいいだろうかとギャラリーが無人になるまで待ってからエントランスへ向かうと、インフォメーションセンターの横にはすでに佐々木さんが立っていた。慌てて駆け寄り声をかける。
「すみません、遅くなりました」
「いいえ、じゃあこれ、首から下げてください」
「スタッフ」とだけ書かれたネームタグを手渡される。すでに心臓が飛び出しそうなくらい動悸がうるさくて、喉も唇もからからに乾いている。
「行きましょうか」
水分補給の時間もないまま、インフォメーションセンターの隣にある真っ白なドアをくぐる。白を基調とした美術館の中とは違い、そこはグレーのリノリウムがまっすぐ続いていた。木目の壁につけられた「控え室」のプレートを横目で見ながら佐々木さんの後を追う。
長年の夢が現実になっていく。歩きながら水分補給よりもまず先にメイクを直しておけばよかったと後悔した。最後に鏡を見たのは昼食を済ませてお手洗いに立ったときだ。あれから四時間は経っている。顔、大丈夫だろうか。メイクは溶けてないだろうか。
気もそぞろになりつつ突き当たりを左に曲がると右手に白いドアが三つ並んでいた。その一番手前、「控え室A」と書かれたドアを佐々木さんがノックする。数秒間を置いて、「はーい」と低く平坦な声が聞こえた。テレビでしか聞いたことのない声に、ビリッと背中に電流が走る。いよいよ口から心臓が出そうだ。
「涼成さん、入るよ」
佐々木さんの手でゆっくりとドアが開かれる。「先にどうぞ」と促されて入ったその中央には会議で使われるような長テーブルがあって、真ん中に露崎涼成が座っていた。今まで何か描いていたのか、顔を上げた彼は手元のクロッキー帳をそっと閉じると首を傾げた。
「……ん?」
「…………」
声が、出ない。六畳ワンルームの自分の部屋よりも広いこの空間に、本物の露崎涼成がいる。白いワイシャツの袖を捲り上げて鉛筆を握っている。
「高山さん、大丈夫? もう少し前行ける?」
背後から聞こえる佐々木さんの声が膜がかったように聞こえる。動きたくても床に靴底が張り付いたようになって動かせない。膝も曲がらない。後ろから押してほしい。
「あれ、大丈夫?」
露崎涼成がイスから立ち上がった。困惑した表情でどんどん近づいてくる。この状況下でも私の体は硬直し切っていて、目だけが迫ってくる露崎涼成を捉えていた。視界が白いワイシャツでいっぱいになる。
「ほら、通れないって」
露崎涼成の声が頭上に降ってきてつかまれた両肩を引き寄せられる。バランスを崩した石像みたいな私は露崎涼成の胸に額をぶつけてしまった。タバコの匂いに混ざってウッディ調のいい匂いがする。
「……っあ」
絶命寸前の生き物みたいな声が出た。消えたい。
小さな町とはいえ老若男女ファンの多い露崎だから、普段は寂れているこの町が展覧会の期間中は一気にお祭り状態になる。至る所で交通規制が敷かれ、市外、県外ナンバーの車が通り、臨時のシャトルバスまで手配される始末だ。
展覧会の初日と二日目は露崎の挨拶と抽選のサイン会があった。初日、あっさりと抽選漏れした私はせめて本物の彼を見れないかと小さな美術館の中で三時間粘った。
途中、今回の展覧会用に作られた図録を三冊購入し、人混みと空腹に敗れて離脱して、午後四時にもう一度入場する。閉館まであと一時間。午前中は盛況だったこの空間も、今は人がまばらだった。私含めて五人しかいない。残っているのは車で来た観光客か地元の人だろう。
「あと三十分で閉館となります」
今回のポスターにもなったメインである裸婦画を見上げてじっと立っていたら、美術館のスタッフに後ろから声をかけられた。
「……はい」
場所を移動しようと振り向くと「あれ、高山さん?」とさらに自分の名前を呼ばれた。
「え、あ、佐々木さん?」
目の前にいたのは露崎涼成の美術学校時代の後輩で、彼のマネージャーを務める佐々木洸太だった。十年前から露崎を追いかけていた私は、彼本人ではなくこの佐々木さんに認知されていた。
「やっぱり初日から来ると思ってた。サイン会にはいなかったね」
「……案の定、抽選に外れました」
「まぁそればっかりは運だからなぁ」
他のお客様の手前、声をひそめながら会話する。
「……今回もすごいですね」
「あぁ、これ?」
佐々木さんは手のひらを上向きにして裸婦画を指した。私の身長と同じくらいの高さがあるキャンバスに描かれたシーツに仰向けに横たわる裸の女性。触れられないように周りにはポールが立てられ、絵の両脇には仁王立ちの警備員が配置されている。これも主要都市を周った後オークションにかけられるのだろう。
「前回と違ってなんていうか、このまま近づいたら噛みちぎられそうというか」
「相変わらず独特な感想だね」
「露崎さんの絵を前にするとIQが下がるんです。本当はすごく好きなのに。すみません」
「本人が聞いたら喜ぶよ」
「でも今回も会えませんでした。直接伝えたかったなぁ。あ、でも露崎さんの絵は大好きだから、ここで見れるうちは何度でも足を運びます」
この町にいれば簡単に会えると思っていたのに思惑が外れた。ため息混じりに絵を見上げて自嘲する。三冊の図録が入った紙袋の持ち手が腕に食い込んで痛い。もう八時間近く持っている。
佐々木さんがくすりと笑った。私の隣に一歩踏み込んで近づいてきて内緒話をするように少し背を折り曲げる。
「……高山さん、この後少し時間ある?」
「え、はい」
「じゃあ一度ここを出たらエントランスで待っててくれる?」
「……わ、わかりました……」
驚くほど近くに顔があったものだから半歩下がって了承すると、「それじゃ」と佐々木さんは会場を出て行った。なんだろう、まさか、露崎涼成に会えるのだろうか……。
佐々木さんが出て行った会場をぐるりと見渡す。私の他にいた客は一様に絵を眺めていた。——よかった、さっきの会話は聞こえていないみたいだ。
人がいなくなってからの方ががいいだろうかとギャラリーが無人になるまで待ってからエントランスへ向かうと、インフォメーションセンターの横にはすでに佐々木さんが立っていた。慌てて駆け寄り声をかける。
「すみません、遅くなりました」
「いいえ、じゃあこれ、首から下げてください」
「スタッフ」とだけ書かれたネームタグを手渡される。すでに心臓が飛び出しそうなくらい動悸がうるさくて、喉も唇もからからに乾いている。
「行きましょうか」
水分補給の時間もないまま、インフォメーションセンターの隣にある真っ白なドアをくぐる。白を基調とした美術館の中とは違い、そこはグレーのリノリウムがまっすぐ続いていた。木目の壁につけられた「控え室」のプレートを横目で見ながら佐々木さんの後を追う。
長年の夢が現実になっていく。歩きながら水分補給よりもまず先にメイクを直しておけばよかったと後悔した。最後に鏡を見たのは昼食を済ませてお手洗いに立ったときだ。あれから四時間は経っている。顔、大丈夫だろうか。メイクは溶けてないだろうか。
気もそぞろになりつつ突き当たりを左に曲がると右手に白いドアが三つ並んでいた。その一番手前、「控え室A」と書かれたドアを佐々木さんがノックする。数秒間を置いて、「はーい」と低く平坦な声が聞こえた。テレビでしか聞いたことのない声に、ビリッと背中に電流が走る。いよいよ口から心臓が出そうだ。
「涼成さん、入るよ」
佐々木さんの手でゆっくりとドアが開かれる。「先にどうぞ」と促されて入ったその中央には会議で使われるような長テーブルがあって、真ん中に露崎涼成が座っていた。今まで何か描いていたのか、顔を上げた彼は手元のクロッキー帳をそっと閉じると首を傾げた。
「……ん?」
「…………」
声が、出ない。六畳ワンルームの自分の部屋よりも広いこの空間に、本物の露崎涼成がいる。白いワイシャツの袖を捲り上げて鉛筆を握っている。
「高山さん、大丈夫? もう少し前行ける?」
背後から聞こえる佐々木さんの声が膜がかったように聞こえる。動きたくても床に靴底が張り付いたようになって動かせない。膝も曲がらない。後ろから押してほしい。
「あれ、大丈夫?」
露崎涼成がイスから立ち上がった。困惑した表情でどんどん近づいてくる。この状況下でも私の体は硬直し切っていて、目だけが迫ってくる露崎涼成を捉えていた。視界が白いワイシャツでいっぱいになる。
「ほら、通れないって」
露崎涼成の声が頭上に降ってきてつかまれた両肩を引き寄せられる。バランスを崩した石像みたいな私は露崎涼成の胸に額をぶつけてしまった。タバコの匂いに混ざってウッディ調のいい匂いがする。
「……っあ」
絶命寸前の生き物みたいな声が出た。消えたい。
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