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第2部 ハウス・デュマー
17.時の素量
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甘い匂いが俺を包みこんでいる。刺すような、あるいは鈍い痛みを体のあちこちに感じるのに、それを覆い隠すような甘美な感覚にぼうっとする。温かい水の中にいるようだ。ちらちらときれいな光がまたたく。
夢をみているのだと俺は思う。ずっとこの中に居続けたかった。もっとこの温もりに触れていたい。ぴったりと噛み合わさるように、この匂いに重なっていたい。
「サエ」
ささやき声を聞く。その響きに俺はうっとりする。
「サエ、着いた」
風がふわっと首のうしろをなで、俺は眼をあけてはっとする。藤野谷の顔がすぐ上にある。俺はその胸に顔を埋めてしがみつくような姿勢でいる。うなじに藤野谷の吐息がかかるのを意識したとたん、体の奥がぱっと熱くなった。
あわてている俺をよそに藤野谷は両腕をがっちり俺の腰にまわしていた。脇腹と足首があいかわらず痛む。
「藤野谷、離してくれ」
「病院のスタッフが来ます」
運転席の男がいった。
ドアが開くのと同時に淡色のユニフォームを着たスタッフがやってきた。土曜の夜なのに変な話だと、俺はあいかわらずぼんやりした頭で思った。車が止まっているのは正面ではなく、裏の出入り口のようだ。車椅子が用意され、あれよあれよという間に俺は中へ運ばれた。
思いのほか広範囲にわたった擦り傷を水でじゃぶじゃぶ洗われたり、あそこが痛いかここが痛いかと突かれたりしたあげく、やっと俺の頭は回転しはじめた。怪我は左の肋骨一本が折れていたものの、他に異常はなく手術もいらないという。
絆創膏やシップをぺたぺた貼られ、サポーターで足首や胸の周辺を締めあげられた。処置がおわると、歩けるといったにもかかわらずまた車椅子へ座らされ、スタッフの手で長い廊下とエレベーターをたどって、病院というより豪華なホテルのように見える廊下へ連れ出された。
「ここです」
運転席にいた男が扉の前に立っている。たしか渡来と呼ばれていた。部屋の中も病室ではなく、豪華なホテルのようだった。間接照明でぼんやり照らされ、カーテンの外は暗い夜で、影が立ち上がる。
「サエ」
呼ばれる前から俺には誰なのかわかっていた。渡来が車椅子を押して中に入れ、扉を閉めた。
「ここは……」
誰にともなくたずねると渡来が答えた。
「入院中の親族を見舞ったり長期療養するための部屋です。藤野谷家が維持しているものですからお気遣いなく、ホテルだと思って何日でも滞在してください。パジャマやタオルもありますし、あちらが浴室です」
「困ります。帰れますから」
車椅子に座ったまま反射運動のように俺はいった。たしかにあちこち痛いし、足首の捻挫は面倒だが、手取り足取り世話をやかれるような怪我ではない。モバイルも持っていないし、早く家に帰りたかった。
「タクシーを呼んでもらえれば――」
「もう深夜です。少なくとも今晩は泊りなさい。明日服もみつくろってきますから。医療タグの緊急連絡先には病院から連絡が行きました」
渡来は祖父の銀星を思わせる貫禄ある口ぶりで話す。そういえば俺のジャージやパンツは擦れて無残な有様になっている。それでも俺はいいつのる。
「俺のロードバイク……」
藤野谷が車椅子の前にかがみこんだ。唇を俺の指に触れそうなくらい近づけて、声は小さく、奥の方から息を吐き出すように響いた。
「サエ、今日はここで寝てくれ。頼む」
背筋にぞくっと甘いふるえが走る。追い詰められたように胸の内側がしめつけられた。
「わかったけど、藤野谷……」
俺はいいかけて、ためらった。
「なに?」
「必要なものがある」
「何でも。渡来さんが調達してくれる」
いざ口に出そうとすると途方もない羞恥におそわれた。峡や加賀美なら平気だ。でも藤野谷本人にこんなことを頼むなんて……。
「サエ?」
「……緩和剤が欲しい。ヒートの」
俺は小さくつぶやく。藤野谷の表情をみたくなくて、顔をそむけた。
「着替えさせてくれ」
渡来は長年藤野谷家の執事として働いていて、今は藤野谷の個人的なアドバイザーなのだという。ヒートの緩和剤は処方箋がないと買えないのだが、彼はどこからか手に入れてきて、藤野谷と小声で話してから出て行った。
視線を感じてみあげると、藤野谷は俺がアンプルを打つ様子をみつめている。俺としては見るなといいたかったが、いちいち話す気力はなかった。
俺の場合、緩和剤の効き目はいつも同じではない。よく効く時もあるが、たいていはすこしだけヒートの期間が短くなるとか、いくぶん辛さが減る程度だった。打つタイミングや体調によってはほとんど効かないこともあるから、最終的にはヒートの気配を感じた時のお守りのようなものだ。
そもそも抑制剤と中和剤のコンビがうまく機能していれば緩和剤などいらなかった。大学を出てからは、藤野谷に再会するまでほぼ不要だったのだ。
絆創膏やサポーターのおかげで風呂に入れないので、濡れタオルで体を拭くだけにした。バスルームの窓から見下ろすと、地上の明かりがかなり下に見える。時間をかけすぎたせいか、途中で藤野谷がドアを叩いてくる。
「サエ? 大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
緩和剤は多少効いているようだった。といっても皮膚全体が膜で覆われたようにもどかしく、熱いものが内側でせきとめられているような感触があり、落ち着かない。いつまで藤野谷はこの部屋にいるのだろうか。バスルームの扉を閉めているのに、気を抜くと甘い匂いに意識を持っていかれそうになる。
俺は備え付けのパジャマを着て、サポータでぐるぐるまきにした足首をひきずりながらベッドまで歩いた。入院する必要もない軽傷なのにこんな部屋を用意してくるのがさすが名族の藤野谷家だった。部屋はジュニアスイートで、V字型のバスルームを挟んでリビングスペースとベッドスペースがある。ベッドはクイーンサイズがひとつ。
擦り傷も骨折も打撲も面白いくらい左側だけで、右側からベッドに腰をおろす。背板にもたれると脇腹の痛みが薄れてほっとした。折れた肋骨には手術はいらないが、サポーターで支えながらくっつくのを待つしかないらしい。
「軽食を取った」
藤野谷がサンドイッチの皿をサイドテーブルに乗せる。そういえば今夜はキノネでナッツをつまんでアイリッシュコーヒーを飲んだだけだ。
俺は今日の昼と午後に思いをめぐらし、突然加賀美のことを思い出した。彼のことだ。送ったメッセージに返事をよこしているだろう。肋骨を折ったなどといえばさぞかし心配するにちがいない。
「水、ある?」
藤野谷は立とうとした俺を制してボトルの水を取ってくれた。俺は栓をあけてごくごく飲み、自分の喉が渇いていたことに気づいた。半分以上ボトルを空にして息をつくと、小さな三角に切ったサンドイッチが眼のまえに差し出されている。
「サーモン。平気?」
藤野谷がたずねた。
うなずいて受け取ろうとすると、藤野谷は俺の口元へ直接サンドイッチを運んできた。俺は右手を突き出してそれを阻む。前も似たようなことがあった気がする。
「やめろよ」
藤野谷は眉をひそめて皿を置いた。ベッドの端に腰かける。俺はサンドイッチを齧ったが、一切れ飲みこむのが精一杯だった。緊張が激しくて食べ物どころではない。
水のボトルを空にしてテーブルに置く。時間を巻き戻してしまえればいいと思った。眠って目が覚めると昨日の朝に戻っているのならどれだけいいだろう。でなければそれよりももっと前、何年も前まで……。
ふたりともそのまましばらく無言だった。
この部屋が静かすぎるので、俺の耳に藤野谷の呼吸や心臓の音まで聞こえそうだ。俺の体はベッドの背もたれをずるずると下がった。痛む左側を上にして横になる。
それでもさっきから気になっていた一点だけは確かめておきたかった。
「天、今日はどうしてあんなにタイミングよく俺を拾ったんだ?」
間接照明とベッドランプのせいで、藤野谷の顔は影にくぼんでみえた。
「渡来さんがハウスでサエ……らしき人物を目撃して俺に連絡をくれた。合流してあのカフェへ行ったら、サエが帰った後だった。追いついて――どうするつもりだったのかは俺にもわからない」
「どうしてハウスに」と俺は問いかけたが、藤野谷はまだ話の途中だったらしい。
「ここ二週間くらい、彼に調べてもらっていた。俺が前にハウスですれ違った……オメガや、サエの周辺についてね。うちのグループはハウス・デュマーのシステム開発に関わっているから都合がよかった。……客観的に見てやっぱりストーカーだな。俺は」
「キノネのマスターが、おまえがときどきカフェに来たといってた」
「まあね」
「なぜ」
藤野谷は体をずらしたようだ。マットレスが揺れる。
「近くにいないとまたサエがどこかへ行ってしまうと思った」
俺は黙っていた。実際にそれを考えていたなどといえるはずもない。藤野谷は俺の沈黙をどう思ったのだろう。俺が考えてもみなかったことをいった。
「三波には謝ったよ。ハウスで俺は……コントロールできなくてね。発情を」
またマットレスが揺れた。藤野谷の匂いが近くなった気がした。
「俺は……少なくとも今はもっと、ましだと思ってたんだが」
「ましって……何とくらべて」
俺は聞かずにはいられなかった。藤野谷の答えは短かった。
「祖父や父」
藤野谷が何の話をしているのか、俺はつっこんで聞くべきなのだろうか。何となくそれはためらわれた。彼の母親の話と同様に、家族について俺は数えるほどしか聞いたことがない。ただ祖父の藤野谷天青は、佐枝、それに佐井の家で悪名を馳せてはいる。
「いつから?」
藤野谷がいきなりたずねた。
「何が?」と俺はきき返す。
「偽装パッチ」
疲労が背中からにじみ出て腰まで溜まっていくような気がした。寝返りをうつと脇腹が痛むが、同じ姿勢でいるのも疲れるのだ。俺はゆっくり息を吐きながらあおむけになった。
「……子供のころから」と、目を閉じて答えた。
「保護プログラムで処方されたもので、物心ついたときはもう、そうなってた」
「……アートキャンプのときも?」
「そう」
「保護プログラムは藤野谷家のせいか……?」
「そうだな」
俺はため息をつく。藤野谷の声は頭のずっと上の方から響いてくるようなのに、彼の匂いは俺のすぐ近くに感じられて、焦りと安心を同時におぼえた。この感覚には覚えがあった。大学の頃、藤野谷が近くにいるときはいつもこうだった。
「おまえのじいさんの天青が、葉月の一件からずっと佐井家を脅迫していたから、うちはみんな疑心暗鬼だったんだ。アルファの名族は昔からオメガ系の子供を囲いこんできたし、葉月をとられて、この上もし俺までって……俺がアルファでなかったのはまだましだったけど、名族がオメガを奪って自分の家のアルファとつがわせるのは常套手段だったし、俺が生まれた時は……制度はあっても、まだ今みたいな社会じゃなかったし」
「葉月か」
遠くで藤野谷はぽつんとつぶやいた。雨だれがおちるようだった。
「高校の時の転校は?」と重ねてたずねた。
「あれは最初からその予定だった。一年で変わって……俺は転校先ではベータ偽装の処置をやめて、オメガとしてやっていくはずだった」
「でも大学で会った時も、サエはベータのふりをしていた」
そうだったな、と俺はぼんやりふりかえる。ベータの偽装を続けていたおかげで、俺はありがたくも運命に真正面から向き合わずにすんだのだ。もし大学でオメガの俺と再会していたら、おまえはどう思っただろう? 俺の絵、俺の作品をどう思っただろう?
しだいに眠気が俺の頭を覆いつつあった。何もかもだるく、どうでもいい事のような気がした。いまさら何をどう取り繕っても、藤野谷と出会って十何年かのことは変わらないのだ。
俺は目を閉じたままいった。
「天、俺を許さなくていいよ」
「サエ」
「おまえに嘘をついていたこと」
どこかで長くほそい息が吐きだされた。背中の方のマットレスに重みがかかり、藤野谷の匂いがもっと近くなる。押し殺したような響きが聞こえる。俺が好きな藤野谷の声、自信があって明快な声とはちがう響きだ。
「許すとか許さないとか……そんなのじゃない」
喉はもう乾いていないのに、口の中がひきつった。俺は唾を飲みこんでいう。
「俺がほんとうにベータだったら、たぶんおまえに応えていた」
「でもそれは俺と藤野谷家のせいだ」そう返した藤野谷の声はほとんどしわがれていた。
「サエ、俺はおまえが何であってもいいんだ。ほんとうに」
ほんとうに。
口にするだけならなんて簡単な言葉だろう。長いあいだ嘘をつき続けて、俺には何もかもがよくわからない。自分の心ですらよくわからないのだ。
ため息というのはこんな時に自然に出てしまうものだと、俺は不思議と納得する。藤野谷の手が目を閉じている俺のひたいに触れ、髪を撫でている。何度も、繰り返して。
手のひらの温度で、もう何も考えられないくらい、俺の疲労と眠気は深くなる。
「天。俺には自信がない」
藤野谷の手は一瞬止まって、また動きつづけた。眠りという逃げ道に誘いこまれ、俺の意識は遠くなった。
夢をみているのだと俺は思う。ずっとこの中に居続けたかった。もっとこの温もりに触れていたい。ぴったりと噛み合わさるように、この匂いに重なっていたい。
「サエ」
ささやき声を聞く。その響きに俺はうっとりする。
「サエ、着いた」
風がふわっと首のうしろをなで、俺は眼をあけてはっとする。藤野谷の顔がすぐ上にある。俺はその胸に顔を埋めてしがみつくような姿勢でいる。うなじに藤野谷の吐息がかかるのを意識したとたん、体の奥がぱっと熱くなった。
あわてている俺をよそに藤野谷は両腕をがっちり俺の腰にまわしていた。脇腹と足首があいかわらず痛む。
「藤野谷、離してくれ」
「病院のスタッフが来ます」
運転席の男がいった。
ドアが開くのと同時に淡色のユニフォームを着たスタッフがやってきた。土曜の夜なのに変な話だと、俺はあいかわらずぼんやりした頭で思った。車が止まっているのは正面ではなく、裏の出入り口のようだ。車椅子が用意され、あれよあれよという間に俺は中へ運ばれた。
思いのほか広範囲にわたった擦り傷を水でじゃぶじゃぶ洗われたり、あそこが痛いかここが痛いかと突かれたりしたあげく、やっと俺の頭は回転しはじめた。怪我は左の肋骨一本が折れていたものの、他に異常はなく手術もいらないという。
絆創膏やシップをぺたぺた貼られ、サポーターで足首や胸の周辺を締めあげられた。処置がおわると、歩けるといったにもかかわらずまた車椅子へ座らされ、スタッフの手で長い廊下とエレベーターをたどって、病院というより豪華なホテルのように見える廊下へ連れ出された。
「ここです」
運転席にいた男が扉の前に立っている。たしか渡来と呼ばれていた。部屋の中も病室ではなく、豪華なホテルのようだった。間接照明でぼんやり照らされ、カーテンの外は暗い夜で、影が立ち上がる。
「サエ」
呼ばれる前から俺には誰なのかわかっていた。渡来が車椅子を押して中に入れ、扉を閉めた。
「ここは……」
誰にともなくたずねると渡来が答えた。
「入院中の親族を見舞ったり長期療養するための部屋です。藤野谷家が維持しているものですからお気遣いなく、ホテルだと思って何日でも滞在してください。パジャマやタオルもありますし、あちらが浴室です」
「困ります。帰れますから」
車椅子に座ったまま反射運動のように俺はいった。たしかにあちこち痛いし、足首の捻挫は面倒だが、手取り足取り世話をやかれるような怪我ではない。モバイルも持っていないし、早く家に帰りたかった。
「タクシーを呼んでもらえれば――」
「もう深夜です。少なくとも今晩は泊りなさい。明日服もみつくろってきますから。医療タグの緊急連絡先には病院から連絡が行きました」
渡来は祖父の銀星を思わせる貫禄ある口ぶりで話す。そういえば俺のジャージやパンツは擦れて無残な有様になっている。それでも俺はいいつのる。
「俺のロードバイク……」
藤野谷が車椅子の前にかがみこんだ。唇を俺の指に触れそうなくらい近づけて、声は小さく、奥の方から息を吐き出すように響いた。
「サエ、今日はここで寝てくれ。頼む」
背筋にぞくっと甘いふるえが走る。追い詰められたように胸の内側がしめつけられた。
「わかったけど、藤野谷……」
俺はいいかけて、ためらった。
「なに?」
「必要なものがある」
「何でも。渡来さんが調達してくれる」
いざ口に出そうとすると途方もない羞恥におそわれた。峡や加賀美なら平気だ。でも藤野谷本人にこんなことを頼むなんて……。
「サエ?」
「……緩和剤が欲しい。ヒートの」
俺は小さくつぶやく。藤野谷の表情をみたくなくて、顔をそむけた。
「着替えさせてくれ」
渡来は長年藤野谷家の執事として働いていて、今は藤野谷の個人的なアドバイザーなのだという。ヒートの緩和剤は処方箋がないと買えないのだが、彼はどこからか手に入れてきて、藤野谷と小声で話してから出て行った。
視線を感じてみあげると、藤野谷は俺がアンプルを打つ様子をみつめている。俺としては見るなといいたかったが、いちいち話す気力はなかった。
俺の場合、緩和剤の効き目はいつも同じではない。よく効く時もあるが、たいていはすこしだけヒートの期間が短くなるとか、いくぶん辛さが減る程度だった。打つタイミングや体調によってはほとんど効かないこともあるから、最終的にはヒートの気配を感じた時のお守りのようなものだ。
そもそも抑制剤と中和剤のコンビがうまく機能していれば緩和剤などいらなかった。大学を出てからは、藤野谷に再会するまでほぼ不要だったのだ。
絆創膏やサポーターのおかげで風呂に入れないので、濡れタオルで体を拭くだけにした。バスルームの窓から見下ろすと、地上の明かりがかなり下に見える。時間をかけすぎたせいか、途中で藤野谷がドアを叩いてくる。
「サエ? 大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
緩和剤は多少効いているようだった。といっても皮膚全体が膜で覆われたようにもどかしく、熱いものが内側でせきとめられているような感触があり、落ち着かない。いつまで藤野谷はこの部屋にいるのだろうか。バスルームの扉を閉めているのに、気を抜くと甘い匂いに意識を持っていかれそうになる。
俺は備え付けのパジャマを着て、サポータでぐるぐるまきにした足首をひきずりながらベッドまで歩いた。入院する必要もない軽傷なのにこんな部屋を用意してくるのがさすが名族の藤野谷家だった。部屋はジュニアスイートで、V字型のバスルームを挟んでリビングスペースとベッドスペースがある。ベッドはクイーンサイズがひとつ。
擦り傷も骨折も打撲も面白いくらい左側だけで、右側からベッドに腰をおろす。背板にもたれると脇腹の痛みが薄れてほっとした。折れた肋骨には手術はいらないが、サポーターで支えながらくっつくのを待つしかないらしい。
「軽食を取った」
藤野谷がサンドイッチの皿をサイドテーブルに乗せる。そういえば今夜はキノネでナッツをつまんでアイリッシュコーヒーを飲んだだけだ。
俺は今日の昼と午後に思いをめぐらし、突然加賀美のことを思い出した。彼のことだ。送ったメッセージに返事をよこしているだろう。肋骨を折ったなどといえばさぞかし心配するにちがいない。
「水、ある?」
藤野谷は立とうとした俺を制してボトルの水を取ってくれた。俺は栓をあけてごくごく飲み、自分の喉が渇いていたことに気づいた。半分以上ボトルを空にして息をつくと、小さな三角に切ったサンドイッチが眼のまえに差し出されている。
「サーモン。平気?」
藤野谷がたずねた。
うなずいて受け取ろうとすると、藤野谷は俺の口元へ直接サンドイッチを運んできた。俺は右手を突き出してそれを阻む。前も似たようなことがあった気がする。
「やめろよ」
藤野谷は眉をひそめて皿を置いた。ベッドの端に腰かける。俺はサンドイッチを齧ったが、一切れ飲みこむのが精一杯だった。緊張が激しくて食べ物どころではない。
水のボトルを空にしてテーブルに置く。時間を巻き戻してしまえればいいと思った。眠って目が覚めると昨日の朝に戻っているのならどれだけいいだろう。でなければそれよりももっと前、何年も前まで……。
ふたりともそのまましばらく無言だった。
この部屋が静かすぎるので、俺の耳に藤野谷の呼吸や心臓の音まで聞こえそうだ。俺の体はベッドの背もたれをずるずると下がった。痛む左側を上にして横になる。
それでもさっきから気になっていた一点だけは確かめておきたかった。
「天、今日はどうしてあんなにタイミングよく俺を拾ったんだ?」
間接照明とベッドランプのせいで、藤野谷の顔は影にくぼんでみえた。
「渡来さんがハウスでサエ……らしき人物を目撃して俺に連絡をくれた。合流してあのカフェへ行ったら、サエが帰った後だった。追いついて――どうするつもりだったのかは俺にもわからない」
「どうしてハウスに」と俺は問いかけたが、藤野谷はまだ話の途中だったらしい。
「ここ二週間くらい、彼に調べてもらっていた。俺が前にハウスですれ違った……オメガや、サエの周辺についてね。うちのグループはハウス・デュマーのシステム開発に関わっているから都合がよかった。……客観的に見てやっぱりストーカーだな。俺は」
「キノネのマスターが、おまえがときどきカフェに来たといってた」
「まあね」
「なぜ」
藤野谷は体をずらしたようだ。マットレスが揺れる。
「近くにいないとまたサエがどこかへ行ってしまうと思った」
俺は黙っていた。実際にそれを考えていたなどといえるはずもない。藤野谷は俺の沈黙をどう思ったのだろう。俺が考えてもみなかったことをいった。
「三波には謝ったよ。ハウスで俺は……コントロールできなくてね。発情を」
またマットレスが揺れた。藤野谷の匂いが近くなった気がした。
「俺は……少なくとも今はもっと、ましだと思ってたんだが」
「ましって……何とくらべて」
俺は聞かずにはいられなかった。藤野谷の答えは短かった。
「祖父や父」
藤野谷が何の話をしているのか、俺はつっこんで聞くべきなのだろうか。何となくそれはためらわれた。彼の母親の話と同様に、家族について俺は数えるほどしか聞いたことがない。ただ祖父の藤野谷天青は、佐枝、それに佐井の家で悪名を馳せてはいる。
「いつから?」
藤野谷がいきなりたずねた。
「何が?」と俺はきき返す。
「偽装パッチ」
疲労が背中からにじみ出て腰まで溜まっていくような気がした。寝返りをうつと脇腹が痛むが、同じ姿勢でいるのも疲れるのだ。俺はゆっくり息を吐きながらあおむけになった。
「……子供のころから」と、目を閉じて答えた。
「保護プログラムで処方されたもので、物心ついたときはもう、そうなってた」
「……アートキャンプのときも?」
「そう」
「保護プログラムは藤野谷家のせいか……?」
「そうだな」
俺はため息をつく。藤野谷の声は頭のずっと上の方から響いてくるようなのに、彼の匂いは俺のすぐ近くに感じられて、焦りと安心を同時におぼえた。この感覚には覚えがあった。大学の頃、藤野谷が近くにいるときはいつもこうだった。
「おまえのじいさんの天青が、葉月の一件からずっと佐井家を脅迫していたから、うちはみんな疑心暗鬼だったんだ。アルファの名族は昔からオメガ系の子供を囲いこんできたし、葉月をとられて、この上もし俺までって……俺がアルファでなかったのはまだましだったけど、名族がオメガを奪って自分の家のアルファとつがわせるのは常套手段だったし、俺が生まれた時は……制度はあっても、まだ今みたいな社会じゃなかったし」
「葉月か」
遠くで藤野谷はぽつんとつぶやいた。雨だれがおちるようだった。
「高校の時の転校は?」と重ねてたずねた。
「あれは最初からその予定だった。一年で変わって……俺は転校先ではベータ偽装の処置をやめて、オメガとしてやっていくはずだった」
「でも大学で会った時も、サエはベータのふりをしていた」
そうだったな、と俺はぼんやりふりかえる。ベータの偽装を続けていたおかげで、俺はありがたくも運命に真正面から向き合わずにすんだのだ。もし大学でオメガの俺と再会していたら、おまえはどう思っただろう? 俺の絵、俺の作品をどう思っただろう?
しだいに眠気が俺の頭を覆いつつあった。何もかもだるく、どうでもいい事のような気がした。いまさら何をどう取り繕っても、藤野谷と出会って十何年かのことは変わらないのだ。
俺は目を閉じたままいった。
「天、俺を許さなくていいよ」
「サエ」
「おまえに嘘をついていたこと」
どこかで長くほそい息が吐きだされた。背中の方のマットレスに重みがかかり、藤野谷の匂いがもっと近くなる。押し殺したような響きが聞こえる。俺が好きな藤野谷の声、自信があって明快な声とはちがう響きだ。
「許すとか許さないとか……そんなのじゃない」
喉はもう乾いていないのに、口の中がひきつった。俺は唾を飲みこんでいう。
「俺がほんとうにベータだったら、たぶんおまえに応えていた」
「でもそれは俺と藤野谷家のせいだ」そう返した藤野谷の声はほとんどしわがれていた。
「サエ、俺はおまえが何であってもいいんだ。ほんとうに」
ほんとうに。
口にするだけならなんて簡単な言葉だろう。長いあいだ嘘をつき続けて、俺には何もかもがよくわからない。自分の心ですらよくわからないのだ。
ため息というのはこんな時に自然に出てしまうものだと、俺は不思議と納得する。藤野谷の手が目を閉じている俺のひたいに触れ、髪を撫でている。何度も、繰り返して。
手のひらの温度で、もう何も考えられないくらい、俺の疲労と眠気は深くなる。
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