まばゆいほどに深い闇(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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幕間2

格子の呪縛―藍晶(後編)

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 その日屋敷の離れで何が起きているのか、彼にはうすうす見当がついていた。屋敷中に奇妙な雰囲気が漂っていた。父までなぜかそわそわして、彼は自分でも不可解な興奮をおぼえた。

 兄のオメガ、葉月はずっと離れで暮らしている。すれちがうこともめったになく、彼は何日も顔すら見ていなかった。だからその日、葉月がヒートだったとしても、あてられたはずもない。
 それなのにその日、耳の底に葉月の嬌声が聞こえるような気がして――実際はそんなことはなかったのだが――彼はいてもたってもいられなくなり、屋敷を出たのだ。

 街へ出てつきあってくれる友人を探したものの、大学で知りあった友人もこの日に限って誰もつかまらなかった。結局彼は、以前一度だけ行ったことのある〈ハウス〉へひとりで入った。

 当時の〈ハウス〉は今のようにオメガの保護を全面的に打ち出した娯楽施設ではなかった。一流から場末まで程度の差はあっても、アルファが一時の欲望を解消するために売春目的のオメガを拾う場所だ。

 彼が訪れたハウスは育ちのいい学生が冷やかし半分に入って遊べる程度のランクだった。つまり本当のプロフェッショナルはいない店だ。音楽と話し声の喧騒に満たされ、酒とオメガの香りが漂っている。
 ろくにセックスの経験もなく、まして恋愛の経験は皆無な彼は、身に着けているものだけは周囲から飛びぬけていた。すぐに見透かされそうな虚勢を張りながらダンスフロアをあてもなく漂うことになったのはこのせいだろうか。

 フロアは広く、女性のオメガもいれば男性のオメガもいた。彼が目移りするのは当然女性のオメガだったから、音楽と照明が切り替わった時、なぜその男に目が行ったのか、後になってもわからなかった。
 とにかく彼はその男を見たのだ。

 そのオメガは軽く足を組んだ姿勢で壁にもたれ、両手を垂れて手持ち無沙汰に立っていた。顔立ちは女性的というわけでもなく、短髪の下のやや張った顎もうすい唇もひどく鋭い印象だ。切れ長の目がちらりと彼をみて流れ、その一瞬だけでさらに彼は注意をひかれた。

 男は彼よりも年上だろう。みるからに場慣れして、退屈しているようだった。飲み物を持っているわけでもなく、といって誰かを待っているようでもない。足を組みかえると形のよい尻が動き、とたんに彼の内側でぞくりと波が立った。

「どうした?」
 男がいった。あたりがうるさいせいか、叫ぶような調子だった。
「あ……いや」
 彼は口ごもったが、どっちつかずの物言いはみっともないとすぐに気づいて、叫びかえした。
「ひとりなのか?」
「ああ、まあね」
 男はにやっと笑った。
「あんたを待ってた」
「え?」
「あんたみたいなのをって意味だよ」

 男は手を振った。誘っているとも追い払っているともつかない手つきだったが、彼はふらふらと男の方へ歩いた。
「どう? そっちは俺みたいなの、探していたんだろう?」
「え? いや、その」
「ちがった? 俺は趣味じゃない?」
 男はへらへらと笑っている。困惑した彼の視線をたどるように指をふり、ダンスフロアをさす。
「ひょっとしてあの子みたいなのが好き? 残念だなあ、あんた毛並みがよさそうなのに」

 猫の品定めでもするようないいまわしに彼は呆れたが、男は彼の肘にするりと手を差しこみ、バーの方へ引っ張る。あからさまな誘惑にその瞬間の彼は乗るつもりはなかった。それなのについていったのは、小柄な男に引っ張られているのが恥ずかしかったからだ。

 バーで飲み物を買い――男は当然のように彼におごらせた――ソファで隣りあって何となく話をはじめると、相手は意外に聞き上手だった。彼はいつのまにか、今夜なぜハウスに来たのかにはじまり、自分と自分の周囲のことや、兄について熱心に語っていた。
 男は薄い唇に慰めるような微笑をうかべながら彼の話を聞いていたが、途中でいきなりこういった。
「あんた、お兄さんがほんとに好きなんだな」
 彼はまじまじと男を見返した。
「もちろん……家族だから」
「今日ここにいるの、お兄さんのオメガに嫉妬しているんだろ?」
「まさか」
 彼はあわてて首を振った。
「そんなのじゃない」
「なんで? いくらお兄さんが好きでも、アルファの兄弟同士じゃ何もできないぜ。そのお兄さんのオメガ、とっちゃいなよ」
「まさか、ありえない。それに僕は……」
 男は奇妙に優しい目つきで彼をみた。
「男相手にやったことないんだろう? 練習するか?」
 慰めるように彼の肩へ男が頭をもたれたとき、そのうなじから漂う匂いに彼の下半身がみなぎった。男はふっと笑った。
「いけるじゃないか」




〈ハウス〉の二階はベッドひとつで埋まってしまうような小部屋で埋められている。オメガの男に腕をとられて歩くうちに、彼はすっかりその気になっていた。
 シーツには漂白剤めいた匂いがついていたが、横たわった男が背中をつけたとたんに消えうせた。笑いながらシャツをまくり上げた男の胸は痩せて、肩も頼りないほど薄い。彼は一瞬不安に駆られたが、骨ばった手が触れたとたん、衝動にかられて自分から男の肌をまさぐっていた。

「こら、急ぐなって……」

 ん、と息を飲みこんだ気配がする。かまわず彼は男のうえにのしかかり、はだけた喉から胸へと舌を這わせた。小さな両の乳首に交互に舌を這わせ、立ち上がってきたところを転がすと、まだ服を着たままの男の股間がもりあがる。熱くはりつめたおのれをこすりつけるようにしながら、彼はいったん唇を離し、ずらして男の首筋に押しあてた。

 匂い――欲望をそそる匂いに全身が震える。やわらかな耳たぶをしゃぶったとたん、男の唇から甘ったるい声が漏れた。
「あ、あんっ――待って……自分で脱ぐ」

 男の声はかすれていた。あわてた指が残ったボタンを外し、続けて彼の服のボタンも外し、ファスナーを下げて下着に手をかける。
 手慣れた様子で自分の下肢をあらわにされて彼はとまどったが、色っぽく上気した目つきになった男は気にもしていない。勃起した彼自身を舐めるようにみつめながら自分の服を脱ぎ、その様子に彼は唾をのみこんだ。

 衝動的に手をのばし、すべてあらわになった胸からへそにかけてを指でたどる。男がぴくっと体をふるわせる。男のペニスも彼と同様に濡れていて、お互いに伸ばした手でたがいのそれをまさぐったが、男は彼の手をさらにうしろに導こうとする。
 彼は男の尻をつかんだ。そのとたんに鼻をかすめたほのかに甘い匂いは、発情間際のオメガの香りだった。
「準備はできてる」

 男はそういってうつぶせになり、自分の手で器用に尻のあいだを押し開いた。とたんに彼は正気づき、焦ってあたりをみまわした。幸い手の届くところに目当てのパッケージがあった。歯でひきあけ、どうにかもたつかずにゴムを装着する。男はねだるように背中をそらし、腰を揺らして彼を待っていた。蕾がひくひくと収縮し、彼の怒張をなんなく呑みこんだ。
「あんっ、あ、ん、」
 男はシーツに顔を押しつけたまま甘い声をもらしている。
「いい、そう――あ、あん、そこ、あ、あ、あ――」

 絡みつき、しめつけられる快感に自身の律動が重なり、無我夢中で腰を振るうちに彼方からあの瞬間がやってきた。精を吐きだした彼はぼんやりと遠い感覚をおぼえながらシーツの上に横たわる。男の下肢は湿って冷たい。
 肩に腕をまわして髪を撫でると、眼尻の細かい皺がみえた。思ったよりも年がいっているのだろうか。

「よかったか?」
 男がいった。
「ああ、うん……」
「俺もよかった。初めてじゃないよな?」
「え、もちろん」
 彼はあわてて答えたが、男は一瞬のためらいを見逃さなかった。
「え? まさか――あ、そうか。男を抱くのが初めてなのか」

 今度こそ彼はうなずいた。男の口元がにやにやと感情豊かに動く。
「どうせオメガだからな、男だってたいして変わらないさ。よかったんだろ? いくらくれる?」
 彼の胸は氷をさしこまれたように一瞬で冷えた。

 とはいえ、頭の片隅で納得している自分もいた。ここは〈ハウス〉なのだ。目を見かわして体をつなげても、心がつなげるわけではない。まして相手はどこの誰ともわからないオメガだ。
「いくら出せばいい?」

 男の眉が面白い言葉を聞いたかのようにあがり、値段をいった。彼は服を探し、適当に金をつかみだした。いわれた金額よりずっと多く、男はぎょっとした顔になった。

「おいおい、いいのか?」
「ああ」
 彼はかまわず札を男に押しつけた。
「やるよ」
「あんたはやっぱり毛並みがいい」

 彼と同様、男もすでに起き上がって服を着ていた。うなじに古い傷があるのに気づいて彼はそっと目をそらしたが、男はそんな仕草などお見通しだった。あっさりといった。
「俺の男の噛み痕さ。役立たずだから食い扶持は自分で稼いでる」
「こんなやり方で……?」
「俺はオメガなんだ」
 男はさらりといった。
「無学で貧乏、持ち物は体だけ、それでも年に何回かは抱いてくれる男がいないと面倒だ。たまには河岸を変えるのも悪くない。あんたのようなのを拾える。若くてものを知らないぴちぴちのアルファ。素敵だ」

 侮辱されているのか褒められているのか彼には判断がつかなかった。黙っていると男は困ったような顔つきになり、いいわけをするように付け加えた。
「今日はもう帰って眠れる。ありがとうな」

 猫のようにするりと立ち上がった男がドアを押しあけて出ていくまで、ほんの数秒。彼はひとりで小さな部屋に取り残されている。
 ドアの隙間から新鮮な空気が入りこんだおかげで、中にこもったセックスの匂いを彼は急に意識した。どうして自分は今ここにいるのだったろう、そう自分に問いかけて、とたんに彼は思い出す。

 兄が今夜、離れで葉月を抱いているからだ。兄のオメガを。


   *


 十九歳のあの夜はいったい、何だったのだろう。
 たった一度だけ体を重ねたあのオメガに彼は二度と会わなかった。彼が男を抱いたのもあの時だけだ。

 あの日、深夜に戻った屋敷は寝静まっていて、離れからは何の物音もしなかった。まもなく兄は結婚したが、結婚直前もそのあとも、兄と兄のオメガをめぐってたくさんの厄介事がもちあがった。数年後、兄のオメガ――葉月は死に、そのあと兄自身が姿を消した。

 それから長い年月が経って、いま彼は一族の当主としてこの部屋にいる。

 あれからたしかに時間は流れた。
 それなのに彼は時たま、自分が見えない格子に囲まれて時を止められたのではないか、と思うことがある。彼の息子は成長し、彼も妻も年をとったのに、ある日ひょっこり兄が、昔の姿のままで帰ってくるのではないか。そして身代わりでしかない自分の前に静かな表情で立つのではないか。

 カップの底に残ったコーヒーはすっかり冷たくなっている。藤野谷藍晶は高い窓から矩形の街を見下ろしている。



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