まばゆいほどに深い闇(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

文字の大きさ
41 / 107
第2部 ハウス・デュマー

20.幻日の犬(後編)

しおりを挟む
 ひとつ。ふたつ。みっつ……。
 コンドームがベッドのそばに落ちている。俺は眠い頭でその数を数えていた。こんなに?
 藤野谷が俺の視界を覆うようにベッドを降りた。残りをすばやく見えないところへ押しのけてしまう。

 俺は手首をひたいにあてた。熱っぽさはまだぼんやり俺を覆っているが、あの激しい衝動は消えていた。みると俺の下にバスタオルが敷いてある。窓の外は暗かった。

 俺はぼんやりとベッドサイドの明かりに浮かぶ藤野谷の裸体をみつめていた。下着をつけただけの裸体はモデルにするには最適だろう。急に描きたいという強い衝動をおぼえた。いま俺の眼に映っているこの像は俺だけのもので、俺が描かなければならないのだ。描けば俺の中にとどめておけるのかもしれない。
 俺の運命。

「サエ」
 藤野谷は水のボトルとグラスを持って俺のそばにかがみこんでいる。起き上がろうとしても力が入らず、どうすればいいのかもわからない。藤野谷の腕が回って俺を抱きおこし、俺は彼の肌から漂う匂いにうっとりする。

 今だけでよかった。一度だけでも――こんなヒートのどさくさにまぎれたような形であっても、藤野谷を独占できて満足だった。ずっと長い間つづいた渇きをうるおされたような気がした。どれほど渇いていたのか、自分でも知らなかったくらいに。

 藤野谷がグラスを差し出す。
 水が俺の体の内側をくだり、冷やしていく。小さな明かりに照らされた藤野谷はいつもの夜の色をまとっている。夜は真っ暗でも、単色でもない。深く濃く艶めくなかにたくさん光る色が含まれている。俺が藤野谷をみつめるたびにそれらが点描のようにきらめく。今ならもう少し描けるのかもしれない。

「きれいだ」
 声を出したつもりはなかったのに藤野谷に聞かれていた。
「何が?」
「天の色」
「俺?」

 俺は藤野谷のまわりに見える色を指でたどった。空中に俺の指はあちらに飛び、こちらに飛ぶ。
「おまえの周りに見えるんだ。匂いだけじゃなくて……だからわかったんだ。最初から……」
「俺にだってサエはいつもちがって見えてた」
 藤野谷はなぜか子供のような得意げな表情をする。
「それ、何なんだよ」
 俺は笑い、するとまた脇腹が痛んで、しまったと思った。折れた肋骨のせいだ。

「天のはきっと錯覚だよ。俺は偽装してたし……」
「でもずっと前からだ。俺はサエを必ず見分けた。どんなに遠くにいても、人に混ざっていても。たしかに今はサエの匂い、たまらないけど。俺は骨を投げられた犬みたいだ。こんなので釣られたら、どんなに遠くても問答無用で追いかけてしまうよ。もっと早く気がついて……」
 藤野谷は言葉を途中で切り、俺からグラスを奪って水を飲んだ。

「二度と離したくない。ずっとサエを傷つけてきたけど、それでも……サエ、愛してる。おまえと生きていくためなら俺は何でもする」

 俺は左足首のテーピングをみつめていた。忘れていた痛みが急に戻ってきたような気がした。胸の奥のありもしない傷が痛むのだ。幻なのに痛むなんてどういうことだろう。
「天、俺は今日だけでいい」と俺はいう。
「今ならまだ大丈夫だ」
「サエ?」
「おまえはよく知ってるだろう? 運命のつがいなんてろくなものじゃない。――俺の両親みたいに、動物みたいにひきあって周りを巻きこむなんて、俺は嫌だ」

 くしゃみが出て、また脇腹が痛かった。藤野谷が毛布をひっぱりあげ、自分と俺をまとめてくるむ。
「サエ、俺たちは大丈夫だ」
 毛布の中で藤野谷は俺の肩を抱いて髪を撫でた。
「馬鹿天」

 俺は小さくいう。暗幕の中にいた十六歳の日が俺の頭に思いうかぶ。でももう、俺たちは大人になってしまった。
「一番そういうのを嫌ったのはおまえだろ? 今はいい。そのうち思い出すさ」
「ちがう」
 藤野谷の声は俺の心とは裏腹に力強い。
「サエがそう思ってるのは俺のせいだというのはわかってる。でも俺はずっとサエだけが好きだった。知ってるくせに。社名だって……」

 TEN‐ZERO。
 もちろん知っていたさ。でも俺にはどうにもならなかった。

 だから俺は答える代わりにからかい半分、意地悪半分でこんなことをいった。
「だけどおまえ、一時期ハウスでけっこうな悪名を馳せていたらしいじゃないか。三波や鷹尾に聞いたぞ」
 藤野谷がたちまちしゅんとしたのがわかった。叱られた犬みたいだった。

「俺は……」
「馬鹿、からかったんだ。それに天は……噛まなかったしな」
 すっと息をのむ気配が立つ。
「ああ、いいんだ」
 俺はあわてて付け加える。

「もしおまえが噛んでいたら俺はいま後悔していた。だいたいヒートで盛り上がっただけでつがいになるなんて馬鹿げてる。ハウスが何のためにあるんだか」
「サエ、勘違いするな」
 藤野谷は性急な声でいった。
「今日は――単に俺に準備ができていないからだ。いま俺がサエをつがいにしたら、俺の実家のせいでサエをもっと傷つけてしまうかもしれない。サエのせいじゃない。俺が悪い。でも俺に用意ができたら――」
「だけどいまさらこうなっても……いまの俺におまえの子供が産めるかどうかは怪しいし」

 言葉は俺の口からぽろりと転がり出た。藤野谷が驚いた顔で俺をみる。
「サエ、何をいってる――俺は子供なんていらない」
「馬鹿だな」
 俺は小さく笑った。折れた骨のあたりに響いて痛かった。
「天、おまえが子供が欲しいといったんだ。藤野谷には子供が必要だと、あのときキノネの庭で俺にいったじゃないか」
「それはサエをあきらめたつもりだったからだ!」

 藤野谷の手は毛布の下で俺をぎゅっと抱きしめていた。だるい身体にそのぬくもりは嬉しすぎた。嬉しすぎて、俺はすこし泣きたかった。
「ごめん、天」
 藤野谷にこんな話をする日が来るなんて、俺は想像したことがあっただろうか。

「なあ、俺たちはやっぱり駄目だよ。藤野谷家のために子供を産まなかった葉月をおまえの家は許さなかっただろう? 俺はいまだに怖いんだ。俺の両親やおまえの伯父さんに起きたことが。それに俺は――おまえの子供を産みたいのかと聞かれると、正直いってよくわからない」

 ぽつんと毛布の上にしみが落ちた。水だ。指で触ってみるまで自分の頬が濡れているのに気づかなかった。こんなのは泣くようなことではなかった。俺はまともなオメガとして育てられてこなかったから、子供を産む可能性についてまともに考えたことは一度もなかった。
 俺はただ描ければよかった。藤野谷を描いていられればよかったのだ。

「おまえが好きだ」俺はつぶやく。
「俺にはどうしようもないくらい。オメガや運命なんかと関係なければいいのにな。おまえの家とも俺の親とも、何も関係がなくて……」

 突然俺の視界が回転した。毛布ごと押し倒されたのだ。重みが上にのしかかり、俺は脇腹の痛みにうめく。毛布の影に入っているせいで藤野谷の顔はよく見えない。吐息が俺の顔にかかる。
「馬鹿なのはサエのほうだ」
 藤野谷の声は押しつぶされたように低かった。
「俺を好きなら、サエはずっと俺を好きでいればいい。それだけだ」

 俺たちはそのままじっとしていた。毛布の中は心地よい闇で、それなのに俺の視界には藤野谷の匂いが色彩になって散る。この色はやっぱり俺にしか見えない。藤野谷はいったい俺に何を見て、あんなことをいうのだろう。

 暖かい手が俺の頭をしつこいくらい撫でる。犬か猫でもかまっているような手つきだった。また眠気が襲ってきて、俺は目を閉じる。

 こんな夜が来るなんて、これまでただ一度も信じていなかったせいだろう。願望には信念が含まれる。逆にいえば、絶対に信じられないことについて、ひとは望みさえ持てないのではないだろうか。いまの俺には藤野谷が横にいる未来を思い描けなかった。加賀美や三波、峡の困ったような笑顔が頭にうかぶ。目覚めるとすべてが夢だった、そうなっているのかもしれなかった。
 しかしそうはならなかった。

 夜明け前に起きたとき俺は飢えそうなほどの空腹で、藤野谷はまだ俺の横にいた。
「冷凍ものならすぐ食べられるぞ」
 俺は冷凍庫を開ける。
「マルゲリータ、イワシとトマトのピザ」
「サエはピザが好きだったのか?」藤野谷が聞き返した。
「お取り寄せにハマってる叔父が年末にくれたんだ。あとは……チーズリゾット、チャーハン、今川焼、エビ餃子……朝飯って感じじゃないな」

 キッチンの床はつめたくて、冷凍庫の風にくしゃみが出た。痛みが響く脇腹をおさえると、背中がぬくもりに覆われた。
「何でもいい」と藤野谷がいう。
「いいから、天が食べたいのをいえよ」
 そのとたん藤野谷の腕が俺の肩にからみついた。
「そんなの決まってる。サエ」
「馬鹿、食い物の話をしてるんだ」

 藤野谷の腕は離れなかった。俺は絶対にふりむくものかと思った。外はうっすらと明るくなり、これから日が昇るところだ。結局マルゲリータピザを温めて、俺たちはガツガツと食べた。二十時間以上というもの、セックスして水を飲んだだけで何も食べていなかったのだ。

 藤野谷のモバイルは着信ランプがつきっぱなしで、俺の方も似たようなものだった。もう月曜だった。藤野谷はガレージで靴を履くと俺の肩に腕をまわし、頭がぼうっとするようなキスをした。
「サエ、俺から逃げても無駄だよ。毎日連絡する」

 小石を散らして青のSUVが遠ざかり、俺は藤野谷の匂いでいっぱいの、空のガレージに取り残された。



しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。

僕がそばにいる理由

腐男子ミルク
BL
佐藤裕貴はΩとして生まれた21歳の男性。αの夫と結婚し、表向きは穏やかな夫婦生活を送っているが、その実態は不完全なものだった。夫は裕貴を愛していると口にしながらも、家事や家庭の負担はすべて裕貴に押し付け、自分は何もしない。それでいて、裕貴が他の誰かと関わることには異常なほど敏感で束縛が激しい。性的な関係もないまま、裕貴は愛情とは何か、本当に満たされるとはどういうことかを見失いつつあった。 そんな中、裕貴の職場に新人看護師・宮野歩夢が配属される。歩夢は裕貴がΩであることを本能的に察しながらも、その事実を意に介さず、ただ一人の人間として接してくれるαだった。歩夢の純粋な優しさと、裕貴をありのまま受け入れる態度に触れた裕貴は、心の奥底にしまい込んでいた孤独と向き合わざるを得なくなる。歩夢と過ごす時間を重ねるうちに、彼の存在が裕貴にとって特別なものとなっていくのを感じていた。 しかし、裕貴は既婚者であり、夫との関係や社会的な立場に縛られている。愛情、義務、そしてΩとしての本能――複雑に絡み合う感情の中で、裕貴は自分にとって「真実の幸せ」とは何なのか、そしてその幸せを追い求める覚悟があるのかを問い始める。 束縛の中で見失っていた自分を取り戻し、裕貴が選び取る未来とは――。 愛と本能、自由と束縛が交錯するオメガバースの物語。

運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー

白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿) 金持ち‪社長・溺愛&執着 α‬ × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω 幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。 ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。 発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう 離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。 すれ違っていく2人は結ばれることができるのか…… 思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいα‬の溺愛、身分差ストーリー ★ハッピーエンド作品です ※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏 ※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m ※フィクション作品です ※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

36.8℃

月波結
BL
高校2年生、音寧は繊細なΩ。幼馴染の秀一郎は文武両道のα。 ふたりは「番候補」として婚約を控えながら、音寧のフェロモンの影響で距離を保たなければならない。 近づけば香りが溢れ、ふたりの感情が揺れる。音寧のフェロモンは、バニラビーンズの甘い香りに例えられ、『運命の番』と言われる秀一郎の身体はそれに強く反応してしまう。 制度、家族、将来——すべてがふたりを結びつけようとする一方で、薬で抑えた想いは、触れられない手の間をすり抜けていく。 転校生の肇くんとの友情、婚約者候補としての葛藤、そして「待ってる」の一言が、ふたりの未来を静かに照らす。 36.8℃の微熱が続く日々の中で、ふたりは“運命”を選び取ることができるのか。 香りと距離、運命、そして選択の物語。

オメガバース 悲しい運命なら僕はいらない

潮 雨花
BL
魂の番に捨てられたオメガの氷見華月は、魂の番と死別した幼馴染でアルファの如月帝一と共に暮らしている。 いずれはこの人の番になるのだろう……華月はそう思っていた。 そんなある日、帝一の弟であり華月を捨てたアルファ・如月皇司の婚約が知らされる。 一度は想い合っていた皇司の婚約に、華月は――。 たとえ想い合っていても、魂の番であったとしても、それは悲しい運命の始まりかもしれない。 アルファで茶道の家元の次期当主と、オメガで華道の家元で蔑まれてきた青年の、切ないブルジョア・ラブ・ストーリー

【完結】end roll.〜あなたの最期に、俺はいましたか〜

みやの
BL
ーー……俺は、本能に殺されたかった。 自分で選び、番になった恋人を事故で亡くしたオメガ・要。 残されたのは、抜け殻みたいな体と、二度と戻らない日々への悔いだけだった。 この世界には、生涯に一度だけ「本当の番」がいる―― そう信じられていても、要はもう「運命」なんて言葉を信じることができない。 亡くした番の記憶と、本能が求める現在のあいだで引き裂かれながら、 それでも生きてしまうΩの物語。 痛くて、残酷なラブストーリー。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

処理中です...