さだめの星が紡ぐ糸

おにぎり1000米

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第2章 獣交む

8.赤の余韻

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 「七星君……立って」
 耳元で伊吹がささやいても、七星の意識はまだヒートの甘い波にとらわれて、ぼんやり霞がかっていた。両脇をそっと支える手の意図もわからず、アルファの肌の感触を求めてしなだれかかる。伊吹の長い吐息が肌をくすぐると、目を閉じたまま微笑みながらその肩にすがりつく。
「体を洗おう。浴室は――あそこか」

 伊吹になかばしがみつき、誘導されるままリビングを出て、七星はいつのまにかシャワーの下に立っている。温かい湯が肌を流れ、泡立てたボディーシャンプーの香りが湯気にまじった。ここまでの情交でさすがに体は疲れていて、シャワーの湯が止まったときはアルファの手に従順になっていた。おとなしくタオルで水滴を拭われ、バスローブを肩にかけられる。

 それでも寝室へ伊吹をひっぱったのは七星の方だった。ぼうっとした頭の片隅で、まだ発情の熱が冷めない体を伊吹がしずめてくれると信じている。マットレスに倒れこみ、腕をのばして伊吹にキスをねだる。でも伊吹は優しくひたいを撫でただけで、子供をあやすように七星にペットボトルの水を飲ませた。乾いた喉に冷たい水は気持ちよかったし、毛布でくるまれ、背中をさすられてもっと心地よくなる。やがて睡魔が襲ってきて、七星はうとうととまどろみはじめた。遠いところで伊吹の声が聞こえていた。

「……会場で体調を崩した知人がいて、送ったところでした。地震は問題ないですか? 蓮は? 三次会で武流のマンションに……なるほど、武流が送ると? ええ、いえ。ありがとうございます。藤さんにご苦労様と伝えてください」

 夢うつつをさまよう七星の耳に、伊吹の声は心地よい音楽のようだった。何の話をしているのかさっぱりわからなくても、響きだけで七星を落ちつかせる。ヒートの衝動も落ちついてきたのか、横たわった体は雲に包まれたように軽かった。ふわふわした幸福感のなか、何かを探すように空中に手を伸ばす。あたたかい手のひらが七星の指をつつんだ。

「私はもうすぐ――いえ、それは……そうだ、二十四時間オンライン診療ができるクリニックの一覧は? ええ、それです。すみませんね。よろしくお願いします……」

 七星は伊吹の手を握りかえしたが、睡魔に襲われたまぶたはひらこうとしない。心地よい眠りの霧のなか、ヒートの熱がおだやかに冷めていく。




 ハッと目覚めると真上に見慣れた天井があった。
 ベッド脇のナイトランプがオレンジ色の光を放っている。七星は横たわったまま目だけを動かした。ナイトランプの横の時計は午前二時をすぎたところだ。下半身が妙にもたつくのはバスローブのせいだった。七星は毛布をめくり、下着をはいていないのに気づいて今度はどきりとした。

 夢――を見ていたのだ。思い出すととんでもなく恥ずかしくなるような夢だった。人が大勢いる場所でヒートになって、伊吹さんに送ってもらって、それから――

 それから?

 七星は体を起こし、ぎょっとした。ベッドの足元にもたれる黒い影がみえたのだ。床に座り、毛布を体に巻きつけて目を閉じている。ナイトランプの明かりが伊吹の横顔を照らしていた。
 七星はそっとベッドを降りた。毛布の隙間からバスローブの襟がみえた。そういえば夢で僕は伊吹さんと……裸でシャワーを浴びて……。

 おぼろげな記憶がよみがえった。何度もくりかえしたキスの感触、伊吹の腕、彼が自分の中に入ってきたときの歓喜と、腰の奥まで突かれるあの感じ――かっと顔が熱くなって、心臓がドキドキ脈を打ちはじめる。あんな――あんなこと、僕は――

 七星はそっと寝室を抜けだした。バスローブは伊吹が着せてくれたにちがいない。彰が死んでからは使うことがなくなり、ずっと脱衣室の棚にしまっていたものだ。リビングの明かりをつけるとひどいありさまだった。ぐちゃぐちゃになった服がソファの上にも周囲にも散らばって、精の匂いが漂っている。ガラスのトロフィーが床に転がっていた。七星は呆然とその場に立ち尽くした。

 夢じゃない。
 僕は本当に――伊吹さんと、あれをやって……でもいくらヒートだからって、つがいのいる人と……しかも彼はラットして――

「七星君」
 背後からかけられた声に七星は文字通り飛び上がった。
「い――いぶき、さん……」
 そろそろとふりむく。伊吹が羽織っているのは死んだ夫のバスローブだった。とたんに七星の視線は泳ぎ、無残な姿で床に散らばった伊吹のスーツやワイシャツを見比べた。
「す、すみませんっ」
「それより大丈夫――」
「着るもの、何か……あっ、そうだ、こっち、こっちです!」

 あわてた七星は伊吹の横をすりぬけ、ウォークインクローゼットの方へと小走りになった。引き出しから未開封でしまいこんでいた下着を引っ張り出す。ふりむくと伊吹はクローゼットの入口で当惑したように立ちつくしていた。ハンガーにかけられた夫の服が影のように揺れている。

「……クリーニングずみなのでどれでも着れるものを……あの、汚れた服は全部クリーニングしますから、サイズはだいたい合いそうだし」
「七星君」
「夫の服で申し訳ないんですけど、彰はもういないから……大丈夫……」

 七星は口ごもった。伊吹がまっすぐ七星をみつめていたからだ。白々とした蛍光灯の下で、伊吹の眸はひどく暗い色をしていた。七星の胸はきゅっと締まり、ほとんど痛いくらいだった。

 伊吹はどう思っているのだろう。僕のことなんかほうりだして出ていってもよかったのだ。それなのに優しくしてくれて――いや、だめだ。こんなのは自分に都合のいい考えだ。

 この人はヒートを棚ぼたと考えるようなアルファじゃないし、つがいがいる。だからきっと……怒っているのだ。僕に嵌められたと思って。僕のヒートのせいでこんなことになったとしても、僕に訴えられたら困るとか、そんなことを考えているのかも。

 僕は馬鹿だ。期間限定の片想いなんてのんきなことを考えていたとは。

 七星は目をそらし、クローゼットをみまわした。最初に目に入ったシャツとスラックスをハンガーごと、それに下着のパッケージも一緒に両腕に抱え、伊吹に押しつけるように差し出す。伊吹の身長は死んだ夫と同じくらいだったが、体型はすこし細身だった。小さすぎるということはないだろう。目をあわせるのが怖かったので、うつむきがちにいった。

「ごめんなさい。本当に、迷惑をかけて。僕は……こんなつもりはなかったんです。本当に……だから――」
 ぱっと手から衣類が消える。頭の上で伊吹の声がした。
「謝るのは私の方だ。きみは悪くない。おかしくなったのは私だ」
「でも」
「とりあえず今はこれを借りるよ。ありがとう」
「ど、どうぞ!」

 伊吹を中に残して七星はリビングに走った。ソファのまわりの服をかきあつめて洗濯機の前に運び、部屋着のスウェットに着替え、またいそいでリビングに戻る。ちょうど伊吹がクローゼットから出てきたところだった。七星は思わずまばたきした。数年前まで彰がおなじシャツとスラックスを着ているのを何度も見たはずだった。それなのに伊吹が着るとなぜかまるで印象がちがう。

「服……大丈夫、でしたね」
 なんとかそれだけいった。伊吹はシャツの袖を止めている。薬指に光がきらめいた。指輪――もちろんだ。ヒートの興奮はとっくに去っていた。ごくりと唾を飲みこむと喉を苦いものが落ちていくような気がした。

 どうしてこんなことになったのか。頼まれても〈プラウ〉のパーティになんか行くべきじゃなかった。今日の夕方――いや、もう昨日だ、四月の最初に伊吹に会ってから昨日まで、〈ユーヤ〉で伊吹の顔をみるたびにあんなに嬉しかったのに、これからはもう――きっと二度と来てくれないだろう。

「予定ではもっと先だったんです。だから抑制剤とか、何も飲んでいなくて……こんなはずじゃなかった……ごめんなさい……」
 伊吹は小さくため息をついた。
「謝るのはきみじゃない。きみは悪くない。私の方がおかしいんだ。それより、とても話しにくいのだがこれこそ本当に……申し訳ない。私は……避妊できなかった。突然だったから……ピルは用意できる?」

 また胸の奥がズキリと痛んだ。
「大丈夫です。朝になったらクリニックに行きます」
「アフターピルを即時発送できるオンライン診療を紹介できる。費用は私がもつ。七星君が嫌でなかったら……いますぐに受けた方がいい。これは私の落ち度だ。責任は私にある。誰かに相談したいならそれもかまわないし、私に対応が必要なときはいつでも」
「僕は大丈夫です!」
 七星は伊吹の言葉をさえぎった。
「僕は伊吹さんが悪いなんて思ってません。もとはといえば僕のヒートのせいだし、伊吹さんはうちまで送ってくれたのに、だからこれはぜんぶ事故みたいなもので」
 鼻の奥がつんと痛くなった。七星は涙をこらえようとまばたきした。
「あなたを訴えたりとかしないです……から……僕は」

(あなたが好きです。あなたに触られたいと思っていた)

 体じゅうをぐるぐると渦を巻くように駆け巡った言葉を七星は抑えつけた。告白なんかできるわけがない。もっと迷惑に思われるだけだ。それだけはやめなくては。
 伊吹の眸はあいかわらず暗かった。

「……どうもありがとう。よくわかった。でも診察は受けてほしい。きみの体のためだ。私は……」
 伊吹は何かいいかけてためらった。視線をそらすとふいに床にかがみ、落ちていたガラスのトロフィーを拾った。

「地震が起きたことは覚えてる?」
「地震? もしかしてそれで?」
「ああ。このあたりは震度4だそうだ。場所によってはもうすこし揺れて、一時停電したところもあるみたいだ。今は復旧しているよ」

 伊吹はガラスの立方体を手で軽く拭い、飾り棚に置いた。
「割れなくてよかった」
「あ……すみません。僕じゃなくて夫のなんです。学生の頃にコンペか何かで賞をとって」
「そうか。すごいね」
「他にもいろいろあったんですけど、もう二年だし、ちょっと前にこれ以外は片づけたくなって」
 自分が余計なことを口走っているのに気づき、七星は口をつぐんだ。伊吹は訝しげに眉をひそめている。

「その、夫は亡くなってて……二年というのはそういう話です」
 伊吹の眸が揺らいだ。
「それはお気の毒に」
「……やっぱりオンライン診療、紹介してもらっていいですか?」
「ああ。メールで転送するか、スマホに直接送るよ」
「ちょっと待ってください」

 ショルダーバックはローテーブルの上に置いてあった。雑多に積み上げられた広告や郵便の山のそばにある。スマホを取り出したとき、淡いグリーンの包装が視界に飛びこんできた。前に送られてきたサンプルだ。アルファとオメガの相性診断キット。
「どうしたの?」
 伊吹がたずねた。
「いえ、何でも……」

 七星はぼんやり答えたが、目は診断キットから離れなかった。つがいのいる伊吹がラットした理由がやはり気にかかってたまらなかった。
 もしかしたら伊吹は嘘をついているのかもしれない。いや、どこまで真実かわからないが、結婚してもつがいにならず、おたがいを束縛しないアルファとオメガも稀にいるとはきく。でも初対面のときからずっと、伊吹からシングルのアルファの匂いはしなかった。今も伊吹が七星を騙そうとしているとは思えなかったし、この状況で迷惑なのはむしろ伊吹の方だろう。

 もうひとつ、べつの噂もある。アルファとオメガの相性によってはつがい狂わせが起きることがあるという――いわゆる〈運命のつがい〉の都市伝説だ。

 まさか。
 でも僕は最初に会った時からこの人の香りに惹かれていた。

 七星はパッケージをあけた。薄いケースに試験紙が入っている。
「七星君? それは?」
「前にもらった……適合診断のサンプルです。試してみたら……こんなことになった理由がわかるかもしれない」

 理由? 何を馬鹿なことを。

 冷静になってひとりで考えればそう思ったはずだ。いったい何を確かめたいのか、確かめて何がどうなるのかと。
 でもこんな形でヒートが過ぎたばかりの今、七星はとても冷静とはいえなかった。彰が死んでからというもの、ずっと空虚だった部屋の中は伊吹の香りでいっぱいだ。
 この人はすぐにいなくなる。そのあとは何も残らない。
 そう思うと同時に、さっき抑えた涙がまたせりあがってきた。

 まばたきして伊吹をふりむく。年上のアルファは身を引くようにして立っている。静かな声がいった。
「見せてもらっても?」
 七星はうなずいて横によけた。伊吹は黙ったままローテーブルのそばへ行き、床に膝をついてパッケージの説明を読んだ。ケースをあけて真っ白の試験紙を取り出し、片方のキャップを取ると唇に含んで湿らせ、元の位置に戻した。

 終始無言だったのに、まるで伊吹に「きみがそうしたいのならかまわない」と告げられたような気がした。あっさり拒絶されなかったことを喜んでいいのかどうか、七星にはわからなかった。ほんの数分前に口走った言葉をもう後悔していた。
 きっと伊吹は自分を落ちつかせようとしたのだろう。そんなふうに気づかってもらえるのが嬉しくて、同時に情けなかった。

 こんなことをやったからって何がどうなるわけでもない。意味なんてないのだから、怖がることもない。
 七星はケースの上に置かれた試験紙に手をのばした。反対側を唾液で濡らす。パッケージに書かれた説明の通り、キャップをとってケースに戻した。白い試験紙の中央に淡く線が浮かんでいる。適合度が低ければ淡く、高ければ濃くなるという。

「あ……」

 思わず声が出た。伊吹が身を乗り出し、七星の手元をみた。真紅の線が試験紙を横切っている。



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