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親友と、その妹の話 side丈
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無意識にカメラを構えて、ファインダー越しに碧を見る。
店の中で撮るのは止めてよと言われるのを聞き入れず、何枚かシャッターを切った。きっとピントも何もかもブレブレだろう。
あーー、どうして気づかなかったんだ。
こんなに二人の近くにいて、考えれば容易にわかることなのに、盲点、仲の良い兄妹だと疑わなかった。
そして今俺は、なぜこんなにもショックを受けているのか。
「──今なんか、いい顔、アンニュイで」
「アンニュイ?」
「どうせくだらないことで悩んでるんだろ」
「……悩んでないけど」
自宅では話せない事、聞きたい事、ずっと不安そうな顔で、自分の気持ちを悟られないように下手な演技をしながら、おちゃらけている碧が痛々しい。
碧のことを、ただ友人の妹と思えていたならば、「公が気になるのか?」と、何を抱えているのか、まっさらな気持ちで話くらい聞いてやれるのに。味方になってやれるのに、俺は────。
*
家までの道を、歩いて帰ると言い出した。
一人になりたいらしく、俺にはバスで帰れと、酷なことを言う。
「暗くなるし危ないから、一緒に帰る」
「まだ全然明るいし大丈夫だって」
押し問答の末、必死に断る碧を追い抜いて、先に歩き出した。
「なんかさ、公ちゃん抜きでこうやって丈と二人で歩くのも、何気にはじめてかもね」
今頃気づいたのかよ。
本当にまったく、俺の存在など碧の中ではちっぽけなものだと、思い知らされる。
河沿いの道を、碧と二人、並んで歩く。
突如、碧が空を見上げて興奮した様子で、感嘆の声を上げる。
その日の夕焼け空は、たしかにあまり見たことのないような壮大な景色が広がっていて、碧に言われるがまま、空に向かってシャッターを切った。
絵にかいたようなグラデーションの空。
けれど俺にはその美しさが、なぜかとても不気味で、恐ろしいものに思えた。
胸にきて、現実ではないようで、泣きたくなるような恐怖感。
キラキラした瞳で空を見上げる碧の横顔を見て、また空を見る。
碧が何を考えているのか、もう読めない。
いつの間にか俺はその場に立ち止まっており、十メートル位先を、碧が歩いていた。
「────丈太郎さーん」
少し離れた場所から碧に名前を呼ばれ、
空を背景に碧を撮る。
「写真もういいよーー、早よ帰ろう~」
「はいはい」
こんな時にはっきりとわかる。
誤魔化せない。
俺は、碧のことが好きだと。
*
公の本心を知りたかった。
碧の気持ちをわかっているのは多分間違いないが、今何を考えているのかを聞きたい。
すぐにでもそれを問い質すつもりでいた。碧のことをどう思っているのか。
でも聞けなかった。二人の様子を見ていると、碧がいくら公を思っていても、公は碧の気持ちを受け入れるつもりはないようで、公はあくまで碧の兄でいようとしている。
だからお互いに、言葉にしない。言ったら壊れるとわかっているから。全く関係のない赤の他人なら、上手くいかなかったら仕方がなかったと諦めればすむけれど、家族ではそうはいかない。お互いに気まずくなるだけで元には戻せないから。
公や碧がそうしているのに、俺がずかずかと土足で踏み込んで、「碧の気持ちわかってるんだろ? おまえは何を考えているんだ、どうするつもりだ?」などと、無神経に二人の思いを暴くようなことはできるはずはなかった。
そして俺自身も、碧の気持ちが完全に他の男に傾いている状態で、その相手が公だとわかっていて、〝なんとしてでも振り向かせてやる!〟などと、非現実的な希望を持つ程、バカにはなれなかった。
◇
自分の気持ちに戸惑い、誤魔化して隠している様子がはっきりわかる碧がいじらしく見えて、可愛くて仕方がない。公もきっと同じではないか、わからないけれど。
そんな中で、俺と公は高校を卒業し、次に進むことになった。
公はなぜか、以前志望していた大学とは別の大学を選んだ。あいつならもっと偏差値の高い大学に行けるはずで、てっきり家を出て一人暮らしをするつもりだと思っていたが、まだしばらくは八重嶋家にいるらしい。
「大学の間は、バイトして金を貯める」
「そうか」
八重嶋家の父、公博さんは公の実の父親だが、やはり公なりにどこかで遠慮する部分があるのかもしれない。
公の進学先が決まって、まだしばらく家にいると知った碧は、安堵するように頬を赤らめ、喜んでいた。
俺といえば、何一つ変わらなかった。
公とは気が合うし、碧のことは好きだ。
日向とは最近よく話す。会話がどんどん大人っぽくなり面白い。
ただ、思いの外、専門学校の授業や課題で忙しく、学校が終わると例のフレンチの店でバイトを始めたため、学ぶことが大量にあり多忙だった。でもそれが逆にありがたかった。余計なことを考えずにすむから。八重嶋家になかなか顔を出せない理由になるから。
そう思っても、数週間、一か月二か月と時間が空くと限界がきて、自分が彼女に会いたくなり、どうでもいい用事を作り碧に会いに行く。
*
高校三年生になった碧は、受験シーズン真っ只中にいた。一月、センター試験を終えた翌々週だったと思う、激励の意味も込めて八重嶋家に立ち寄った。
先週碧から変なメールが届いて、少し心配だったから。
学校の課題で大量に試作したブラウニーは碧の好物で、胡桃とドライフルーツを使ったものと、薄力粉が少な目の、とろけるような触感のもの。どちらも以前喜ばれたレシピ。
「──あれ、公」
「おお、久しぶり」
八重嶋家には、めずらしく公一人がいて、寝起きのようにぼんやりしていた。
連絡もせずに来てしまったからな。
「悪い、連絡しないで。碧が試験一段落したところだろ? 差し入れ持って来ただけ」
「まだ学校から帰ってないな。もうすぐ帰って来るんじゃないかな、上がって? 少し待ってて、連絡入れてみる」
「いや、いいよ。わざわざ連絡しなくて」
公と話すのも大分久しぶりで、この後特に用があるわけでもないからいいかと、中に入った。公の部屋ではなくリビングで待つ。
「なんか久々じゃね?」
「そうだな、俺は大学とバイトだけ」
「俺はほとんど店にいる」
「すでに社員だな」
通っている専門学校はもうすぐ卒業が決まっており、春からは約二年間アルバイトをしてきた店で、そのまま雇ってもらうことになっている。
学校へ通ってもあまり意味がない、という人もいるけれど(実際意味のない人もいる)俺はいろんな先生と親しくなり、考えていた以上に充実した時間を過ごせたと思う。
ようは出会いだ。どこへ行っても自分次第、運とタイミング。
俺は人に恵まれていると思う。
「でも楽しいよ、かなり」
「良かったな」
ふんふんと、公の言葉に適当に頷いた。
ところがこの時、公の様子がいつもと違うこと、公の中で何かがパンパンに膨らんでいて、弾けそうになっていることに、俺は全く気づいていなかった。
「丈、俺も春からさ、」
「ん?」
「一人暮らし、しようかと思って」
「は、一人暮らし?」
あれ? 前は、大学の四年間はここにいて金を貯めると言ってたはずだが。
「なんで、通えない距離じゃないだろ?」
「まあ、そうなんだけど」
「どうしたよ、あと二年くらい甘えれば?」
「そんなんずっと甘えっぱなしだし」
「どこがだよ……でも、なんで急に?」
公の顔を見ると、よくわからない険しい表情をしていて、何かあったのかと思う。
まさか、碧絡みで?
「公?」
「ちょっともう、限界っていうか」
「なにが?」
なにが?
公が黙って、考え込むように静かになり、ザワザワと嫌な予感が脳裏に広がる。
「碧か?」
「……」
「碧と、なんかあった?」
「ない、なにも」
公が、おかしい。
「なにもないけど、俺はもうここにはいられないっていうか」
「どういう意味?」
「俺がここにいてはまずいから」
「だからそれ、どういう意味だって」
「一緒にいるのが辛くて、俺が」
「……」
やめてくれよ頼むから、何の話だ。
どうしてそんなに苦しそうなんだよ。
「嘘だろ?」
俺はてっきり、碧の一方的な片思いだと思って───。公が碧を、妹としてしか見れないから、だから複雑なんだと。
碧から逃げるように恋人を作ったり、碧と直接関わらないやり方で、距離を取ろうとしているのだと……。
けど、違うんだな。
そうじゃないのか。
公にとっても、碧は特別な存在なんだな?
「バカだな、何やってんだよ、好きなら好きだって言ってやれよ、あいつの気持ちなんてとっくにわかってるだろうが」
「……」
「逃げるようなことするなよ」
カッとなり、言わずにはいられない。
「違う」
「じゃあなんで? ああ、受験が終わってから言うつもりとか?」
「違う」
「何が違うんだ、碧の気持ち考えたら、」
「俺はここで、あの二人の兄でいたいんだ、わかんねーよ、丈には!」
いつになく強い口調で、感情的になりながらそう言った後、大きく溜息を吐く。
あまり語られない、公の本音。
めずらしく取り乱している。
認めたようなものだ、碧を好きだと。
「……ごめん」
「……いや、」
まさか、思い合っているとは。
は……知りたくなかったっつうか……でもまあ、そうか。落ち着け、心臓がばくばくいっている。
公の心の中がどうなっているのか、実際俺にはわからない。想像も難しい。でも多分、子どもの頃の複雑な家庭環境があって今があるから、八重嶋の家に対しては特別な思いがあるのだと思う。
大切なんだ、公にとって、家族は。
だから、〝公と碧は兄妹といっても兄妹じゃないんだから、何の問題ないだろう?〟などと、簡単には言えない。
大事に紡いできたはずだ。
〝兄と妹〟という関係を。
いやしかし、胸が苦しいのを通り越して、なんかもう抉れるような痛みがあるな。
困った、勘弁してくれよ。
「一人暮らしってどの辺? アパート?」
公は落ち着きを取り戻し、頷いた。
「もう大体決めてある。父親と紅利さんには話してある。了承済み」
「……それさ、碧にまだ言ってないの?」
「……ああ、まだ、言ってない」
碧が公の本当の気持ちを知ったら、どうするのだろう。
きっと公のことを、意地でも説き伏せるのではないか。
碧ならそうする。今はただ、自分の一方的な片思いだと思っているだけで。
「ただいまーー」
心臓が止まるかと思った。
いつの間にか学校から帰ってきた碧が、すぐ後ろに立っていたから。
一体いつからそこに……?
「ねえ今、二人で内緒話してなかった?」
幸い碧には、俺たち二人の会話はほとんど聞こえていないようだった。
そして、公がもうすぐ一人暮らしをするつもりだと話を聞いた碧は、寂しそうに、少し怒ったように公を責めた。自分に気を遣わず隠さないで話してほしかったと。
隠したわけじゃない、言えなかったんだ。公はいつもと同じように平然とした顔で淡淡としているが、無理している様子が俺にははっきりとわかった。今と関係を変えたくないと思っている公にとっては、耐えられない状況だろう。
碧を思いながら、碧を置いて行くんだ。
俺はそれを、見て見ぬふりをする。
*
数は多くないとはいえ、家電など公一人で運びきれないいくつかの荷物を運ぶために、高校の同級生で二人の共通の友人、三田村に実家のバンを借りてもらい、公の引っ越しを手伝った。
八重嶋家全員が、玄関前に集合している。
碧と公が向き合い、笑いながら話している様子が見える。
会話の内容までは聞こえない。
聞きたくはなかった。
「公亮ー、荷物これで全部かー-?」
場の空気を読まない三田村が、公を呼ぶ。
「ああ、サンキュー、今行く!」
公と碧、惹かれ合っている二人。
ほら今だって、離れがたくて仕方がない、そういう顔をしているじゃないか。
お互いにそう感じているくせに。
どうしてそうなる?
今生の別れでもあるまいし、でも碧の方がすでに崩れ落ちそうなくらいに寂しそうで、見ていられずに目を逸らした。
三人が車に乗り込み出発した後、公は呆然としたまま、何も喋らなくなった。
「おう、どうした公亮、黙り込んで。出発した直後からホームシックかよ。俺なんか一人暮らしするって実家出る日なんて、ワクワクして仕方なかったけどな!」
公は三田村の言葉に相槌を打つこともせず、車窓から外の景色をずっと眺めている。
「……ん? なんだよ丈まで黙って、変だな君たち、喧嘩してんのか?」
「してないって、喧嘩なんて」
公が黙っているので、俺が話を合わせた。
「いやしかしあれだな、碧ちゃん、やっべーな、どんどん綺麗になっちゃって。色気あるしどんだけ綺麗になるんだ。やっぱりアナウンサーとか芸能人にでもなるつもりかな? 才女だし」
「碧はそういうの興味ないんじゃない?」
公はまだ、ひと言も話さない。
「でも四月から大学生じゃんか、彼氏なんかすぐできるだろ? 兄としては心配か公亮、連れてこられたら反対とかすんの? おまえにはうちの妹はやらねえぞ! みたいな」
「……」
「公亮、おーい、寝てんのかよ」
「…………反対なんかしないよ、碧がいいと思う男なら。幸せになるなら…………丈」
「……なに?」
「時々、様子見に行ってやってよ、俺がいなくても」
「……」
「あいつらのこと、頼む」
「……なんで俺が、頼まれなきゃなんねーんだよ、自分で見に行け」
今にも泣きそうな、震える声で言うなよ。
「大丈夫だって心配しなくても、一人暮らしなんて気楽で楽しいだけだから、公亮も彼女作ればいいよ、これからは自由じゃん!」
何も知らない三田村の、見当違いな公へのアドバイスが、ひどく耳障りだった。
よく晴れた、雲一つない青空が広がる日、公は自分から、八重嶋家を出た。
もう自分があの家に住むことはないと思うと、公は言う。
成人した男が実家を出て自立するなんて、世間一般的に見れば常識で、何でもない普通の事だろう。けど公にとっては、そう単純な事ではなかったのだ。
この日公は、覚悟を持って碧との間に線を引いた。その思いを碧は知らない。
あいつも今頃、泣いてるかもしれない。
でも、ごめん、どうしてもできない。
俺は二人の気持ちを知っていながら、それができる唯一の人間でありながら、どちらの背中を押すこともできなかった。
店の中で撮るのは止めてよと言われるのを聞き入れず、何枚かシャッターを切った。きっとピントも何もかもブレブレだろう。
あーー、どうして気づかなかったんだ。
こんなに二人の近くにいて、考えれば容易にわかることなのに、盲点、仲の良い兄妹だと疑わなかった。
そして今俺は、なぜこんなにもショックを受けているのか。
「──今なんか、いい顔、アンニュイで」
「アンニュイ?」
「どうせくだらないことで悩んでるんだろ」
「……悩んでないけど」
自宅では話せない事、聞きたい事、ずっと不安そうな顔で、自分の気持ちを悟られないように下手な演技をしながら、おちゃらけている碧が痛々しい。
碧のことを、ただ友人の妹と思えていたならば、「公が気になるのか?」と、何を抱えているのか、まっさらな気持ちで話くらい聞いてやれるのに。味方になってやれるのに、俺は────。
*
家までの道を、歩いて帰ると言い出した。
一人になりたいらしく、俺にはバスで帰れと、酷なことを言う。
「暗くなるし危ないから、一緒に帰る」
「まだ全然明るいし大丈夫だって」
押し問答の末、必死に断る碧を追い抜いて、先に歩き出した。
「なんかさ、公ちゃん抜きでこうやって丈と二人で歩くのも、何気にはじめてかもね」
今頃気づいたのかよ。
本当にまったく、俺の存在など碧の中ではちっぽけなものだと、思い知らされる。
河沿いの道を、碧と二人、並んで歩く。
突如、碧が空を見上げて興奮した様子で、感嘆の声を上げる。
その日の夕焼け空は、たしかにあまり見たことのないような壮大な景色が広がっていて、碧に言われるがまま、空に向かってシャッターを切った。
絵にかいたようなグラデーションの空。
けれど俺にはその美しさが、なぜかとても不気味で、恐ろしいものに思えた。
胸にきて、現実ではないようで、泣きたくなるような恐怖感。
キラキラした瞳で空を見上げる碧の横顔を見て、また空を見る。
碧が何を考えているのか、もう読めない。
いつの間にか俺はその場に立ち止まっており、十メートル位先を、碧が歩いていた。
「────丈太郎さーん」
少し離れた場所から碧に名前を呼ばれ、
空を背景に碧を撮る。
「写真もういいよーー、早よ帰ろう~」
「はいはい」
こんな時にはっきりとわかる。
誤魔化せない。
俺は、碧のことが好きだと。
*
公の本心を知りたかった。
碧の気持ちをわかっているのは多分間違いないが、今何を考えているのかを聞きたい。
すぐにでもそれを問い質すつもりでいた。碧のことをどう思っているのか。
でも聞けなかった。二人の様子を見ていると、碧がいくら公を思っていても、公は碧の気持ちを受け入れるつもりはないようで、公はあくまで碧の兄でいようとしている。
だからお互いに、言葉にしない。言ったら壊れるとわかっているから。全く関係のない赤の他人なら、上手くいかなかったら仕方がなかったと諦めればすむけれど、家族ではそうはいかない。お互いに気まずくなるだけで元には戻せないから。
公や碧がそうしているのに、俺がずかずかと土足で踏み込んで、「碧の気持ちわかってるんだろ? おまえは何を考えているんだ、どうするつもりだ?」などと、無神経に二人の思いを暴くようなことはできるはずはなかった。
そして俺自身も、碧の気持ちが完全に他の男に傾いている状態で、その相手が公だとわかっていて、〝なんとしてでも振り向かせてやる!〟などと、非現実的な希望を持つ程、バカにはなれなかった。
◇
自分の気持ちに戸惑い、誤魔化して隠している様子がはっきりわかる碧がいじらしく見えて、可愛くて仕方がない。公もきっと同じではないか、わからないけれど。
そんな中で、俺と公は高校を卒業し、次に進むことになった。
公はなぜか、以前志望していた大学とは別の大学を選んだ。あいつならもっと偏差値の高い大学に行けるはずで、てっきり家を出て一人暮らしをするつもりだと思っていたが、まだしばらくは八重嶋家にいるらしい。
「大学の間は、バイトして金を貯める」
「そうか」
八重嶋家の父、公博さんは公の実の父親だが、やはり公なりにどこかで遠慮する部分があるのかもしれない。
公の進学先が決まって、まだしばらく家にいると知った碧は、安堵するように頬を赤らめ、喜んでいた。
俺といえば、何一つ変わらなかった。
公とは気が合うし、碧のことは好きだ。
日向とは最近よく話す。会話がどんどん大人っぽくなり面白い。
ただ、思いの外、専門学校の授業や課題で忙しく、学校が終わると例のフレンチの店でバイトを始めたため、学ぶことが大量にあり多忙だった。でもそれが逆にありがたかった。余計なことを考えずにすむから。八重嶋家になかなか顔を出せない理由になるから。
そう思っても、数週間、一か月二か月と時間が空くと限界がきて、自分が彼女に会いたくなり、どうでもいい用事を作り碧に会いに行く。
*
高校三年生になった碧は、受験シーズン真っ只中にいた。一月、センター試験を終えた翌々週だったと思う、激励の意味も込めて八重嶋家に立ち寄った。
先週碧から変なメールが届いて、少し心配だったから。
学校の課題で大量に試作したブラウニーは碧の好物で、胡桃とドライフルーツを使ったものと、薄力粉が少な目の、とろけるような触感のもの。どちらも以前喜ばれたレシピ。
「──あれ、公」
「おお、久しぶり」
八重嶋家には、めずらしく公一人がいて、寝起きのようにぼんやりしていた。
連絡もせずに来てしまったからな。
「悪い、連絡しないで。碧が試験一段落したところだろ? 差し入れ持って来ただけ」
「まだ学校から帰ってないな。もうすぐ帰って来るんじゃないかな、上がって? 少し待ってて、連絡入れてみる」
「いや、いいよ。わざわざ連絡しなくて」
公と話すのも大分久しぶりで、この後特に用があるわけでもないからいいかと、中に入った。公の部屋ではなくリビングで待つ。
「なんか久々じゃね?」
「そうだな、俺は大学とバイトだけ」
「俺はほとんど店にいる」
「すでに社員だな」
通っている専門学校はもうすぐ卒業が決まっており、春からは約二年間アルバイトをしてきた店で、そのまま雇ってもらうことになっている。
学校へ通ってもあまり意味がない、という人もいるけれど(実際意味のない人もいる)俺はいろんな先生と親しくなり、考えていた以上に充実した時間を過ごせたと思う。
ようは出会いだ。どこへ行っても自分次第、運とタイミング。
俺は人に恵まれていると思う。
「でも楽しいよ、かなり」
「良かったな」
ふんふんと、公の言葉に適当に頷いた。
ところがこの時、公の様子がいつもと違うこと、公の中で何かがパンパンに膨らんでいて、弾けそうになっていることに、俺は全く気づいていなかった。
「丈、俺も春からさ、」
「ん?」
「一人暮らし、しようかと思って」
「は、一人暮らし?」
あれ? 前は、大学の四年間はここにいて金を貯めると言ってたはずだが。
「なんで、通えない距離じゃないだろ?」
「まあ、そうなんだけど」
「どうしたよ、あと二年くらい甘えれば?」
「そんなんずっと甘えっぱなしだし」
「どこがだよ……でも、なんで急に?」
公の顔を見ると、よくわからない険しい表情をしていて、何かあったのかと思う。
まさか、碧絡みで?
「公?」
「ちょっともう、限界っていうか」
「なにが?」
なにが?
公が黙って、考え込むように静かになり、ザワザワと嫌な予感が脳裏に広がる。
「碧か?」
「……」
「碧と、なんかあった?」
「ない、なにも」
公が、おかしい。
「なにもないけど、俺はもうここにはいられないっていうか」
「どういう意味?」
「俺がここにいてはまずいから」
「だからそれ、どういう意味だって」
「一緒にいるのが辛くて、俺が」
「……」
やめてくれよ頼むから、何の話だ。
どうしてそんなに苦しそうなんだよ。
「嘘だろ?」
俺はてっきり、碧の一方的な片思いだと思って───。公が碧を、妹としてしか見れないから、だから複雑なんだと。
碧から逃げるように恋人を作ったり、碧と直接関わらないやり方で、距離を取ろうとしているのだと……。
けど、違うんだな。
そうじゃないのか。
公にとっても、碧は特別な存在なんだな?
「バカだな、何やってんだよ、好きなら好きだって言ってやれよ、あいつの気持ちなんてとっくにわかってるだろうが」
「……」
「逃げるようなことするなよ」
カッとなり、言わずにはいられない。
「違う」
「じゃあなんで? ああ、受験が終わってから言うつもりとか?」
「違う」
「何が違うんだ、碧の気持ち考えたら、」
「俺はここで、あの二人の兄でいたいんだ、わかんねーよ、丈には!」
いつになく強い口調で、感情的になりながらそう言った後、大きく溜息を吐く。
あまり語られない、公の本音。
めずらしく取り乱している。
認めたようなものだ、碧を好きだと。
「……ごめん」
「……いや、」
まさか、思い合っているとは。
は……知りたくなかったっつうか……でもまあ、そうか。落ち着け、心臓がばくばくいっている。
公の心の中がどうなっているのか、実際俺にはわからない。想像も難しい。でも多分、子どもの頃の複雑な家庭環境があって今があるから、八重嶋の家に対しては特別な思いがあるのだと思う。
大切なんだ、公にとって、家族は。
だから、〝公と碧は兄妹といっても兄妹じゃないんだから、何の問題ないだろう?〟などと、簡単には言えない。
大事に紡いできたはずだ。
〝兄と妹〟という関係を。
いやしかし、胸が苦しいのを通り越して、なんかもう抉れるような痛みがあるな。
困った、勘弁してくれよ。
「一人暮らしってどの辺? アパート?」
公は落ち着きを取り戻し、頷いた。
「もう大体決めてある。父親と紅利さんには話してある。了承済み」
「……それさ、碧にまだ言ってないの?」
「……ああ、まだ、言ってない」
碧が公の本当の気持ちを知ったら、どうするのだろう。
きっと公のことを、意地でも説き伏せるのではないか。
碧ならそうする。今はただ、自分の一方的な片思いだと思っているだけで。
「ただいまーー」
心臓が止まるかと思った。
いつの間にか学校から帰ってきた碧が、すぐ後ろに立っていたから。
一体いつからそこに……?
「ねえ今、二人で内緒話してなかった?」
幸い碧には、俺たち二人の会話はほとんど聞こえていないようだった。
そして、公がもうすぐ一人暮らしをするつもりだと話を聞いた碧は、寂しそうに、少し怒ったように公を責めた。自分に気を遣わず隠さないで話してほしかったと。
隠したわけじゃない、言えなかったんだ。公はいつもと同じように平然とした顔で淡淡としているが、無理している様子が俺にははっきりとわかった。今と関係を変えたくないと思っている公にとっては、耐えられない状況だろう。
碧を思いながら、碧を置いて行くんだ。
俺はそれを、見て見ぬふりをする。
*
数は多くないとはいえ、家電など公一人で運びきれないいくつかの荷物を運ぶために、高校の同級生で二人の共通の友人、三田村に実家のバンを借りてもらい、公の引っ越しを手伝った。
八重嶋家全員が、玄関前に集合している。
碧と公が向き合い、笑いながら話している様子が見える。
会話の内容までは聞こえない。
聞きたくはなかった。
「公亮ー、荷物これで全部かー-?」
場の空気を読まない三田村が、公を呼ぶ。
「ああ、サンキュー、今行く!」
公と碧、惹かれ合っている二人。
ほら今だって、離れがたくて仕方がない、そういう顔をしているじゃないか。
お互いにそう感じているくせに。
どうしてそうなる?
今生の別れでもあるまいし、でも碧の方がすでに崩れ落ちそうなくらいに寂しそうで、見ていられずに目を逸らした。
三人が車に乗り込み出発した後、公は呆然としたまま、何も喋らなくなった。
「おう、どうした公亮、黙り込んで。出発した直後からホームシックかよ。俺なんか一人暮らしするって実家出る日なんて、ワクワクして仕方なかったけどな!」
公は三田村の言葉に相槌を打つこともせず、車窓から外の景色をずっと眺めている。
「……ん? なんだよ丈まで黙って、変だな君たち、喧嘩してんのか?」
「してないって、喧嘩なんて」
公が黙っているので、俺が話を合わせた。
「いやしかしあれだな、碧ちゃん、やっべーな、どんどん綺麗になっちゃって。色気あるしどんだけ綺麗になるんだ。やっぱりアナウンサーとか芸能人にでもなるつもりかな? 才女だし」
「碧はそういうの興味ないんじゃない?」
公はまだ、ひと言も話さない。
「でも四月から大学生じゃんか、彼氏なんかすぐできるだろ? 兄としては心配か公亮、連れてこられたら反対とかすんの? おまえにはうちの妹はやらねえぞ! みたいな」
「……」
「公亮、おーい、寝てんのかよ」
「…………反対なんかしないよ、碧がいいと思う男なら。幸せになるなら…………丈」
「……なに?」
「時々、様子見に行ってやってよ、俺がいなくても」
「……」
「あいつらのこと、頼む」
「……なんで俺が、頼まれなきゃなんねーんだよ、自分で見に行け」
今にも泣きそうな、震える声で言うなよ。
「大丈夫だって心配しなくても、一人暮らしなんて気楽で楽しいだけだから、公亮も彼女作ればいいよ、これからは自由じゃん!」
何も知らない三田村の、見当違いな公へのアドバイスが、ひどく耳障りだった。
よく晴れた、雲一つない青空が広がる日、公は自分から、八重嶋家を出た。
もう自分があの家に住むことはないと思うと、公は言う。
成人した男が実家を出て自立するなんて、世間一般的に見れば常識で、何でもない普通の事だろう。けど公にとっては、そう単純な事ではなかったのだ。
この日公は、覚悟を持って碧との間に線を引いた。その思いを碧は知らない。
あいつも今頃、泣いてるかもしれない。
でも、ごめん、どうしてもできない。
俺は二人の気持ちを知っていながら、それができる唯一の人間でありながら、どちらの背中を押すこともできなかった。
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「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
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俺様なイケメン副社長と
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