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6.表透弥/裏透弥
表透弥・裏透弥①
しおりを挟む「──え、このマンションですか? 本当にここに空きがあるんですか?」
「はいそうです。今日からでも入居していただけますよ」
「今日から?」
私が眠りについてから数時間後、翌朝の月曜日、私はいつもお世話になっている総務の女性リーダーと顔を合わせていた。
出勤するとすぐ、例の、おそらくないと思うが一応聞いてみると話していた社宅の件で、総務部に呼び出されたからだ。会社で借り上げているマンションに、空きがあるという。
「1Kですが狭くはないですよ。場所も悪くないし、セキュリティーも万全です」
「これで1Kっていうんですね……この写真の部屋が? 狭いどころか逆に広過ぎるくらいです。あまりにも条件が良すぎて……」
「ですよね、沢北さんラッキーでした」
何日かはホテル暮らしを覚悟していたのに、昨日の今日でこんなにも好条件の住居が見つかるもの? ラッキー過ぎるでしょう。
いつの間に河上さんは担当者に連絡などしていたのだろう? 話がスムーズ過ぎて、頭の中はハテナだらけだ。
ついでに、河上さんとの朝の寝起きのひと悶着を思い出し、眉間に皺が寄る。
まあそれはいいとして。
紹介してもらった部屋は、通勤時間が半分以下になる上に、多重のオートロックやら、24時間体制の防犯カメラシステム、機能性の高いモニター付きインターホン等々、防犯対策が素晴らしく〝セキュリティー万全〟のレベルではない。駅からの道は煌々と明るい大通りで、帰り道すら危険な場所はほとんどない。
「すごいですね。管理費が高そう……」
「ええ、それも全て会社負担ですから、月の個人負担はこれまでと然程変わりませんよ。あれ? 逆に安くなるのかな? 勿論、事故物件でも訳ありということもありませんし、大体の家具は備え付けであるので今夜からすぐに利用できますが、どうします?」
「……」
決めますよね? と笑顔で言われ、断る理由が見当たらなかった。
狐につままれたような気分で詳しい説明を受け、必要書類やマンション情報の書かれたパンフレットを手に、自分の部署に戻った。
人が疎らな朝のオフィスに、楠木君が出勤していた。いつもとなんら変わらぬ様子で、淡々とメールやスケジュールのチェックなど、朝のルーティンをこなしている。
私に気づき、作業を止めてこちらを向いた。
「おはよう、楠木君」
「おはようございます」
「昨日はどうもありがとうね、遅くまで付き合わせちゃってごめん。ちゃんと眠れた?」
本当にいくら御礼を言っても足りない。
「はい、いえ、お気遣いなく。七渚さんこそあの後大丈夫でした? 透弥さんとちゃんと眠れましたか?」
「ん?」
いやちょっと待って。その発言はおかしいわ。なんか誤解を生むわ。
驚いて周りを見回すが、幸い誰の姿もない。
声を潜めて楠木君に抗議する。
「そういう意味深な発言はやめてくださいよ、誰が聞いているかわからないから」
「え? だって透弥さん、あのまま七渚さんのところに泊まったんですよね?」
「!! だから、シッ! 誤解されるから。……泊まったけど、お互い別々に寝たし、間違っても間違いなんて起きてないから」
「そんなのわかってますよ。でも別にいいじゃないですか、実際につき合っているわけじゃないんだから、何を言われても」
「逆ですよ。むしろ事実だったら許されるけど、何もないのに噂になったら迷惑掛けるだけじゃない。だから不用意な発言は控えてくださいね、お願い」
「迷惑を掛けるって、透弥さんに?」
「そう」
二人きりで一晩過ごしたなどと知れたら、事実はどうあれ、何かあった人たちと認定されてしまう。変な噂になり河上さんがどうのこうの言われたら、私が居た堪れない。
もうこんな事は、二度とないようにしたい。同僚として困った事があれば、お互いに相談するくらいはあっても、もう必要以上に関わるものではないと、肝に銘じた。
「どうしました? 難しい顔をして」
「難しい顔? 全然そんな事ないよ。朝から総務に呼び出されて、今行って来たところ」
「総務に?」
「ああうん、実は早速 入居可能な社宅があるって連絡が来て。びっくりだよもう、昨日の今日なのに、仕事が早過ぎるよね」
「……へえ、ちなみにどこですか?」
「F駅から歩いて5分位の所にある、グランパーク・エトランゼ、とかいう──」
「……ああ、わかります」
「わかる? 低層階だけど高級マンションでしょう? って、楠木君は逆に慣れてるか。しかも今日から入居できるって。けどそんな好条件の物件が、なんで空いてたんだろう。そうでなくとも空きを待ってる人もいるはずじゃない? 私これ、いいのかな……って。あ、あまり出していない情報らしくて、積極的に広めないでって言われたんだ。楠木君、人には言わないで?」
どう思う? と、何を聞きたいのかわからない質問をする私に対し、
「総務の人が七渚さんにって紹介してくれたんですから、遠慮しなくていいんじゃないですか? 帰宅するにも暗い道とか無いですし、これ以上ないくらい安全性は高いと思います。快適に過ごせるかと」
「やっぱりそうか」
「ちょっと、過保護過ぎますが」
「でしょう? 私には勿体無いよ。社宅とか寮のレベルじゃないというか」
「…………あ、それに、エトランゼ」
「本当だ、今気付いた。住めってことか」
さすがに偶然だろうが、また例のグループの曲名と一緒で、顔を見合わせて笑う。
でもまあ、いいのか、深く考えなくても。もしかして河上さんが、少し大げさに伝え過ぎたんじゃないだろうか。事件に巻き込まれた、嫌がらせされた、怖い目に遭った、とかなんとか。あまりにもスムーズすぎて。
その河上さんにもすぐに、条件の良い部屋を紹介してもらったとメッセージを入れる。業務連絡のような内容はすぐに既読になり、『了解です。良かった』と、返信が届いた。
*
今朝、自分のベッドの中で目を覚ますと、朝の眩しい光の中に人の気配を感じた。
薄目を開けて瞼が開ききる前に、まだ寝ている状態の私の顔を、上から覗き込んでいる人がいることに気付く。
「あ、やっと起きた」
驚き過ぎて声が出ず、両手で口を覆った。
「おはよう。起きないと遅刻しますよ」
「…………は」
なんで? いつからそこに?
自慢にならないが寝覚めは相当悪い方で、まだ半分は夢の中にいるような状態。とりあえず「眼鏡眼鏡」と呟きながら起き上がり、ベッドのサイドテーブルに手を伸ばした。
「眼鏡ね、ほら」
渡された眼鏡を装着し、その手の先を見ると、河上さんは昨日ここに来た時と同じ服装で、顔も髪も整えて朝の準備はもうすっかり済みました、というような爽やかな風貌で、そこに立っていた。座布団の寝床もきれいに畳まれて片付けられている。
「何度も声掛けたんだけど全然起きないから。そろそろ本気で起こしにかかろうかと」
「……自分一人の時はちゃんと起きれます。人に起こされるとダメなの」
「ダメなんだ。はは、寝ぼけてる。衝撃的な寝起きの悪さですね、沢北さんの弱点発見しちゃいました」
「え、今何時?」
上半身を起こしてベッドの上にまだ座ったままだが、よく考えてみると、髪はぼさぼさ寝ぼけ眼に眼鏡を掛けて、顔も洗っていない素顔を晒すって、河上さん相手に良く見せる必要はないのだが、そういう問題ではなく、さすがにいくらなんでもダメ過ぎないか?
「──っあ~、最悪。河上さん、嫌なことはしないって、指一本触れないって……」
「触れてませんよ、見てただけで」
「屁理屈! 間抜けな寝顔なんて普通は見られたくないですから!」
「無防備な沢北さんは可愛さ増し増しなので大丈夫」
「そう言えば大概許されると思ってます!? とりあえず部屋から出てください! あっちに行ってて……あ、もしかして私、涎垂らして寝てた……??」
口元を押さえていた手に、その痕跡が。
「涎は垂れてないけど、白目剝いてたよ」
「!!」
怒りと羞恥で、バカヤローと叫びたくなるのを堪えて、河上さんを押しのけ洗面所に走った。
酷い、酷すぎる、残酷物語。
白目剝いてたとか、言わなくてもよくね?
泊まるとなった時点で、翌朝というものがあることをすっかり忘れていた。
ついでに、おはようのひと言も、言いそびれてしまった。…………泣きたい。
朝食は食べずに出るつもりだったが、
「沢北さんは出勤の準備すれば? 冷蔵庫を開けてよければ、適当に準備するけど」と言われ、
「どうぞ、なんでも好きなものを食べてください」と、やけくそで頷いた。
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