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6.表透弥/裏透弥
表透弥・裏透弥②
しおりを挟むテーブルの上には、蕪のサラダときのこのオムレツ、トーストにジャム、コーヒー。
私が身支度を整えて、数日分の衣類等をバッグに詰め込んでいるわずか数分の間に、河上さんが用意してくれていた。
「え? うわ、すごい、いつの間に」
「食べましょうか。二十分後に出れば余裕で間に合うでしょ?」
突然訪れた人の家の冷蔵庫を見て、こんなにササッと準備できるものだろうか。切って並べただけと言うけれど、手際がよ過ぎる。せいぜい、トーストとコーヒーくらいだと思ったのに。その前に 初めて家に来た客人に朝食を作ってもらう私もどうかと思うが。
「蕪が、瑞々しい。美味しい」
「沢北さんのお父さんの野菜ですよ。あれ? 機嫌直りました?」
「……直りません」
もうほとんど気にしていないのに、機嫌を取る人と脹れている人というやり取りが面白くて、適当なことを言う。
河上さんとの会話はついムキになってしまうが、楽しい。私は面白味の薄い人間だけど、河上さんの話術に乗せられて、感情が揺さぶられるから。
食べながら、昨日の事件について少しだけ話をされた。
前回、これ以上迷惑行為を続けるなら警察に被害届を出し、会社にも居られないようになると伝えていたけれど、会社を辞めること自体が抑止力にならなかったのだと、対応が甘かったせいで、昨日のような事件が起きてしまったと、河上さんは言う。
今回は直接話をして、本人も相当怯えている様子だったこと、毒を抜かれたかのように反省の意を示していること、世の中全体への不平不満が主で、私への執着や恨みはあまり感じられないことを考慮し、様々な取り決めをして誓約書を書かせたそうだ。
今は何より、この件が実家の母親に知られる事を恐れているらしい。こんな事をしでかせば母を悲しませるなんて、最初からわかり切った話で、自業自得だが。それにしても、誓約書なんていつの間に。
「今日中に荷物を纏めて、今夜の夜行バスで故郷へ帰ってもらいます」
「今日中? それはちょっと無理なんじゃ」
「それ以外は認めない」
「……河上さん、恨まれませんか?」
「恨まれません。本人も正直なところ一刻も早く逃げ帰りたいんじゃないかな。あとは何かあったら逐一僕に報告が来ることになっているので、沢北さんは今度こそ安心して過ごしてください。──ということで、この件はおしまい。大丈夫?」
頷きながら、ホッとして溜息が漏れた。
「なんと、御礼を言ったらよいのやら」
「御礼は要りません。それよりも、昨日の晩辛い思いをさせたことを後悔しています」
「そんなの、河上さんのせいじゃないから」
それこそ自業自得だ、私の。
河上さんが自分で焼いた、絶妙な焼き加減のトーストを食べる姿を見ながら、この人は本当に、情の厚い面倒見のよい人なのだなと思う。懇切丁寧で、見た目は大らかで柔らかなのに、今回のようなピンチの時には何を置いても守ってくれようとする、男気がある。私に限らず、きっと誰に対してもそうやって情を注いでいるのだろうな。そりゃあ人徳があるわけだわ。
私は今、河上さんが纏う安堵感の中にいて、ぬくぬくと心地好い。もうこの時間も終わりかと思うと、少し寂しいくらい。
「──河上さんて、何者なんでしょう」
「何者だと思います?」
唐突な私の質問に首を傾げて、きょとんとした顔をする。少し楽しそうに。
「わかりません。でもなんか、すごく大きくて、底が見えない」
深くて広くてしなやかで眩しくて、うまく言えないけれど、スケールが違うんだもの。本心もよくわからない。
得体が知れない、なぜかそんな気がする。
「なにか、可笑しいですか?」
「……いや、底なんて浅いし、全部お見せしたらがっかりされるだろうな~と思って」
「へえ、じゃあいつか、見せてもらおうかな」
その〝いつか〟は、きっと来ないが。
私が河上さんの心の内を知ることなんて、この先無いから。
「がっかりなんかしませんよ、十分魅力的な人ですから」
「お、褒められた。もっと言って」
言いますとも、
タイムリミットはもうすぐだから。
「河上さんの周りには、いつも自然と人が集まって来て、皆に好かれていいなって、結局憧れているんだと思います。人たらし女たらし、ある種の才能と思っていたけど、それだけじゃない、河上さんは誰に対しても平等に優しくて親切で丁寧だから、一緒にいると心地好くて、傍にいたいって誰でも思います」
「女たらしは余計ですが、沢北さんにそう言ってもらえるのは光栄ですねー。買い被り過ぎてるけど」
「そうですか? だって私、ダミーの彼女役でも嬉しかった」
なんか、結構恥ずかしいことを言ってるかな。多分言ってるね、なんと答えればいいのか、返答に困るようなことを。素面なのに、いつぞやの酔っ払いみたい。
でも、言いたかった。
「河上さん、いろいろと本当にありがとうございました。あとはもう大丈夫です」
引っ越し先を決めて実際に入居できるまで、最短でも一週間はかかるだろうか。
とりあえず今日は、仕事が終わったら不動産屋さんに直行だな、早くなんとかしたい。
これ以上心配掛けたくないし。
河上さんが作ってくれた朝食を、ぺろりと平らげ、予定通り会社の近くまで車で送ってもらった。
ちょうど、出勤する人が多くなる時間帯、会社の裏の裏の目立たない路地で降ろしてもらったとはいえ、誰かに見られてはいまいか気が気でなくて、御礼もそこそこに、素っ気ない態度で車を降りてしまった。河上さんがどんな顔で見送ってくれたのか、振り返って見れなかった。助手席も朝のドライブも最初で最後だったのに、ちょっと心残り。
────そして現在、
「うわ、広い、うわ……」
定時で上がり、朝、紹介してもらった社宅マンションに来ていた。予想以上の素晴らしさに圧倒されている。独言が止まらない。
楠木君に言われた通りセキュリティー関係は万全で申し分なく、ワンルームとキッチンとはいえかなり広くて、全体に統一感がありものすごくお洒落だ。こんな快適な部屋に、本当に今日の今日で入れてしまった。
え、嘘みたい。何か騙されてない?
父にも連絡を入れた。詳しい事情は説明しなかったが、今のマンションに不都合があり急遽引っ越すことになったと伝えると、週末 わざわざ手伝いに来てくれることになった。
単身パックでいけると思うが、心強い。
数日後、川上マネージャーより、来週から以前と同じ業務に戻るよう指示があった。
良かった、これで元通り、全て元通りだ。住む所が変わること以外は、元に戻れる。
ところが、そう単純にはいかなかった。
これまで、聞こえてはいたけれど、内容を気にしたことのなかった会話が、いちいち引っ掛かる。
「──透弥さーん、久しぶりに飲みに行きましょうよ。前に行ったアジアンダイニングのお店、移転したらしくって~」
「ああ、あそこか。美味しかったよね」
「今週か来週、都合のいい日ありません? 皆で行こうかって話しててーー」
「今週は無理だけど、来週の平日なら行ける日あるかな」
「やったっ、じゃあ来週、透弥さんの予定に合わせますね!」
集団とはいえ、あからさまな好意で誘っているように見えるが、行くんだ、河上さん。あんなに近くてべたべた触れられて、距離も近いというのに、平気なんだ、河上さん。
あの人が女性陣に囲まれて誘いに乗るなんて、これまでもしょっ中だったはずなのに、なぜこうも、目や耳に飛び込んでくる……。
これ何ていったっけ、カラーバス効果?
「七渚さん、打ち合わせの時間もうすぐじゃないですか?」
「え? ああうん、そろそろ行きます」
楠木君と行動する事も、また多くなった。
「何か問題でも?」
「いいえ、特に何も。どうして?」
「難しい顔をして固まっているから」
「ああ、えっと、カクテルパーティー効果とカラーバス効果の違いについて考えてて」
「何ですかそれ、仕事のことじゃなくて? カラーバス効果はたしか、特定のことを意識すると、そのことに関する情報が自然と入ってくるという、心理学用語でしたか」
「おおお、さすが知ってるね、それそれ」
それに、困ってるんです、あーー。
「……髪、切ったみたいだね」
「はい? ああ、透弥さんですか? 切りましたね」
「さっぱりして、涼し気だよね」
髪型が少し変わって、精悍さが増した。
前はもっと中性的な雰囲気だったのに。
もうワカメ頭じゃなくなっちゃったよ。
パッと見て驚いて、すぐに目を逸らしてしまった。
河上さんは、以前とあまり変わらない。
フレンドリーなのは元々だし、仕事上話し掛けられる事は度々あり、相談するしされるし、私もそれに淡々と答えて対応している。
一度でも家に泊まったことがあるなんて、あんなやり取りがあったことなんて無かったかのように、特別な事でも何でもないのだ。
私ばかり、予想外に居心地の悪い日々。
考えたくもない自分の気持ちを、持て余していた。
人に囲まれている様子が気になって仕方がない、立場上スタッフからの相談に乗る事も仕事のうちだが、それすら見ていたくない。これがつまらない嫉妬の感情であることは、とっくにわかっていた。
いつから変わり始めたのだろう、記憶を辿ってみても、思い出せずにいる。
「──私も切ろうかな、ここまでバッサリ、刈り上げにしてツーブロックにして」
「七渚さんは、ショートも似合うんじゃないですか?」
「そう? 行ってこようかな、美容室」
偶然近くで聞いていた本田さんに、渋い顔で止められた。迫力があり過ぎると。
戻りたい。何も感じず一人でいられた日々に。じゃなきゃせめて、河上さんに関することが意識に舞い込んでくるのだけは、勘弁してほしい。
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