【完結】黄色い花

中谷ととこ

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はじまりの朝と、十回の約束



 手を伸ばすと、指先に弾力のある柔らかなものが触れる。これは、なんだ……、温かくすべすべしていて気持ちがいい。

 今が何時かわからないが、おそらく朝だ、早朝。窓の外から朝日が差し込んでいた。

 自宅の寝室の、いつもの見慣れたベッドの上。日中はエアコンを使わずにいられないくらい気温が上がるが朝晩はまだ冷えると思いながら布団を引き上げ、近くにあるその正体不明の温もりも一緒に無意識に腕の中に抱き寄せた。ふわふわとした甘い匂いのする髪の毛に、軽く頬擦りをする。


 ────ん? 髪の毛?


 何かおかしいと気づくのに、時間はかからなかった。眠りから一気に現実に引き戻される。


 これはなんだ、どういう状況だ。
 確かめるのが怖いと思いながら恐る恐る目を開けると、むき出しの白い肩と背中、ダークブラウンの流れるような長い髪が視界に入った。完全に背を向けているので顔は見えない。

 人がいる。一人暮らしの変わり映えしない俺の部屋のセミダブルのベッドの上に、自分以外の人間がいる。


 布団に包まれているものの、何も身に着けていない素っ裸の自分。腕の中には見知らぬ素肌の女性がいて、布団をはいで確認するまでもなく肌と肌が触れ合っていた、隙間なくぴったり。まるで熱い夜を過ごした恋人同士のように。


 な……と、言葉にならない声が漏れた。
 うそだろ、どういうことだ、起き上がりたいけれど身動きが取れず視線だけ動かすと、床とベッドの上に衣服や下着が点在しているのが見えた。いやいや、これは…………
 状況的に見て、真夜中に我が家に侵入した泥棒が勝手にベッドの中に入ってきて一緒に寝ている、というわけではないだろう。

 なんで? 記憶が曖昧で、状況を整理しようとしても考えられない。手掛かりがない。


 ────そう、今週は、
 週明けの月曜から二日間に渡り大規模な社内カンファレンスがあり、各支店や子会社から大勢の関係者が本社に集まっていた。数年ぶりに会う懐かしい面々、お世話になった元上司や、様々な事情で地方に転勤した同期と、久々に顔を合わせた。

 二日目の式典後、レセプションの始まりが16時と、わりと早い時間だったこと。風邪気味だと感じて念のため薬を飲んだのが昼を大分過ぎてからだったか、風邪薬とアルコールを一緒に摂取するのは避けるべきだったか、その影響もあるだろうか、普段ならそんな凡ミスしないというのに。

 特になにがあったわけではない、酒を勧められたら断りにくい相手が近くにいたとか、ここ数年めっきり飲む機会が減って、家で晩酌をする習慣もないために思いのほかアルコール耐性が落ちていたとか、そんなところ。ようするに酔いが早く回った。

 会が終わる頃にはすでに、大分酔っているなという自覚はあったのだが、自分で感じていた以上だった。
 適当に相槌を打ち淡々と挨拶を交わし、解散したところまではなんとか気力で持っていたが、一人になった途端ぐらりときた。
 けれど酔っ払った俺は、そこでもまだ大丈夫だと、誤った判断してしまう。
 今考えるとまともな判断力など残っていない状態なわけだが、このまま帰宅するのはまずいから、少し酔いを醒ましてから帰るか、などと考えた。なにがまずいんだ、さっさと帰れよって話。

 …………で、それからどうした?

 誰かと会ったな……同期の古藤と、上原? もいたような……。

 それでああ、あの店か、駅前の裏通り沿いの。……ぼんやりと薄暗い店内の空気と独特な甘い匂いだけは覚えている。


 自分の酒量の限界も飲み方もわからず記憶を失くしたことは、過去に一、二度ある。十数年も前の、かなり若い頃の話だが。
 だけどその時だって、気づいたら当時住んでいたアパートの自室の廊下で、朝一人で目が覚めたというだけで、人様に迷惑を掛けたわけではない。
 ……ない、ないない、こんなことはあり得ない。ぷつりと記憶が途切れている上に、女性を自宅に連れ込むとか──。

 すうすうと寝息を立てている様子は安眠しているように見えるが、わからない。そう思いたいだけかもしれない。
 傷付けてはいないだろうか、最後まで事に及んだのだろうか、まさか……


 昨日が火曜、ということは今日は水曜で平日。当然仕事はあるが、場合によっては遅れて行くことになるかもしれない。ところで今何時だ?
 自己嫌悪を抱えながら、女性に絡みつく自分の腕を抜いて身体を離そうとする。

 けれど、混乱しながらも冷静でいられたのはそこまでだった。

 体勢を変えようとしたことに反応して、目の前の彼女が身じろぎながらほんの少しこちらに寝返りを打って、その女性の横顔が露わになる。


 え

 衝撃のあまり、一瞬呼吸するのを忘れる。
 全身の血の気が引くとはこのこと。
 信じられない光景に、目を見開いた。

 なぜならそこにいたのは、初対面の見知らぬ女性ではなかったから。

 髪を下ろしているところは、一度も見たことがない。仕事中・・・は、必ず一つに纏めているから。だから全然、気づかなかった──。


「松島」


 思わず名前を口にするが、深い眠りの中にいるのかピクリとも動かない。

 松島 汐里まつしま しおり──毎日のように会社で顔を合わせている、同じ課で働く部下の女性だった。



 なぜ、彼女がここに?

 式典にも親睦会にも出ていないはずだ。
 偶然会って合流したってことか?
 あの店か? わからない、そこら辺の記憶が曖昧で、全く思い出せない。

 混乱は増幅し、冷や汗が背中を伝う。

「松島」

 もう一度、名前を呼んだ。
 今度は起こすつもりで。


 松島汐里は目を瞑ったまま満足げに笑うと、ごろりと全身をこちらに向ける。そして自分がどんな格好をしているかなどお構いなしに抱き着いてきた。完全に寝ぼけている。

 しつこいようだがお互い裸で、素肌の感触と温もりが直に伝わってくるが、喜んでいる場合ではない余裕など全然ない。仕事上の関係しかない彼女とこの親密な状況のギャップに、頭がくらくらする。

 もう一度、思い当たる人物の名前を呼んでみる。他人の空似ではないはずだ。

「松島」

「……」

 ぎゅうぎゅうと抱き着いていた腕の力が緩んで、ぱちりと目が開かれた。

 二重瞼の大きな瞳が、ゆっくりと俺を見上げる。驚愕の表情でひゅっと息を吸ったかと思うと、弾けるように上半身を起こした。ようやく状況を飲み込めたらしい。

「……か、かちょ」

「おはようございます」

 胸が露わになった自分の姿に驚いて、近くにあったタオルケットで慌てて身体を隠した。

「…………ごめ、ごめんなさい私、帰るつもりが、寝落ち……泊まっちゃっ……」

 狼狽えている、目が泳いでいる。

「……泊まるのは構わないが、昨夜は、」

「あ、ですよね、覚えてないですよね、だと思いました。あは、あははは」

 頭の中が真っ白で、なにをどう言えばいいかわからない。


「嫌な思いは、していないか? 申し訳ない、昨晩の記憶が曖昧で……」

「あ、えっと、嫌な思いなんてしてません全然」

「…………そうか」

「き、木藤課長、そんな顔しないでください。無理矢理こうなったわけじゃないですから、ご、合意です、間違いなく。あ、少なくとも私の方は。一筆書いておいた方がいいですか?」

「いや、そんなのはいい、松島が、嫌な思いをしていないなら」

「してません!」

 そう言うと、気まずそうに目を逸らした。

 どうしたらいいのかこの状況を。お互いに、裸のまま話をしていることに限界がきた。


「もう、こんな時間だ、わたし、家に帰る時間ないかもしれません。すみませんシャワーだけお借りしても構いませんか?」

「あ、ああ、うん、それは勿論、どうぞ」

 話は終わりとでもいうように、ゆっくりとベッドから立ち上がる様子から視線を逸らした。下だけは、履いていたようだ。そうか。
 ぎこちない動きでベッドの上と床上に散らばった下着と衣服を拾い集めて、そそくさと浴室の方へ向かう。松島がこの家に来たのは当然初めてだが、浴室がある場所はわかっているようだ。


 なぜこうなったのかわからないって、同じ職場の人間を自宅に連れ込んでおいて、そんな無責任なことが言える?
 あきらかに事後。自分の意思も記憶も定かでない中で一線を越えた、のか?


 ────ああ、でもさっきまで、起きる寸前まで、夢を見ていた。
 そうそう、なぜか松島が夢に登場してやけにリアルな感じがして……おかしな夢だと思ったよ、夢だと思い込んでいた。
 冷静な自分が、部下を淫夢に巻き込むなよと、呆れたように突っ込んでいた。

 待てよ、どこからが夢で、どこからが現実?
 夢の中の、ちりぢりになった断片的な会話の一部が、脳内で再生される。


 *


「──記憶を失くすほど飲んだのに、二日酔いで頭痛とか気持ち悪いとかないんですか?」

「ないな、始まる前にウコン飲んだから」

「いやいや、ウコン飲んだだけであの状態から回復しますかね……アルコールに強いのか弱いのかわかりませんね」

「それほど強くはない、強そうに見られるが」

「たしかに。意外です」

 普通だ、ごくごく普通の会話。これが普通の、プライベートでも付き合いのある関係ならば。でもそうじゃない。

 シャワーを浴びて気を取り直したかのように、昨日と同じ服を着て身支度を整えてきた松島に、ペットボトルの水を差し出した。それを一口二口飲むと、彼女はそのまま会社に向かうと言う。


「……もう行くのか?」

「はい、早めに行きます。家に戻る時間はないので。会社のロッカーに着替えがありますし」

「待って、車で送る、俺もすぐ支度するから」

「え、いいですよ、私昨日と同じ格好ですし、それで課長と一緒に出勤したらいかにもじゃないですか。噂の的になっちゃいますよ」

「ああ、そうか、そうなるか」

 話している間も淡々と荷物を纏めて、急いで玄関へ向かう松島の後を追った。
 玄関の飾り棚に飾ってある一輪挿しの黄色い花が、風に揺れてカタンと傾く。

「では、お先に、」
「松島」

 ぺこりとお辞儀して玄関扉を開けた松島を、咄嗟に呼び止めた。
 彼女は結局、詳細は一切語らない。昨日の夜のことは、何も。

「はい」

「昨日はその……」

「……はい」

「はじめてだって、言わなかった?」


 夢か現実か、松島から言われた台詞が頭の中を巡っている。
 〝経験がないんです〟と、言われた気がする。

 ただの妄想かもしれない。まさか、違いますよと言うかもしれない。
 けれど妄想などではなく、「それは、はい」と、静かに頷いた。


「やだなあ、恥ずかしい……、記憶がないのにそんなところばかり覚えているんですか?」

「…………断片、的に」

 やはりあれは、現実なのか、夢ではなく。

「そうですけど、でも全然大丈夫です、課長はお気になさらず」

「…………」

 いや、大丈夫じゃないだろう…………

「あ、ほらまた、そんな顔しないで下さい」

「ちゃんと話がしたい」

 俺の言葉に目を見開いて、バツが悪そうに俯く。

「わかりました。でも、それまた今度にしましょう、今は、遅刻するので」

 ぎりぎりの時間ではなかったが、落ち着いて話すには足りず、冷静でもない。

「課長も、遅れないでくださいね?」

「……」


 閉じられた玄関扉を呆然と見つめる。

 何をやっているんだよ、俺は。
 立場とか責任とかそんなことよりも、
 これは、由々しき事態だ。

 松島が出て行って誰もいなくなったその場所から、俺はしばらくの間動けずにいた。





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