【完結】黄色い花

中谷ととこ

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約束の終わり、交錯する二人



 目が覚めると、隣には誰もいなかった。

 クイーンベッドの半分に一人きりで寝ていて……あれ、どこに行った…………?
 覚醒しない頭で、ぼんやり視線を動かすが、どこにも見当たらない。今部屋の向こうで音がしたような……トイレか。

 寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
 残り香のような甘い、慣れない匂いに思わず顔が緩む。
 松島が寝ていたはずの場所に温もりはなく、なぜか冷んやりしていた。


「──課長」

 そのまままたうとうとしていると、人が近づく気配がした。緩んだ表情を戻して、声のする方を振り返る。


「おはようございます」

「……おはよう」

 すでに昨日着ていた服に着替えて、今すぐにでも出られる状態の松島が、こちらを向いて立っていた。


「もう起きたのか? 今何時……」

「まだ6時前ですよ。起こしちゃいましたね、ごめんなさい。うるさかったですか?」

「いや、うるさくはないけど」

 なんとなく、あれ? と、微かな違和感。

 あれ? なんだろうな、思ってたのと違う。
 もっとだらだらとゆっくり起きて、裸のまままた抱き合って、甘い時間を過ごしてみたり……なんてことは? 
 散々抱き合った夜の翌朝の、まったりとした空気が薄いように感じるのは、気のせいだろうか?


「身体は大丈夫?」

「はい、大丈夫です、この通り、動けます」

「……元気だな」

「元気ですよ」

 いつもの、感じのいい、松島らしい笑顔。
 元気ならまあいいのか、艶っぽい時間は閉じられてしまったようだが。

 もう一度抱きしめたくて、ここにおいで と言いたいが、なぜか言える雰囲気ではなくて、寝転んだまま身体を横にし頬杖をついた状態で、じっと彼女を観察する。
 服をきっちり着込んでスマホの画面を見ており、あまりにも淡々とした様子だ。上半身裸で寝ている俺の方がおかしいみたいじゃないか。


「今日なんか用事あるのか? 早く帰らないといけないとか」

「あ、はい、そうなんですよ、私今日予定があって、この近くに無人駅があるようなので、先に帰ろうと思って今アプリでタクシーを」

「は?」

 説明のできない違和感が、形を帯びる。

 電車で帰るって、一人で? なんで?


「松島?」

「あ、えっと、話があって」

 たたたっ と軽やかに近づいてきて、ベッドサイドに腰を下ろす。
 先に帰る? 全然意味がわからないが、とりあえず身体を起こした。

「起きなくて大丈夫ですよ、そのままで」

「……いやいい、起きる」

 布団を剥いで、パンツ姿でその場に立ち上がると、俺からパッと顔を逸らして、「とりあえず服を着ていただいて」と言われる。
 はあ? 今更なんで、全裸ならわかるがこれくらいで。お互いに昨日しっかり全部見たよな? そういう関係になったよな? つき合うんだよ、な? あれ?


「昨日のお話なんですけど」

「うん」

「私は、課長とおつき合いするつもりはありませんでした。だから、聞かなかったことにさせてください」

「……ん?」

 寝起きだからか、頭が回らない。言われたことの意味がわからない、言葉が出ない。

「最初に約束したじゃないですか、十回って。課長が責任取るとか言うから、そうしましょうって話をしました」

「……したな」

 そうだ、しましたね、その十回目が、
 昨日だった。

「私はずっとそのつもりでした。課長と一緒にいろんなことができて、一人では行きにくい場所に行けてすごく楽しかった、満足しました」

「何を言ってるのか、理解できない」

「え、どうして?」

 どうしてって、俺が聞きたい。
 それならなんで、

「それなら昨日どうして、俺と寝た?」

 つき合ってほしいと言って、はい、つき合います、とは言われていない。
 思い返すと、彼女の方から好きだとも言われていない……あれ? 一度も?

「それは、」

 困惑する様子もなく、俺の顔をじっと見つめ、堂々と答える。

「最初の一回だけでは、心許なかったので」

「心許ない?」

「はい。課長の記憶がない中でやったあの一回では……だからもう一度、素面の課長としたらどうなるんだろうっていう、好奇心です。経験の多い慣れている課長となら、いいかなって。女性としての自信が欲しかった、です」

「女性としての自信……」

 おうむ返しのように、松島が言ったことを口に出すが、言葉が頭に入ってこない。

「この歳まで経験がないって、そういう人も増えてますし、気にする必要はないって思ってたんですけど、でもやっぱりどうしても気になってました、皆んな普通にできてるのにな、ってコンプレックスだったのかな。課長のおかげでそれも無くなりましたし、私的には、責任を取ってもらうようなことは何もありません」

「本気で言ってる?」

「はい、本気で言ってます」

「いやいや……」
 
 そりゃないだろ、汐里さん、
 あんなに乱れて、何度もしがみ付いて離れずに、甘い時間を過ごしておいて、すべてが虚構だったと?


「好きでもない相手と、できるのか? 誰でも良かったってこと?」

「課長のことは、好きですよ。尊敬してますし。でもそれが恋愛感情かっていわれると」

「……」

「違うかもしれない」

「俺は好きだよ」

「……」

「好きだ。松島が俺をそう思えなくても、俺は松島のことが好きだ、これからも一緒にいたいと思ってる」

「……そんなこと、簡単に言わないでください。課長それ、勘違いだから」

「簡単になんか言ってない」

「紛いものですから、間違わないで」

「なぜ松島が決めるんだ、俺の気持ちを」

「わかるからです」

「わかってない」

「課長は、今のこの状況に流されて、私とつき合おうなんて思わなくていいんですよ、よく考えてください? 私も課長もいい歳で、万が一このままつき合うことになったら、また課長思うでしょう? 責任取らなくちゃって。そういうの要らないんで」

 わからない、でも、先のことを考えず安易な気持ちでつき合おうとは思わない。
 同じ会社だし、年齢的に、俺はどうでもいいけど松島は適齢期でもある。具体的に結婚まではまだ考えていないけれど、頭の中に全くないわけではない。それが、重いと?

「とにかく、ごめんなさい、ちゃんと真剣に言ってくださったのにごめんなさい。でも私、そんなつもりなかったんです。十回だけ楽しい時間を一緒に過ごせたら、それで十分だったので。これ以上はもう……、はい」

 意志の強い目で、迷いなく貫いてくる。
 松島の中にあるスイッチが切り替わったのは、間違いなかった。

 なんでなんだ。


「何を考えてる?」

「え、別になにも」

「うそだ」

「うそじゃないです、やっちゃったな、って。課長に悪いことしたな、って。それから、早く帰らないとなって」
 
「……」


 ショックで悲しいというより、衝撃が強くて驚きの方が大きい。自然と目を瞑った。
 俺がおかしいのか? 

 おかしいのかもしれないな、浮かれて調子に乗って、かわいくて仕方がなくて。
 しつこくネチネチやり過ぎたかもしれない、本当のところの理由はわからない、でも、

 松島がそう言う以上、頷くしかない。
 俺は上司で、彼女は部下だ。

 理解できず、頭の中がぼんやりしてきて、
 判断力は完全に失われた。


「わかった」

「……すみません」

「つき合えないことは、わかった、けど心配だから、家までは送らせてくれ」

「え、でも」

「俺も今すぐ準備するから、一人で帰るなんて言うな。頼むから」

「……はい」


 気持ちが通じ合ったと思ったのも、彼女からの愛情を感じたのも、勘違いだったらしい。

 自分の中の正解が、全然違っていたとか、感覚が鈍っているのだとしたら、痛すぎる。


 いい大人なので、どんな状況でもそれなりに対応はできる。思考は停止していても、普通に会話くらいは。虚無ではあるが。
 だから帰りの車内は、拍子抜けするほど普通だった。暗くもならず、明るくもならず。


「──分譲マンションを探してるのか?」

「分譲マンション……ああ、二川ちゃんに聞いたんですか?」

「前にちょっと、セミナーの話を少し」

「そうですか、セミナーの話を」


 しーんとなり、それ以上何も言わなかった。
 買うも買わないも話そうとしない。
 聞いたのはまずかったのだろうか? それもわからない。




「運転本当にお疲れ様でした、それから、いろいろとありがとうございました」

「ああ」

「楽しかったです」

「うん」

「課長これ、ガソリン代とかこれまでの食事代とか」

 チラリと見ると、白い封筒を手にしていた。

「要らない。好きでやったことだから」

「だめです、全部じゃないし、私の分にも足りてないかも。ほんとはもっと気の利いたものをお渡ししたかったんですけど、課長が喜びそうなもの、選べなくて」

「ほんとに要らない」

「それだと私の気が済まないので、受け取ってください、お願いします」

 引く様子はなく、それ以上言い争っても仕方がないので、わかったと頷いた。
 助手席にそのお金の入った封筒を残して、静かに車から降りる。
「ではまた月曜日に」って、明日か。


 少し離れた場所まで離れて深々とお辞儀をし、マンションの中へと入って行った。
 何度か、このマンションへも車で送った。
 深い溜息が出て、すぐに臨時の駐車場を後にする。
 一緒に過ごした時間は短いが、なぜだか妙に濃かった、濃すぎた。そのせいか、失望、寂しさ、喪失感がどっと押し寄せる。

 失恋とか未練とか、まだそこまでもいっていない。整理できず、今起こったこと全てが信用ならない。
 ただ今日は、ずっと一緒にいられると思っていたから。両手から大事なものが擦り抜けていったようで、呆然としている。
 松島のいない助手席が、虚しい。


 単身用のマンションは、どこら辺を考えているのだろうか。詳しく聞いてみるつもりだったが、そんな話は、必要なかった。彼女の今後の計画に、最初から俺はいなかったのだから。


 普段は当たり前にある、冷酷とまで言われている冷静さが、なぜ機能しなかったのか。
 その日俺は、大切なことを見落とした。

 昨晩、ほとんど寝ずに過ごした松島の目が、赤く潤んでいたことも、目の下のくまも。
 二川の名前が出た時の、不自然な反応も。
 マンションの自室に戻った彼女が、罪悪感に駆られ大号泣していたことも。

 さすがにわかりません、霊能力者でも占い師でもないですし。
 でも多分、人のことなら見抜けたはずだ。
 だから俺が悪い、そういうこと、後々わかりますが。




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