花さんと僕の日常

灰猫と雲

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過去

花の章 「小学校2年生」

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私は決して良い母親ではないことを自覚している。
例えば秋が小学2年生の頃、作文の宿題のために私の職業を聞いてきた。
「花さんは絵本を書くお仕事をしてるんだよね?」
小さかった頃、初めて出版した絵本が店頭に並ぶその日に近所で1番大きな書店に連れて行き、私の本を前に静かに興奮する秋の姿を思い出した。



小さかった頃秋は絵本が好きだった。
私が読んで聞かせる時は膝の上にちょこんと座り終わるまでジーっと食い入るように見つめていた。
終わるとパァーっと笑顔で振り向き「もう1回読んで」とねだった。
その仕草や表情が愛しくて愛しくて、この子の母親になって良かったと心の底から思った。
この子の好きな絵本を作る仕事をしたいと思い、秋が眠ったあとで画用紙に絵と文章を書き出版社に送った。
無論それで絵本作家になれるほど世の中は甘くなかったが、しばらくして出版社から連絡があり女性絵本作家のアシスタントをしてみないかと誘われた。
秋も保育園に行く年頃になったので時間や条件を調整し、私は秋の大好きな絵本を作る人(を手伝う人)になった。先生は私より少し年上で私にとてもよくしてくれた。
秋を何度か大好きな絵本がたくさんあるその職場に連れて行ったことがある。
たくさんの中から1冊の絵本を手に持ち私のそばまで来る。
「花さん、あ!ごめんなさい」
家にいるときは洗濯のときでも掃除のときでも手を止めて秋に本を読んであげていた。
この時もそうしてあげたかったが、お金をもらう仕事中となるとそうもいかない。
けど秋は賢い子で雰囲気に気付いたのかねだるのを途中でやめ「ごめんなさい」と謝る。
秋は何も悪いことをしていないのに謝らせてしまった、と自責の念にかられる私に先生は気付いたのか「かわりに私が読んであげる。おいで」と手招きした。
私の顔をチラッと見る秋に
「その本を描いたのはそのお姉さんだよ。いいね、秋。凄い人に読んで貰えるんだよ」
というと「おぉ~!」とえらく驚いた顔で絵本と先生の顔を見比べ、トコトコと先生の膝に座った。
静かにジッと本を見つめ聞いている姿をチラチラと見ながら絵本の背景に色を塗る。
「お~わ~り」と先生は本をパタンと閉じた。秋は先生に振り返ってパァーっとしたあの笑顔を見せ
「ありがとう」
とお礼を言った。
先生は
「なにこの子!母性くすぐられる、ヤバイ!可愛い~!子ども欲し~い!」
と愛おしそうに後ろから抱きしめた。
あの何とも言えない天使の笑顔は他の人にもするんだ…と内心とても寂しかった。
けれど私の時には必ず言うはずの「もう一回読んで」を先生には言わなかった。
あれは私だけの特別なんだ、と背景の色塗りを放り出して抱きしめたくなった。
私にも、先生にも愛おしいと思わせるこの子はもしかして天性のモテ気質があるかもしれないとちょっと将来が心配になった。
実家に帰った時母にそう言うと
「あなたバカなの?」
とキツく怒られた。
先生はあの一件からすっかり秋の大ファンになって、「今日は来ないの?」「会いたいから連れてきてよ」と秋に恋い焦がれていた。
そして秋が行くとどんなに忙しくても「あぁ~来た~!あき~!」と仕事を途中でほっぽり出すほどメロメロになっていた。
編集者から〆切間近は秋の出入りが禁止されるほどだった。



その先生のところでたまたまチャンスがあり私名義で数冊の絵本を出すことができた。
そこそこ売れてちょっとだけ収入が増えた。
今でも私の書いた絵本は書店に置いてあり印税が入ってくるが、それで親子2人悠々自適に生活できるわけがない。
お世話になった先生の結婚・引退を機に、私も転職する事を決めた。

私がまだ絵本を描く仕事をしているのかと尋ねた時の秋はもう小2で、すでに絵本を卒業し児童文学を読み始めていた。
本当に本が好きな子だった。
けれど他の男の子達と同じくらいマンガも読んでいたし、アニメや戦隊モノのテレビを観る普通の男の子だった。
特に気に入って観ていたのが主人公が諜報活動を行い、ピンチになると腕についたメカメカしい時計を光らせ仲間とともに変身するヒーロー戦隊の番組だった。
さすがの私も秋の好きな職業だからといってどんな仕事にも就けることはできない。
私が出来るのは現実にある仕事だけで、どんなに私が切望してもメカメカしい時計は手に入らず変身することもできなかった。
「ん?今はスパイだよ」
本当はヒーロー、いや女性だからヒロインか、そう答えたかったけれど実際は主人公が変身する前の職業にしかなれなかった。
私はダメな母親だ。
それでも秋は
「そうなの!スパイなの!すげぇ。僕の花さん超かっこいい!」
と絵本を読み終わった後に振り返った時のように目を輝かせて喜んだ。
「僕の花さん」という部分は私の魂が震えるほどに嬉しかった。
命の危険はないけれど、それでもやはり仕事内容が仕事内容だけにあまり気乗りしない後ろめたい仕事だった。
だからその秋の言葉を聞けただけで、この仕事をした意味があったと思う。
秋にどんなスパイ活動をしているのか尋ねられたが、頭の良い子とはいえさすがに理解はできないと思いスパイという言葉を辞典で調べてごらんと教えると、秋は祖父母が買い与えた分厚い辞典の「さ」行を本棚から出して一生懸命にその意味を理解しようとしていた。
わからないこと、困ったことがあれば宿題を手伝おうと思ったが、秋は結局私を頼らず原稿用紙2枚を書き上げた。

授業参観当日、私が教室に入るとまだ父兄はまばらだった。
秋の姿が見えるよう窓際に陣取る。
授業の時間5分前になるとぞろぞろと父兄が入ってきたが、皆一様に私よりも歳が上で落ち着いた雰囲気を醸し出していて、決して良い母親ではないと自覚している私は、自分が母親として未熟である事が秋に申し訳なくなり少しだけ顔を伏せた。
それを知ってかしらずか視線を感じて顔を上げると秋がとても嬉しそうに、けど恥ずかしそうに私を見ている。
視線が合うと遠慮がちに小さく手を振った。私も小さく手を振り返すと満足げに前を向きなおし姿勢を正した。
少しだけ母親としての自信を取り戻すことができた。
国語の授業では宿題の作文を子供達が親の前で読む事になっていた。
『僕のお母さんは市役所に勤めています』
『私のお母さんは看護師です』
と当たり前なのだがクラスメイトの親たちは普通の職業についていた。
秋は大丈夫かしら?と少し不安になる。
そしてついに秋の番になった。

「僕のお母さんのお仕事はスパイです!」

胸を張り大きな声で最初の一行を読み上げると教室は笑いに包まれた。
入り口近くにいる女性なんかはハンカチを取り出し目尻を吹き上げている。
秋を見るととても不機嫌そうにそれでも元気よく作文を読んでいたが、その声は段々と萎んでついには途中で読むのをやめ、天井を見上げていた。
秋自身はきっと天井のもっと上にある空を見ているに違いない。
あの子は怒った時や困った時にジッと空を見たまましばらく動かなくなるクセがあった。
まるで自分のこれからすべき行動を空にいる神様に尋ねるように。
私は秋のその姿を見るのがとても好きだ。
人は何かにつまづいた時や壁にぶち当たった時には下を向いてしまいがちだが、秋はジッと空を見上げる。
自分1人ではどうにもならない時、空を見て助けてもらう事を本能で知っている秋が私は誇らしい。
「あ~き」
その姿がたまらなく愛おしくて思わず名前を呼ぶ。
ねぇ秋、今は私がいるんだからお空じゃなく私を頼りなよ。
「最後まで読みなさい、ほれ」
大丈夫、ここにあなたの味方がいるから。
もしもあなたが今、あなたの作文を笑う人達のせいでその小さな心を痛めているなら、私は絶対に許しはしない。
私の命をかけて、私の全ての力を駆使して残らず全員叩き潰してあげるから。
その想いが通じたとは思わないけど、秋は胸を張り直し、原稿用紙を見ながら再び読み始めた。
さっきよりも大きな声で。

「危ない仕事をしながら僕のために働いて、だけど帰る時間には家にいてくれて、美味しいご飯を作ってくれる花さんが大好きです!」

作文をそう締めくくると涙が溢れそうになった。
私のことを「大好き」と言ってくれた。今まで作文を読んだ子達の中で母親を「大好き」と書いていた子は1人もいない。
小2とはいえ自我も理性も持ち始めている年齢の子が人前で「お母さん大好き」とはなかなか言えない。
もちろん秋だってそうだ。
にも関わらずクラスメイトの前で、先生の前で、たくさんの父兄の前でそう高らかに言える秋が私も大好きだ。
もう死んでしまうんじゃないか?ってくらい大好きだ。
気がつくと思わず手を叩いていた。
鼻の奥にツンとした痛みを感じながら我が子の頑張りを褒め称えたいと思ったら自然とそうしていた。
すると思いもよらないことが起こった。
それまで笑っていた父兄がみな秋のために拍手をしてくれていた。
私は手を叩いてくれた一人一人に手を取りながらありがとうと言いたくなったけど、一度だけ深々と頭をさげるのみにとどまった。
そして自慢の息子に向かってもう一度拍手を送ると秋がこちらを向いて嬉しそうにあのパァーっとしたあの笑顔を私にくれた。
キュンキュンして死んじゃうかと思った。


授業が終わり子供達は教室で帰りの会をしている。
私は二者面談のため廊下で待っているとたくさんのお母さん達に囲まれた。
「七尾さん、秋くんの作文すごく良かったですね」
「時々うちに遊びにくるんですけどとても礼儀正しい子で。これからもうちの子と仲良くしてくださいね」
と絶賛の嵐だった。
さっきこの人達を私の全ての力をもってブチ殺す!と思った自分の幼稚さを少し反省した。


「さすがにスパイではないですよね?」
二者面談でまず最初に先生がそういうのも仕方がないことだ。
まず普通に考えてありえない。
「あの子の作文に嘘はありません。国家機密に関わることなので詳しくお話することはできませんが…内閣府に勤務しています、とだけ。もちろんパートですけど」
先生はひどく驚いて
「あ、いやすいません。今の今まで冗談だと思ってました。絵本作家と記憶していたもので」
「あの子が入学した時は確かに絵本を描いてました。去年の夏には引退したんですけど」
先生はそれまでの硬い表情から打って変わって柔らかい笑みを見せた。
「会った時一度聞きたいことがあったんですがよろしいですか?」
「え?はい…今の仕事のこと以外のことなら」
先生は座っていた机から1冊の絵本を取り出した。
「娘がこのシリーズ好きでして。ここに出てくる男の子は七尾くんがモデルなのですか?」
自分の息子を主役にする親バカの絵本作家なんているのだろうか?
そもそも息子に凄いと言ってもらいたいだけで絵本作家になろうとした人はいたのだろうか?
もしかしたらこの世で私だけなのかもしれない。
「いや、お恥ずかしながら。あの子は小さい時絵本が好きで。そんな好きな絵本の中に自分がいたら嬉しいかなあって」
あははと照れ隠しで笑うと先生は満足そうにうなづいた。
「きっとわかっているとは思いますが、あなたのことを七尾くんはとても大切に思っています。私が言うことではありませんがもし今の仕事であなたを失う事があれば、という万が一のことを少し考えてみてください」
あの子が心配するような命の危険はない事と、もともとそんなに長居できる職業ではないと先生に伝えると「良かった」と自分のことのようにホッとしてくれた。
とても良い先生に担任になってもらえたと思った。
秋のことよろしくお願いします、と一礼してイスから立ち上がると先生はペンを取り出し「サイン、もらえませんか?」と父親の顔をして照れていた。
「ななお はな」とひらがなで表紙に書き絵本を返すと先生がお礼と、少しだけ遠慮気味に「もう描かないんですか?」と私に尋ねた。
「秋はもう絵本は読まないので。私はあの子に喜んで欲しいという理由だけで絵本を描いていたダメな作家ですから」
と笑って言うと先生は
「そうですか、とても残念です。けど帰ったら娘に自慢しますよ。それでは、お体に気をつけて」
と優しい笑みで私を教室のドアまで送ってくれた。

学校の玄関で外履に履き替え外に出ると校庭に秋の姿があった。
帰らずに私を待っていてくれていたようでブランコを勢いよく漕いでいた。私に気付くと「花さーん!」と叫びながら全速力で走ってくる。
「帰ろうか?ちょっとスーパーで買い物するから付き合って。作文うまく読めたから今日は秋の好きなもの作ってあげる」
と言うと即答で
「ビーフシチュー!」
と帰ってきた。
うわぁまためんどくせぇのリクエストしてきたなぁと苦笑いしながらも、なんだかんだで愛しいこの子のためにこれから私は牛肉をコトコト煮込むのだ。
「先生と何話したの?」
たくさん話したけれど最初に頭に浮かんだのが秋のことを心配し、万が一のことを考えてほしいという先生の言葉だった。
「あはは、先生に怒られちゃった」
そういうと秋は少し不機嫌そうに空を見上げた。
今の感情をどう表せばいいのか空に聞くように。
「大丈夫。先生は秋と花さんの味方だよ」
と言うと私の顔を見つめ、嬉しそうに「じゃあいい」と手を繋いでスキップのように歩くのだった。
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