花さんと僕の日常

灰猫と雲

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秋の章 「Noah's Ark 中編」

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俺は今、とても動揺している。
たくさん理由はあるけれど、1つはまず女の子の部屋にいるからだ。
これは初めての経験だった。
彩綾とは幼馴染だけどタケルと2人して俺の家ばかりに来ていたから彩綾の部屋までは入ったことがない。
初めての女の子の部屋はその、なんていうか、率直に言うととてもいい匂いがした。
香水?ともちがう、アロマ?なのか?とにかく俺にはよくわからない女子の匂いがしてとても落ち着かない気分にさせた。
2つ目にその女の子の部屋が俺の家のリビング以上の広さだった。
なぜ子どもの部屋にこんな広さが必要なのだろう?と思うくらいだ。
3つ目に俺の家にある以上に壁には本がズラリと並べられていた。
ざっと見ても2000冊はあるだろう。
なんて、なんて素敵な部屋なんだ!
ラインナップの中には俺の苦手な洋書もズラリと並んである。
変な意味じゃなくて俺はここに3ヶ月ほどホームステイしたいと思った。
変な意味でもこの部屋に泊まりたいと思った。
こっからは立て続けにいこう。
4つ目に乃蒼の部屋に俺を含め3人いてテーブルを挟んで何故か乃蒼の母親が座っていること。
5つ目にその乃蒼の母親が色白金髪で瞳は青いのにガッチリ和服を着て正座していること。
6つ目にその母親がめっちゃ流暢な日本語でマシンガントークをしていること…。
などなど挙げたらキリがないくらいな理由で俺は動揺している。
「お母さん、ちょっと。秋がドン引きしてる」
乃蒼は母親を肘でつつきながらそう言うと、目の前の白人女性は「あっ」と小さく言って両手で口を押さえた。
「ごめんなさいね七尾くん。私あなたに会えてめっちゃ興奮しちゃって喋りすぎちゃった」
40代半ばくらいだろうか?
そんな大人な女性がなぜこんな貧民の中学生に会って興奮するのか理由がわからなかった。
「あ、あの…。あ、そうだ。これ、つまらないものですが良かったらどうぞ」
俺はとりあえず買ってきたケーキの箱を2人の前に差し出した。
今となってはこんな貧民が買えるようなケーキでは手土産にならないのではないかと不安しかなかったが、箱を見るや否や
「あ~!ミシィのケーキ!ここのケーキ大好きなの」
と喜んでくれた。
お母さんの方が。
「ミシィは私の国の言葉でお嬢さんって意味なの。知ってた?」
「いえ、意味までは知りませんでした。表札に書いてた名前を見たんですけど、フランスの方ですか?」
2人が驚く。
その姿が2人とも良く似ている。
「よくフランスってわかったね?ピエール・ルメートル?」
「悲しみのイレーヌ?名前見てパッと思いついたのはルノアールの方。イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢。俺が1番好きな絵なんだ」
突然乃蒼のお母さんが笑い出す。
俺らは何がおかしいのかわからなくて不思議な顔を2人でしていた。
「あなた達、中学生の会話じゃないのわかってる?ルメートルもイレーヌ嬢の肖像画もあなた達の歳じゃ話題になる事なんてないものよ?もっと中学生の男女らしい会話をしなさいよ」
と言い残しケーキとお茶を用意してくるからね、と部屋を出てキッチンに行った。
「確かに、なんか嫌味な中学生の会話だったかも」
「そうだな。じゃあ乃蒼のお母さんが言うように普通の会話しよう」
俺は姿勢を正した。
幼少の頃から厳しく教えられたせいで正座の姿勢には自信がある。
膝に手を置き頭を下げた。
多分今のこの姿勢はお手本になれるほど綺麗なはずだ。
「この間はごめん。俺あの時お前のことまで考えられなくなって物凄い嫌な言い方しかしてなかった。ホントごめんなさい。」
乃蒼はしばらく黙ったままだった。
俺は乃蒼が何か言うまで頭を上げる気はなかったからそのままの姿勢で乃蒼の声を待った。
視界の端と音で隣に座ったのがわかる。
そして乃蒼の手が俺の両肩に触れ俺の体を持ち上げた。やたら凄い勢いで…。
その激しさに驚いて乃蒼を見ると何故か困惑の顔を浮かべていて、それを見た俺も何故そんな顔をしているのかわからず2人して困り顔になっていた。
「わからない」
「え?なにが?」
「あの後ゆっくり考えたらアレは私の方が悪かったって思うの。けど秋は自分が悪いと思って謝ってくれてるからその気持ちも尊重したいんだけど、でもやっぱり私があんな事言わなけりゃ秋も嫌な言い方しなくて良かったはずだし、だけど秋の謝る気持ちも無下には出来ないし。堂々めぐりなの。私どうしたらいい?」
あぁ、難しすぎてわからない。
「乃蒼はどうしたいの?」
「私も秋に謝りたい。ごめんね秋」
乃蒼も俺に向かって頭を下げた。
俺ももう一度頭を下げ「こっちこそごめん」と言った。
2人して謝ったところでお母さんが部屋にケーキとコーヒーを持って入ってきた。
「謝れたの?乃蒼」
「うん」
「そう。良かったね。七尾くん、ごめんなさいね」
お母さんまでそう言うので俺は恐縮してしまって
「いや、全然そんな。俺の方が乃蒼に酷い事言ったし、俺の方が謝らなきゃいけなかったから」
コーヒーとケーキを俺の前に置きながら「ううん、そうじゃなくて」と申し訳なさそうにお母さんは言った。
「私が悪いの。雅号で出展してるのに空桜草人が七尾くんだって乃蒼に教えたのは私なの」
空桜草人は俺が展覧会で出す時の雅号である。
花さんと俺、ばあちゃんとじいちゃんが漢字一文字ずつ持ち寄ってくっつけただけのお粗末な雅号だ。
「けどなんで乃蒼のお母さんが?」
「あの展覧会のスポンサーのひとつがお母さんの会社なの」
おいマジか!
あれ結構デカイ展覧会だよ?しかも今さらっと「お母さんの」って言ったか?て事はお父さんの会社とは違うのか?
「私は日本に来てもう20年になるけど来日した時から華道を習ってたの。10年前くらいから出展もしてたけどなかなか賞が取れなくてね笑。センスないのね。でもやっと審査員特別賞もらって。その時の最優秀賞の作品見た時、素晴らしすぎて花の奥深さを痛感したわ。最優秀賞は「花とはな」。一昨年の帝国花展よ」
最初に最優秀賞をとった俺の作品の名前だ。
「それ以来私は空桜草人の大ファンでね笑。今回縁あってスポンサードを頼まれて引き受けたんだけど、出展者一覧を見て驚いたわ。まさか空桜草人が中学生でしかも乃蒼と同じ中学校に通ってて、なおかつ茜さんの孫だなんて」
「ばあちゃんも知ってるんですか?」
「直接は知らないけれどあなたのお祖母さんはこの世界の功労者よ。私と乃蒼の師匠の師匠でもあるの」
世の中は狭いとよく聞くけれど本当なんだなと思った。
まぁ花の世界は狭い上に繋がりがあるから仕方のないことかもしれない。
「とにかく、あなたの素性を軽々しくこの子に漏らしたりしてごめんなさい」
深々と頭を下げるその姿はとても綺麗で、そこらへんの日本人よりも綺麗なお辞儀をする人だと思った。
「いえ、そんな。頭あげてください。俺はこれ以上広まらなかったらそれで良いですから」
と言うとスーっと静かに頭を上げ、見えた顔は一点の曇りのない清々しいものだった。
「約束します。私と乃蒼はあなたの事を誰かに話したりはしません。」
乃蒼も口を固く結んでうんとうなづいた。
「ありがとうございます」
俺は、この親子が好きかもしれない。
「俺があまり人に知られたくないのは…自分の進路を今の時点で誰かに決められたくないからです。俺は祖母から草天流を継ぐよう小さい頃から言われ続けてます。でもまだ中学生だし、これからしたい事やなりたいものが見つかるかもしれないし。だけど俺に継がせたい人達が周りを固めてプレッシャーかけられたりしたら優柔不断な俺は断れなくなりそうで。だから華道とは極力付かず離れずの距離感を保ってたいんです。あと単純に男子が花って、普通に考えてあまりカッコ良いものじゃないし笑」
「そっか。なんか大変なんだね。ごめんね秋の気持ちも知らないで」
シュンとなる乃蒼をみて、これまたシュンとなるイレーヌお母さん。
「さっきのでもう謝るのナシ!てかさ、3人して謝ってばかりじゃない?もう終わり!ケーキ食べませんか?」
せっかく同年代の女子の部屋にいるのにしんみりした会話を続けるのはもったいない。
それより俺には気になる事が2つある。
パンツはどこにしまってあるのか?
それと…
「乃蒼さぁ、もしかして学校ではカラコンなの?」
俺の知ってる乃蒼の瞳の色は真っ黒なのに今は薄い青だった。
顔はいつもの乃蒼なのに瞳の色が違うだけでいつもと印象がガラリと変わるものだ。
「髪も黒に染めてるよ」
日本人は多数が正義だ。
もちろんマイノリティの格好よさもあるが、憧れが妬みに変わると面倒臭いことになるのも日本人の特徴の1つでもある。
もちろん悪い意味で。
「そっか。その目の色、綺麗だな。もったいないよなぁ。いつか何もしてないそのまんまの乃蒼を見てみたいよ。きっと綺麗だろなぁ。…あ!もちろん今も十分綺麗だけど、なんていうか…人形みたいだろうなぁって」
思ったままの事を口にしただけなのだが乃蒼も乃蒼ママもケーキを食べる手が止まり口を開けてこちらを見ている。
「ねぇ乃蒼。七尾くんて、こういう感じなの?」
「うんそうだよ。変でしょ?」
「そうね笑。でもこういうところがもしかしたら芸術的な才能の秘訣なのかもしれないね」
「そうなのかな?けど無自覚なのもダメじゃない?」
一向に話が見えてこない上にどうやらダメ出しをされているらしかった。
「あの、なんの話ですか?」
「気にしないで。こっちの話」
気にはなったけどハッキリ言われたら傷つきそうなので深追いはやめておく。
「七尾くん。この子のこと乃蒼って呼んでるんのね」
しまった、と思った。
いつもみたいに呼んでたけど親の前なのだから鈴井さんとか乃蒼さんとかにしとけば良かった…。
「あの、すみません」
「あ、違う違う。この子のホラ、人付き合いが異常に下手でしょ?小学校の時も友達が1人しかいなかったし。ましてや男の友達なんて出来たことないし」
「ちょ、やめてよ私の黒歴史!」
鈴井さん…あなた今も友達と呼べるの僕くらいですよねぇ?
今も黒歴史の真っ只中じゃないでしょうか?
「ホントに昔から人見知りでコミュニケーション取るのがヘタな子でね。緊張しすぎてうまく話せなくなっちゃうのよね。同じ歳でも敬語になるしカタカナになるし。だから中学に入る時もまたいじめられないか心配で心配で」
また?
またってことは、小学校の時の乃蒼はいじめられてたってこと?
「ちょっとお母さん」
「けど中学生になってから家ではよく七尾くんの話をするようになって。友達ができたみたいで私達ホッとしてたのよ」
「お母さん!」
「この子、普段から秋が秋がって下の名前で言うからてっきり女の子だと思ってたのによくよく聞いたら男の子だっていうし。友達できただけでも驚いてたのにそれが男の子だなんて2度ビックリよね?」
「お母さんてば!」
「そしたら昨日いきなり七尾くんが家に来るっていうから私てっきり2人が付き合い始めたんじゃないかって思って」
「ねぇ!そろそろやめてよ!」
「でも七尾くん、お願いがあるの」
突然のお母さんからのお願い。
「はい、なんでしょう?」
「避妊だけはちゃんとして」
綺麗だった正座が腰から砕け落ちた…。
「お互いが良ければいいって思うかもしれないけど、親としてはやっぱり…。ホントはおっぱいくらいで抑えて欲しいところだけど止まらないわよねぇ、おっぱいだけなんて。中学生だものねぇ」
お、お、お、お、お母さんっ!?
お、お、お、お、おっぱい!?
「イレーヌ…おどれいい加減にさらせ」
突然低い声が聞こえたのでお父さんでも帰ってきたのかと思ったら声の主は乃蒼だった。顔を耳まで真っ赤にして怒りで手にはフォークを持つ手が震えている。
「少し黙れ。目玉刺すぞ?」
「お…おい、おっぱいやめろ!落ち着け」
「ちょっと!いま私のことおっぱいって呼んだ?」
ごめんなさい、つい。
「せ、洗濯の途中だったわ!七尾くん、ゆ、ゆっくりしてってね」
イレーヌ婦人は慌てて立ち上がり逃げるようにして部屋から出て行った。
「まったく。あほフランス人が」
まだ怒りが収まらないようで食べかけのケーキを一口で胃袋に収め、イレーヌが残していった分までしっかりと食べきった。
「楽しいお母さんじゃん。ちょっと高低差激しいけど笑」
「ああいう親持つこっちの身にもなってよね」
そうかな?花さんとはタイプが違うけど結構似てるんじゃないかな?
あ!花さんのこと忘れてたっ!
「ごめん、そろそろ帰るよ」
「え?もう?ゆっくりしてけばいいのに」
確かに壁にあるたくさんの本のタイトルを眺めているだけでも楽しい時間が過ごせそうだ。
「すまん。この後約束あるんだ。遅くなるとふてくされるから。まだお前には聞きたいことあるんだけど、また学校で」
「聞きたいこと?」
「ああ。例えばお前の親父さんはなんの仕事してたらこんなマンションに住めるの?とか、本当のお前の髪の色は何色?とか。ま、他の人に聞かれたらお前も嫌だろうから誰もいない時じゃないと聞けないけどな」
「そうしてくれると助かります。アレだね、お互い誰にも言えない秘密握りあってるね」
秘密の共有とはなんでこうも人との距離をグッと近づけるのだろう?
急だったけど今日はここに来てホントに良かったと思った。
何よりの収穫は乃蒼の母親が面白トンデモお母さんだとわかったことだ。
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