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第10話「miss」
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小学生の時は良かった。
周囲からどういう風に思われていたのかは別にして、あくまでも自分的に、あの頃なら戻っても良いと懐古出来る時間を、優は過ごしていた。
活発で、色んな事に前向き。
あれやりたい。あれしよう。
そうやって誰よりも前を進んで、同年代の中では多くの体験をした。少しだけではあるが、先を知っていたのだ。
単純な知識や物事のコツ。
披露して見せれば、周りはすごいすごいと褒めてくれた。良い気分になれた。それこそが≪良かった≫という根拠だ。
けれどそこまで。
下落し始めたのは、次第に非現実を夢見るようになったからだろう。
背が大きくになるにつれて、限界を知っていく。それが自分のではなく、現実のものと思い込み、優は全てを見終えた気になった。
そうなれば、今度は創作物の中に飛び込みたいと言い始めるのも無理はなかったかもしれない。
不思議。怪奇。超常。
あり得ないとは言われているけれど、完全には否定出来ない。そんなものに強く心を惹かれた。今まで地道に歩いていたが、空を飛ぶ選択肢を見つけて、必死で背中に翼を生やそうとした。
けれどそれは何も生まない。ないものをあると言い張っているのだから当たり前だ。
今までは現実の範囲で見聞を広げていたから称賛された。得るものは皆が通る道の先にあったから。他の人にも見えたから。
でも、人の背中に翼は生えない。空路は誰にも見えない。
中学に入った頃には、誰もついてこなくなっていた。
下手に持ち上げられていたものだから、夢を見るなと諭されても聞く耳を持てなかった。正しさは自分にあると言い張った。
とは言え、当時の優自身も、己に特別な力がないのは気づき始めている。
どれだけ探しても見つからなかった。手掛かりはいつも本の中。目の前に現れた事は一度たりともない。
それでも、今までの時間が無駄だったとは認められなかった。
作り装った姿も変えられず、イタい奴というレッテルを貼られながらも、強がって己を信じて中学生活を過ごす。やめ時が見つからなくて、正しいと嘯いて演じ続けた。
そんな彼の転機は、中学二度目の夏休みを終えて少し経った時だった。
「なあ、あそこにいるの誰だ?」
授業中。窓際の男子がそう言った。
釣られて数人が窓から外を覗き込む。その場は、教師に慎むよう咎められたが、休憩時間に突入すると、何人ものクラスメイトが寄り合って、校門の方を見下ろした。
優は大衆に混じりたくないと、孤高ぶっていたから流れに乗ろうとはしなかった。けれど、いつまでも気にしている生徒がいたものだから、昼休み、皆が興味を失っている時にこっそりと真相を確かめた。
そして、その人物を見た。
女子だ。
長い黒髪で目元は隠れ、別の学校のセーラー服を着ている。同い年ぐらいに見えた。それがじっと、優のいる教室の方を眺めていたのだ。
明らかに不気味だ。気になってしまうのも頷ける。
確認を終えた優は、早々に窓から離れようとしたのだが、その時、謎の女子の視線が自分へと動いた気がした。
そして、
ーーにっ。
「っ!?」
笑った。
正確には、優の目にその変化は捉えられていない。視力が格別良いわけでもないのだ。数十m先の口元の些細な動きなどハッキリそうとは分からない。
けれど彼女は、確かに優を見て反応を示した。それがなんとなく、笑ったのだと悟った。
優は喉を鳴らして、謎の女子をもう一度眺める。
じっと見ている。こちらをじっと。
明確な視線を感じた。瞳は黒髪で隠れている。だが顔の向きで分かった。それに今は、優以外に彼女を見ている者はいない。
この時、優は自分が選ばれたのだと思った。
何にかは分からない。ただ漠然と、特別なものに。
見えない視線が、そう訴えていた。
だから彼はその日、力に目覚めた。
そう、言い聞かせた。
女子は、遠くで見つめて来るばかりで、近づいたりはしない。放課後になって校門まで駆けて行っても、姿は消えている。
それからも視線は何度も交差した。その度に彼女は笑っていた。
群衆の中。優が見えるように立った時もそうだ。その時は、クラスメイト達も表情の変化を初めて見たようで動揺していた。
やはり自分なのだ。自己の特別性を確信して、優はより優越感に浸っていく。
目覚めた力は、視線を起因とするもの。見た対象を撃ち殺す。
遠くで眺め合うだけの彼女とコンタクトを取りたかったから、と言うのは強い理由だっただろう。殺し合うというのは妄想の肥大化にしろ、視線のみでアクションを起こせることが重要だった。
そうして優は、自分を信じるようになった。特別だと自称し、周りを下民だと見下した。
何せ力があるのだ。文句を言う奴は撃ち殺せる。
そんな事まで口走った時があった。それこそが、二度目の転機だったのかもしれない。
「なら、おれらにも見せてくれよ?」
三年生になってすぐだった。
優の自慢に、下卑た笑いが返ってくる。証拠を出せと詰め寄られた。
自身に満ち溢れていた優は躊躇う事なく頷いた。けれど、見せる事など出来るはずもない。結局妄想の外には出られなかったのだ。
その場は、今はエネルギー切れだ、とか言って時間を稼いだ記憶がある。明日なら見せる事が可能だと豪語した。偽った。
そうだ。優はどうしようもなく偽物だった。
準備をして、細工をして、翌日、優は力の証明に出向いた。
教室の中。多くの目の中で技名を叫ぶ。噴き出す声が聞こえた。それでも構わず、前日に考えた呪文を高らかと唱えた。
撃ち殺す力ではない。行ったのは、手から火を放出する技。
と言ってもそれは、袖に仕込んだ花火を点火しただけ。色鮮やかな火花は、眩く優のでっちあげを演出した。
周りは唖然となっていた。当然、優は得意げになった。
更に花火の量を増やして、見せつけるように振り回し舞った。
哄笑を上げて。でもそれはすぐに止まる。
「熱……っ」
散った火の粉が、一人の女子の肌を焼いた。
状況を理解した周囲の目が、途端に侮蔑へと変わった。
優も硬直して狼狽する。そうしていると、騒ぎを聞きつけてか教師がやって来た。
花火は消し止められ、連行された。鼓膜が破れそうな叱責を受けながら、指導室へと。
教室から連れ出される直前、肌を焼いてしまった女子を見た。その場で座り込んでいる。心配して囲む友人。そして、恨むようにこちらを射抜く眼差し。
優は、停学を命じられた。
まだ義務教育なので正式には出席停止だが、大差はない。二週間、自宅での自主学習を言い渡された。
親は仕事だったから来られなかった。後日、両親共に頭を下げに行ったとは聞かされた。
優は放心しながら一人で帰った。頭の中は空白と、強烈な後悔。
幸い、火の粉を浴びた女子は大した怪我にはならなかった。軽い火傷で、痕にもなりそうにない。
それでも、安心など出来るわけはなかった。
人を傷つけた。その事実が、重く重く優の心を引きずった。
フラフラと、足取りままならず帰宅する。
その途中。道の先に立ちふさがる人影が現れた。
「………」
同じ制服の男子。顔は見た事があるような気がした。たぶん同学年で、別クラス。
ものすごい形相で歩み寄ってくる。そこで、まだ学校は授業中ではなかったか、と不意に思い出していた。
瞬間、
ーーゴッ!
優は顔面を殴られた。右頬。口の中が切れて血の味。勢いのまま地面へ倒れ伏す。
それから何度となく足蹴にされた。
顔。腹。腕。背中。
至る所に赤と青が刻まれていく。
「クズが! よくもユイを! 死ね! クソ!」
何度とない罵声を浴びて。ボロボロになって。動けなくなってようやく、その人物は去っていった。
投げられた罵りの中から、彼は優が傷つけてしまった女子の恋人だったと知った。
後悔がまた重くなる。
力を振り絞って立ち上がる。思いの外、体は動く。傷もあまり痛くない。
それはただ、上の空で気にならなかっただけ。引きずる足の歩みは、目も当てられないぐらいに遅い。
優は泣いていた。
彼自身は気づいていなかったが、両目からは拭ってもキリがない程に涙が溢れている。
町中で奇異の目を集めながらも、命令を全うする人形のように帰路を淡々と進む。いつもの三倍近い時間をかけてどうにかこうにか自宅に辿り着いた。
それから優は、引きこもった。
停学期間が過ぎても、中学には行かなかった。
親には諭され、教師が部屋まで来た。
どんな話をしたか覚えていない。ただとりあえず「はい」と頭を縦に振っていたように思う。その返事による約束はまず守られなかっただろう。
長い間、布団を被りながら、自分はどうなるのだろうと考えた。どうにもならないのだろうなと即刻結論付けた。それを何度も繰り返した。
ある日の事だった。
部屋の窓からコンと音がした。風が強く何かが飛んできたのか、と思った。けれど、窓を開けても外は無風で、飛来物らしいものも見当たらない。
ただ、窓を開け覗いた道路に、去り行く背中があった。
見覚えのある制服。長い黒髪。
それはあの、遠くから自分に笑いかけて来た女子だった。教師が出張るようになって、いつの間にか見なくなっていた姿。
久しぶりに見たなと思った。
それ以上はない。また力が目覚めるわけもない。
ただ。
なんとなく。ぼんやりと。
過去の自分が求めていた特別が、非現実が、まだ存在しているのだと感銘のような感情を覚えた気がする。
丁度その時、部屋の扉がノックされた。
「……優、そろそろ学校に行きなさい」
母親の声。ずっと心配してくれて、無視をしてきた願い。
口調はいつもの優しいものだ。母もその言葉で変わるとは思っていなかったのだろうが、それでも義理かなにかで投げかけ続けてくれていた。
優は、部屋の扉を開けた。
驚いたように目を丸くする母。その顔を直視することは出来ず、優は顔を逸らす。
「……高校なら、行く」
していないはずの決意が口から洩れ出る。なんでそんなことを言ったのか、優自身もすぐには理解が出来なかった。
前に踏み出そうとしたわけではない。過去を清算しようとしたわけではない。
そんな、大人になろうとしたわけではなく。
きっと、まだ幼稚に、特別へ期待をしていた。
「それでもいいわ」
母は受け入れてくれる。それから、ギュッと抱きしめられた。優は後ろめたい気分になった。まるで変わろうとしていない自分。だからせめて、外見は普通になろうと決めた。
教師も、高校受験のための手伝いをしてくれた。とはいっても、多々良家は裕福な家庭でもないし、ずっと不登校だった身で、高校を自由に選べる学力があるはずない。
自分を知る生徒がいると分かりながらも、母が「玉城だと助かるな」と呟いたのを聞いてしまったから、それをそのまま志望校にした。
中学に行ったのは結局、卒業式だけだった。
そうして優は玉城高校に入学した。
案の定、優の噂は広まっていて、彼に人が寄り付く事はなかった。無論承知の上。優自身も、人と深く関わるつもりもなかった。
特別への期待もなんとなく忘れて、親への恩返しの意味合いが強まっていた。
だけど、また転機が訪れる。
来栖湊ーー魔女。
彼女との出会いは、優の人格を呼び戻した。
そうすればやっぱり、捨てきれていなかった熱が彼を浮かせる。
前のようには失敗しないと心に誓いつつも、手を引っ張られて得意になる。
求められるから、応えようとして。
自分の過去がチラついても、隣には認めてくれる人がいる。
それだけで立てる気がしていた。
ただし、また間違いなのではと突きつけられ、彼の心は揺らいでいた。
周囲からどういう風に思われていたのかは別にして、あくまでも自分的に、あの頃なら戻っても良いと懐古出来る時間を、優は過ごしていた。
活発で、色んな事に前向き。
あれやりたい。あれしよう。
そうやって誰よりも前を進んで、同年代の中では多くの体験をした。少しだけではあるが、先を知っていたのだ。
単純な知識や物事のコツ。
披露して見せれば、周りはすごいすごいと褒めてくれた。良い気分になれた。それこそが≪良かった≫という根拠だ。
けれどそこまで。
下落し始めたのは、次第に非現実を夢見るようになったからだろう。
背が大きくになるにつれて、限界を知っていく。それが自分のではなく、現実のものと思い込み、優は全てを見終えた気になった。
そうなれば、今度は創作物の中に飛び込みたいと言い始めるのも無理はなかったかもしれない。
不思議。怪奇。超常。
あり得ないとは言われているけれど、完全には否定出来ない。そんなものに強く心を惹かれた。今まで地道に歩いていたが、空を飛ぶ選択肢を見つけて、必死で背中に翼を生やそうとした。
けれどそれは何も生まない。ないものをあると言い張っているのだから当たり前だ。
今までは現実の範囲で見聞を広げていたから称賛された。得るものは皆が通る道の先にあったから。他の人にも見えたから。
でも、人の背中に翼は生えない。空路は誰にも見えない。
中学に入った頃には、誰もついてこなくなっていた。
下手に持ち上げられていたものだから、夢を見るなと諭されても聞く耳を持てなかった。正しさは自分にあると言い張った。
とは言え、当時の優自身も、己に特別な力がないのは気づき始めている。
どれだけ探しても見つからなかった。手掛かりはいつも本の中。目の前に現れた事は一度たりともない。
それでも、今までの時間が無駄だったとは認められなかった。
作り装った姿も変えられず、イタい奴というレッテルを貼られながらも、強がって己を信じて中学生活を過ごす。やめ時が見つからなくて、正しいと嘯いて演じ続けた。
そんな彼の転機は、中学二度目の夏休みを終えて少し経った時だった。
「なあ、あそこにいるの誰だ?」
授業中。窓際の男子がそう言った。
釣られて数人が窓から外を覗き込む。その場は、教師に慎むよう咎められたが、休憩時間に突入すると、何人ものクラスメイトが寄り合って、校門の方を見下ろした。
優は大衆に混じりたくないと、孤高ぶっていたから流れに乗ろうとはしなかった。けれど、いつまでも気にしている生徒がいたものだから、昼休み、皆が興味を失っている時にこっそりと真相を確かめた。
そして、その人物を見た。
女子だ。
長い黒髪で目元は隠れ、別の学校のセーラー服を着ている。同い年ぐらいに見えた。それがじっと、優のいる教室の方を眺めていたのだ。
明らかに不気味だ。気になってしまうのも頷ける。
確認を終えた優は、早々に窓から離れようとしたのだが、その時、謎の女子の視線が自分へと動いた気がした。
そして、
ーーにっ。
「っ!?」
笑った。
正確には、優の目にその変化は捉えられていない。視力が格別良いわけでもないのだ。数十m先の口元の些細な動きなどハッキリそうとは分からない。
けれど彼女は、確かに優を見て反応を示した。それがなんとなく、笑ったのだと悟った。
優は喉を鳴らして、謎の女子をもう一度眺める。
じっと見ている。こちらをじっと。
明確な視線を感じた。瞳は黒髪で隠れている。だが顔の向きで分かった。それに今は、優以外に彼女を見ている者はいない。
この時、優は自分が選ばれたのだと思った。
何にかは分からない。ただ漠然と、特別なものに。
見えない視線が、そう訴えていた。
だから彼はその日、力に目覚めた。
そう、言い聞かせた。
女子は、遠くで見つめて来るばかりで、近づいたりはしない。放課後になって校門まで駆けて行っても、姿は消えている。
それからも視線は何度も交差した。その度に彼女は笑っていた。
群衆の中。優が見えるように立った時もそうだ。その時は、クラスメイト達も表情の変化を初めて見たようで動揺していた。
やはり自分なのだ。自己の特別性を確信して、優はより優越感に浸っていく。
目覚めた力は、視線を起因とするもの。見た対象を撃ち殺す。
遠くで眺め合うだけの彼女とコンタクトを取りたかったから、と言うのは強い理由だっただろう。殺し合うというのは妄想の肥大化にしろ、視線のみでアクションを起こせることが重要だった。
そうして優は、自分を信じるようになった。特別だと自称し、周りを下民だと見下した。
何せ力があるのだ。文句を言う奴は撃ち殺せる。
そんな事まで口走った時があった。それこそが、二度目の転機だったのかもしれない。
「なら、おれらにも見せてくれよ?」
三年生になってすぐだった。
優の自慢に、下卑た笑いが返ってくる。証拠を出せと詰め寄られた。
自身に満ち溢れていた優は躊躇う事なく頷いた。けれど、見せる事など出来るはずもない。結局妄想の外には出られなかったのだ。
その場は、今はエネルギー切れだ、とか言って時間を稼いだ記憶がある。明日なら見せる事が可能だと豪語した。偽った。
そうだ。優はどうしようもなく偽物だった。
準備をして、細工をして、翌日、優は力の証明に出向いた。
教室の中。多くの目の中で技名を叫ぶ。噴き出す声が聞こえた。それでも構わず、前日に考えた呪文を高らかと唱えた。
撃ち殺す力ではない。行ったのは、手から火を放出する技。
と言ってもそれは、袖に仕込んだ花火を点火しただけ。色鮮やかな火花は、眩く優のでっちあげを演出した。
周りは唖然となっていた。当然、優は得意げになった。
更に花火の量を増やして、見せつけるように振り回し舞った。
哄笑を上げて。でもそれはすぐに止まる。
「熱……っ」
散った火の粉が、一人の女子の肌を焼いた。
状況を理解した周囲の目が、途端に侮蔑へと変わった。
優も硬直して狼狽する。そうしていると、騒ぎを聞きつけてか教師がやって来た。
花火は消し止められ、連行された。鼓膜が破れそうな叱責を受けながら、指導室へと。
教室から連れ出される直前、肌を焼いてしまった女子を見た。その場で座り込んでいる。心配して囲む友人。そして、恨むようにこちらを射抜く眼差し。
優は、停学を命じられた。
まだ義務教育なので正式には出席停止だが、大差はない。二週間、自宅での自主学習を言い渡された。
親は仕事だったから来られなかった。後日、両親共に頭を下げに行ったとは聞かされた。
優は放心しながら一人で帰った。頭の中は空白と、強烈な後悔。
幸い、火の粉を浴びた女子は大した怪我にはならなかった。軽い火傷で、痕にもなりそうにない。
それでも、安心など出来るわけはなかった。
人を傷つけた。その事実が、重く重く優の心を引きずった。
フラフラと、足取りままならず帰宅する。
その途中。道の先に立ちふさがる人影が現れた。
「………」
同じ制服の男子。顔は見た事があるような気がした。たぶん同学年で、別クラス。
ものすごい形相で歩み寄ってくる。そこで、まだ学校は授業中ではなかったか、と不意に思い出していた。
瞬間、
ーーゴッ!
優は顔面を殴られた。右頬。口の中が切れて血の味。勢いのまま地面へ倒れ伏す。
それから何度となく足蹴にされた。
顔。腹。腕。背中。
至る所に赤と青が刻まれていく。
「クズが! よくもユイを! 死ね! クソ!」
何度とない罵声を浴びて。ボロボロになって。動けなくなってようやく、その人物は去っていった。
投げられた罵りの中から、彼は優が傷つけてしまった女子の恋人だったと知った。
後悔がまた重くなる。
力を振り絞って立ち上がる。思いの外、体は動く。傷もあまり痛くない。
それはただ、上の空で気にならなかっただけ。引きずる足の歩みは、目も当てられないぐらいに遅い。
優は泣いていた。
彼自身は気づいていなかったが、両目からは拭ってもキリがない程に涙が溢れている。
町中で奇異の目を集めながらも、命令を全うする人形のように帰路を淡々と進む。いつもの三倍近い時間をかけてどうにかこうにか自宅に辿り着いた。
それから優は、引きこもった。
停学期間が過ぎても、中学には行かなかった。
親には諭され、教師が部屋まで来た。
どんな話をしたか覚えていない。ただとりあえず「はい」と頭を縦に振っていたように思う。その返事による約束はまず守られなかっただろう。
長い間、布団を被りながら、自分はどうなるのだろうと考えた。どうにもならないのだろうなと即刻結論付けた。それを何度も繰り返した。
ある日の事だった。
部屋の窓からコンと音がした。風が強く何かが飛んできたのか、と思った。けれど、窓を開けても外は無風で、飛来物らしいものも見当たらない。
ただ、窓を開け覗いた道路に、去り行く背中があった。
見覚えのある制服。長い黒髪。
それはあの、遠くから自分に笑いかけて来た女子だった。教師が出張るようになって、いつの間にか見なくなっていた姿。
久しぶりに見たなと思った。
それ以上はない。また力が目覚めるわけもない。
ただ。
なんとなく。ぼんやりと。
過去の自分が求めていた特別が、非現実が、まだ存在しているのだと感銘のような感情を覚えた気がする。
丁度その時、部屋の扉がノックされた。
「……優、そろそろ学校に行きなさい」
母親の声。ずっと心配してくれて、無視をしてきた願い。
口調はいつもの優しいものだ。母もその言葉で変わるとは思っていなかったのだろうが、それでも義理かなにかで投げかけ続けてくれていた。
優は、部屋の扉を開けた。
驚いたように目を丸くする母。その顔を直視することは出来ず、優は顔を逸らす。
「……高校なら、行く」
していないはずの決意が口から洩れ出る。なんでそんなことを言ったのか、優自身もすぐには理解が出来なかった。
前に踏み出そうとしたわけではない。過去を清算しようとしたわけではない。
そんな、大人になろうとしたわけではなく。
きっと、まだ幼稚に、特別へ期待をしていた。
「それでもいいわ」
母は受け入れてくれる。それから、ギュッと抱きしめられた。優は後ろめたい気分になった。まるで変わろうとしていない自分。だからせめて、外見は普通になろうと決めた。
教師も、高校受験のための手伝いをしてくれた。とはいっても、多々良家は裕福な家庭でもないし、ずっと不登校だった身で、高校を自由に選べる学力があるはずない。
自分を知る生徒がいると分かりながらも、母が「玉城だと助かるな」と呟いたのを聞いてしまったから、それをそのまま志望校にした。
中学に行ったのは結局、卒業式だけだった。
そうして優は玉城高校に入学した。
案の定、優の噂は広まっていて、彼に人が寄り付く事はなかった。無論承知の上。優自身も、人と深く関わるつもりもなかった。
特別への期待もなんとなく忘れて、親への恩返しの意味合いが強まっていた。
だけど、また転機が訪れる。
来栖湊ーー魔女。
彼女との出会いは、優の人格を呼び戻した。
そうすればやっぱり、捨てきれていなかった熱が彼を浮かせる。
前のようには失敗しないと心に誓いつつも、手を引っ張られて得意になる。
求められるから、応えようとして。
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