有終

オゾン層

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平穏

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 蝉が騒々しい八月中旬。都会から離れた小さな町では、炎天下の中皆暑さに負けずせっせと働いていた。小さな店に囲まれた舗装されていない道を豆腐屋の自転車が駆け抜け、それを見た子供達が追いかけていく。八百屋や魚屋の主人は声を張り上げて客を寄せ、上等な売り物を客が買い上げていた。道端では町の奥方が友人との世間話に花を咲かせ、近くの塀の上では野良猫が欠伸をかいていた。





 その町の隅に、手入れの通った生垣に囲まれた、少し古びた木造の平屋。こぢんまりとしたその家は何処か風情を感じられるもので、庇に吊るされた碧色の風鈴が涼しげにちりん、と鳴いている。

 その庇の陰の下、気持ちの良い風が通る縁側に座り込んだ男は、目の前のキャンバスとにらめっこをしていた。
 男にしては細い指で筆を掴み、パレットに置かれた絵の具を掬い取る。それを未だ白いキャンバスに擦り付け、彩りを加えていく。筆を振る男の腕はか細く、時折目線に落ちてくる自分の白い髪を耳にかけ直したりしていた。キャンバスを見る男の瞳は陰から差し込む僅かな光が反射して青白く輝いており、穏やかに揺れている。
 筆を持つ男は、何も言わずただキャンバスに色を加えていった。



大夢ひろむ。昼餉の用意ができたわよ」

 ふと、キャンバスに向かった筆が止まる。男は、「大夢ひろむ」と自分の名を呼んだ声の方へ振り向くと、にこりと微笑んだ。

「お母さん。もうそんな時間ですか」
「もうって、とっくに過ぎているわよ。好きなことに打ち込むのは良いことだけど、そろそろ休憩でもしたらどうかしら?」
「どうしても今描きたくなってしまって、時間を忘れていました」

 大夢はバケツに筆を入れると、キャンバスに布を被せて立ち上がった。





 午後1時を過ぎた昼下がり。町の喧騒は変わらず明るく栄えている。昼餉を食べ終えた大夢は、気分転換に町中を闊歩していた。

「おお、大夢!珍しいじゃないか、お前が散歩だなんて」
「ちょっと煮詰めてしまったので、気晴らしにと思いまして」
「そうかいそうかい。体に気を付けろよー」
「ありがとうございます」

 八百屋の店主と軽い会話を終え、また闊歩していると……

「あら、大夢くん!久しぶりじゃない」
「篠山の奥様。お久しぶりです」
「ちゃんとご飯食べてる?前より痩せてるわよ」
「はい。食事の暇が無いものでして」
「また絵に没頭してるんでしょ?元々体も弱いのに、無理しちゃ駄目よ」
「ええ、気を付けます」

 ご近所付き合いも多い婦人は大夢に手を振って立ち去っていく。大夢も同じように手を振り返した後、不意に胸を押さえた。

「……………」

 暫しの間そのようにしていたが、ゆっくり深呼吸すると、再びを歩を進めた。



 大夢は、この時代の世間では珍しい白子だった。髪も肌も瞳さえも色素が薄く、体も病弱でよく風邪を引いていた。昔は大夢の話がこの町だけですぐに広まり、始めの頃こそ大夢に対して好奇の目で見る者、同情の目で見る者、嘲弄の目で見る者など皆反応は様々であったが、いつしか次第に周りが慣れてゆき、とやかく言う者はいなくなっていた。
 何故誰もがそれに慣れ、何も言わなくなったのか。それには大夢の人間性が大きく関係していた。

 大夢は、ドが付くほどのお人好しで、利他的な思考の持ち主だった。それはそれは陽だまりのように穏やかで、木漏れ日のように優しい性格をしていた。弱者に手を差し伸べ、強者相手に怯まない姿など、誰にも平等な態度で接していた。
 その性格故、自分の姿にコンプレックスやハンデはおろか、疑問すら抱いたこともなく今の今まで過ごしてきた。
 誰に対しても優しく自己犠牲的なこの人格は、既に幼少の頃から現れていた。

 大夢がまだ5歳だった頃、大夢は自分より1、2歳年上の子供に怪我を負わされたことがある。公園で遊んでいたら急にその子供に突き飛ばされ、特に意味も無い難癖を付けられ顔を殴られたのだ。他の子供とは違っていたからか、はたまた楽しそうにしている大夢が気に食わなかったからなのか、本当の理由は定かではない。しかし、まだまともな判断もままならない子供にはよくありがちないざこざであるとはいえ、流石に暴力を振るったことで大人も介入してきた。
 自分の親に怒鳴り散らされ、謝れと催促される子供は、あまりの恐怖に涙目で声すら出せなかっただろう。しかし、大夢はそれに涙一つ流さず子供の手を取ると、優しく撫でたのだ。

「けがしたの?いたくない?」

 舌ったらずな言葉で、そう言ったのだ。
 決して軽傷などではなく、青く変色してしまった自分の右頬には全くの無関心で、それどころか自分を殴った子供の手にできた小さな腫れを心配したのだ。

 今思えばこれが決め手だったのかもしれない。それからというもの、大夢は忽ち町の住人に可愛がられるようになった。大夢に対して嫌悪していた者も、よくよく見れば愛らしい顔をしている大夢に絆され、普通に可愛がるようになっていた。
 それもこれも、大夢の純粋で清廉な心が招いた良き結果である。



 しかしながら、病を抱えて生きるのは流石に堪えるようで、持病である心臓が痛む度に、大夢は先ほどのように胸を押さえることが多かった。額に冷や汗をかきながら俯くその姿は、誰が見ても苦しそうにしか見えなかったが、それが過ぎると何事も無かったかのように振る舞うのも大夢であった。

「……そろそろ帰らないと」

 大夢は、少しふらついた足取りで帰路に就いた。





 「おかえりなさい。大夢」

 夕刻。玄関の引き戸を開けると、始めに母親が大夢を迎える。その後、奥の廊下から白髪の混じった髭をこさえた男が大夢を迎えた。

「おかえり。大夢」
「ただいま帰りました。お父さん、お母さん」

 礼儀を重んじる大夢は、家族に対しても丁寧に挨拶を交わした。これは大夢の癖で、家族に対しても敬語を使ってしまうのも、昔はよく笑われていた。

「もう夕餉の支度はできたから、今から食べましょう」
「はい」
「そういえば大夢、お前また絵を描いていたらしいな。少し見させてもらったが、なかなかに良かったぞ」
「勝手に見ないでください。恥ずかしいじゃないですか」

 少し顔を赤らめて笑う大夢に、両親もつられて笑った。





 夕餉を終え、風呂にも入った大夢は、自室にて寝間着のままキャンバスに筆を乗せていた。
 大夢の仕事は画家である。思いついたものを描いてはそれを売るといった方法で、しかしこれがまた結構に売れるのだ。虚弱で生まれた大夢に神様が与えた恩恵なのか、大夢は美術に対して天性の才を持っており、大夢も絵を描くことは嫌いではなく、思いついたものから描いてはそれを気に入ってくれた人に売っていた。
 大夢にとっては絵を描くことが全てであり、残りいつまでなのかわからぬ人生を彩る唯一のものであった。

「そろそろ寝ないと、また怒られてしまう」

 大夢は画材を簡単に片付けると、布団に包まって目を閉じた。





 「大夢!大夢!起きているか!?」

 早朝父の声に起こされ、眠気眼で部屋を出ると、そこには慌てた様子の父がいた。

「おはようございます、お父さん。どうかしたのですか?」
「大夢、これを見てくれ」

 そう言って父が差し出したのは、小さな封筒と手紙だった。

「お前宛だ」

 そう言われ、大夢は未だ寝ぼける頭を無理矢理起こし、その手紙に目を通した。
 読み終えた後、大夢の口から小さな驚嘆が溢れた。
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